1.目を開けたらそこは
目を開けたら平原だった。
なぜか地べたに寝っ転がっていて、わけもわからず身体を起こして周りを見回すと、私がいるのは平原のど真ん中だったのだ。
しかもなぜだかわからないが気分は最悪の最低。今すぐ何もかも滅んでしまえばいいのに、と言ってしまいそうなくらい最悪だ。
というか、なんでこんな鬱々とした気分でこんな場所に転がっているんだ私は。
そして、この見渡す限りまっ平らな平原の向こうに山らしき影はまったく見えず、遠くには延々と地平線が横たわっているだけだった。
……いや、平原といっても畑のようにはっきりと人の手が入ってる場所はあるし、森だか林だかもあるし、遠くに町らしき建物も見える。しかし、たとえここが関東平野だとしても、こうまでまっ平らな場所はあっただろうか。こんなに晴れてるのに男体山とか欠片も見えないぞ。
空気はとても澄んでいるようで、都会に出たときのように微妙に鼻がむず痒くてしかたないなんてこともない。
というか──
「ここ、どこ」
呆然としたまま、私はぽそりと呟く。
飛行機に乗って国外へ出た記憶もないし、北海道へ旅行に行った覚えもない。
服装はいつものシャツとジーンズの上に羽織った薄手のモッズコート。足元は履き古したジャングルブーツ。耳と指と首にはいつも付けているアクセサリー。休日にちょっと出かけようという時の定番の格好だ。
荷物は……ない。ポケットには財布も携帯も入ってない。これじゃ誰かに連絡を取ろうにも無理じゃないか。コンビニまで行くにしても、財布と携帯くらい持つだろうに、なんで身一つでこんなところにいるんだろう。まさか寝ている間に根こそぎ盗られてしまったのだろうか……いや、終電で寝こけたリーマンならともかく、昼間の日本で?
いやそもそもここは日本か?
こんな平原の真ん中でいつまでも座り込んでいても仕方ない。携帯がない以上、誰かに連絡を取るにはどこかで電話を借りないことにはどうしようもないのだ。
とりあえず、誰か居そうなところ……つまり、遠くに見えている町らしきところに向かうため、私は歩き始めた。
──が、目指す町は意外に遠かった。
まっ平ら過ぎて距離感が掴めないせいだろう、えらく近くに見えているのに、実は結構遠いらしい。
人家目指して歩いてるうちに道のようなもの……いわゆる舗装されていない田圃道というか農道というか、そんな道にあたり、なんとなく、ちゃんと道があるんだと安心した。
舗装されてないってことは、ここはど田舎なんだなと考えつつだらだらと歩きつづけ、いい加減そろそろ着かないかと思い始めたころ、突然、目の前に人が現れた。
ほんとうに、突然、シュッと人が現れた。
「わあっ!?」
思わず悲鳴を上げると、現れた人もびくっと驚いてこっちを振り向き、何か言った。
ずるずるとしたマントみたいなものを着て、黒髪の長髪をひとつにまとめて縛っている、多分男性だ。無駄に整った顔してるけど身長的に男性だろう。女のわりに170cm強と長身な私より頭1つ以上でかい男性なんて、日本じゃまずめったにお目にかかれない。
まじまじと見つめたその顔はとても日本人とは思えない彫りの深さで、たぶん私に向かって放たれた言葉は、意味がわからないどころか、聞き取りすらさっぱりなものだった。
「は? ええと? Please speak Japanese」
日本語でお願いしますはこうでいいんだっけと、思いっきりジャパニーズイングリッシュでお願いしてみるが、相手もきょとんとしたままこちらを見詰めていた。
彼の話した言葉は聞いたことのない音だったし、どうやら英語圏の人ではないようだ。私は自分を指さし、思いつく限りの“日本”を示す各国語……と言っても、知識を総動員してせいぜい2つか3つなのだが、日本を表す単語を連発した。
……が、いずれも不発。相手は怪訝な顔になり、眉間に皺が寄っている。
どうしよう、本当に、ここはどこなんだ。
そして相手が私を見る目は、どうも不審人物を見るものになっている。
どうすればいいんだと一瞬悩み、そうだ言葉がだめなら絵だ、と海外旅行時の経験で学んだことを思い出す。
意を決し、私は彼を手招くと、地面に小石でガリガリと電話の絵を描いた。自慢じゃないが落書きなら得意なほうだ。電話を掛ける身振りを交え、なんとか電話を借りたいと伝えようとしてみるが……気のせいか、「電話」が伝わっていない?
なぜ?
