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10 七月 補習

 梅雨が明けた七月。どこまでも広がる青空。地平線の向こうに見える白い入道雲。蒸せる熱気で生じたアスファルトの陽炎。海岸沿いに建つ駅のホームでは、風に乗って潮の匂いがした。


 期末考査最終日。

 全ての科目が終わった三限後、山口先生に呼び出された。テストが終了したということで入れるようになった職員室で、困った顔の先生の用件を聞く。


「佐藤、数Ⅱは初日にあったな。それで俺の担当クラスの採点は終わったんだが」

「そうなんですか」

「俺は悲しいよ、佐藤。こんなにも事実を伝えるのが心苦しいなんてな」

「え、まさか」

「そのまさかだ。今回は本当に惜しかった、がアウトだ。佐藤は何度見返しても二十八点だった」

「夢じゃないんですか?」

「俺もそう思いたい。でも、現実逃避はやめような」


 先生の顔に落胆と書いてある。私は現実と向き合うことにした。



 うちの学校は三十点未満が赤点になる。そして、赤点を取った人は補習を受けなければならない。

 だが、山口先生の受け持つクラスでは、私が唯一無二の赤点生徒だったそうだ。先生の都合もあって、補習は問題プリント提出のみとなった。


 去年補習を共にした生徒は違う先生担当のクラスに行ってしまったのだろうか、はたまた私を裏切って赤点回避したのだろうか。

 どちらにせよ、此度、私に仲間はいないのである。


 渡されたプリント三枚を手に持って、とぼとぼとD組に戻る。

 エアコンがかかった涼しい教室の真ん中には、一人だけまだ生徒が残っていた。私の席の前に座って、スマホから顔を上げる。


「おかえり、佐藤さん。回避失敗?」

「ただいま。瀬野くんが二点くれたら回避成功だよ」

「残念、世の中そう甘くねえんだよな」


 瀬野くんは補習のプリントにざっと目を通して、ニッと笑った。


「ま、俺は激甘だから全部教えてあげちゃう。とっとと終わらせて映画行こ」



 今日は、学校の最寄り駅の駅ビルにある映画館に行く予定の日。

 しかし今、私たちはスクリーンではなく、不等式の領域なるものと向き合っている。


「佐藤さんって苦手なの数学だけ? この式、図示できる?」

「理科とも永遠にわかり合えない気がする。こう?」

「あぁ、根っからの文系なのか。そう、いいね。で、xが絶対値だから、マイナスのときの場合分けもしてみて」


 瀬野くんは教科書も見てないのにすらすらと手順を言い、詰まっていたら懇切丁寧に教えてくれてわかりやすかった。

 ただ一つのことを除いては。


「てことは、大学私立希望? それで合ってる、賢い賢い」

「そのつもり。三科目だけで受けられるし。解け、た?」

「大学決まったら教えて。おけ、よくできました」


 瀬野くんが微笑む。本当に困る、その雰囲気。異議申し立てしていいですか。


「あの、瀬野くん」

「ん?」

「なんと言いますか、教えてもらっている立場でありながら、大変申し訳なく恐縮至極なのですが」

「なんでごさいましょうか」

「あ、あやされてる気分です」


 吹き出された。そして「ごめんごめん」と、さほど気持ちのこもってないお言葉をいただいた。

 瀬野くんはこの上なく優しく優しく教えてくれたつもりだろうけど、子守唄ボイスもあいまって、私は赤ちゃんの気持ちにさせられていた。褒めすぎは人を退化させる。


「あのー、言い訳してもいいですか?」

「承ります」

「俺はですね、時々親戚の子どもに勉強教えてるんですけど、なんか、ついそのノリでやっちゃってました」

「そうなんですね。中学生?」

「小学生」


 只今現在進行形で高校二年生の私を、小学生扱いとは。むっと瀬野くんを見るとニコニコされた。反省の色が全くもって見られない。


「失礼だなぁ。私、十六歳のぴちぴちレディーなのに」

「や、ごめんって。じゃあレディー、この応用解ける?」

「…………こうかな。あれ、これ合ってる?」

「いや、合ってない」


 即答された。レディー、数学苦手すぎて泣いちゃいそう。早くあやして、ご機嫌とって。



 補習プリントはすでに二枚が終わった。ラスト一枚。こんなにも早く終わりそうになるとは。瀬野くんは本当に頭がいい。ここまでスラスラ解けると、課題も早く終わるんだろうな。

