あだし(世)の
一
朝から降り続く雨はいっこうに止む気配をみせず、むしろその勢いをいっそう増していた。連なる甍の波に叩きつけられた雨粒は流れを成し、家々の軒下を白糸の滝が洗った。月は叢雲の彼方、数少ない街灯は水煙の中に沈み、愛宕山が纏う帷の裾に鳥居本の町並みは覆い隠された。
その旧い街道筋を、男が歩いていた。傘も差さず、雨具もつけず。その足取りは重く、足枷を嵌められた囚人のようであった。ひどく足をひきずりながら一歩、また一歩と石畳を踏みしめていく。朽縄と見紛うばかりの草鞋の緒はきりきりと足に食い込み、泥塗れの足袋には血が滲んだが、それでも男は歩むことを止めなかった。
男は遍路者のように巡礼白衣を身に纏っていた。背負った南無阿彌陀佛の名号こそ清浄であったが、首の輪袈裟は房がほころび、白いはずの頭陀袋は風雨に晒され汗を吸って渋茶染めのように変色していた。ささくれ立った金剛杖を突きつき、けれども顔だけは真正面を見据え、何事かをつぶやきながら歩いたがその声は雨打つ音にかき消された。
男は年老いていた。菅笠から覗くその髪は痩せて白く、顔に刻まれた皺は深く。容赦なく降り注ぐ飛沫は、しみの浮かんだ頬を、尾根のように筋ばった首を、ただ流れていった。雨粒でも入ったのか、男は足をとめ、そっと瞳を閉じた。篠突く雨の中でしばし瞑目する姿は荒々しい滝行を髣髴させたが、男のその顔は菩薩のように穏やかであった。
山へと分け入っていく、車一台ようやく通れるほどの道。こんな雨の夜に歩いているのは、男一人のみであった。道の先にあるのは試峠、清滝の小さな宿場町、そして愛宕山。それだけである。京の都のどんづまり。峠に穿たれた隧道を抜けて、山を吹き降り渓谷を撫でた冷たい風がびゅうと辺りを駆け抜けた。
街道に沿って建ち並ぶ町家には、濃墨色に染められた格子と漆喰を塗り固めた虫籠窓。白と黒の交差する、モノクロオムの世界。人の気配すらなく、町そのものが一景の切り絵のようであった。店やの軒先に仕舞い忘れた立て看板が、雨に叩かれてばたばたと音を立てたが、その音さえも平面の世界に吸い込まれそうであった。
男はふと、一軒の土産物屋の前で立ち止まった。道に面した飾り窓の中には、ちりめんの端切れでつくったうさぎのお手玉が、小さな橙色の灯りにぽつんと照らされていた。だが男は、それを見ていたのではなかった。「また増えてしもたな」男は独りごちた。鏡面仕上げの硝子に映りこんだ男の姿。辺りに人通りが皆無だったのは男にとって幸運であった。
どぶ川の水面に湧き出す気泡よろしく、男の体にひとつ、ふたつと浮かび上がる、顔、顔、顔。握りこぶしほどの大きさのそれはどうやら幼な子のもののようであった。顔はひとつひとつ異なるにもかかわらず、どれもみなどこを見ているのかわからない虚ろな目をあらぬ方へ向け、酸素欠乏症に陥った金魚のようにぱくぱくとその口を動かしていた。男は冷静にその顔を払い除けようと試みたが、徒労に終わった。手を近づけるたび、砂地に小魚が身を潜めるようにすうっとその姿が隠れてしまうのだ。そして次に現れるときには、それは倍に増えて浮かんできた。
実のところ、現れては消える顔たちに男は見覚えがあった。否、見覚えがあるどころか、親の素性から、彼らの末期まで男は知っていた。けれども、どうしても彼らの名前だけは思い出せなかった。人は必要性の薄いものから順に記憶を消してゆく。少なくとも男にとって、名前というのは不必要な事柄だったに違いなかった。
オカアチヤアン。雨音の合間を縫って、か細い声が男の耳朶に触れた。その場には到底似つかわしくない、小さな女の子の声だった。ぽんぽんすいた、まんま、まんま。今度は男の子の声だった。男はその声を無視して、再び歩を進めることにした。けれども、ひたひたと潮が満ちてゆくように男に打ち寄せる声は次第に多く、大きくなっていった。ごめんなさい、もうしません。寒い寒い、おべべが欲しい。男は両手で耳を塞いだ。しかしその掌に現れた顔が、また口にするのだ。お腹空いたよう、寒いようと。
男はとうとう耐えられなくなった。ただひたすらに念仏を唱えた。その足が泥水に浸るのも構わず、飛沫をあげながら走った。早く、早く。目指すところはもう近い。狐に追われる兎の如く、一心に先を急いだ。
二
前略 突然の出奔を御許し下さい。卅余年連れ添つた貴女に黙つて出て行くこの薄情、御詫びの仕様も御座いません。私はもう家へ帰ることは無いでせう。少なくとも、生きて敷居を跨ぐことはないはづです。
