1 四月 始業式
花が満開になる春爛漫の四月。舞い落ちる淡紅の桜と影を落とす新緑の葉のコントラストが美しく、まだ風は冷たいけれど暖かな陽気に包まれる、心地の良い季節。
高校二年生の始業式の日。
私はセミロングの髪をくるくると弄びながら、新年度を迎えた生徒でごったかえす校庭の掲示板を見上げた。張り出されたクラス表を確認する。
『佐藤絢里』はD組にあった。
そのまま目線を下げる。鈴井、立川……。無意識にため息が零れた。
『瀬野慧斗』はD組になかったから。
新たな面々に沸き立ち、賑わう教室。見たことのある顔は半分もいなくて、話したことがある人は片手もいなかった。理由は一つ。私は友だちが非常に少ないせい。
暇つぶしに、机の上に置かれた年間スケジュールや時間割のプリントを手に取る。うわ、一限数学の日が二日もある。
「絢理、おはよ」
黙々と読んでいると、自分を呼ぶ聞き慣れた声がした。よく通る高いこの声は、貴重な友だちの鈴井遥菜。遥菜は爽やかな笑顔で軽く手をあげた。
「今年も同じでよかったー」
「おはよう。野乃ちゃんは離れちゃったね」
「ね、つらすぎる。ここ、去年同クラの人も全然いなくない?」
「理系行った人多かったからかな。残念」
後ろの席に座った遥菜が、教室内をゆっくり見渡す。
「私が知ってるの、絢理と、部活の子と委員の子と同中の子と……くらいかな?」
「それってどのくらい?」
すらっとした指が何人かを指差す。片手は埋まるも両手は埋まらないくらい。私も知ってる人はそのくらいだ。どんぐりの背比べ。仲間を見つけた気分になって妙に安堵した、のもつかの間。
「あの人たち以外」
「え、なにそれ。すごすぎる」
悲しきかな。私と天と地ほどの差があった。クラスのほとんどと知り合いだなんて。この裏切り者め。
遥菜は焦げ茶色のショートボブがよく似合う快活な人で、女子にしては背が高いほう。去年は体育委員で積極的に活躍し、活動内容不明の謎の部にも足繁く通っている、アクティブな人だ。明るい性格とあいまって、知り合いが多いらしい。
対して私は、セミロングの髪色は暗いし、身長も目立たないド平均だし、移動教室でもない限り基本的に教室から出ない引き籠もり。一年生のときは委員ではなく教科係を担当していたので他クラスや上級生などとも交流皆無だ。
全く性格が違うけれど、名前順に並ぶ最初の座席のおかげで仲良くなれた。佐藤と鈴井は前後だからだ。ラッキー。間に白石とか清水とか入らなくてよかった。
遥菜と他愛もない話をしていたら、始業式の時間になって体育館へ。ありがたくて長い校長先生の話を聞いて、ホームルームで無難に自己紹介を終えると、もう放課後になった。始業式の日は終わるのが早くて楽だ。帰ったら映画観よう、映画。
謎部に向かう遥菜と別れて、二年文系のクラスが並ぶ第二棟の三階から、靴箱に降りる中央階段へ。
そこでよく見知った人を見つけて、足が一瞬止まる。友人たちと談笑しているその人も私に気付いた。人の良さそうな笑みを浮かべて、
「あ、佐藤さん、こんにちは」
と、少し低めのゆったりとした声で話しかけてきた。
声の主の男子生徒は、つやつやで柔らかそうな黒髪が大人っぽくておとなしい印象の人。けれど、ブレザーの制服を軽く着崩していて左耳には小さなピアスが光っている。
遠目には真面目そうな優等生だが、実態は全くそんなことない不良だ。その名も、瀬野慧斗。
瀬野くんは「お前ら先行ってて」と友だち二人を降りて行かせ、私は残された瀬野くんに挨拶を返した。
「こんにちは、瀬野くん」
「俺らクラス離れたね。何組になった?」
なんと、話が続いた。内心驚く。
瀬野くんに教室外で話しかけられたことは、今まで数えるほどしかなかった。そもそも、教室外で話す必要がなかった。
