序章
鳥がまどろみ、花の香りが漂い、澄んだ空がどこまでも続いているような麗らかな春の昼近く、数多の本が揃えられた広い部屋の中で、少女は本を読んでいた。
少しウェーブしている彼女の長い黒髪は、鴉の濡れ羽のようにつややかに煌めきながら揺れている。鮮やかな緑色の瞳は、翡翠の宝石をはめ込んだようだった。肌はどこもかしこも真っ白で、頬だけがほんのりと薔薇色に染まっている。折れそうなほどに細い指でページをめくるその姿は、聡明な天使を思わせた。
美少女、である。
「……」
最後の文字まで余すところなく本を読み終えた彼女は、無言で本をぱたりと閉じた。視線をついと向けたのは、開かれた窓の外である。
「え、うそ……」
すでに太陽は高く昇っていて、柔らかな日差しを部屋の中へと注いでいた。本を読み始めたのは朝食を食べたすぐ後だったのだから、午前中いっぱいは本を読んでいたということだろう。
(そういえば、目がちょっと疲れている、かしら……?)
こういう生活が日常茶飯事になってしまっている彼女にとって、目の疲れなど、あってないようなものなのである。意識しないとわからないくらいには。
う~ん、と一つのびをして、彼女は本を片付けにかかった。もうすぐ昼食の時間だ、急がないと遅れてしまう。
自分の身長を三つほど並べてもまだ余るほど長いテーブルの上に山積みにされた本を見て、自分のやったことながら少し脱力する。
(う~ん、これはさすがにやりすぎたわ……)
後々のことを考えるべきだったと苦笑しながらも、少女は本を両手に抱えて、本棚に戻していった。
「……ん?」
五往復ぐらいしたころだろうか、一休みしようと椅子に腰かけ、窓の外に目を向けたとき。
一人の少年が、外を走っていた。
まだ七歳ほどにしか見えないその少年は、両手に大きなボールを抱えて、元気に走っている。
その光景を微笑ましく見ていると、不意に少年がこちらを向いた。人がいることに気付いたのか、少年は無邪気に手を振る。
思わず手を振り返して、はたと気づいた。
「ここ……二階なのに」
少年の背丈では頭頂部すら見えないはずの高さだ。なのに、少年はそこを走っていた。いや、走っている場所に、地面などーーーーーーーー。
ぴたりとその場に静止してしっまた彼女の腕に、じわじわと鳥肌が立っていく。すうっと、体から血の気が引いた。
少年は手を振るのをやめてにこりと笑うと、くるりと背を向けて走り出した。後ろの景色が、透けていた。
「あ……」
目をゆっくりと見開きながらその光景を凝視していると、少年はやがて大気と一体になるかのように消えた。
数秒間の硬直状態から解き放たれ、少女はゆっくりと椅子の背もたれに寄り掛かった。ふうう、と息を吐き、目頭を押さえる。何時間の読書でも疲れなかった目が、ひどく疲れ切っていた。
また、視てしまった。
恐る恐る震える手で腕をまくるとそこには綺麗な肌があって、冷や汗をかきながらも安堵した。
今回のは、たぶん害のない浮遊霊だろう。体に傷などもないから、きっと大丈夫だ。
ほっと息をついて、改めて本を片付ける。
作業が淡々としてしまったのは、色々と考え込んでしまったからだ。
(このごろは、何もないけれど……)
何かを憂えているように、少女の瞳はぼんやりとしていた。何度もため息をついて、視線がゆらゆらと揺れる。と、その時。
コンコンコン、と音がした。
反射的にびくっと身をすくませて、ドアのほうを振り返る。
「……誰?」
固めの声でそう問うと、ドアが開いて一人の侍女が顔を出した。
「ルミナスお嬢様、バームロンド様がお呼びです。至急、書斎へおいでになるようにと」
「……お父様が?」
「はい。お嬢様とお二人で話がしたいそうです」
再び、腕に鳥肌が立った。
(お父様が……私と?)
にわかには信じられない言葉を聞いて、少女ーーーーーーーールミナスは訝しむように侍女のほうを見た。不思議なところはない。ルミナスと目を合わせようとしないのはいつものことだ。この屋敷では、誰もがそうなのだから。
「……分かったわ。悪いのだけれど、ここにある本を本棚に戻しておいてくれるかしら?」
「はい、承知いたしました」
侍女が即答するのを聞いて、ルミナスは重い足取りで廊下へと出た。後ろでドアがぱたりとしまる音がした。
普通ならば、どんなに知っている場所に行くのだとしても、呼び出されたからには案内ぐらいはつくものなのだが、ルミナスにはそれがない。しかし言ってしまえばこれも日常だ。普通でないのは周りではなく自分だということくらい、ルミナスは分かりきるほどに分かっていた。
無意識に、胸元にある十字架のネックレスを握りしめる。
そうして、ルミナスはコツコツという音がする大理石の床の上を歩く。その瞳は暗く、悲しげだった。
ハーリントン侯爵家の長女であるルミナス・ハーリントンーーーーーーーー通称『呪われ姫』は、黒々とした不安を胸に抱きながら、父の書斎へと向かうのだった。