由香子には、貴女から巧く説明をして置いて下さい。元気な赤ン坊を産んで、そして何が何ンでも自分の手で大切に育てて呉れと伝へて下さい。夫の支えなく、独りで子供を育てるといふ事は実に苦しいことだと思ひます。けれども、貴女が由香子を支へ、どうか生まれ来る赤子を無事に育てあげて下さい。私は、夫として、父親として、生まれて来んとする子の祖父として三重に失格でありませう。けれども、私は出て行かねばならぬのです。この腕に赤子を抱く資格など、私には無かつたのです。
私は此処に、貴女へ一ツの告白をしなければなりません。貴女は、昭和廿五年に世間を騒がせた光孤児院事件を覚えて御出ででせうか。あのとき、新聞でもラヂオでも、果てはカストリ雑誌が如く低俗な書物にまで鬼畜の所業云々と書かしめたのは私のことなのです。
学徒兵として海軍に取られた私は、敗戦した年の冬に復員してきました。けれども神戸の中山手にあつた実家は大空襲で焼け、親兄弟皆ンナそのときに死に絶へ、挙句土地はどさくさに紛れて人に取られ、私には戻るべき場所がありません。当然復学することも出来ず職を探しましたが、日雇ひの沖仲仕にでもありつけたうちはよく、やがて抜荷した物資を三宮のジヤンジヤン市場へ持つて行つてヤミで売るやうになり、そのうち愚連隊の使い走りをしたり、第三国人に飼はれて用心棒の真似事をしたりするところまで堕ちました。
転機がやつてきたのは、昭和廿二年のことでした。当時の私の飼ひ主であつた岡田といふやくざの親分が、だういふ伝手か京都にあるといふ孤児院の雑夫の働き口を見つけてきたのです。これからは極道でも正業を持つとかなアカン、が口癖の人でした。お前には極道は向かんのやからガキの守りでもして堅気になれと言はれ、私は河原町七条下ル、光孤児院の職員となつたのです。
当時は復員兵が次々と家庭を持ち、ベビィブームの真ツ只中でした。けれどもまた、望まれない子供も多かつたのです。食ふや食はずの家に生まれてしまつた貧乏人の子、パンパンと呼ばれた街娼が生んだ子、既成の道徳が崩壊する中で誤つて宿されてしまつた子。彼らは早晩、親から捨てられる定めにありました。そして、彼ら望まれない子供達や、戦争で親を亡くした戦災孤児達の行き着く先は、一ツは愚連隊でありもう一ツは孤児院でした。
赴任した当時の光孤児院は、其れは凄まじい有様でした。子供達はまだ小さいとは言へ、狭い部屋に満足な寝具もなく押し込められて雑魚寝をし、配給の食糧も行き渡らず裏の畑を耕し、また或るときは昔の伝手を頼つて大阪や神戸の闇市へ出掛けたものです。安い給金と上がり続ける物価、そして重労働の三重苦に耐へられず職員は次々と辞めていきました。私は他に行く当ても無いものですから何とか忍んでおりましたが、とうとう私が先任になつてしまひました。
その頃の子供達は、いや、我々もだつたと醜い言ひ訳をさせてください。慢性的に続く栄養失調で、髪は抜けはじめ、水気もハリもなくなつた皮膚は土気色をしてへばりつくばかり、それでいて何かよく判らない赤い湿疹に覆はれてゆきました。視線はどことなく定まらず、また視力が落ち特に夜は細かい文字等全く見えません。髪や服にはシラミが集り痒くてたまらず、枯れ枝の如く痩せた手でぼりぼりと掻き毟る毎に、湿疹から血が出て瘡蓋になるのです。配給食糧のみを食べ闇米を拒絶した判事さんが栄養失調で死んだのもこの頃と記憶して居ます。
其の男に出会つたのは、暮れも押し迫つた頃だつたやうに思ひます。院で預かつて居た或る赤子を連れて病院へ行つた帰りでした。其の子は飢ゑて居るにも関わらず腹がパンパンに膨れ、数日前から水糊のような下痢便を垂れ流して居ました。御医者様はクワシヲルコル、とか何とか一言呟き、栄養の有る物を食べさせてやつて下さい、と誰にでも判るやうなことを言ひつけて私を帰したのでした。
市電を降りたところで、私の肩を叩く者が在りました。振り返ると、かつて三宮で闇市の売人をやつていたころの仲間の、特攻崩れの某といふ男でした。お前の子供かと尋ねる男に、私は事情を説明しました。すると男は、恐るべき事を私に話したのです。
アカンアカン、そのガキはもう助からん。下手に手間かけたらお前が死んで仕舞ふ。いつそ一ト思ひに楽にして遣るのもお前の務めや。
それにな、と言つて男はかう続けたのです。皆ンナ自分で育てやうとするからアカンのや。器量のええ子は子なしの家へ売つてしまへばええ。先の無いもんはさつさと始末して、さうすれば役所から葬儀用として特配の酒が来る、それでも売つて生活の足しにしたらええ。
