12.私は疫病神だというのだろうか
「クンツ、ハイナーがいる場所はまだ?」
どんよりと垂れ込めた雲から、ちらちらと雪が舞い始めた。早くハイナーのところへ行かないと、いかに寒さ避けの魔法があるといっても凍えてしまうだろう。先導するクンツに声を掛けると、「もう少しだ」と返された。
「ずいぶん外れたところまで来たんだな」
「……魔狼の跡を追ってたら、ここまで来ちまったんだ」
巡回ルートから外れてずいぶんと奥へ入ってまで魔狼を確認しようとする前に、もう少し考えたほうがよかったんじゃないだろうか。ふう、と息を吐いて、クンツの後を追った。
それからもう少しだけ先へ進んだところで、ようやくハイナーらしき人影を見つけた。クンツがやったのか、毛布で包んで木の下に寄りかかるようにして座っている。
「ハイナー!」
だが、声を掛けても反応はなく、彼は気を失っているようだった。
「まずいな。この寒さで意識がないと、最悪凍え死ぬぞ」
「ああ」
私はハイナーに駆け寄り彼の頬を叩いたが、返事はなかった。低体温症までおこしていたら危険だ。これ以上冷えないようにしなければ。
「寒さ避けの魔法を掛け直すから、少し待ってくれ」
そう言ってから、精神集中を始めて……いきなり腕を捩じり上げられ、背中から押し倒された。
「つっ、何するんだ!」
そのまま後ろから首を掴まれ、頭を地面に押し付けられた。じんわりと顔に当たった雪が解ける。
「おい、何を……」
「うるせえよ」
まさか、こいつがここまで馬鹿だとは思わなかった。
「お前、何やってるのかわかってるのか」
「黙れ。俺に恥をかかせていい気になりやがって」
「何、言ってるんだ」
クンツの腕に力がこもる。腕を捩じりあげられ、背中は膝で地面に押し付けられ、おまけに首まで抑えられてるこの体制では、動くことすらままならない。
「……思い知らせてやる」
「やめ、ろ……ハイナー、は、どうするんだ」
「お前が先だ」
クンツの腕にますます力がこもり、息がうまくできない。
「くるし……」
指が頸動脈にかかっているのか、いきなりふっと目の前が暗くなって、私は意識を失った。
──度を越した寒さに晒されると「寒い」ではなく「痛い」という感覚になることを、私はこの世界で迎えた初めての冬に思い知った。
冬が来たある日、マフラーをせずに外へ出て、ものの数分もしないうちに鼻と耳が痛みでちぎれそうになり、慌てて部屋へ戻ったのだ。
そして今、腕がちぎれそうな痛みと、何かがガチガチと鳴る音に意識を取り戻した。それ以外はまるで痺れたように感覚がなく、ただただ寒さだけが身体を苛んでいる。
空から舞い散る雪はますます激しくなっていた。
「な……?」
何がどうなっているのか、と言おうとして、さっきからガチガチ鳴っているのが、この寒さでまったく言うことを聞かなくなっていた自分の口であることに気づいた。
慌てて見回すと、私は裸に剥かれて両腕を縛られた状態で木につるされ、目の前では、にやにやと嫌な笑みを浮かべたクンツが私を眺めていた。
最悪だ。
「さて、凍えて死ぬのが早いか、戻ってきた魔狼に食われて死ぬのが早いか、どっちだと思う?」
嬉しそうな顔でクンツが嗤う。こいつはここまで捻じ曲がっていたのかと戦慄しつつも、何かを言い返してやろうかと考えたが、寒さで身体の何もかもが言うことを聞かない。剥ぎ取られた自分の衣服や武具はと見回しても、何も見当たらなかった。
「お前のものなら、この先の崖下だ」
クンツが笑いながら、教えてくれた。人の商売道具を崖から捨てただと?
「どうせここで終わるんだから、いらねえだろ」
「み……みさ、げ、はて、た、やつ、だな」
くそ、寒さのせいか朦朧とする。だがこの寒さの中で気を失ったら、彼岸一直線だ。私は、ここで死ぬなんてごめんだ。
両腕を縛られた状態で、手も口もままならない状態で、魔法なんて使うどころではない。誰かここまで来てくれるだろうか。兵舎に向かったクオンが報告を終えて戻ってくるまで、時間はどれくらいかかるのか。いや、そもそもこの場所がわかるのか。
これで、詰み、か?
「それとも、今すぐ殺してやろうか?」
腰の短剣を抜き、クンツが私の首に当てる。
「凍え死ぬのも魔狼に食われるのも苦しいからな、可愛らしくお願いするなら、今すぐ殺してやってもいいぜ」
「ざんねん、だけど、しぬ、せんたくは、ない」
そうだ、私はエトガルに助けて貰ったんだ。絶対にこんな死に方はできない。エトガルに申し訳ない。悔しい。
「へっ、その強がりで助かるとでも思ってんのか、めでてえな」
「うる、さい」
だんだんとクンツの嘲る声が遠くなっていく。目の前の光景も、よく見えない。よく見えないのに……。
「……シーア?」
突然、クンツの背後にシーアが現れた気がした。彼はすごい剣捌きでクンツを昏倒させ、私のほうへと走り寄る。
どさりという音がして、私の身体が地面に落ちた。感覚が何もかも遠いけれど、助かったのだろうか、とぼんやり考える。なぜシーアがここにいるのかわからないけれど、これは幻じゃないんだろうか?
