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6 五月 勉強会

 五月も終わりになって、陽が沈むのが遅くなった。小雨の今日は涼しくて、まだ明るい外から差す光とともに静かな雫が窓に当たる。じんわりと湿度が高い教室は、もう時期やってくる梅雨の気配で満ちていた。

 しかし、この時期にやってくるのは梅雨だけではない。中間考査もやってきてしまう。



 明日からの中間考査は四日かけてガッツリやる。期末は家庭科と保健体育が増えるだけで、中間も期末も実質大差ないというほどに、ガッツリと。

 ただし、期末ではテスト対策期間は一週間ほどあるものの、中間では二、三日しかない。受ける科目数はほぼ同等なのに。


 私は家でも学校でも勉強に集中できるタイプ。けれど何故か、今日の野乃ちゃん提案の放課後居残り勉強会は、これっぽっちも集中できていなかった。


「え、数Ⅱ意味わかんない。なにこれ」

「絢理ちゃんいつもそれ言ってるよねー。あっ、電子辞書忘れちゃった。誰か貸して!」

「いいよー、どうぞ。ねえ、日本史の範囲ってどこまでだっけ」


 遥菜も野乃ちゃんもなんだかんだ言って、結局は私を裏切ってどの教科もそこそこ良い点数を取るタイプだ。なのでどこか余裕のある雰囲気。

 ちなみに、私は理系科目が壊滅的である。本当の本当に。


 一年生のときの化学はモルに苦しめられ、三十点台を叩き出してしまった。二年生になって生物と地学という暗記系になったけれど、そもそも覚える用語が難しい。クロロフィルとクロロホルムって名前が似てるくせに違うものらしい。理解不能だ。

 最難関は数学。我々は日本語母語話者なのに、あやつらは数字と記号で話しかけてくる。英語みたいに日本語訳もできない。対話拒否されている。苦手を通り越して呆れ、むしろ可愛く見えてくる。√の左のちょこんとしたところなんてとても可愛い。


 ダメだ。注意力が散漫しまくっている。数Ⅱの教科書を閉じて鞄にしまう。


「虚数、さよなら、おやすみ」

「あーあ。数Ⅱは赤点だね、絢理」

「ふ、不吉なこと言わないで」



 静かなD組で、今度は英Ⅱの問題集を開いた。紙をめくる音がやけに響く。他に残っているクラスメイト数名は黙々と机に向かい、ペンを走らせている。

 こんなにもしーんとしているのだ、先程の私たちのどうでもいい会話は迷惑極まりない行為だったかもしれない。そうか。なんとなくわかった、集中できない理由。

 遥菜にそっと小声で話しかける。


「遥菜、今日って辰巳くんとかって残って勉強してるの?」

「優吾? さあ、知らない。でも勉強はしてるんじゃない? 慧斗に教えてもらってるらしいし」

「え、瀬野って頭良かったっけ。知らなかったー」

「教え方が上手いんだってさ。絢理たんは優吾がどしたの」


 瀬野くんたちは確実に残っているはずだ。おそらく今日も今日とて隣のC組で雑談でもしている。遥菜が辰巳くんを誘う流れを想定していたのに、遥菜が思ったよりも淡白だったせいで予想が外れた。

 察してもらえないなら自分から言うしかない。恥ずかしいけど。


「……その、一緒に勉強しない?」

「優吾たちと? いいけど、絢理がそんなこというの珍しいね。まだ学校残ってるかな」

「瀬野が頭良いなら、野乃も賢い人の手借りたーい」

「おけおけ。メッセージ送ってみるね」


 遥菜がたぷたぷとスマホを操作すると、ぽすっと音が鳴った。返事がきたようだ。



 やっぱり、瀬野くんたちはC組にいた。雑談目的で残っていた瀬野くんたちの友だちが帰るのと入れ替わるように、私たちがお邪魔させてもらう。

 初めて入るC組は、D組よりは人が残っていた。瀬野くんたち以外は勉強目的のようだけど、問題を出しあったり教えあったりして和気あいあいとしている。沈黙のD組とは真逆だ。