何と恐ろしいことを言ふのだらう、と私は背筋が冷たくなるのを感じました。私は独り身でしたが、少なくとも院の子供達のことは我が子に等しく大事に育てて独り立ちさせてやらうと思つて居ましたし、それを他人に売るとか、ましてや殺してしまふなどとても出来ることではなかつたのです。
次の日でありましたか、その赤子は死にました。オシメを換へてやらうと布団をめくつたときには、既に冷たく、固くなつて居ました。私はその亡骸を抱へて、院の経営者である三勝院の住職を尋ねました。満足に生きられなかつたのだから、せめて葬式だけでもきちんと、と思つたのです。けれども、住職はまるで野良犬か何かの死骸を見るやうな目で一瞥し、鴨川の河原にでも棄てて来いと言ひ放つたのです。そんなことが到底出来る筈もなく、私は近所の葬儀屋に小さな棺桶を作つて貰ひ、自己流の簡易な葬式を行ひました。
役所へ届けを出すと、男が言つて居たとほり酒の特配があるとのことで配給切符を呉れました。私はその切符を早速酒瓶に換へると、穴蔵のやうな自室に籠もつてチビチビと遣りました。茶渋だらけの湯呑みで一杯呑むと、我が身への怒りが湧きました。どうしてもつと早く医者へ連れて行かなかつたのか、何故もつと栄養のあるものを食べさせてやれなかつたのか。私は声をあげて哭きました。震へる手で二杯目を呑むと、三勝院の坊主への怒りが湧きました。何が河原に棄てて来いだ強欲野郎め。用事を作つては金持ちの檀家に飯や酒を集り、貧乏人の檀家から預かつた御骨は無縁仏の合葬墓にでも放り込めば良い方、下手すりや其の侭裏の畑行きぢやないか。小坊主をこき遣つて小遣ひ稼ぎをし、その金で七条新地の特飲街へ女を買ひに通つて居るのは最早周知の事実である。私が思はず卓袱台を蹴り上げると、芋の蒸したのがごろりと転がりました。声にならない声をあげ三杯目を呑むと、世の中への怒りが満腔を駆けました。赤子は或る淫売の子でした。其の淫売は元々良家の子女だつたさうですが、女学生の頃に知り合つた男と駆け落ち同然で所帯を持ち、其処で子を宿したやうなのです。けれども折悪く男は兵隊に取られ支那戦線で名誉の戦死、生まれたばかりの乳飲み子抱へ、義理の親には相手にされず、実家からも義絶され、到々春を鬻ひで日銭を稼ぐに至つたのであります。初めの頃こそ我が子大事で時間時間に帰宅しては乳をやつたりもしていたさうですが、終に手に負へなくなつて(と云ふよりも、情夫と暮らすのに子が邪魔になつたのかもしれません)この光孤児院へ赤子を預けたのでした。
私は怒りをぶつける先を求めて喚き散らし暴れ回りました。裸電球が揺れ、火鉢に掛けて居た薬缶が転がりもうもうと灰が湧き上がりました。一体誰が悪だつたのか。満足に我が子一人育てられなかつた其の女が悪だつたのでせうか。否、子供を育てると云ふ事は莫大な手間と金がかかるのです。女手一人では育てあぐね、棄て子に出した女はこの淫売だけではありませぬ。それでは、女を孕ませて置きながら戦死した男が悪だつたのでせうか。否、聞けば男は家庭を持たうとしてゐたとのこと、降つて湧いた戦争と云ふ悲劇に、雷にでも当たるのと同じやうな不運で命を落としただけなのです。では果たして、嫁と孫を路頭に迷はせた男の親や、我が娘を見捨てた女の両親が悪だつたのでせうか。否、あの時代、どこの馬の骨とも判らぬ子連れの女を養つたり、勝手に孕んで帰つて来た娘やその赤子を養つたりする余裕のある家など何処にもなかつたはづです。身分を偽つて養子となり財産を奪つたり、自分で育てられなくなつた子を全く無関係な英霊の遺族へ遺児として押し付けたりする事件もあつたと聞きますから、当然の対応だつたと言へませう。
結局誰をも悪者にすることができなかつた私は、世の中全てを憎み、そして自分自身もその渦の中に飛び込んでいく他に道を見つけられなかつたのです。裏で空疎に響く除夜の鐘を聴きながら、心の中で赤黒い炎がむらむらと熾つていくのを感じました。その炎を鎮めやうと酒を喇叭呑みしても勢ひはかへつて増していくばかりでした。
年明け早々、私は有り金全てを握り締め新聞社に三行広告を依頼しました。人を使つて盛り場の電信柱にも貼り紙をさせました。貰ヒ子イタシマス/委細面談/京都・光孤児院。たつたこれだけでありましたが、面談希望者が殺到しました。血を分けた我が子すら満足に育てられぬ親がこれほどに居る惨憺たる世相に陰鬱な気持になりながらも、この子供達はいづれ捨てられ死ぬ運命、ならば我が命をつなぐ糧としても文句は言はれまいと云ふ思ひが頭をもたげました。思へばあのとき既に、私は餓鬼道へ堕ちてゐたのでせう。
