5 五月 スポーツテスト
今日は曇りだったので、生命の危機に陥るような暑さではなかった。カラッとした過ごしやすい気候でとても良い。
昨夜はちょっと手を出した映画が面白すぎて、続編まで続けてて観てしまった。そして夜ふかしした。眠たい眠たい。
登校した先の靴箱であくびをかみ殺す。
「佐藤さん、おはよ」
不意をつかれてビクッと肩が跳ねる。びっくりして心臓が慌てて動き出した。顔をあげると、瀬野くんがいた。またまたびっくり。
「お、はよう」
「なんかめっちゃビビらせた? ごめんな」
「や、大丈夫」
瀬野くんの隣には、明るい茶髪の知らない男子生徒がいた。でかい。C組の人かな。反射で会釈したら、茶髪の人も愛想の良さそうな笑みを浮かべて小さく首を動かした。
C組とD組の靴箱は横並びのため、ここでは会うことはおかしくはないが、実におかしい。未曾有の大事件だ。
自転車通学の瀬野くんは、集団登校だった小学時代を除いて、毎日遅刻するかしないかのギリギリで登校していた。遅刻した場合の先生への言い訳は『瀬戸際のスリルを楽しみたくて寝坊してみた』。さすがに楽しみすぎである。
そんな瀬野くんと遅刻経験ゼロの私が、朝の靴箱で遭遇するはずがない。私はとても不審そうな視線を送っていたのか、瀬野くんが「あぁ」と口角を上げた。
「俺ホームルーム前に課題出しに来たんだよね。偉くね? 褒めて」
「なんと、それはすごい。偉い偉い」
「佐藤さんってわりと適当だよな」
ふはっと笑われた。褒めたのになんてことを言うんだ。私への認識を再確認してほしい。
「いつだって至極真剣、全身全霊だから」
「そういうとこだよ」
くすくす笑われながら、瀬野くんたちと階段前で別れた。私が上に上るとき、職員室の方向から微かに会話が聞こえてきた。
「慧斗って手広いね。あんなおとなしそうな子まで」
「ん?」
「さっきの子だよ。つるんでるの真希ちゃん系統ばっかかと思ってた」
つい、足が止まる。自分が噂されている。
「桜葉たちとは確かに違うかも。佐藤さんはあんな強そうじゃないよな」
「見た目に反して中身ゆるい感じだったじゃん、超意外。ただの仲良し系? 狙ってる系?」
「や、そもそも佐藤さんは別に、そこまで仲良いとかじゃ――」
その声は遠くなって聞こえなくなった。けれど、察しはつく。否定が続くことくらいわかる。わかっている。私と瀬野くんは、仲良いとかじゃないってことくらい。
私と瀬野くんは友だちじゃない。普段話さない日のほうが圧倒的に多いし、基本的に私が教室の外に出ないので見かけることもないし。見かけても話すかどうか。
佐藤絢理と瀬野慧斗は、所詮ただの元クラスメイトなのだ。
今日の体育はC組とD組の合同授業。お隣さんの宿命である。男子はC組、女子はD組の教室にそれぞれ移動して着替えるルールだ。
その間、私はずっとモヤモヤしていた。朝盗み聞きした会話がなんだか頭の中をぐるぐると回って、回って、回り続ける。形容しがたい感情とともに唸っていると、近くで着替えていた遥菜もため息を漏らした。
「はー、嫌だねー」
「うん。本当になんか、嫌な感じ」
「今日が晴れじゃないからまだマシか。スポーツテスト」
「どんより曇りで余計に落ち込……えっ、スポーツテスト?」
「え、絢理もそれで嫌な顔してたんじゃないの」
衝撃の新事実。今日は厄日か。
小学校や中学校、高校の体育祭などで活躍していた瀬野くんは、簡単にいえば運動神経が良い。五〇メートル走も持久走は陸上部の人と同じくらい速く、ソフトボール投げは野球部の人みたいに遠くまで飛んだ。
瀬野くんはことあるごとに女子たちから黄色い声援を受け、その度に男子たちにからかわれていた。人気者だ。
その光景を遠目からぼんやりと眺める。女子たちの中に栗色のストレートロングヘアの綺麗な人を見つけた。整った顔はまさに女優、体のプロポーションはまるでモデル。
桜葉さんだ、桜葉真希さん。同じクラスになったことはないけど、美人で有名なので一方的に知っている。桜葉さんは華があり凛としていて素敵な人だ。
対して、私はなんて言われたか。おとなしそうでゆるい。すなわち、地味でだらしない、ということだ。私は今朝、見ず知らずの人間にさりげなくディスられたのだ。大変ムカつく。
モヤモヤするのは、きっとムカついているせいだ。
盛大に息を吐き、二枚の記録用紙を見つめる。
