愛情のない結婚は嫌だと言われたので愛猫でどうにか補う。
エイミーはこれから義母になる予定のパトリスと向き合っていた。彼女は頬に手を当てて困ったわという態度をとっている。
話があると言われて彼女の部屋にやってきたが、どうやら深刻な悩みらしい。そんなものをまだ家族にもなっていないエイミーに話すわけもないので必然的にエイミーに関することなのだとわかる。
……何かやらかしたっけ?
そう思いながらも彼女に声をかけた。
「あの、私は何か問題を起してしまったでしょうか?」
「う~ん、そうねぇ、問題といえば問題よねぇ」
彼女は煮え切らない態度でそういう。困ったように笑みを浮かべて、言い方に迷っているような感じだ。
しかしエイミーはあまり察するのは得意じゃない、いっそズバッと言ってしまってほしいのだが、気遣ってくれているのなら申し訳ないしそんな風には言えない。
それでも、予測を立てることは出来る。
この状況で婚約者の母から呼び出しがあったとなれば、大方結婚についての事だろう。
エイミーは今現在、公爵家跡取りのヴィクターと婚約を結んでいる。つまり目の前にいるパトリスは公爵夫人であり結婚したら義母になる人というわけだ。
そして成人も迫った最近になって結婚前の同棲期間として公爵家邸へと住まいを移した。
その同棲が始まってから、ほんの一ヶ月ほどしかたっていないのだが、早くもエイミーの問題が見つかってしまったらしい。
しかし、特に何もやらかした記憶もない。出来る限り気を配って生活しているし、心当たりもないのだ。
「それがねぇ、エイミー。あの子ったら、このままなら結婚なんて考えられない。婚約を破棄したいなんてこぼしていたのよ」
意を決してパトリスはそう話し出した。それにエイミーは瞳を瞬いてキョトンとして聞いた。
「なんていうの?……ほら、えぇと、貴方ってその……あまり……ねえ?」
「あまり、なんですか?」
最後までは言わずに濁した彼女に対して、エイミーはすぐさま切り返した。それにパトリスは言葉に詰まって、やはり困ったように笑みを見せた。
「あまり笑わないじゃない。……余計なことは話さないし」
「……それは、良くない事でしょうか」
「そういうわけではないけどねぇ……愛のない結婚はしたくない、そうこぼしていたから、ヴィクターが心を決める前に、少しだけでも改善は出来ないかしらと思ってねぇ」
おっとりとしながらも、まったく理解できないという表情のエイミーにきちんと言った。それから「貴方だけが悪いわけではないのよ」と続ける。
しかし、もはやエイミーの耳には届いていなくて、愛のない結婚という言葉だけがぐるぐると頭の中を回っていた。
……余計なことを喋らないのは失言がないようにだし。笑わないとかそんなこと言われても……。
ショックでぼんやりしてしまう気持ちと同時に、そんな言い訳を考えた。それに、愛のない結婚は嫌だなんて言われても困る。
お互いに恋愛結婚じゃないのだから愛し合う必要性もないだろう。
エイミーは正直ヴィクターの事を愛せるとか愛せないとかそういう目でそもそも見ていない、結婚とはただの協力だ。男と女、別々の役割の人間がお互いを利用して人生を歩む。
そういうものだと教えられてきた。だからそれ以上を求められてもわからない。
そんな風にエイミーがぐるぐると考えているうちにパトリスは話し終わって「少し考えて話し合ってみてねぇ」部屋を送り出してくれた。
お茶菓子のクッキーは紙に包んで持たせてくれて、彼女の事はすごく良い義母だと思う。
これなら安心できると実家に手紙も書いたのだ。
……それなのにこんなことになったなんて言えない、それに……じゃあ、何をどうしたら愛のある結婚になるの?
