昭和の家族 ⒈
真奈美の家は、江戸の末期か明治の始め頃に建てられた古い商家の「一部」になる。
大川に近い隣村にその商家は建っていたらしいが、後継ぎの長男が何を思ったかブラジルに移民してしまい、染物屋をしていた店はつぶれてしまったらしい。
なんたるちーや。
残った次男、三男、四男が、その家を三分割して、コロに乗せて引きずってきて、こちらの村に建て直したのが、この家になる。
……家を引きずるって、大胆。昔はもったいない精神がここまで徹底していたんだね。
宗田駅の裏通りに、東の中川、中の中川、西の中川と、三つの家が仲良く並んで建っている。
一番東の中川が、真奈美の実家ということになる。
ということは、私のご先祖様って、商家の次男だったのかな? いや、西から数えたら四男か。
こういうことって、親に確認したことがなかったな。話ができるようになったら聞いておこう。
中の中川さんちは、ご主人が小学校の校長先生で、近所でも皆から「校長先生」と呼ばれている。
その親の教えもあったのか、子どもさんは東京大学に行っている秀才さんだ。
この校長先生は、学校を退職した後も隣に住んでいる真奈美のことをよく気にかけてくれていて、「学校では何を習ってきたの」とか「この熟語はどういう意味か知ってる?」とか、よく質問されたことを覚えている。
今思うと、家でも先生気質が抜けなかったんだね。
西の中川さんちのご主人は、身体が弱く、喉の手術をしたのか喉に大きな穴が開いていて、いつも喉を布で覆っていた記憶がある。
こちらの息子さんたちも優秀で、一人は京都大学、もう一人は東京の方の大学に行っていたのかな?よく知らないが、この一番若いおにぃ……おじさんが、うちのおじいちゃんの葬式の時に来ていたことだけは覚えている。
この辺りでは「一等内」といって、何代か前の親戚でも、親族付き合いがあったみたいだ。
さて、肝心な真奈美の家族だが、このクレーバーな親族とは一線を画した存在だった。
真奈美の祖父、常夫さんは、水飲み百姓の六男という極貧の生まれにもかかわらず、家の後を継いで、いや継がされてしまったという、なんともお気の毒な人であった。
五人のお兄さんたちは、貧しい家に縛り付けられるのが嫌で、成人すると次々に東京や関西方面に出て行ってしまった。残ったのが、うちのおじいちゃんというわけだ。
おじいちゃんのすぐ上の、五男になる「東京のおじちゃん」だけは、真奈美もよく知っている。世界中を飛び回るのが好きな人で、よく旅の土産話を聞かせてくれた。
この人は祭り寿司が大好きで、秋祭りの時期にはどこにいてもちゃんと実家に帰ってきていて、「美味しい美味しい」と言いながら、しこたまお寿司をほおばっていた。その上、お土産に祭り寿司のお重を要求するのだから、なんとも欲求に素直な人だった。
今から思うと、うちのおばあちゃんや母さんは、よくこんな我儘な親戚とニコニコと付き合っていたものだ。太っ腹というかなんというか、時代に許容力があったとしか思えない。
苦労人の祖父、常夫さんはそんな好き勝手に生きている兄弟たちとも多寡なく付き合っていて、若い頃は薬の行商人だった父親のことを手伝っていたらしい。
けれど、その行商人の父親も早くに亡くなった時、人生の方向転換を考えたそうだ。
母親は祖父が二歳の時にはもう亡くなっていたし、自分に科せられていたすべての頸木から解き放たれたような気分だったんだろうね。
祖父は思った「この貧しさから、抜け出さんといかん!」
まずは「金」だっ。
目を剥いて金を稼ぐことに躍起になっていった祖父。けれどもお金は、稼ぐそのそばから手のひらをすり抜けるようにどこかへ行ってしまう。
努力は惜しんでいないのに、一向に楽にならない生活。
最初の妻には逃げられ、丈夫だと太鼓判を押されてもらった二人目の妻は、大きな体格をしているのに病気がちだった。
生きる意欲を見失いそうになっていた祖父に、親切な隣人が声をかけてくれた。
「道徳じゃよ、ツネさん。品格を高めないと、いくら努力してもいくらお金を稼いでも、水が漏れるバケツといっしょじゃ。バケツの穴をふさいで器を大きくしてみたらどうじゃ」
今から思うと怪しい新興宗教のように聞こえるが、心底困っていた祖父には、その教えがうってつけだったらしい。
真奈美がかつて観ていたテレビドラマではないけれど、「徳を積む」ことを目標にして頑張っていたら、自然に優しい人が周りに集まってきて、困っていても他人に助けられたり、またこちらからも助けたりするうちに、無理なく生活が向上していったそうだ。
人は一人では生きていけない。人という生物は人との間で生きていくものなんだな。
じいちゃんの昔語りを聞いた時、真奈美はそんなことを感じたのを覚えている。