説明
屋敷に入るやいなや、アトラスはさっさとルミナスをソファの上に座らせ、「少し待ってろ」と言って、部屋の外へと出て行ってしまった。
サミュラも少し苦笑する。
「お茶、いれてきますね~」
朗らかな声で言って、彼女も部屋を出て行ってしまった。
ぽつんと一人、部屋に取り残される。
きれいに整えられた応接間を見渡しながら、ルミナスはふうと息を吐いた。
(……あんまり怖い人じゃなかったわね)
不遜で不敵な態度をとるというあの噂は何だったのだろう。確かに少し口が悪いようではあったが、あんなもの、父と義母の自分に対する態度に比べたら、天使のようである。
(それに、ここまで運んできてくれたし)
正直すごく恥ずかしかったが、あれは彼なりの親切心でやってくれたのだろう。
やはり噂は噂なのだな、としみじみ思う。
ほどなくしてサミュラが紅茶を持ってきてくれた。
「ローズヒップティーです。ここの茶葉ってとっても高級で、お茶いれるの緊張しちゃうんですよ~」
短髪と笑顔がよく似合うその女性は、冗談めかしてそう言うと、「ごゆっくり~」と笑って部屋を出て行ってしまった。
(太陽みたいな人だわ)
素直に感心しながら、紅茶を口に運ぶ。
「!……美味しい」
茶葉だけではなく、紅茶をいれたサミュラの技量がはっきり分かるほどの美味しさだった。
ますます感心しながら飲みつつ、ポツリと呟く。
「そういえば、親切にされたのなんて久しぶりだわ……」
ハーリントン侯爵家ではこんなに親切にされたことはなかった。どころか、使用人の笑顔を見たことすらもう何年前だか思い出せない。
「こんなに暖かな気持ちになったことも、なかったわね……」
「そうなのですか?それは花嫁様もさぞ大変だったのですね」
「そうなのよ。父の機嫌を損ねないよう、毎日必死で……」
(……ん?)
はたと紅茶を飲む手を止めて、ついでに思考も止めて、ルミナスはその場に固まった。
冷や汗が流れ落ちる。今の声は、何だ?
「……誰?」
首すら動かせないまま問うと、右斜め上から声が聞こえた。
「こちらですよ、花嫁様」
反射的にその方向を向いてから、ルミナスは後悔した。
「お初にお目にかかります花嫁様、こんな体制ですみません」
人当たりのよさそうな声と、柔らかい笑みを浮かべた男性は、それだけ見れば綺麗な心を持った好青年だった。
……天井に、スパイさながらにへばりついてさえいなければ。
「……き」
「き?」
「きゃあああああああああああああっ!!」
本日二度目の金切り声に、近隣住民が恐怖に打ち震えたことは言うまでもない。
「いい加減にしろ」
ルミナスの悲鳴を聞いてすっ飛んできたアトラスは、一瞬で天井にいた従者を叩き落とし、そのまま正座をさせた。膝がかち割れるかと思うほどの勢いだった。
しかし、男性は柔和な笑顔を浮かべたまま、むしろ晴れ晴れとした雰囲気で言う。
「美人を見ると、天井に張り付いてしまう時って、あるでしょう?」
「ない」
呆れたように切り捨ててから、アトラスはルミナスのほうを見た。
「……悪かったな、来て早々」
「え?いえ、そんなことはないですが」
きょとんとしながら返答すれば、アトラスの瞳に困惑の色が浮かぶ。
「楽しい方々ですね。実家よりもよほど楽です」
本心からそう答え、にっこりと笑顔を浮かべた。
「嫌、なのか?……実家のほうが」
「?はい。ここは楽しいのですよ?本当に」
「……そうか」
沈黙が、訪れる。
パンッ!
静かな部屋に、小気味のいい音が響いた。
「アトラス様、それはそうと、その女性ものの服は何なのか、説明したほうがよろしいのでは?」
手を打ち鳴らしたらしいその青年は、相変わらず人を食ったような笑みを浮かべていた。
「あ、ああ」
なぜだか少し焦ったように、アトラスがちらりとこちらを見る。
「それを脱いで、これを着ろ」
「……え?」
唐突に差し出された服と意味不明なセリフに、ルミナスは二つの翡翠を瞬かせた。
(それ、って、花嫁衣装のことかしら?)