「シ……ア……なん……」
「黙ってて」
彼は堅い声でそれだけ言うと、私を手早く外套で包み、寒さ避けの魔法を掛け直した。そのまま魔法で持っていた水をお湯に変え「これを飲んで」と言う。震えが止まらず、ずいぶんこぼしてしまったけれど、どうにか飲み込んだ。
「あたたかい……」
シーアはやっとほっとしたように微笑むと、すぐに転移の魔法を唱え、その場所を後にした。
目が覚めるとあたたかい室内だった。
すぐ横にマリエンがいて、「よかった」と笑顔になった。
「ハイナーとクンツは?」
私の質問に、マリエンが顔を顰める。
「クンツは居なくなったわ。どこかに行ってしまったの。ま、あんなことしでかしておいて、戻ってこられるわけがないわね」
「ハイナーは無事?」
私が最後に見た彼の意識はなかったが……凍傷や低体温にはならなかっただろうか。
「……ハイナーも、いないわ」
マリエンの声が、心なしか硬くなった気がする。
「どういうこと?」
「クンツの仕業よ。やつがあんな腐った人間だってわかっていたら……」
マリエンが俯いて、ぐっと拳を握りしめた。
ああ、では彼も私のせいで、と考えながら「そうか」と呟くと、マリエンは顔を上げ、怒ったように言った。
「アウス、何を考えてるか知らないけど、ハイナーをやったのはクンツよ。やつの頭が狂ってたのよ」
「でも、そう仕向けたのは、私じゃないか」
「違うわ。普通の人間ならあんなことはしない」
「じゃあ、相手のこともわからずに煽った私の判断ミスだ」
「それも違うわよ。私でも同じようなことになってたと思うもの。模擬戦の時に今の結果を予想しろなんて、無理な話だわ」
マリエンは強い調子で断言するが、本当にそうだろうか? もっとうまいやり方があったんじゃないだろうか。
「もう、それはそれとして、もうしばらく休みなさい。辺境伯や隊長から、そのうち話を聞かれると思うけれど、今は休めって許可も出てるわ。誰も、クンツを責めてもあなたを責めてる人なんていない。あなただって死にかけたのよ。熱だって5日も下がらなくて、心配したんだから。だから休んで」
少しうとうとして、再び目を覚ますと、今度はシーアがいた。
「マリエンが休憩を取るから、わたしが代わりに付いてたんだ。その、女性の寝室に入るのはマナー違反だってわかってるんだけど」
私がふるふると頭を振ると、シーアはほっとした笑みを浮かべた。
「シーア……ありがとう。またシーアに助けられた」
私はいつも誰かに助けられているな、と思う。私は誰かを助けられないのに。
「けど、よくあの場所がわかったね。だいぶルートから離れてて、雪も降ってたのに」
そう言うと、シーアの微笑みが、少し決まり悪そうなものに変わった。
「……ごめん」
「え? どうして謝るの?」
「君に無断で、印を付けてたんだ……前にフリーマールから君がいなくなった時に、後悔して、だから、その、万が一またどこかに行ってしまっても、探せるようにって、印を……」
彼の言い訳めいた告白にぽかんとしてから、私は笑った。
「いいよ、私は死なないで済んだんだから。シーアの印のおかげだね」
シーアの顔にまた笑みが戻り、私もほっとした。
「アウス」
「何、シーア」
「生きててよかった」
シーアが私の手をぐっと握りしめ、私も無言で握り返した。そしてそのまま……無言で手を握り合ったまま、静かに時間が過ぎる。ついこの前死にかけたばかりだというのに、手を握るだけでこんなに穏やかな気持ちになるなんて。
ふと目を上げると、シーアは真剣な表情で私の顔をじっと見詰めていて……ゆっくりと私に口付けた。
唇を離すと、シーアはこつんと額を合わせ、もう一度「本当に、生きていてくれて、よかった」と小さく呟いた。
「シーア……」
「カルルシアス」
「え?」
「わたしの真名。カルルシアスというんだ。君に知っていてほしい」
「そんな、大切なもの……」
シーアは額を合わせたまま、ふんわりと笑み、私は彼の顔から目を離せなくなる。
「いいんだ。わたしが、君に知ってほしいと思っただけなんだから」
「シーア……カルルシアス、ありがとう。うれしいよ」
そして、私も、彼に口付けを返した。
この世界に、ようやく自分という存在が受け入れられた気がした。