院へやつて来る哀れで情けない親たちとの面談は、その実商談でありました。子供を連れて来た親には、まづ院を見学させます。院の子供達は見学者のある日だけは労働を休みにしてゐましたから、その日はここぞとばかりに裏の境内を走りまわります。また古本屋で仕入れてきた少年クラブや少女クラブやら、自由ノオトやらなにやら持たせ、文化的な生活も営んでいるやう見せる努力もしました。さうして一トしきり見学をさせ心象を良くした後に商談に臨むのです。
親からは養育費名目で子供一人につき五、六千円を目安に受け取ることにしました。一寸金を持つてさうな旧華族や商売人の家が相手の時は、値を一万円程に吊り上げることもありました。当時は強烈なインフレエシヨンの最中でしたが、大卒の学士様の初任給が千円するかしないかの時代ですから、どれほどの値段だつたかお判り頂けるでせう。
当時の私には、面白くてならぬ商売でした。連中はなけなしの貯金を全て下ろし、家財や着物まで売り払つて金を作つてやつてくるのです。それでも金の足りない者には、知人の経営する金貸し屋を紹介したりもしました。どうしてさうまでして子供を院に棄てるのか、私は不思議で仕方ありませんでした。けれども、この先十年以上も手間と金を費やして子供を育てるぐらいなら、いま苦労しても何千円払つた方がマシだと思つたのでせう。連中にとつて子供は、負債でしかなかつたのです。この先利息が膨らむより、いままとめて払つてしまつた方が「合理的」だつたのです。
さうして、大金とともに子供が院にやつてきます。手土産や着物を添える親も居ましたが、まづ食べ物であれば私の口に入りますし着物はヤミで売り払つてしまひます。四歳より大きい子供は其の日から畑仕事です。不器用で役に立たない子供は、ぼろぼろの着物を着せて京都駅前で物乞ひをさせます。自分の食い扶持は自分で稼ぐ、と云ふ方針で院では躾けてゐましたから彼らは良く働きました。一方で器量の良い、特に女の子には別の仕事もありました。子無しの金持ちが、わざわざ遠方からでも棄て子を買ひに来るのです。また、遊郭から女衒が青田買ひにやつて来ることも多々ありました。幼いうちは禿代わりに行儀見習ひや雑用をさせて、或る年齢に達すると商品として客に出すのださうです。ただあまり近場の者へ売つてしまふと親にバレてしまひますから、出来るだけ遠方の者へ売るやうにしたものです。東京の玉の井や洲崎からも買ひに来る者があり、さうした者に此れは旧子爵某様のご息女の不義の子で、此れは旧宮様のご落胤で、などと尤もらしい嘘を並べて高値で買はせるのはいい商ひになりました。
一方で、赤子の扱ひには随分手を焼きました。彼らは自分の食い扶持を自分で稼ぐこともしませんし、他の子供のやうに躾けることもできません。唯、数時間おきにぎやあぎやあと泣き喚くばかりでした。それでも、赤子の人数を市へ報告してさへおけば粉ミルクや砂糖の配給が特別に受けられましたから、そのために置いてゐたのです。勿論、手に入つたミルクの缶詰や紙袋にギツチリと詰められた砂糖は早々にヤミへ流し、金に換へて居りました。自分では何も出来ず人に手間さへ掛けさせ続ける赤子は、私にとつて単に道具に過ぎませんでした。さう、道具です。使ひ捨ての道具。かつて私と一緒に兵隊に取られた学校の仲間もさうでした。どうしやうもない戦況の中で員数合はせのためだけに集められた我々は、満足な訓練も受けず、充分な装備もないままに片ツ端から戦場へ送り込まれ、鴻毛より軽いと言はれたその命を故郷から遠く離れた戦場で散らしたのです。
けれども、私は生き残りました。否、生かされたのです。ですから私は、何があつても、どんなことをしてでも彼らの分まで生きねばならぬと決意したのです。その為には金が要ります。金さへあれば。金!金!金!嗚呼、また赤子が泣いて居ます。ぎいぎいと金切り声をあげて耳障りでなりません。誰か五月蝿いガキを黙らせてくれないものでせうか、喧しくてかなわぬのです。