 あ、この人は課題をしない人なんだった。


「瀬野くんは期末の課題終わったの」

「藪から棒に何。終わってると思ってる?」

「ううん」

「多少は悩めよ。まぁ、想像通りだけどな」


 いつも相手にしてもらえない課題さんがなんだか可哀想になってきた。

 素知らぬ様子の瀬野くんが、笑いを含んだ口調で訊いてくる。


「佐藤さんって俺のこと不良だとか思ってない?」

「だって、課題してないし。ピアスしてるし、痛そうだし」

「課題はだるいから仕方なくね。ピアスは、……そうだな」


 吸い込まれる上目遣いの黒目が視線を逸らさないまま、左耳のピアスを見せるように頬杖をついた。形の良い唇が楽しそうに緩やかな曲線になっていく。


「痛いかどうか試してみる?」


 この不良、ちょくちょく私を悪い子にさせようとしてくる。とんでもない悪党だ。


「瀬野くんが課題して、内外ともに優等生になったら考える」

「佐藤さんが赤点相応の不良になってよ。あと、ここちょい違う。」


 プリントをトントンと叩く音で補習が再開する。

 真面目な私より、不真面目な瀬野くんのほうが賢い。ずるい、ずるすぎる。



 なんとか終えたプリントたちを山口先生の机に置いて、学校を出たのはお昼前だった。途中でハンバーガーを食べて、映画館に向かう。

 観る映画は、先日公開された動物が主役のドタバタコメディアニメーション。ご飯直後なのでドリンクだけ購入し、お手洗いを済ませて席についた。

 上映前の次シーズン映画の予告中、二人ともスクリーンを見ながら小声で話す。


「ね、佐藤さん。このウサちゃんと人間のバトル映画面白そうじゃなかった?」

「それ思った。ウサちゃん……ウサちゃんって言い方可愛いね」

「ウサちゃんはウサちゃんだろ。あれも観に来れたらいいな」

「いいね。来たい」


 ゴールデンウィークに一人寂しく観に行ったホラー映画を思い出した。映画は誰かと観るほうが感想を言い合えるし楽しいし一石二鳥だ。

 しかも、それが瀬野くんとだと一石五鳥くらいの気分になる。お得すぎる。


 エンドロールを見終わったあと、暗かった劇場内に目に優しい照明がパッと灯る。人々が動き出すざわめきの中、私と瀬野くんは同時に顔を見合わせた。

 誰かと観たときの、この瞬間。毎回、あぁ、好きだなと思う。



 今日の瀬野くんは自転車じゃないらしく、帰りは一緒に帰ることになった。ラッシュを過ぎたスカスカの電車に揺られる間、言い合う感想が途切れて夕焼けに染まる海が目に入った。

 この楽しい時間ももうすぐで終わり。少ししんみりする。


「そういえば、なんで映画誘ってくれたの」

「……あー、理由いる?」

「友だちじゃないって言ってたのに」

「は?」


 瀬野くんが怪訝な顔になった。長い間考え込んでから、ため息。


「あれか。マジで何の話かと思ったわ。多分『仲良いとかじゃない』って言ったと思う。つか、あのとき佐藤さんいたっけ」

「たまたま聞こえてた。桜葉さんとは仲良いんだよね」

「桜葉? そうだな、女友だちの中では仲良いほう」


 ためらわずにさらっと答えた。そして、思い出しながらなのか、ゆっくりと話す。


「あのときは学校外で会ったりしない的な、そういう意味で佐藤さんとはそこまで仲良いとかじゃないと思ってて。今はそんなこと思ってないから。これ真相な、おけ?」 

「じゃあ、もう私とも友だち? 映画行ったよ、学校帰りだけど」


 言ってから気付いた。どうして私はこんなことに固執しているんだろう。元クラスメイトという間柄では満足できないのか。私は案外、欲張りな人間なのかもしれない。

 瀬野くんは複雑そうな表情をしていて、完全に私をウザがっている。これは友だち申請は不可されてしまうかもしれない。

 私の不安をよそに、たっぷりと間をとってから静かに下された判決は。


「わかった。友だちでいいよ」


 この日、佐藤絢理と瀬野慧斗の関係は、元クラスメイトから友だちにランクアップした。

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