ここ、電話がないような未開地には見えないんだけど。
すっかり慌てた私は、とにもかくにも帰る手段を見つけたい一心で、地面に思いつく限り、駅とか電車とかタクシーとかそういうものを描き、身振り手振りでこれらがある場所を教えて欲しいと伝えようと試みた。
けれど、やっぱりまったく通じていないようだ。
おかしい。
海外旅行の経験はあるが、全く英語のわからない爺ちゃん相手でも、絵に描いて身振り手振りさえすれば何かしら意思の疎通はできたのに、これほどまでに通じないなんて、どうもおかしい。
私はがっくりと項垂れた。
彼は気の毒そうな顔になり、私を覗き込んで何かを言っているけど……「ごめん、何を言ってるのかさっぱりわからないんだよ」と、私は頭を振る。未知の言葉すぎて、単語の切れ目すらろくに聞き取れない。
彼は肩を竦め、何かを思案するように首を傾げると、私を立たせて町のほうを示した。
たしかに、こんなところでぐだぐだしていてもしかたないと、私も頷く。
ここがどこだか知らないけれど、もし外国だというなら、町に行けば日本領事館がどこにあるかくらいはわかるんじゃないだろうか。せめて英語のわかる人くらいいるだろう。
そうすれば、なんで自分がここにいるかは別としても、日本へ帰ることくらいはなんとかなるんじゃないだろうか。
そして、項垂れる私の肩を叩き、自分を示して何かを繰り返し言う彼の様子をしばらく見て、ああ、もしかして名前のことかと理解して……私は気づいてしまった。
自分の名前がわからない。慌てて考えるが、やはりわからない。
真っ青になって黙り込む私の顔を、彼はまた訝しげに覗き込む。私は頭を振るしかできない。
パニックになりそうな頭を振り、ひとつひとつ考え……結局私は、自分の暮らしていた世界のことは思い出せても、自分の個人情報に関することは何一つ思い出せないということに愕然としたのだった。
生まれは日本。育ちはたぶん関東平野のどこか。東京に行ったことはあるけど、北海道に行ったことはたぶんない。海外旅行の経験はあり。
……学歴は? たぶん高等教育は受けている。仕事は? 何やってたかさっぱりわからない。年齢は25、性別女。最近まともにスポーツはやってないが、体力維持のランニング程度は細々と続けている。
自分のことでわかるのはこれくらいか。日本の一般常識ならちゃんと思い出せるのに。
暗い顔でへたり込む私を、彼が再び立たせた。彼は、どうやら「シーア」と名乗っているらしい。私は彼を見詰め頭を振る。
私が自分の名前すらわからないということがなんとか伝わったのか、再び彼は考え込んだ。
「アウス」
彼は私を指して、そう言った。何度か繰り返す様子に、そういう仮名で呼ぶということだろうかとあたりを付けて頷く。
再び彼は考え込み、持っていた荷物から小さな袋を出すと、私のピアスや指輪を指した。外してここに入れろということらしい。意図がわからず逡巡していると、彼は私の手を取り、強引に外して入れてしまった。そうしてすべて袋に入れると口を紐でしっかり縛り、私のコートのポケットへと突っ込んだ。
海外旅行先の治安の悪い場所では、アクセサリーを狙った強盗も現れる……という話を思い出す。ここはそんなに治安が悪い場所なのか?
そして彼は結構なお人好しということなのか?
そこまでしたところでようやく、彼に促され、私は町へ向かって歩き始めた。
町へ到着するまで、たっぷり1時間以上は歩いた気がする。
──ああ、うん。
お互いの文化に共通点が無かったら、そりゃ絵だろうが身振りだろうが、言いたいことなんて通じないよね。
到着した町は、中世ヨーロッパ風としか言いようがない町だった。たぶん、大きな地震なんて絶対起こらないんだろうなと思える石やレンガに漆喰っぽいもので塗り固めた壁に、箱を重ねて積み上げたような構造の建物が並んでいるのだ。あの柱、絶対2階まで通ってない。怖い。ちょっと揺れたら絶対落ちる。
石造りの立派な造りの建物もちらほらと混じっているが、やっぱり怖い。震度4程度の揺れがきたら崩れるに違いない。
そして町の周りはぐるりと城壁に囲まれていて、入り口には門番もいた。その門番はなんと甲冑を着て槍を片手に持ち、剣まで腰に佩いているじゃないか。
わーすごいなー。
いつか観に行きたいと思ってた、ドイツの騎士祭りとか思い出す光景だわー。
うん、馬上槍試合を生で観戦するのって夢だったんだよなあ。
遠い目のまま思い返してみると、歩いている間、横を歩く彼からもずっと、何か金属的なものがガチャガチャいったり擦れたりするような音がしていた。マントに隠れて見えないが、剣とか鎧とか、きっと彼もそういうものを身につけているのだろう。
ここはほんとにいったいなんなの、などと敢えて正面から考えずにいたけれど、もしかしてもしかしなくてももしかしたらなのかもしれない。
私だってファンタジー小説くらい読む。映画化された有名な大作だって喜んで見に行った。今時の大人らしくゲームだってやるし、むしろ好きなほうだ。ライトノベルだってアニメだってそこそこ見たり読んだりもしている。
……ここは、たぶん、異世界なんだ。
私の知る限り、祭りでもなく観光客もいない、なんのイベントもない時にこんな扮装の門番がいるような町はない。門番が必要だとしても、普通に考えて持つのは剣じゃなくそこは拳銃かマシンガンだろう。鎧なんかではなく軍の制服とか着るだろう。
考えてみれば、現代の科学力に、本人の気付かぬうちに一瞬でどこだかわからない遠方に飛ばすようなパワーはない。なら、標準的な日本の街中にある自宅近辺にいたはずの私が、なぜ気づいたらあんな平原にいるのか。
これが、いわゆる「異世界に飛んじゃった」ってやつじゃないのか。
あれはフィクションだけの話じゃなかったのか。
ああいう特異体験は、お話として楽しむからこそおもしろいものだろうが!
たぶん、ぽかーんと物凄く間抜けな顔で立ち竦んでいただろう私の肩を彼が叩いた。私が呆然としている間に何かしらの手続きを終えてしまったのだろう、行くぞと身振りで示し、門を入って行く。私は慌てて頷いて、大人しく彼の後に続いた。