片方は平均の少し下の記録、もう片方は平均より上の成績が記録されていた。前者は私、後者は遥菜だ。今ちょうどゴールした持久走も、遥菜は平均より一分以上速いタイムだった。
私はどうせ地味でだらしなくて運動もできないダメ人間だ。走り終えた遥菜の元に行くくらいしかできない。
「遥菜、お疲れ。四分四十ニ秒だったよ」
「ありがと! 書いといてくれる? 水飲みに、あ、ちょっとお手洗いも行ってくるね」
「わかった。いってらっしゃい」
苦手な苦手な外の競技は、これが最後。各競技を自由に好きな順で測定をしていくのだが、私たちは運良く順番待ちがないタイミングで全部できたので、他の人より早く終わった。つまり、暇。
次の持久走の人たちが走り出す。邪魔にならないトラックの内側で体育座りでそれをぼーっと見ていると、隣に人が座った。
「あ。おかえり、はる、な……」
横を見ると遥菜ではなく、私と仲良いとかじゃない瀬野くんだった。ふっと柔らかく目を細める。仲良いとかじゃないのに、そういう顔をするのはなんだかずるい。
「タダイマー」
「ごめん、遥菜と間違えた。おかえり、瀬野ちゃん」
無駄に甲高い裏声で話しかけられたので女の子扱いすると、瀬野くんが破顔した。喜んでいるのだ。変なの。
変人を視界に入れないようにやや俯いて、体育座りをする脚を引き寄せる。
「俺らさ、優吾らと勝負してんだよね。合計点数の三番目に低いやつがジュース奢るっていう」
「三番目? 一番下じゃなくて?」
「そっちのがスリルない? 敢えて下から三番目」
こんなときでもスリルを求めているらしい。
「瀬野くんは一番上?」
「んーん。今のところは田辺が一番」
「たなべ?」
「そうそう野球部の。あ、俺が今年初めて同じクラスになったやつだから、佐藤さん知らないかも」
知らない人のほうが圧倒的に多いので、それは仕方ない。
それにしても、賭けとは。どうせならあの人が負けてしまえばいい。
「あの、朝の人は? 茶色の髪の」
「朝の茶色? あぁ、トラはI組だからいないけど」
あの忌々しき人間の名前はトラ。しかと覚えた。いつか復讐してやる。
敵を倒すには、敵を知って己を知ってからと相場が決まっている。まずは敵を知らねば。
「あの人って瀬野くんと仲良い人? 初めて見た」
「仲はそこそこ。去年委員が一緒だったんだよな」
「そうなんだ。I組って理系だよね。頭良い?」
「頭は普通じゃね。理系科目のテストは俺と同じくらいつってたな」
瀬野くんと同レベルということは頭が良いらしい。不良で勉強もできるなんて、ずるい。上位カーストにいるから初対面の人間を見下してきやがったのか、あの茶髪男め。
燃える闘志で体育座りする腕に力が入る。反対に、瀬野くんは脚をくつろがせて、
「……つか、なんでトラ?」
と、静かに尋ねてきた。いつもよりワントーン低い声にゾクッとする。口に手を当て、こちらを探るように見据えてくる。
慌てた。『復讐してやる』なんて絶対に言えないし。しどろもどろになって言い訳する。
「な、なんとなく興味が出て?」
「……ふうん。なるほどね」
瀬野くんが頭を軽くかいて視線を逸らした。目の先は五〇メートル走のほう。辰巳くんが測定の番だ。アッシュゴールドの短髪はよく目立つ。風のようにゴールし、先生と話し、はしゃぎ始めた。こちらへ走ってくる。
辰巳くんが来る直前、瀬野くんがぽつりと落とした。
「トラには興味津々なの、なんかジェラるんですけど」
「なあ! 多分俺慧斗に勝ったぞ」
「おお、マジ? 何秒?」
「絢理お待たせー。優吾どしたの」
「五〇メートル走、六.ニ秒!」
「ほーん。すごいね。慧斗は?」
「六.四」
「ほらな、俺の勝ちだわ! いえーい」
「喜び方うぜー。今誰だろうな、ビリ三。足立?」
「ビリ三って? 何かしてんの」
「いや、藤岡じゃね。Cの男子たちでテスト結果競ってんだよ」
瀬野くんと辰巳くんと戻ってきた遥菜の会話を、右から左へ聞き流す。再びモヤモヤが湧き上がってくる。
ジェラるってなんだろ。ジェラート? それより、さっきの瀬野くんの目、ちょっぴり怖かったな。ああいう話は好きじゃないのかも。
私と瀬野くんは友だちじゃない。普段話さない日のほうが圧倒的に多いし、基本的に私が教室の外に出ないので見かけることもないし。見かけても話すかどうか。
佐藤絢理と瀬野慧斗は所詮ただの元クラスメイトなのだ。
それでも話をする機会はある。その会話の間くらいは、私は仲良くしたいと思っている。
たとえ相手が、仲良いとかじゃない、と思っていたとしても。