公爵家の長い廊下をとぼとぼ歩いて自室に戻る。
「っ……っふ、……っ」
暗い部屋の中で、クッキーを持ったまま溢れてくる涙は流れ落ちてカーペットにしみ込む。
生まれ育った場所からずいぶん遠くまで来て、他人の家に入り、粗相がないように新しい家庭のルールを覚えて、地道にやってきた。
それでも愛がないからなんて理由でそれを全部否定されたら苦しいし悲しい。
愛なんてどこから生まれて、どう彼に見せたらいいのかわからない。
分からないながらもエイミーは一生懸命考えた。
硬い頭で一生懸命考えて、時間をもらうことにした。エイミーが愛したと思えるものはこの世でたった一つだけ存在した。それに頼ることにしたのだった。
大きな籠を抱えてエイミーは公爵家邸に帰ってきた。籠にはフックがついていて中からは開かないようになっている。
早速自分の部屋に連れて行こうと思ったのだが、待ち伏せていたかのようにヴィクターが下りてきてエイミーのそばへとやってきた。
「おかえり、エイミー」
笑みを浮かべて彼は言った。エイミーは片手でドレスの裾をつまみ上げて頭を下げた。
「ただいま戻りました。ヴィクター様」
「……ああ、長旅だっただろう心配していたよ」
「いえ、特に危険もありませんでしたので」
「そうか。実家では少しは休めた?」
「目的の品を取りに行っただけですので、すぐに帰ってまいりました。もう少し実家にいた方がよかったでしょうか」
「……違うよ。ただ……」
エイミーは自分の母親の真似をして、一生懸命ヴィクターの言いたいことを読み取ろうと丁寧に話した。しかし、会話を重ねるごとにいつもヴィクターは元気をなくしていく。
これが愛情がないという事と、どんな関係があるのかわからなかったが必死に頭を回転させた。
「何でもない。疲れているだろうから今日は早く部屋で休むといい」
元気がなくとも優しくそう言うヴィクターに、エイミーははっと気がついた。
エイミーの父親は疲れている母によく言っていたが、それを素直に受け取って休めばいつも母の悪口を言っていた。
「いえ、ヴィクター様より先に、部屋に下がるなどできません」
「……気にしなくていいよ」
怠け者の女だとか、ごく潰しだとか、そういう言葉を母に向けていた。きっと私情で急に実家に帰ったエイミーをヴィクターも試しているのだろう。
「いえ、ヴィクター様こそ日々の仕事や、後継者教育でお疲れだと思います。今日は実家に帰っていた間の分を巻き返すために━━━━
「もういい」
エイミーが必死に言葉を重ねているとヴィクターはすごく難しい顔をしたまま低い声で言った。
たまにこうして彼を怒らせてしまうことがあったのでエイミーはすぐに黙って「申し訳ございません」と謝罪を口にする。
「……君は、やっぱり、俺の事とが嫌いなんだろうね」
エイミーの言葉に、彼はぽつりとそんなことを言う。まったくそんなつもりもないのに、そういわれてしまって何と言っていいのか分からずに固まった。
二人の間には沈黙が流れて、気まずい間が生まれる。それでもこれ以上最悪の雰囲気になりたくなくてエイミーは何も言えずにいた。
「にゃ、にゃー」
するとエイミーの持っていたバスケットが揺れて、鳴き声が聞こえる小さなバスケットの中に入れているので窮屈だから早く出せと言ってるのだろう。
「あ、少し待ってね」
ふと、敬語ではない言葉が出てしまって怯えてヴィクターを見た。すると彼は驚いた顔をしていてエイミーに言った。
「猫? 実家に取りに行っていたものって、猫だったんだ?」
「……はい……これはその」
言いながらエイミーはバスケットのフックを取り外してバスケットを開くそうすると三毛猫のマルがひよこっと顔を出した。
「私の愛猫なんです。……愛がないと仰られていたと聞いたので……」
何と言ったらいいかわからないが、とにかく、エイミーはあの日の夜に沢山考えたのだ。愛とは何かどうしたら示せるのか、愛はどこにあるのか。
そうしてたくさん考えて愛を連れてきたのだ。
ヴィクターに会うまではそれは割と自信満々な考えだったが、彼はとても驚いている様子で、さっきの急に機嫌が悪くなるのは見たことがあったが、これは初めて見た反応だった。
……今思えば、私、凄く変なことをしているのかも。
それでも言葉を止めると変に思われるかもしれないと思ってエイミーは続けた。
「どうにか結婚生活に愛を補えないか……と……思って」
尻すぼみになって最後にはなんだか恥ずかしくなってきた。こんなに驚いているんだ、呆れられてしまうかもしれない。そんな風に思った。
「にゃー」
マルは籠から顔を出してのんきに鳴いている。ヴィクターはそれを見ていてふとマルに手を伸ばした。簡単に初対面の人間に撫でられてマルはごろごろとのどを鳴らした。
「……愛を猫でって……どうやって?……というか、どういうこと?」
つぶやくように言いながらもどこか声は震えていて、これは相当怒っていると思う。
しかし、今更撤回もできなくて連れてきてしまったのだから、エイミーはもうマルと離れたくなかった。さっき言った通りエイミーが唯一愛した大切な猫なのだ。
結婚に猫を連れていくなんてありえないと言われて、泣く泣く離れ離れになった大切な子。
今更よくよく考えなおすと、もしかすると寂しすぎてマルに会いた過ぎて思考がぶっ飛んでいたのかもしれない。
もはや愛情が云々が先か、マルに会いたいと思う気持ちが先か分からないまであった。
「っ、ま、いいよ。好きにして、じゃあ俺はいくから」
そういって、すぐに踵を返して去っていく。
その背中を見て、とにかく怒られるようなことにならなくてよかったと安堵しながら、マルに行こうかと声をかけて自室に向かって歩き出すのだった。