「よお。遥菜さんから誘ってくるなんて、明日は雪っすね」

「私じゃなくて絢理が一緒にやりたいって」


 遥菜が辰巳の横の席に座って、鞄から教科書を取り出す。私はどこに座ろうかな。


「佐藤さんが、優吾を?」

「意外だよねー。野乃も慧斗に、って、絢理そんな後ろ座るの?」


 瀬野くんの後ろ、最後列の席に座ったら不思議そうな目で見られた。


「あ、みんなはどうぞご自由に。私のことはぜひ忘れて」

「なんで後ろ? 佐藤さん、俺の隣おいでよ」

「それはいい」

「じゃあ、野乃が代わりに座っていい? というか、野乃、瀬野に古典教えてほしくて」

「古典な。承知」


 瀬野くんの隣には野乃ちゃんが座り、各々勉強スタート。

 私は別に一緒に勉強がしたいわけではなくて、今までの放課後みたいにBGMとして瀬野くんたちの雑談する声がほしかっただけ。


 だから、遥菜と辰巳くんの勉強を全くしていなさそうな会話や、瀬野くんが野乃ちゃんに古典を教える声を聞きながら、一人で黙々と英語の長文を読んでいく。

 次第に周りの雑談の声は気にならなくなって、そばに人がいる非孤独感だけが残る。集中は途切れなかった。



「あー、やっばい!」 


 二つ目の長文を解いていると、突然野乃ちゃんが声をあげた。


「瀬野ってゆっくりゆっくり読むんだもん。子守唄すぎて脳が寝ちゃう!」

「え」


 前の席では、ぱちんと自分のほっぺたを叩く野乃ちゃんと困惑顔の瀬野くんがいた。


「あ、それわかるー。朗読のときとか内容頭に入ってこなくてぼーっとなるよね」

「慧斗の音読ってあれだよな、抑揚がないっつーか、棒読みっつーの?」

「それはさすがにただの悪口だろ。優吾覚えとけよ、お前」

「きゃー、慧斗くんこわーい」


 瀬野くんと辰巳くんがやいやい話すのをスルーして、野乃ちゃんは伸びをして立ち上がった。


「野乃、眠気覚ましに何か買いに行くね。お腹減っちゃったし」

「あ、私も行こっかな。休憩がてらお散歩したいかも」

「んじゃ俺も。コンビニ行こうぜ」

「やった、優吾ゴチになります! 野乃行こっ」


 遥菜の一言で勝手に辰巳くんの奢りになった。先程の腹いせか、瀬野くんも悪ノリに乗っかる。


「優吾くーん。ボク、ペプシ飲みたいなー」

「仕方ねえな、慧斗はコーラね。佐藤さんは?」

「え、私?」


 聞かれると思ってなかった。特に欲しいものもない。しかし、辰巳くんが当たり前のように返事を待っているので、答えなければいけない気持ちなる。何にしよう何にしよう。捻り出さねば。


「じゃあ、お、オレンジジュースを、お願い、します」

「おっけー。じゃあ、留守番よろ」


 くすっと笑った辰巳くんがヒラヒラと手を振って、野乃ちゃんと遥菜に続いて教室から出ていく。流れで私も頼んじゃったけどよかったのかな。



 残って勉強していた生徒たちはいつの間にか帰っていた。C組の教室が途端に静まり返っていく。瀬野くんが振り向いて、使わせてもらっている机に頬杖をついた。


「なあ佐藤さん、絶対一緒にやる気ないだろ。自分から誘っておいて」

「やる気あるよ。もうそれはそれはめちゃくちゃある。一人で集中したくて誘ったんだもん」

「なんだそれ。矛盾しかしてねえ」


 息を吐くように笑い、一拍置いてため息。


「あのさー、俺の声って聞き取りづらい?」

「そんなことない、けど、子守唄なのはわかるかも」

「マジ?」

「あ、悪い意味じゃなくて。むしろ良い意味?」

「そこ疑問系かよ。大事なとこだけど」


 不安そうな表情が、驚いて、笑みに戻る。コロコロと表情が変わる。つられて私も頬が緩む。

 

 去年までの授業で、瀬野くんの当てられたときを思い出す。

 英語の長文は流暢な発音で。国語の小説の一節を淡々と淀みなく。古典の柔らかい響きの古語はぎこちなさそうに。数学では長い数式をスラスラと。

 今思うと、瀬野くんの出席番号の日はちょっと期待していた。少し低く落ち着いているその声は、すっと胸に入ってきてとても心地良い。


「なんかね、すごく安心する声だから、眠たくなっちゃうんだよね」

  

 長文の最後のほうに書いてあった〝She will be crazy for him quite a while.〟を丸で囲う。きっと今の私の心情と同じ。

 瀬野くんはぱちくり瞬きして、ゆっくり目を伏せた。


「佐藤さん、そういうの、わざと?」

「何が?」

「……なるほどね。なんでもない」

「待って、本当に何のこと?」

「さあ」


 はぐらかして机の上で腕を組んで頭を乗せる。私が使わせてもらっている机が占領された。この不良、私の勉強の邪魔してきている。

 既視感がある。これ、勉強する子どもを邪魔するネコみたいだ。癒やし動画で履修済み。だからテコでも動かないだろうことも完璧に履修済みだ。私は勉強を諦めた。


「瀬野くんはテスト勉強どんな感じ?」

「軽く復習やってればいけそう、中間だし。佐藤さんは?」

「余裕だよ、中間だし」

「数学は?」

「か、勘が当たれば」


 少ししか降ってない雨の音が聴こえてくる。二人きりの教室は控えめな話し声がするばかり。不思議と気まずさはなくて、穏やかな空気が流れていた。

 

 そういえば、ここは第ニ棟の三階、二年文系のテリトリー。コンビニがあるのは第一棟の一階。やや距離があるこの間、往復には何分かかるだろう。

 瀬野くんとのお話はもう終わりか、ちょっぴり残念だな。廊下からする足音を聞いて、私はそう思った。

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