9 六月 電車
朝から雨模様の今日。街ゆく人々は憂鬱な表情を浮かべているけれど、雨の日もそう悪いわけではない。例えば田畑が潤うだとか、例えばお気に入りの傘を使うことができるとか。
例えば、登校のために向かった駅に、晴れの日にはいない雨の日限定の人がいる、とか。
「あ、佐藤さん。おはよ」
「おはよう、瀬野くん」
私たちの地元から隣町の学校に通うために乗る電車は、一時間に一本程度しかない。なので電車で登校する場合、朝の乗車時間は自然と収束される。
瀬野くんは去年は年中自転車通学を頑張っていたらしいけれど、今年になって面倒になり、一日ずっと雨予報の日のみ電車登校にすることにしたらしい。
この万年お寝坊さんは電車登校を『早起きしんどすぎて寿命縮まる』と言っていた。でも、毎日遅刻スリルを味わうほうが心身を削られると思う。
「今日なんか風も強くね」
「気抜くと傘飛んでいきそう」
「あぁ、傘ごと佐藤さんも飛んでいきそう」
「瀬野くんは自転車ごと吹っ飛ばされそうだね」
張り合ったら、おかしそうに笑われた。
「そういうのサラッと言ってくるのやめない?」
「何のこと?」
さっきのことなら、先に言い出したのは瀬野くんのほうだけど。瀬野くんは「んー」としばし考えてから、こちらを見た。
「佐藤さんってマイペースだよな」
「そんなことないよ」
「そんなことあるよ」
「でも、私、今だって公共交通機関の時間に合わせて行動できてるもん。マイペースじゃないでしょ?」
瀬野くんが口元を手で抑えてそっぽを向く。私の素晴らしき説明を聞いて笑っているぞ、この人。
「ねえ、ここ笑う要素皆無だよ」
「ごめんごめん。すげえ暴論を聞いて」
「ぼ、暴論? 暴論じゃないけど」
「ごめんって、ほんと」
くすくす笑われた。ここまで気持ちの籠もってない謝罪は初めて。
瀬野くんは大体ニコニコしている印象があったけど、話してみるとずっとニコニコしているという認識に変わった。いるだけで場が良い雰囲気になる。男女問わずモテるわけだ。
いや、私の完璧理論を暴論扱いする人間がモテてるとか、意味がわからない。未だに笑ってるし。
「変なとこで笑う瀬野くんのがマイペースっぽいけどなぁ」
「俺のことマイペースって言っちゃう?」
「言っちゃう」
「マジかー」
この小さい駅にやってくる電車を知らせるアナウンスが流れた。と同時に瀬野くんがいたずらっぽい顔で電車を指差す。
「じゃあ俺、マイペースなんで、これ見送って次の電車までのんびりしたいわ。どう?」
まさか、遅刻のお誘いを受けるとは思わなかった。私は授業に遅刻するようなマイペース人間ではないので、当然そんなことしない。
というか、マイペースマイペース言いすぎてゲシュタルト崩壊してきた。
満員とは言えない空き具合の電車で瀬野くんと並んで座る。見られないように小さくあくびをかみ殺した。眠い眠い。
昨夜は、もう時期来る期末考査の課題に追われていた。どの科目もテスト範囲の課題をドーンと一気に出してくる。就寝時間を削ってなんとか終わらせたのはいいものの、今朝に多大なる影響を及ぼした。
「なんか台風もう出来てるらしいな」
「去年の期末は台風直撃してたよね。とんだ不運だった」
「あの中で学校行かされたのキツかったよな」
「警報出たらよかったのにね。気象庁がむはぁ……謀反起こしちゃ……」
あくびが止まらない。自分の口まで反乱を起こし始めた。この世は戦国時代である。
「佐藤さん眠たい?」
「課題が寝かしてくれなくて」
「あ、今日提出だっけ。俺まだやってないや」
安定の未了。瀬野くんの笑い声で余計に眠たくなって、うとうと船をこぐ。遠洋漁業をしに行けそうだ。波と魚が踊り狂う幻想と揺れる電車の現実を行き来しながら、まどろむ頭の中。
ぼんやりしていると、瀬野くんの優しい声が落ちてきた。
「着いたら起こすから、寝てていいよ」
「……んー」
一人で乗っているときは、いくら眠たくてもこんなことにならない。乗り過ごさないように気を張っているからだ。
でも、今日は瀬野くんがいる。起こすと言ってくれている。ならば、そのお言葉に甘えてみてもいいかな。
「じゃあ、ちょこっと、だけ」
「ん、おやすみ」
「おやすみなさい」
目を閉じると、色々な音がよく聞こえてきた。
ガタンゴトンと周期的に揺れる車内と窓を叩く雨。向かいの席に座る人たちの他愛ない会話。近くでスマホをたぷたぷといじる音。自分の呼吸と、斜め上から聞こえてくる呼吸のペースが次第に同じになっていく。