「私はD組だよ」
「そっか。なんか惜しいな。俺Cなんだよ」
「お隣さんだ。残念だね」
「俺と佐藤さんが分かれたの初だよな? これで連続同クラ記録も途切れたなー」
「小学生の頃からだったのにね」
私と瀬野くんは、ずっと同じクラスだったのだ。自分のクラスに行けば大抵いる。それが当たり前だった。
顔を見合わせて、私が肩をすくめると瀬野くんが小さく笑った。それから並んで階段を降りていく。
「小五んときに俺が転校してきたときからか。そう考えると、これまで一緒だったのある意味すごくね?」
「中学のときなんて七クラスもあったのにね。ずっと同じクラスになるってすごそう。宝くじ当たるかも」
「確かに。一クラス何人だったっけ。三十? 四十?」
「小学生のときは三十くらいで、中学生のときは三十五くらいだったような」
突然の確率計算が始まった。でも私は数学が苦手なので、オールラウンダーな瀬野くんに全任せ。
ぶつぶつと数字を言う様は、見た目は不良なのに頭が良さそうな雰囲気が出ている。ちぐはくで少し面白い。
階段をとんとんと降りると、不意に隣を歩く真新しい大きな上履きの動きが止まった。瀬野くんが可愛らしくこてんと小首を傾げる。
「あー、わかんね。暗算はさすがに厳しい」
「宝くじ当たる?」
「当たるかもな」
ふっと笑われた。間違いなく美男の部類に入る人間の笑顔は眩しい。こっちが照れちゃう。
顔を背け視線を落とすと、もう二階と一階の踊り場だった。長いような短い時間がくだらない確率の話で終わる予感がする。まぁ、それもそれでいいか。
「数学って難しいね。もっと簡単にならないかなー」
「俺らの確率を、簡単な日本語で言ってみる?」
「うん」
「蓋然性の低い事象の積み重ね」
「うん?」
「要は低確率の偶然だな」
「……うん? もっと簡単に、義務教育で習う言葉で言って」
理解できそうで頭が働かない。朝からこんな話をするつもりじゃなかったせいか、脳がサボっている。
うんうんと唸ると、瀬野くんが「あは」とおかしそうに笑った。むむ、わざとわかりにくく言っていたらしい。
私より先に階段を降りて、振り返った瀬野くんと目が合う。
「奇跡だったってこと」
私と瀬野くんは、小学五年生のときから去年の高校一年生まで、ずっと一緒のクラスだった。とは言っても、特段仲が良いわけでも悪いわけでもない。
たくさんの友人たちに囲まれながら大人数でわいわい過ごす瀬野くんと、女子数名だけでほのぼのと過ごす私は、事務的な会話以外、話したことすらほぼなかった。
友だち未満で知り合い止まりの、ただのクラスメイト。
去年は一年生だったので、文理関係なく一つあたり四十人前後の九クラスがごちゃ混ぜだった。けれど、ミラクルで同じクラスになれた。
今年度の二年生は、文系五クラス、理系四クラスの割合。たった五クラスなんて、九クラスに比べれば少ないものだ。
だから私は心の隅っこで、当然のようにまた同じクラスになれると思っていた。
帰りの電車を待つホームでぼんやり考え、ため息を吐く。
海岸沿いのこの町は、一時間に一本ほどしか電車が来ない。それでも、わざわざ隣町の私立高校を選んだのは、兄の母校なのと可愛い制服と、通学電車の中から見える海が好きだから。
同じ中学出身なのは私と瀬野くんの二人だけ。その瀬野くんは自転車通学なので、地元方向行きの下り電車を待っている中に知り合いはゼロ。
到着した電車に、乗客はほとんどいなかった。長い腰掛けを一人占めしながら輝く海を眺めつつ、ようやく理解し始めた。ガタゴトと聞こえる音と規則正しく揺れる感覚とともに、現実を受け止める。
奇跡は起こらなかった。今日、佐藤絢理と瀬野慧斗の縁は切れてしまったのだ。