さう、前にもこんなことがあつたやうな気がします。高台寺にほど近いとある旅館から車を走らせて院へ帰つて来ると、例の如く赤子が泣いて居ます。馴染みの雇仲居と一ト晩過ごし、ゆつくりと朝寝して良い気分だつたのが一遍に台無しです。ミルクは昨日飲ませた筈ですし、確かオムツも前に換へておいた筈です。已む無くおしやぶりを口にねじ込みましたが泣き止む気配がありません。一体あの赤子の泣き声と云ふものはどうしてああ頭に響くのでせう。頭に残つてゐる酒が沸々と煮立つのを感じました。ふと気づいたときには、私は其の赤子を布団でくるみ、荷造り紐で縛つて部屋の隅に転がしてゐました。全く手に負へない代物です。陽も随分傾いた頃でせうか、漸く静かになったやうでしたので紐を解きました。布団の中で、赤子は死んで居りました。赤紫に腫れた顔、唇からだらりとはみ出した舌。チエツ、また手間掛けさせやがつて。私は小間使ひの子供を呼んで、裏の畑にあつた柿の木の下へ赤子の死体を埋めさせました。さうして、懇意にしてゐた町医者に金を掴ませて形式的に書類だけ書かせると、それを役所へ持つて行つて酒に換へたのでした。
この方法は、案外良い方法だつたやうに思ひます。これからの世の中を生きてゆくには、第一に強くなくてはなりません。いつまでも泣いてゐる弱い子供など要らぬのです。ですから泣きやまぬ赤子は放置する方針にしましした。当然、気づいた時には凍死して固くなつて居た者や、口から泡を噴いたまま事切れて居た者もありました。けれどもさうした弱い赤子は晩かれ早かれ死ぬ運命にあるのです。院の布団にも限界がありますから、そんなひ弱な子供にいつまでも居られては困るのです。嗚呼、まつたく騒々しい。いつまでも泣いてゐるガキは猿ぐつわを咬ませて古井戸へ捨ててしまはねばなりませぬ。
子供は次から次へとやつて来ました。そして次から次へと死んでゆきました。とうとう裏の木の下に埋める場所がなくなると、今度は近所の葬儀屋に金を握らせ、小さな棺桶を背負はせて化野にある寺へ棄てに行かせました。無縁仏の供養で今でも有名なこの寺では、其の当時乞食や戦災孤児の亡骸も弔つてゐることが知られてゐました。院から化野まで、十五、六粁はあるでせうか。市電の終電が行つてしまふかしまはぬかのうちに、院の裏門からコツソリと男を発たせます。そのまま裏道裏道を歩いて、街中を抜け嵯峨野を越えて陽の昇らぬうちに門前に死骸を置いて、山陰線の始発の汽車で戻つて来るのです。男をわざわざ化野まで歩かせるのは、怪しまれぬやうにするためでした。夜中に自転車をぎいぎい漕いで居れば目立つてしまひます。そこであたかも担ぎ屋が荷を運んでゐるかのやうな態にしたのです。
ほら、今度は母親を求めて泣いてゐます。いつもかうなのです。泣いて求める母親その人に棄てられたということを知らずに居るのですから、全く哀れとしか言ひやうがありません。
けれども、折角のこの商売もさう長くは続けることができませんでした。昭和廿五年、松の内が明けてまだ間もない頃だつたでせうか。洛中では珍しく雪が積もつてゐました。漸く陽も高くなりましたので、炬燵から抜け出して辺りに散らばる徳利を片付けやうとしてゐたときでした。表の引き戸を開ける音とともに、七条署や、おとなしいせい、と鋭い声が飛んできました。官憲がやつて来たのです。
手提げ金庫の中の通帳と現金を腹巻の中にねじ込んでゐるうちにも、勝手口の方へ回り込む足音がします。私は縁側の雨戸を蹴破ると、裸足のまま庭へ飛び出しました。池に手をかざすやうに伸びていた松枝にも、その脇に鎮座する私の背丈ほどもある石灯籠にも、真綿を散らしたやうな雪が覆つてゐました。口汚く名を呼ぶ声を背中で聞きながら、裏の畑へと私は走りました。何を踏んだのか、足の皮が裂け鮮やかな赤が足跡を彩りました。一瞬鋭い痛みを感じたものの、裸足で雪上を駆ける冷たさにすぐ打ち消され、私は走り続けることに専念しました。あのときの私は、単に官憲から逃れてゐただけだつたのでせうか。奇声を発しながら、兎に角必死で駆けずり回りました。一歩でも前へ、前へ、前へ。
裏木戸を蹴破り、立て掛けてゐる農具を蹴散らし、畝を踏み荒らして私は走りました。と、その時、野太い官憲の声に混じつて、おかあちやあん、と呼ぶかすかな声がしました。聴き間違ひなどではありません。確かに子供の声がしたのです。然し私は声の主を確かめることはできませんでした。何かに蹴つまづいて、と云ふより何かに足を掬はれた気がして、そのまま仰向けにひつくり返りました。腰をしこたま打ちつけて呻く私の目に入つたのは、柿の実でした。さう、私は例の柿木の根に足を捕られてゐたのです。ぼんやりと膜を張つた意識の中で、私は枯れ枝にタツタ一つだけ残つた柿を見つめてゐました。すつかり採り尽くしてしまつたと思つてゐたのに、ずぐずぐに熟し切つた其れは赤黒く、目鼻のやうな皺まであり、まるであの日布団で蒸し殺した赤子の顔のやうに見えます。オカアチヤン。今度は耳元ではつきりと聴こえ、私はそのまま意識を失ひました。
