最高の医療施設
朝らしい。見知らぬ女性が私のことを「紀子さん」と呼んだ。無理やり起こされて、近くの鏡を見る。ずいぶん年老いた姿だこと。ここがどこで今日が何月何曜日かも分からない。
私が知っていること。息子の高樹が私を待っていること。弁当を作ってあげなくちゃいけないの。あの子には私が居ないといけないんだから。自慢になるけど良い所の大学に通っているのよ?
息子が、「病気っぽいから日帰りで検査入院しよう」って言うから来てみたけれど、普通の施設のようね。近くには知らない人が沢山居る。爺さん婆さんばっかり。
こんなところに長居は出来ないわ。早く家に帰って息子に弁当を作ってあげなくちゃ。
「ちょっと、そこのあなた」
「はい」
近くに居た女性に声をかける。どこか気だるそうな返事にムッとした。
「家に帰りたいの。タクシーを用意してちょうだい」
「紀子さん。何度も言いますが、ここは老人ホームですよ。朝ごはんの準備をしていますので、ちょっと待っていてくださいね」
なんですって!
そんなはずないわ。私は、入院しているだけ。しかも日帰りで。だったら今日帰られるはずじゃない。! ジョークも、笑えない物はよくないわ。変なナースさんね。Tシャツなんか着て。
「冗談は良いから高樹を呼んで」
「今は配薬を行っていますので会話は極力お控えください。あ、テレビでウサギの特集やってますよ。かわいですね~」
「冗談は良いから高樹を呼んで‼‼」
「はい、高樹さんですね。わかりますわかります」
何この女!?
ずっとニコニコしながら私の話をかわして。まるでバカにしているみたいで気分が悪いわ‼‼ 腕を掴もうとしたらよけられるし。一体ここはどこなの、どうして私はここに居るの!?
「はい、紀子さん。朝の薬と朝食ですよ。フロアで食べますか? それとも部屋で食べますか?」
「要らないわよ! そんなことより、高樹に弁当を作らなきゃいけないの!」
「はいはい。大丈夫ですから。お召し上がりください」
私は目の前のカタツムリみたいな形のパンを睨みつけた。こんな物より私が作った方が美味しいに決まってる。それに私を、そこら辺に居るような、爺さん婆さんと一緒にしないで欲しいわ。
私は高樹の母親なのよ。高学歴で、親思いの自慢の息子を産んだの。まぁ、出されたものは勿体ないから食べるけれどね。
「ふふ、完食しましたね。紀子さん」
「ふん!」
若者が年長者をバカにするんじゃないよ!
その後ずっと、声が枯れるまで息子のことを訊いていた。でも、息子がどこにいるのか教えてくれない。それどころか、ここがどこかも教えてくれない。きっと悪い組織に掴まったのよ。
息子が噓をつくわけなんて……、ないものね。
◇
朝らしい。見知らぬ女性が私のことを「紀子さん」と呼んだ。無理やり起こされて、近くの鏡を見る。ずいぶん年老いた姿だこと。ここがどこで今日が何月何曜日かも分からない。
私が知っていること。息子の高樹が私を待っていること。弁当を作ってあげなくちゃいけないの。あの子には私が居ないといけないんだから。自慢になるけど良い所の大学に通っているのよ?
息子が、「病気っぽいから日帰りで検査入院しよう」って言うから来てみたけれど、普通の施設のようね。近くには知らない人が沢山居る。爺さん婆さんばっかり。
こんなところに長居は出来ないわ。早く家に帰って息子に弁当を作ってあげなくちゃ。
「紀子さん紀子さん!」
「そんなに慌てて、どうしたの?」
Tシャツ姿のナースが満面の笑みで私の方へバタバタ寄ってくる。
「今日、面会がありますよ!」
「面会?」
「高樹さんと会えるんですよ! 良かったですね!」
「高樹と……?」
訳が分からない。私は大病を患ってしまったの? これじゃあ久しぶりに会うみたいじゃない。なんて思っていたら、朝食と変な薬を飲まされた。「ついでに」と、お風呂にまで入れられたり。ここは何かのリゾートかしら?
「高樹さんが来たら何を話したいですか?」
「え?」
何を話す?