湿気が満ちるじめじめとした空間の中、瀬野くんの温かさは心地良かった。
◇
学校へ登校。家から学校までの通学路をトコトコと歩く。快晴の気持ちいい天気なので、お散歩にぴったり。
教室に行くと後ろの後ろの後ろの席に瀬野くんがいた。五十音順に並ぶ座席、佐藤の後ろの後ろの後ろは瀬野になる。間は白石さんと清水くん。当然である。
今日の一時間目は嫌いな算数。世界の終わり。末法思想について考えていると、先生が教室に入ってきた。
『今日は台風なのでテストはありません』
なんと嬉しい。テストをしなくていいのか。気象庁は生徒たちの望みを叶えてくれた。狂喜乱舞だ。
先生の知らせに呼応するように、後ろからも楽しそうな声が聞こえてきた。振り向くと、ニコニコしている瀬野くんが可愛い可愛い女の子と話をしている。
『ねえ、あたし期末の数学赤点回避したの』
『すごいな。賢い子好きだわ』
『あたしも慧斗くんのこと好き! 今度はあたしと付き合ってよ』
『いいよ』
『やったー! 慧斗くん大好き!』
いつものように瀬野くんが女の子とお付き合いを始める。この子は何週間続くだろうか。
ふと外を見ると大嵐だった。傘が舞い上がり、自転車が遠く彼方に飛んでいく。これでは到底遠洋漁業になど行けない。社会の法則に従って、すぐさま出航しないと間に合わないのに。
女の子といちゃつくマイペースなイケメンも、今すぐ電車に乗って出発しないといけないはずだ。どうするんだろう。女子に囲まれている彼に、私は遠巻に声をかけた。
『瀬野くん、瀬野くん』
のんびりしてたら遅れちゃうよ。
◇
ハッと目を開けた。隣にもたれていた頭を上げて、スマホの時計を確認する。授業の時間まで十分猶予は残っている時刻だった。非常に心臓に悪い、遅刻しかける夢を見るなんて。
ほっと胸を撫でおろしていると横から視線を感じた。笑顔の瀬野くんと目が合う。にんまりと目が細められる。
「ねえ、夢の中で俺と何してた?」
「瀬野くん? 出てきてないよ」
「え。いやでも俺の名前……じゃあ何の夢見てたの」
「神様が出てきて、お坊さんからキリスト教の勧誘を受けてたら遅刻しかけたっていう夢」
「宗教入り乱れすぎじゃね」
「昨日見た映画、修道院が舞台だったから、その影響かなぁ」
どうして瀬野くんは自分が出てきたなんて思ったんだろう。
もしかすると本当に出てきたのかもしれない。睡眠時には複数の夢を見るという話を聞いたことがある。
私は瀬野くんの夢を見たものの忘れたという可能性もある。確認することはできないので、真相は永遠に迷宮入りだけど。
学校の最寄り駅からは徒歩になる。傘を差して歩いていく。地元とは違って、同じ制服を着た生徒たちを見かける。方向はもちろん一緒。
「夢ってなんか覚えてるときもあるよな。佐藤さんが覚えてる夢とかある?」
「オレンジジュースが飲んでも飲んでも減らない夢は定期的に見る。幸せ」
「なんか、佐藤さんオレンジジュースのイメージすごいあるわ」
「オレンジジュースおばけに取り憑かれてるから」
「いいおばけだな。あー、俺も無限にサイダー飲みてえ。最近暑いし」
オレンジジュースとサイダー。美味しそうな組み合わせ。でも、サイダーなんだ。
「ペプシじゃなくて、サイダー?」
「コーラでもファンタでもいいな。甘くない炭酸水とかでも」
「そういえば、炭酸は筋トレ後に飲むといいってお兄ちゃんが言ってた」
「マジ? じゃ、俺も筋トレあとに飲もーっと」
「瀬野くん筋トレしてるの?」
「土日とかにな。部活してねえから、その代わりに。佐藤さんは土日何してんの」
休暇は大抵引き籠もっておうちでゴロゴロ。本とか漫画を読んだり、学校の課題したり、ネットで動物の動画を見たりする。
でも、一番やっているのは、一番好きなこと。
「映画観てる。そこまで詳しいわけじゃないけど」
「へえ。なんか最近気になってるのとかは? 修道院の映画?」
「修道院のも面白かったけど、気になってるのは今度公開されるやつ」
たんたんと傘に当たる雨音や路上を走る車の音。ビルの工事の音や、徐々に増えてきた生徒たちの会話や笑い声。道中の青信号を知らせる音とともに聞こえる、水を弾きながら歩くローファーの靴音。
雨の日の町はたくさんの音で溢れている。
「じゃあ、佐藤さん、俺とその映画観に行こ」
そんな喧騒の中でも、その少し低い声は不思議といつだって耳にまっすぐと入ってくる。
「二人で」