12 七月 アルバイト先
夏の長期休暇に入ってから、遥菜は辰巳くんと一緒にアルバイトを始め、野乃ちゃんは家族旅行に出掛け、充実した夏休みを過ごしているようだった。
そんな中、私は引き籠もりニートごっこに勤しんでいた。朝から晩まで好きなこと三昧。これほど有意義な時間の過ごし方があるだろうか、いや、ない。
ある日、中学時代の知り合いの橘笑美子さんに呼び出された。親しい間柄でもないがゆえに逆に断りにくく、私は引き籠もりニートごっこを一時中断した。
橘さんは、瀬野くんの元カノの一人だ。中学生のときから明るいタイプの人だったけれど、高校生になって一層派手になったらしい。ばっちりメイクをした金髪ポニーテールの、街で見かけたら絶対に近寄らないだろう眩しい人になっていた。
挨拶もそこそこに、橘さんに連れられて歩く外は暑かった。まとわりつく灼熱の湿気で蒸され、太陽による業火の日光を浴びせられる。
ここは人ならざる者の住まう土地。私に人権などなかった。
命も絶え絶え、やっとこさ辿り着いた場所は、白壁に青々とした蔦が巻き付いているおしゃれなカフェ。
カウンターにはサイフォンが置かれ、テーブルには数組のお客さん。陽の光が差して明るく、広すぎない店内はコーヒーの良い匂いで満ちていた。
そして、空調が効いている。私は人権を得た。文明の利器にとめどない感謝を。
店にはまさかの瀬野くんがいた。おや、こんなところで奇遇ですね。
「やっほー、慧斗くん!」
「どうもこんにちは」
「おー、今日はレアキャラがいんな」
はて。瀬野くんは黒いシャツに青いエプロンを着ていた。エプロンにプリントされたタヌキと、ついにらめっこ。私服にしては独特すぎる格好だ。そのセンス、自分には早すぎる。
瀬野くんは私たちをカウンターに誘導し、自分はカウンター内に入っていった。
今さら、もしやと察する。そういえば、一週間ほど前の瀬野くんからメッセージがきていた気がする。『親戚の店でバイト始めた』と。
目の前に水の入ったグラスが音もなく置かれた。瀬野くんの微笑みとともに。
「いらっしゃいませ。ご注文はいかがいたしますか」
そっか、ここが瀬野くんのアルバイト先なんだ。
私は苦いのがダメなので、コーヒーではなくウィンナーココアを注文した。ココアの海に沈めても沈めても浮いてくるホイップクリーム島。なにこれ面白い。
橘さんはカフェラテを頼んだ。なんと、瀬野くんがラテアートを描いてくれるという。
「わぁ! 慧斗くん前よりすごく上手くなってるーっ」
「絵心ねえから簡単なのだけな。はい、どうぞ」
「ありがとー!」
お花のアートを撮り、自撮りをし、瀬野くんとも自撮りをしたのち、橘さんはようやくラテに口をつけた。私もココアを一口。甘くて美味しい。
ドリンクを楽しむ私たちの前で、瀬野くんがカウンターに肘をついた。
「この組み合わせどしたの。橘が佐藤さん連れてきてくれた感じ?」
「そうだよー。でも、慧斗くんがまだ構ってくれると思わなかった! もう休憩の時間じゃなかったっけ」
「あぁ、俺いらない? 退散しますか」
「えーっ、ごめんごめん! いてくれるならいてほしいな! というか、もう直接教えてもらおうかなー」
橘さんが瀬野くんをじっと見つめる。瀬野くんは軽く首を傾げた。
「ねえ、慧斗くんって今好きな子いるの?」
もし橘さんがその質問のために私を呼び出したのだとしたら、一つ問いたい。なぜ、私チョイスなのか。
瀬野くんが少し目を彷徨わせて、困ったように小さく笑った。
「え、それで、なんで佐藤さん呼んできたの」
完全に以心伝心。瀬野くんと私の意見が見事に一致した。橘さんはさも当然のように答えた。
「佐藤ちゃんなら知ってるかと思って。同じ高校行ったの佐藤ちゃんだけだし?」
「でも私、瀬野くんと友だちになったの最近だよ」
「またまたぁ。中学のときだって慧斗くんのこと詳しかったでしょ? 色々教えてくれたじゃーん」
「や、でも、それは」
確かに、ゴシップ方面なら、私は瀬野くんのことを知っていると言えるかもしれない。
例えば、瀬野くんは必ず女子を名字呼びするとか。
小学生の頃、瀬野くんが女子に『名前で呼んで』とお願いされたとき、『前に一部だけ名前呼びしたら喧嘩が起きたから、みんな名字呼びにすることにした』と返答したことがある。