変なことを言うのね。このナースさんは。もちろん検査結果といつごろ退院できるかについてに決まってるじゃない。私をボケ老人みたいに扱って。失礼ね。
そうこう言っているうちに、息子らしき人が嫁と赤ちゃんを連れてやって来た。いつの間に? あの奥手な高樹が私に相談もせずに勝手に嫁を作るなんて。信じられない。
「母さん。久しぶり。騙してごめん……」
高樹が申し訳なさそうに頭を下げた。
「検査結果が悪かったのかしら? 騙したってどういうことなの」
「その……嘘なんだ。きっと今日のことも忘れると思うから、話させてくれ。職員さんには、了承を得てる」
「高樹、何を言ってるの」
息子の様子がおかしい。赤ちゃんは、高樹の嫁の腕に抱かれて私をジッと見つめてきた。小さな手がかわいい。横に突っ立っているだけの息子の嫁は気まずそうにしている。話しかけてきたらいいのに。愛想が無いわねぇ。
「……俺は認知症になった母さんを老人ホームに入居させた。家から勝手に出たり物忘れがひどくて火事を起こしそうになったりしたからだ。最初は仕事を辞めて面倒を看ようとした。でも、俺一人じゃ、どうにもできなくなった。市役所に行って相談したら、最終的にここを勧められたんだ。見たところ、身体に痣も見つからないから、良い職員さんに介護されてると思う」
噓でしょ?
ここが老人ホームだなんて。息子が嘘をつくはずなんてないわ。何かの間違いよ。でも、話していくうちに私の中の記憶に矛盾があることが解ってくる。
おかしいのは私の方だったの? じゃあ……、
「う……うぅ……」
私は泣いていた。検査入院は嘘だったのだ。息子は、わざわざ嘘をついて私を捨てたのだという絶望が胸を捻り潰してしまいそうになる。その瞬間に、昔の高樹との思い出が走馬灯のように巡ったわ。
息子が大学に行く前に作る弁当。小松菜の煮びたしに、生姜焼き。少し多めに盛ったご飯……。
「弁当を作らなきゃ」
「ごめん。母さん」
「小松菜の煮浸しに、あなたの好きな生姜焼き……」
「……ごめん」
息子は泣いていた。立っていた嫁も、赤ちゃんを抱えながら、空いた方の手で目元を拭っている。そうなのね。私は……。
「ばぶばぁば!」
突然、赤ちゃんのキャッキャとした声が室内に響いたわ。なんだかそれが可笑しくって、次の言葉が浮かんだ。きっと息子に私はもう必要ないのだわ。でも……、
「孫を抱いてもいいかしら」
「ああ。もちろんさ」
この願いは今すぐ叶う。
(あったかいねぇ……)
たとえ死神がすぐそこに迫っていても。きっとこのぬくもりは忘れないわ……。そう、心のどこかできっと憶えているはず……。
◇
朝らしい。見知らぬ女性が私のことを「紀子さん」と呼んだ。無理やり起こされて、近くの鏡を見る。ずいぶん年老いた姿だこと。ここがどこで今日が何月何曜日かも分からない。
私が知っていること。息子の高樹が私を待っていること。弁当を作ってあげなくちゃいけないの。あの子には私が居ないといけないんだから。自慢になるけど良い所の大学に通っているのよ?
息子が、「病気っぽいから日帰りで検査入院しよう」って言うから来てみたけれど、普通の施設のようね。近くには知らない人が沢山居る。爺さん婆さんばっかり。
こんなところに長居は出来ないわ。早く家に帰って息子に弁当を作ってあげなくちゃ。
――あと……。
なにか大切なこと。忘れてる気がする。あたたかくてほにゃっとした、何者かのぬくもりを……。それに思いをはせるだけで、安心して一日を暮らせる気がする。
「紀子さん紀子さん!」
「なにかしら」
Tシャツ姿のナースさんがバタバタ走ってきたわ。
「今日は面会があるそうですよ!」
あら不思議。「面会」という言葉を聞くと、なんだか嬉しくなってくるわ。朝食のカタツムリみたいなパンが美味しい。ここは最高の医療施設ね。
短い期間でしたが、お読みくださりありがとうございました!また次の作品でお会い出来たら嬉しいです!