そして、これ、と言われたのはきっと、アトラスが手に持っている若葉色のワンピースのことなのだろう。
つまり、アトラスは花嫁衣装からワンピースに着替えてほしい、と言っているのだ。
(でも、何故そんなことを?)
言葉を選んで、質問する。
「結婚の儀を、するのではないのですか?」
「結婚の儀をするから、着替えてほしいんだ」
「……?」
どうも会話がかみ合っていないような気がする。
首を傾げていると、横から苦笑する音が聞こえた。
「アトラス様、それでは伝わりませんよ」
「キール……」
「言ったではないですか。しっかり説明してくださいと」
「だが……」
「問答無用です。花嫁様に理解してもらわないことには、始まらないのですから」
(なんの話かしら……)
自分だけ疎外されている気がして、ルミナスは二人の会話に割り込んだ。
「あの、キール、さん?」
そういえば、彼の名前を初めて聞いたような気がする、と思いながら、柔和な男性に話しかけた。
「はい、なんでしょう?」
「私は、何を理解すればいいんですか?」
すると、彼の顔が輝いた。
(え、何で?)
青年の変わり身の早さに驚く間もなく、興奮状態の声が耳に届いた。
「よかったではないですかアトラス様!花嫁様のほうから知ろうとしていただけてますよ!」
「いや、今のはお前が誘導したんじゃ」
「よかったですねえ。さあお早くご説明を!」
最早何も聞いていないらしい自分の従者に呆れ果てた視線を投げかけながら、アトラスは一つため息をついた。
「……ルミナス」
「はい」
(……名前、初めて呼ばれたわ)
自分の名前はこんなにも心地よい響きだっただろうかと不思議に思う。
「結婚の儀は、特殊だ」
「知っています」
即答すると、アトラスは首を緩やかに振った。
「いや、知らない。君は、まだ何も知らない」
「……どういうことでしょう?」
まっすぐ見つめて質問したとき、ひきつけられるように目が合った。
(あ)
真紅の瞳。
(綺麗……)
しかし何故か、少し視線をずらされてしまった。
「君は、幽霊が見える。その力を借りることで、結婚の儀は完了する」
「……」
幽霊が見えることと、結婚の儀と、どう関わるのか分からなかったから、ルミナスは黙ってアトラスの言葉を待った。
「俺と一緒に、霊を浄化するんだ。それで、結婚の儀は完了する」
「……」
てっきり続きがあるものとばかり思っていたルミナスは、黙っていた。
一秒、二秒、三秒……。
「って、それで終わりですか?!」
ひどく間抜けな声が響いた。
「終わりだが?」
「……全然分かりません。幽霊を浄化するのは、アトラス様の仕事では?私は幽霊が見えるだけで、何の力もありません」
「代々決まっているんだ。こういう仕事をしていると、一部の霊たちから恨みを買うことも多い。その時に対処できないようでは、ここでは生きていけない」
「生死にかかわるんですか?!」
なんだそれは。命をかけて嫁ぐ気などさらさらなかったのに。
ぐるぐるぐるぐる考えていると、唐突にある記憶がよみがえった。
(そうだ……私、帰ったら殺されるんだわ)
ならばここで命をかけるのも、同じなのではないだろうか。
かなり強引な納得の仕方だったが、本人はそのことに気付いていない。
急に黙りこくってしまったルミナスに、アトラスはさすがに言い過ぎたかと思った。
「……ルミナス、いざとなったら俺が守るから……」
「分かりました、やります」
スパン、と音がしそうなほど急な方向転換に、さすがのアトラスも面食らった。
「い、いいのか?」
「?そうすれば生き残れるんですよね?」
「あ、ああ、まあ、そうだが」
「じゃあやります。あ、でも、危なくなったら助けてください」
「……そうか」
考えることをやめたらしいアトラスの姿と、急にやる気を出したルミナスの姿を見て、キールという青年は心の中で大爆笑するのだった。