さうして逮捕された私は裁判にかけられ、塀の中で八年の月日を過ごしました。出所後は母方の姓を名乗つて西大路三条の板金工場に雇つて貰ひ、後は貴女の御存知の通りの私が居ります。
由香子が貴女のお腹に居ることが判つたとき、一度だけ下ろさないかと言つたことを憶えて御出ででせうか。あの時何故そんなことを言ふのと詰め寄る貴女に、私はまだ給料が安い、子供が出来たらいま以上にお前に苦労を掛けてしまふと言い訳しましたが、本当はさうではなかつたのです。あの雪の日からずつと、私には聞こえてゐるのです。
おかあちやあん。まんま食べたい。おべべが欲しいよう。どこに居ても何をしてゐても聞こえてきます。否、耳を塞いでゐても頭の中に響くのです。蚊の鳴くやうなかすかな声のときもあります。頭が割れるやうな泣き声が一日中聞こえるときもあります。鴨川の桜咲き誇る春の日も、祗園囃子が風に乗る夏の日も、東山を真紅に染める秋の日も、比叡颪に身を縮める冬の日も、あれから毎日毎日毎日毎日私の頭の中では声がぐわんぐわんしてゐます。この声を何とかしてやらうと、様々な努力を試みました。死骸を埋めた木の下へ花を供へました。毎日経を読んでみたりもしました。霊を弔はんと地蔵を模した木像を彫つてみたりもしました。けれども、そのいづれも徒労に終わりました。これを認めてゐる今この時も、私には聞こえているのです。ああ、まつたく喧しい。死んでまで義理の親たる私に迷惑を掛けるとはどう云ふ心根をしてゐるのでせうか。いつたい、怨むなら自分を棄てた実の親を怨むべきでありませう。私を怨むなど筋違いもいいところ、実に怪しからぬと思ふのです。
しかし、もう私も永くないことは自分でも判つてゐますから、これを最期の告白と致しませう。
私は、由香子が怖かつたのです。
夜泣きをして一晩中相手をさせられる日、何度繰り返しても私の云ふことをちつとも聞いてくれぬ日、ついウツカリあの日のやうに絞め殺してしまはぬかと、恐ろしくてなりませんでした。この泣き声は由香子のものなのか、それとも。さう考える度に、両手が由香子の首へ回りさうになるのです。包丁で滅多刺しにする夢を見て飛び起きることも一度や二度ではありませんでした。貴女はこれを或る種の育児ノイロオゼだと思はれるかもしれません。けれども、それだけではないのです。時々に見せる由香子の顔が、院に居た子供達にソツクリなのです。薪で頭をかち割つて死んだ子、縁の下で霜を被つて凍え死んでゐた子、物乞ひをしてゐて車に轢かれて死んだ子。彼らの顔が、由香子の顔に重なつて浮かんでくるのです。私は戦慄しました。きつと死んだ子供達が祟つてゐるに違ひないのです。罪はもう償つたといふのに、しつこくどこまでもついて来る気なのでせう。
私は以前にも増して経を読むやうになりました。死骸を棄てに遣つてゐた寺へ通ふやうになり、水子地蔵を拝んだりもしました。また随分と寄進もしました。到々、遍路にさへ出るやうにもなりました。さうすることで、少しでも子供達から逃れやうとしたのです。けれども、子供達はしつこく我々親子を追つて来るのです。独りで居ても、頭の中には子供達が居ます。家に帰つて由香子を抱けば、由香子でない顔をした由香子が私をじつと見てゐます。いつまでも、どこまでも。私は気が違ひさうでした。それでも、由香子を子供達の手の届かぬところへ遣りたい一心で、何とか狂ふことなく耐えてきたつもりでした。かうして居ればいつかは子供達から逃れることができるやもしれぬ、と云ふ期待をつないで遍路を続けました。また一方で、よき父よき夫であらうと家庭人を演じ続けてきました。由香子は、そしてこの家庭は何としても守らねばならぬ。不貞の末に生まれ、口減らしに棄てられたお前達とはそもそも身分が違ふのだ。さう自分に言ひ聞かせて居ました。
ですから、さうして育てたはづの由香子が、妻子ある男の子供を身ごもり、結局其の男には棄てられて一人実家へ帰つて来たとき、私は絶望しました。あれだけ忌み嫌ひ嘲笑してきたはづの、自分で育てることも出来ぬ癖に子を産み、挙句血を分けた其の子を棄てる女。これまで何百人と見てきたその類の女と、由香子は同じ穴の狢になつてしまつたのです。あの忌まわしい子供達から逃れるどころか、追ひつかれてしまつたのだと私は初めて気づきました。何度も何度も、母親独りでは子は育てられぬ、その子は下ろしてしまへと由香子に言ひました。けれども由香子はかう言つて聞かぬのです。小さな子供の声が頭の中に聞こえてきて、オカアチヤン、僕を産んで育ててネつて言ふの、と。私は全てが手遅れであることを悟りました。