マルを連れてきてからというもの、エイミーの生活は格段、楽になった。
マルの世話や、遊びに付き合う時間が増えて負担が倍増したようにはたから見れば感じるのだろうが、まったくそんなことは無い。
むしろ彼がいるだけで無理することが減って、さんぽに付き合うと気分転換にもなって頭がすっきりするのだ。
それに、愛猫の愛の効果か、マルがいるとヴィクターを怒らせてしまうことが少ない。
いつものように話が煮詰まってくるとマルがヴィクターに絡みついて意識を逸らすそんな連係プレイが決まっていた。
そんな風に日ごとに少しずつ、必要事項以外の話をする機会が増えていって、ついには今日、昼下がりにマルと庭園を散歩するのにヴィクターがついてくるのであった。
適当な会話をしながら庭園をあるき、最後にはガゼボで休憩をする。
マル用にもってきた小皿に水を注いで彼が水を飲むのを眺めた。
「……結構前から思っていたんだけど、エイミーは随分と規則正しい生活を送るよね」
隣でマルを眺めていたヴィクターがぽつりと言った。それに何と答えたらいいのかわからなくて黙っていると続けて言う。
「でも、こうしてペットに合わせて生活していたからだって思えば不思議な事じゃない」
彼からそんな風に見えていたことすらしらなかったので、いわれてもあまり納得感はなかったが、いわれてみたらそんな気がして頷いた。
「君が何も感じない機械のような人間なのかもしれないと思ってた時期もあってね」
「……申し訳ありません」
「違うよ……君と一緒に過ごすようにしてみて分かった。エイミーはものすごくネガティブなだけだ」
「それは、どういう?」
「悪い意味で言っていない事にも、すべて謝ったりへりくだったりしてくるから、俺と話をしたくないんだと思ってたけど、そうじゃなくて君は全部マイナスにとらえてるだけなんだ」
「……」
「言葉に余地を持たせると勘違いするようだから、きちんと言うよ」
言いながら彼は、隣に座ってるエイミーを見て笑みを浮かべた。この顔もここ数日でよく見慣れてきた気がする。
「毎日、規則正しく過ごせて、ペットをすごく大切にしてるんだなって伝わってくるよって言いたかったんだ」
純粋な誉め言葉、父は母にこんなことを言わなかった。
自分自身もこんなことを言われたことがない。初めての体験にどう返答を返すべきか迷って、それから「ありがとうございます」と返した。
そうすると「うん」と返事が返ってくる。どうやら間違ってはいない様子で、エイミーも最近彼に対して思っていることがあった。
父や母が育んでいた完璧に上下関係がある関係とはどこか違って、言葉を素直に受け取った方が彼が怒ることは少なくて、エイミーもその方が居心地がいい。
父のように彼は気に障っても女の人をぶったりしないし、いつだってエイミーの方に合わせてくれようと努力してくれる。それは、マルとエイミーの関係に似ていて、人間にそんな風に思うだなんて不思議だった。
「お、飲み終わったのか?……君はいつも俺の方に来る。不思議だよ」
マルが水を飲み終わって、するすると歩いてヴィクターの足に頭をこすりつけた。
丁度彼に対して不思議だと思っていたエイミーと同じように、マルが不思議だとヴィクターが言って、少しエイミーに対して申し訳なさそうにした。
それに、思いついたことをそのまま返した。
「不思議ではないです。……ね、マル」
「にゃー」
マルはエイミーの言葉に答えるように鳴く。彼がなんとなく何を言ってるのか分かってエイミーは思わず笑った。
マルは幼いころからずっと一緒にいるとても特別な猫なのだ。言葉なんて通じなくても以心伝心はお手の物だ。
「不思議じゃないって……こうしてマルが俺に寄ってくる理由がわかるって事?」
「はい」
不思議そうにそう聞くヴィクターに、エイミーは当たり前の顔をして答えた。一般的にどうかは知らなかったけれど、これには確信があったのだ。
「マルはずっと一緒にいるから、私の思ってることと大体同じ事をするんです」
「…………?」
「私が嫌だと思う人には近寄らないし、好意を抱いている相手がそばにいればそちらに寄っていきますよ」
「…………??」
「ね。マル」
「にゃー」
呼びかけるとマルは必ず返事をする。それから、彼女の言葉をもっと体現しようとぴょこんと飛び上がって、ヴィクターの膝の上に移動する。
心地よさそうに膝に座ってぐりぐりと胸元に頭をこすりつけた。
「こら。毛がついてしまうでしょう? 今朝はブラッシングを拒んだのだからあまりヴィクター様に迷惑をかけてはいけないわ」
「にゃ」
「聞いてないわね。まったく、帰ったらきちんと受けてくださいね」
「にゃー」
たまに彼の前でもこうして喋っていたのだが、こんなにきちんとヴィクターのそばでやったのは初めてで、様々な情報に面食らってヴィクターは呆然としていた。
「申し訳ありませんヴィクター様、不快でしたら追い払ってかまいませんから」
「……い、いいや」
「そうですか。よく言って聞かせておきますね」
「……ああ」
それから、平然とそんなことをいうエイミーを見て、ほんの少し前なら、自分の大切なペットを追い払っていいなんて言うなんて、本当に冷たい女だと思っていたとヴィクターは思った。
それから、彼女はものすごくネガティブなのだときちんと前提を考えつつも、こんな可愛い愛情を追い払うなんてできるかとツッコミたくなる。
けれどもそんなこととは露知らず、また機嫌を悪くさせてしまったのだとエイミーはしょんぼりした。しかし、たしかに今日この日に、婚約破棄は回避され、ついでに愛猫で愛情が補われたのだが、それを知るのはまだ先の事であった。