同じ小学校ならば誰でも知っている有名な話だ。
例えば、瀬野くんの元カノのこととか。
瀬野くんのモテモテ歴は他の男子と桁外れで頻繁に告白されていたが、付き合ったとしても長くて一ヶ月程度で瀬野くんが振っていた。彼女が変わる度に最も盛り上がるのは瀬野くんのクラス、つまり私のクラスだった。
嫌でも耳に入ってくるので、意図せず物知りになってしまった。
でも、基本的なプロフィール、好きな食べ物とか好きな科目とか、趣味などは知らない。こういうことは橘さんのほうが知っていると思う。
「私、本当に何も知らなくて」
言い淀んでコップに口をつける。二人とも何故か驚いた顔をしていた。
「え、そうなの? いがーい!」
「いやなんでだよ。冗談?」
「冗談じゃない。誕生日も知らないし、血液型も星座も知らないし」
「そんなの文集見たら全部解決じゃね?」
瀬野くんが呆れたように言う。
文集。小六のときにクラスごとに作ったのが最後のはずだ。文集を見たら全部解決はするだろう。見つかれば、の話だが。五年前の文集は、はたして私の部屋のどこに隠されたのか。神のみぞ知るところである。
「文集? なにそれ見てみたーい!」
「昔すぎて存在忘れてた。瀬野くんよく覚えてたね」
「だって、俺この前……あ、ごめん、この話つまんないよな。他の話しよ」
綺麗な顔が微笑んで、あからさまで急激な話題転換を提案してきた。え、なに。
橘さんもにっこりスマイルで話を本題に戻した。
「じゃあ、慧斗くんの好きな人の話しよ! いるの? いないの?」
「えー、そんなに気になる?」
「気になる気になる!」
「なんでなんで」
「それはっ、えっと、その」
橘さんが口籠って、メイクで桃色のほっぺたがますます赤くなる。両手の指先を合わせ、カップに視線を落とした。
「あたし、慧斗くんのこと、やっぱり、まだ好き、だから」
カウンターが静まりかえる。ここに私がいていいのだろうか。瀬野くんをチラ見すると、困ったような照れたような表情を浮かべていた。
「橘って彼氏できたって言ってなかったっけ」
「それは去年の話! 他の人と付き合ってみて、やっぱ慧斗くんって良かったなーって思ったというか」
「なるほど」
「ほら、お互い成長したし! ちょっとでもチャンスくれたらな〜、なんて」
「おお……」
甘酸っぱい空気が流れる。ここに私はいてはいけない気がする。おいとましよう。
カウンターの高い椅子から降りようと動くと、橘さんが服の裾を掴んできて、瀬野くんがじっと見てきた。四つの目に凄まれる。過去一ヘビに睨まれたカエルに共感した瞬間である。
すごすごと椅子に座り直すと、橘さんがほっとため息をついた。
「はい! あたしは理由言ったから、今度は慧斗くんの番ね」
「その前に佐藤さんにも確認していい? 俺の好きな人の話、気になる?」
頬杖で口元を隠し、窺うような視線で聞かれる。
瀬野くんがここまで言いたがらないのだから、好きな人の有無というのはトップシークレットということだ。ならば、下手な興味本位で聞くのはいかがなものか。
あと単純に、知りたくない、かなぁ。
「ごめん、気にならない」
瀬野くんの黒目がやや大きくなって、わずかに眉間にシワが寄った。しかしそれは一瞬で、パッといつもの顔で笑った。
「あっそ。じゃ、橘には悪いんだけど、教えてあげないっつーことで」
「そんなぁ! せめてあたしだけでも」
「慧斗」
カウンターに人がやってきた。瀬野くんと同じ服装の、お父さんくらいの歳の優しそうな男性。ぽんっと瀬野くんは頭に手を乗せて、見た目通りの優しそうな声で話す。
「休憩入らないのは個人の自由だけどね、僕は心配だなぁ。お腹とか減ってないかい?」
「あ、ごめん叔父さん。お昼食べる。じゃあね、佐藤さん、橘」
すでにおやつの時間を過ぎている。瀬野くんが休憩に入れなかったのは私たちのせいなので、お店の奥に消えていくのをおとなしく見送る。というか、休憩返上して今まで相手してくれてたんだ。
二人きりになったカウンターで、橘さんが瀬野くんの好きなところを語り出した。主に恋人時代の瀬野くんのカッコいいエピソードを。
私はそれをひたすら聞いた。今日の私は引き籠もりニートごっこではなく、聞き上手カエルごっこに勤しんだのである。