さあ、私にはもう時間がありません。近頃は声が聞こえるだけではありません。何だか顔のやうな水ぶくれがあちこちに出来てゐるのです。どこかで見たことのある、幼な子のやうな。しかしいづれにせよ、私の命はもう永くはありますまい。この腫れ物は私の命を吸つて成長してゐるのでせう、大きくなるたび、数が増えるたび、私は体力が失はれてゆくのを感じるのです。熱が出ます、血を吐きます、くらくらと意識が大きな渦に飲み込まれてゆきます。けれどもこんなものに黙つて殺されるつもりはありません。私は子供達の怨みを一身に背負つて死んでゆくのです。ですから貴女は安心して生きて下さい。そして、由香子のことを宜しく頼みます。長年、苦労を掛けました。嗚呼、子供達が呼んでゐます。私が殺した百六十九人の子供達です。私はもう行かねばなりません。行つて全てを終はらせるのです。それでは、どうかお元気で。
三
夜も深深と更けつつあるにもかかわらず、その寺の木戸は開け放たれていた。街道からゆるゆると続く石段を登り終えた私は、すうっとひとつ息を大きく吸い込んでから、意を決して境内へと足を踏み入れた。愛宕山からやってくるきんと冴えた冷気は湖上の薄氷のようにあたりに張り詰め、静寂がつくり上げる空気の均衡は足音ひとつで崩れそうに感じられて、私は声を押し殺した。雲の切れ間から射すかすかな月明かりだけが私の供だ。墨で塗りつぶしたような闇の中を、導かれるように一歩一歩奥へと進んでゆく。
ごう、と強く風が吹いて、乾いた音を立てて枯れ枝を揺らした。寒さに身を震わせる木々の息遣いに混じって、おかあちゃん、とささやくような声が聞こえたのはその時だった。いつの日からか当然のように私の耳に触れていた幼な子の声に、私は懐かしさすら感じていた。それは私の、否、私たち家族の原因であり結果であり――それを結びつける因縁であるのだ。
ひと抱えほどもある釣り鐘の下をくぐると、ずんと空気が変わったのがわかった。とろみでもつけたように重く体にまとわりつき、息をするのも苦しい。私の前後左右に無数に立ち並ぶ石仏は、古より風葬の地であったここ化野に散逸していた無縁仏を掘り起こしたものと聞く。こけしほどの大きさのものから、小学生の背丈ほどはあろうかというものまで。ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため、三途の川のほとりはかくあるか。おぼろに照らす月光の下、打ち寄せるさざなみのように灰色の幻影が浮かび上がる。此処こそはこの世とあの世の境目、賽の河原。ほら、そこかしこに並ぶ、見覚えのある顔、顔、顔。あの子供達のものに違いない。
まんまちょうだい、と今度は耳のすぐ後ろで声がした。ひどく腹が減った。喉もカラカラだ。体が鉛のように重い。手足の先から力が抜けていく。眩暈がとまらない。頭がくらくらする。視野がどんどんせまくなっていく。息も苦しい。全身が灼けるように熱い。いったいどうなっているんだ。
私には両親にまつわる記憶というものがなかった。物心ついた頃には既に母親の実家に預けられ、祖母と二人暮らしをしていた。
京都市内とは言え街中までバスで小一時間はかかる山の中だった。祖父が健在の頃に建てた家らしいが、二人きりで暮らすには十分過ぎるほど大きな家であった。広い庭があって、回り廊下のガラス戸からは陽が射した。けれども家の中は暗く、冷たいものだった。
祖母は毎日夕方になると市内へ働きに出かけ、朝方家へ帰ってきた。そしてまだ寝ている私を蹴り起こし、平手打ちを食らわせた。酒臭い息を吐き、髪をふり乱しながら何度も頬を打った。それが毎日毎日続いた。人殺しの血が、殺人犯の血が、と意味のわからないことを真っ赤な目をして口走る祖母が恐ろしくて仕方なかった。灰皿を投げつけられたこともあった。食事を作ってもらえないこともあった。いつかは家を出ようと心に決める一方で、この家族にどんな因縁があるのか気になって仕方がなかった。
それがわかったのは、中学校へ上がってしばらく経った頃だったように思う。ある日ふらりと、私の母親だと名乗る女性が家へやってきたのだ。子供の目にも時代遅れとわかるピンクのスーツに目の眩むような金ぴかの鎖のベルト、鼻の曲がりそうな強烈な香水の匂いを振りまくその人が自分と血がつながっているとは到底思えなかったが、しばらくして帰宅した祖母の反応を見るとどうやら話は本当のようであった。両親は私が生まれてすぐに事故で死んだと聞かされていたから、とても受け入れがたい容姿をしているとは言えこうして母親が目の前に居ることに違和感を禁じ得なかった。しかしその違和感も、あの日以来この家で私が感じていた奇妙な居心地の悪さも、私にだけ姿が見える、声が聞こえる子供達の不思議も、酒に酔い祖母と口論した彼女が激昂して言った言葉で全てが吹き飛んだ。
