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こんにちは、赤ちゃん

1960年(昭和30年) 7月


真夏の暑いさなかに、真奈美は三度目の生を受けた。


産婦人科病棟の外から響いてくる五月蠅い蝉の声は、生まれたばかりの真奈美の耳にもしっかり届いていた。

死んだ時にも思ったけれど、聴覚ってすごいな。

目は、うすぼんやりとしか見えないし、遠近感などとてもじゃないがわからない。

つまり、世の中のことを最初に教えてくれて最後まで伝えてくれるのは、耳からなんだね。


前世からの記憶はしっかりと引き継いでいる。


まぁそのせいで、生まれ出る時には死ぬかと思ったけど、産湯を使わせてもらって新生児用のベッドに寝かせてもらうと、ようやく落ち着いてきた。


あー、ひどい目にあった。

母親としての産みの苦しみはよく知っていたけれど、赤ちゃん本人も大変な目にあうんだなぁ。知らなかったよ。


病室は四人部屋で、隣の親子との間にはカーテンがあるが、お向かいのベッドは丸見えみたいだ。頭隠して尻隠さずというか、なんとも大らかな昭和の病室っぽい。

ま、私は目が良く見えてないから、いいんだけどね。


昼前に、窓際のベッドにいた親子が、部屋の人たちに挨拶をしながら退院していった。

するとすぐに、お向かいのベッドにいた妊婦さんらしき人が、「さっきそこが空いたでしょう。だから出産の後は、窓際のベッドに替えてもらえる?」と、看護婦さんに頼んでいた。

なんというか主義主張のはっきりしたママさんだ。


私たち親子は廊下側の開き戸のすぐそばに寝ている。つまり、扉が開くたびに廊下から生暖かい空気が入ってきて、天井に付いている扇風機の風の恩恵もなかなか得られない。昭和の病院にはまだクーラーもないんですわ。

できたら、私たち親子が窓際に移りたかったなぁ。

まだ産後の疲れが取れないうちの母親は、少し羨ましそうにその会話を聞いていた。

ドンマイ、かあさん。初産の経産婦には、まだああいう交渉はハードルが高いよ。たぶんあの人は、ベテランママさんじゃないかなぁ。


真奈美が思った通り、あの妊婦さんは三人目の出産だった。


病室に夕食が運ばれてくるころには酷い陣痛が来ていたらしく、「死ぬー殺せー!」と何とも物騒な叫び声を上げながら分娩室に連れて行かれたのに、何時間も経たないうちにずぼっと大きな男児を産み落とし、ケロッとした顔で夜中に一人で夜食を食べていた。


母は強し……だね。



同じ病室にそんな豪傑ママさんがいるのも、悪いことばかりじゃない。


翌日、本格的な授乳が始まった私たち親子に、そのママさん、高木さんが役に立つアドバイスをしてくれた。


「中川さん、もっと乳首を口の奥まで入れてやらなきゃ、赤ちゃんが吸い付けないよ。子どもも生まれたばかりだと自分から吸う力がないからね」


そう指摘されたうちの母親の肩には、どうも力が入り過ぎているようだ。


「え、こうですか? でも、こんなに押し込んで、おえってなったりしませんか?」


「フフフ、ならないよ。初産だと乳腺が開いてないから、親も子も一苦労なのさ。子どもはすぐに疲れて寝ちゃうけど、足の裏を叩いて起こして、無理にでも飲ませないとダメだよ。いつまでたっても体重が増えなくて看護婦さんにしかられるよ。私も最初の子の時は、それで苦労したんだよねー」


「ひぇ~、体重が増えないのは困ります」


四苦八苦しながら授乳時間を過ごしていた新米親子の耳に、どこからか橋幸夫の歌が聞こえてきた。

その調子っぱずれの歌声は、階段を登ってきて、私たちがいる病室の前を通り、看護婦詰所の方へ向かっていく。


あれ? 「潮来笠」って、もう世に出てたの?

もっと後かと思ってた。

橋幸夫は、なんとかトリオって言われてたよね。もう忘れちゃったけど。



「ありゃあ、若先生(タースケ)だね。昔から音痴の癖に歌が好きなんだよ」


高木さんはここの若先生とは小学校の時からの知り合いらしく、そんなことを教えてくれた。

田舎の人間関係なんて、大抵はどこかの誰かと繋がっていて、そこら中に知り合いが歩いているのが常だ。でも、小さい頃の知り合いに、子どもを取り上げてもらうのって、ちょっとどころか物凄く恥ずかしい。


高木さん、あんた凄いね。本当のゴッドマザーだよ。



この時、知り合いになった高木さんは、以後、PTAなどでもお世話になることになる。

真奈美にとって、前世では、ただの同級生のお母さんだったためか、ほとんど記憶にない人だったけど、今回は強烈なインパクトとともに忘れられない人になったのだった。

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― 新着の感想 ―
木星様、お久しぶりでございます! 新作の創作ありがとうございます。ちょうど本日「飯屋の娘」を読み返して、そこから次々とお気に入りの話を読んでいた所でした!  新作の更新楽しみにしておりますのでどうぞよ…
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