7 六月 服装検査
湿っぽい空気が漂って雨の匂いがする六月。傘が雫を弾く音は不思議と心を落ち着かせ、広がる水溜まりは世界を反射し幻想を見せる。時折の晴れ間が空に虹を架ける梅雨の季節。
今月から衣替えとなった。
と同時に、教室にエアコンがかかるようになった。なので、私は今までと変わらず体温調節がしやすい長袖ブラウスの合服を着ていた。
しかし、月曜の本日はやけに半袖夏服の民が多い。暑くない曇り空の日だというのに。登校しながらそう思う。
うちの高校は制服を着崩した人が溢れているように規則がゆるい。ニ、三ヶ月に一度ある服装検査のときにのみ、きちんとしていれば許される。何でもない普段の日は無法地帯なのだ。
ところが、何でもない日である今日、皆が皆合わせたように半袖の夏服。まるで統制がとられているみたいだ。それは何故なのか。嫌な予感がした。
「おはよう。ねえ、もしかして、今日は服装検査の日でござるか」
登校してきた遥菜に単刀直入に聞いてみる。きょとんとした顔が返ってきた。
「おは。そうでござるよ。金曜に先生言ってたじゃん」
「な、なんと……。そんなの聞いてない。いつ?」
「帰りのホームルーム。あーあ、絢理はアウトだねえ」
はて。自分はそのとき何をしていたのか。
ダメだ、その日はテレビ放映される洋画についての記憶しかない。前から気になっていた映画だったため非常にワクワクしていた。速攻帰宅し、万全の状態でテレビ前待機せねばとばかり考えていたのだ。
頭を抱える。このポンコツめ。
放課後、全生徒が体育館に集合させられ、先生たちによる一斉服装検査を受けた。合服の私はもちろん引っ掛かった。
なんてことだ。絶望しながら、違反者の輪の隅っこに座る。
うちの学校の服装検査は、生来の頭髪の尊重という名目で髪の検査はしない。メイクも社会勉強の一環として許されている。アクセサリー類も検査前に外せば問題ない。なので、ほとんどの生徒は引っ掛からない。
引っ掛かるのは、私のように検査のために指定された制服を着てきていない人、過度な爪の長さの子、香水の匂いがキツめの人だ。ネクタイやリボン忘れという初歩的なミスをしている人なども。
私は服装検査は今までオールグリーンだったので、こんなところにいるのは初めて。先生になんて言われるんだろう。
縮こまっていると、上から声が降ってきた。
「佐藤さん、なんでここにいんの」
「……瀬野くん?」
おそるおそる顔を上げると、さらさらの黒髪の半袖シャツを着た瀬野くんがいた。
いつもは開いているシャツのボタンが閉まっていて、裾もズボンの中に入っている。見慣れない群青色のネクタイまで。半袖夏服の、完璧な優等生の身嗜み。いつもと全くの別人。猫被りをしている。
隣に座ってくれて、私の緊張は和らいだ気がした。
「あ、合服なのか。服装検査あるの忘れてた?」
「そうなの。先生の話聞いてなくて」
「佐藤さん、悪い子だ」
「瀬野くんこそ、どうして引っ掛かったの」
「ピアスつけっぱで。服整えてたら忘れててさ」
ピアスも他のアクセサリーと同じ扱い。外していれば許されたのに忘れてしまうなんて、瀬野くんは案外おちゃめさんだ。
にしても、ピアスは痛そうなイメージがある。痛くないのかな。中学生のときには穴が開いていたらしいので、もう慣れているのかもしれない。中学のときからピアスをつけているなんて、瀬野くんはとんだ不良さんだ。
「瀬野くんも悪い子だ」
「俺は普通の子だよ。テストの点でプラマイゼロだから」
「それだと私はますます悪い子になっちゃう」
「中間、回避できなかった?」
「や、まさかのぴったり」
瀬野くんが目を瞬かせ、笑いをかみ殺した。
おとなしく永眠させたはずの虚数が猛威を奮い、私はあわや数Ⅱで赤点を取るところだった。テスト返却の際に山口先生が神妙な面持ちで渡してくるので、心中ひやっとしたものだ。
点数はジャスト三十。赤点は三十点未満なので、無事に余裕で赤点回避。有言実行である。
「それはスリル満点だったな」
「瀬野くんもチャレンジしてみて。失敗したら特別サービスが付いてくるよ」
「どんなサービス?」
「なんと、その名も補習」
「はは、いらなすぎてやばい」