殺人犯の嫁、殺人犯の娘、殺人犯の孫。あんたがどこへ隠れて住んだかて、うちがどこまで逃げたかて、この子をどれだけまともに育てようとしたかて、今さら無駄やねん。あの男が殺した何百人のガキに祟られてどうせうちらは野垂れ死ぬんやわ。
祖父が、かつて世間を騒がせた孤児大量殺人の犯人であったこと。祖母が度々口走っていた人殺しの血とはこのことだったのだ。そして、私が不義の子であったこと。私を産んですぐ母は男に棄てられ、流れ歩いた末に食い詰めて帰ってきたのだった。
私は自分の血の穢れを呪った。人殺しの娘が生んだ、不倫の末の子。そしてそれ以上に恐怖したのは、祖父が狂死していた事実であった。私が生まれる直前のことだったという。自分が殺めた子供達が眠る寺の境内で、祖父は眼を剥き喉を掻きむしり、口から舌をはみ出させて死んだ。首筋や手足の先には鑑識課員が音をあげるほどの小さな小さな噛み跡が、着ていた巡礼白衣には晩秋の清滝川もかくやというほどの真っ赤な手形が無数についていたそうだ。
私もきっと、祖父の手にかかった子供達に祟られているに違いない。祖母は私が高校生の頃に痴呆症にかかり、雪の降るなか庭の池に全裸で浸かりお風呂お風呂とはしゃぎながら狂い死んだ。母はその後も実家に出たり入ったりを繰り返していたが、ある日ふらりと姿を消した。筋の悪い男にでもつかまったのか薬漬けになり、うわ言を垂れ流しながら通行人を包丁で切りつけた末に歩道橋から身を投げ、何台もの車に轢かれて死んだのをニュースで知った。
次は私の番だ。私も、祖父母や母と同じ末路を辿るのだ。そう思うと、恐ろしくて恐ろしくて仕方がなかった。自分の呪われた運命から逃れようと必死になった。私しか住む者の居なくなった家は引き払った。数少ない親戚とも一切縁を切った。街を歩く子供にさえ近寄らなくなった。けれども、運命とは逃れることができないからこそ運命なのである。少しでも遠くへと足掻き苦しむ私の後ろ髪を引っつかんで、無理矢理に振り向かせるのだ。
四年間付き合ってきた彼女が、ある日妊娠を明かした。あのとき私が何も言えなかったのは、その事実に驚いたからでも、新たな命を抱えた私たち三人の将来に頭を巡らせていたからでもない。彼女の向こう脛に手を回し、膝の脇から無表情な顔を覗かせる赤ん坊の姿がはっきりと見えたからだ。私は何も言わずに姿をくらました。殺される。殺される。殺される。生まれてきた我が子に取り殺される夢を見る。醜くゆがんだ顔はやはりあの日彼女の足にしがみついていた赤ん坊のものだった。赤ん坊はじりじりと這いながら私に迫ってくる。その小さな口が私の首筋に噛みつく。きりきりと食い込む歯。ぷっくりとふくらんだ血管がはじけ、鮮血が噴き出す。とめどなくあふれる私の生命を全身に浴びて、満足そうに微笑む赤ん坊。やめてくれ、私は関係ないだろう。私がやったことじゃない。祖父はとっくに死んだ。いや、すまない。申し訳なかった。勘弁してくれ。助けてくれ。
一体いつからこうしていたのだろう。賽の河原で石仏に囲まれ、うつぶせに寝たまま朝を迎えた私が居た。どうやらあのまま意識を失ってしまっていたようだ。体中が強ばって、少しも動かすことができない。針を突きたてるような痛みが全身を走る。私の周りでは、なにやら大勢の人が歩き回っている。ざりざりと砂利を踏みしめる足音がうるさい。おい、うろうろしてないで誰か私に手を貸してくれ。声が出ない。吃りのように腹の底に声が詰まってしまったようだ。時折チカチカと視界の隅に閃光がちらつくのは、写真でも撮っているのだろうか。やめろ、人を見世物扱いするな。すぐ脇にはよく磨いた漆黒の革靴と、グレーのスーツの裾が見える。張りのある男の声がした。むごいもんやな、ここまで手間かけてやるほど怨んでたんか。ああ、そうか。私は思い出した。ここで死んだんだったっけ。やがて濃紺の制服を着た男がやってきて、相変わらず身動きの取れないで居る私を抱えて担架に乗せた。緑のビニルシートがかぶせられる瞬間、その端っこをきゅっと握っていた幼な子が少しだけ微笑んだ気がした。
(平成24年10月3日脱稿)
(平成26年3月4日誤字修正)