特別サービスは棒読みで一蹴された。そんな、一度受けてみたら人生変わりますよ。先生からの生暖かい励ましで、元気が出ること間違いなし。私が保証します。
心の中のプレゼンが伝わったのか、瀬野くんが「いや、でも」と思い付いた顔になった。その目は補習サービスも悪くないといった色。
「一緒に受けるなら、まぁ、あり」
にこっと笑う。そういう、そういう表情は、いかがなものか。率直に言って、なんだか、困る。
つい、視線を逸らして彷徨わせた。その先で、面倒そうな表情をした山口先生が、頭をかきながらこちらを見ていた。
「お前らー、いちゃこらしてんじゃねえぞ」
「話してただけでーす。健全な青春でーす」
「はいはい。佐藤は大久保先生のとこ行ってな」
「ボクらをロミジュリにしないでくださーい」
「悲劇にすんなよ。で、瀬野、お前のピアスについてだが……」
服装指導は個別に行うらしい。冗談を言う瀬野くんに呆れた様子の山口先生に会釈をし、急いで大久保先生のところに向かう。
大久保先生は現国の先生だ。どこかおっとりしている人。注意するときもおっとりしていた。「服装検査なのを忘れていたのかしらね」と。
結局、課題を毎回遅れず提出している真面目な生徒のうっかりとして無罪放免。日頃の行いの良さ、万歳。
安堵しながら体育館から出ると、瀬野くんの話はもう終わっていたようで待っていてくれた。体育館が空くのを待つ運動部たちの間を抜けて、三階の教室まで戻る。
人波から逆行する中で、瀬野くんは息をするようにネクタイを緩め、当然のようにボタンを外し、胸元をパタパタと雑に扇いだ。優等生の皮を脱いで、いつもの姿に戻っていく。
「佐藤さん、なんて言われた?」
「次からは気をつけてね、信頼しているわって」
「うわ、大久保ちゃんゆっる」
「気品あるお諭しだった。瀬野くんは?」
「おすすめのピアスのブランド教えてもらってた」
「え、山口先生……」
放課後すぐの階段は、帰るために降りていく生徒ばかりなのに、二人だけが上っていく。
「ブランドもののピアスって高そう」
「どうだろ。俺はいとこからのお下がりだからよくわかんね」
「お下がりなんだ」
「そう。年齢的に合わねえからってくれたんだよな」
年齢でつけるピアスが変わったりするんだ。私はピアス事情に全く知識がないから知らなかった。
今日の瀬野くんがつけているのは丸くて黒い。わかるのはそれくらい。ブランドなんてもってのほか。
数段下で、瀬野くんが足を止めた。いたずらをしたそうな目と、高さが同じになる。
瀬野くんの目の中に、興味ありげな表情をしている自分が見えた。
「佐藤さん、俺の気になるなら、見てみる?」
「え、どうやって?」
「普通に、近くで」
いや、普通に、外して見せてくれたらいいのではないか。でも、咄嗟にその言葉が出てこなくて、断るタイミングを見失った。
考え、悩み、迷った末に、手を大きな肩に乗せる。あ、肩がっしりしてる。柔軟剤かな、良い匂い。お肌綺麗。髪、ツヤツヤだな。次々入手してしまう瀬野くん情報で頭が大渋滞。
深呼吸してから、いざピアス閲覧。
厚い雲が垂れ込めているせいか、階段は薄暗くて、そばで見てもやっぱり丸くて黒いことしかわからなかった。新たな収穫は、丸くて黒いものが宝石だったということくらい。
「どう?」
平然とした口調で聞いてきた。
瀬野くんは前も平気で頭を撫でてきたし、元カノたちといつもくっついていたし、他人とのこういう接触にも慣れてるんだ。
けど、私は全然そんなことなくて。
今日は暑くない日だったのに、いつの間にこんなにも蒸し暑くなったんだろう。
私たちの横を駆け下りる生徒たちの存在がいきなり遠くに感じて、自分の足がふわふわとし始める。うなじに汗が滲んで、黒目を見つめる視界がくらくらした。
「瀬野くんに、すごく、似合ってる」
ため息がこぼれると、目の前の瞳孔が大きくなった。口元を覆う指の隙間から、形の良い唇が薄く開く。
「さとうさ」
「わ、私、係の仕事があるので、し、失礼します!」
週始めにある古典係の仕事を理由に、爆速で逃亡。階段を駆け上がるとき、顔は熱くて胸も騒ぎ散らかしていた。
兄や友だち相手だと、たとえハグしてもこんなドキドキしないのに。