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盂蘭盆考

作者: いのしげ


 お盆はいつごろ発生したのか。久しぶりに考察していきたいと思います。


 ただし、個人的なまとめですのであんまり本気にしないで下さい。






 1:出典の曖昧さ




 盂蘭盆経というお経が出典とは言われているが、基本的に4~6世紀ごろに出来た偽経ではある。但し、原典もあって完全に偽経とも言い難いし、そもそも仏教というのは6000経とも言われるほどテキストが多いのが特徴である。


 仏教のテキスト化はブッダが亡くなった後から起る第一次結集からの事で、この時点で100年くらい経っているので、初期3部経と言われるダンマパダ・スッタニパータ・パリニッバーナだって直接的に書き残したものではなく、伝承に継ぐ伝承だった訳だ。


 それを言い始めたら、キリスト教の聖書だってイエスの死後何百年も経ってから…しかも現在の形になったのは10世紀のカルケドン公会議に至ってからである。つまり何が言いたいかというと…この世に確かなモノなんて無いのだ。


 我々日本人が慣れ親しんだ般若心経だって5~6世紀、ブッダ入滅後900年くらい経ってからだし、法華経なども大乗仏教成立後に出来たものである。


 だから「大乗非仏論(※大乗仏教の経典は釈迦が伝えた思想とは違うので、仏教に非ず)」という考えが出てくるし、仏教反対派がよく使う論法なのだが、じゃあ1500年間慣れ親しんだそれらを、一気に捨てることなど可能なのだろうか? 明治維新でそれをやって国内が混乱に陥り、貴重な国宝級の仏像等が多く海外流出してしまった事を忘れてないだろうか。




 …おっと話が逸れたが、つまりはこの盂蘭盆経に沿って現在のお盆が行われているという点をここでは抑えておこう。






 2:お墓ありきのお盆




 お盆ではお墓参り…という思考が現在では大半だと思う。でも、そもそもお墓っていつからあるのか。それを見ていくとお盆の行事も見えてくるものがある。


 お墓…というか御陵は太古の昔からあった。古墳とかである。しかし天皇や一部貴族だけのものであり、この時代の一般平民は人が死ぬと山へ葬った。←この葬る、という漢字…横にすると「死」を手偏が両側から支えている構図になる。つまり、死体の手と足を持って「放った」のだ。ほうる→ほうむる…になったのだ。


 山部とか山家とか山本(山元)とか、こういう苗字の人はこの時代、こういうのを生業にしていたという。山は霊の住まうところ、異界の入り口。一般の人は恐ろしくて近寄らない場所だったのだ。


 コレが時代が下るにつれ、墓は武士のモノになる。初期武士団は未だ墓を持っていなかったので、鎌倉には鎌倉時代の横穴墓等が残っていたりする。それが「弔う」という形が段々醸造されていき、室町時代になると寺院が墓の管理を行う事になっていく。


 何故、寺院が墓の管理を行うようになったのか…というと、これはこれでスゴク長い話になってしまうので、簡潔に書くと、仏教は往生や死後の世界観を提示していたのと、思想に帰依する…という概念があり、神道や道教にはそれが無かった、という事である(※道教には一応有ったし、そしてこの道教の思想が後々お盆と結びついていく)。


 そして一般庶民にも「墓」が浸透するのは江戸時代からである。宗門人別帖などで、どこかの寺院に所属しないと一般生活が出来なくなるシステムの形成、そして平和になる事で安心して定住するモノが増えるメリット、更に言えば一般人も裕福になっていき、お墓は一種の「一族の見栄張り」みたいな部分も出てくるのである。


 「お墓はステータスだ」という事である。これに沿う形で、昔は3回忌くらいまでしかなかった「忌日」が(※貴族や大名は除く)、どんどん増えていったのも江戸中期以降である。「先祖法要を欠かさないウチってスゲーでしょ」というアピールである。


 だから、現在の「お盆=お墓詣り」という構造は江戸中期から後期にかけて、大体200年くらい昔という事になる。




 3:柳田民俗学の観点から見たお盆




 さて、1で述べた様に出典は盂蘭盆経なのだが、季節はいついつ~という事は書かれていない。だから別にいつやっても良いのだ。だのに何故夏場の暑い盛り、7~8月にやるのか(※地域によっては6月もある)。


 日本の民俗学の父・柳田国男は「稲作と山の祖先崇拝」にあると述べている。


 簡単に説明すると…日本人の基本的な考え方として、人は死ぬと草葉の陰で見守り、秋に稲の出来合いを見て冬に山へと還り、又春先に人里の方へと戻っていく…という、稲作のサイクルが祖先崇拝と密接に結びついていると考えた。


 その農閑期が旧暦の7月。現在では8月に相当する。だから農作に囚われなかった都市部では明治時代、新暦に代わった際にも7月にお盆を行えた事に対し、農村部では農閑期である8月になってしまったのだ。因みに6月というのは養蚕業が盛んな地域。養蚕の一段落が6月だったのでお盆は6月に行ったのだ。


 先祖を送る大嘗祭(収穫祭)、先祖を迎える例大祭(春祭り)、そして先祖に振舞って五穀豊穣を祈願するのがお盆(精霊祭)なのである。


 …こうしてみると、仏教というよりも神道的な意味合いが強く感じないだろうか。


 というよりも実際、神道というより道教的な祖先崇拝要素が強いのだ。コレが先程述べた「道教要素がお盆と結びついた」部分である。


 じゃあ何で仏教でお盆をやるのか?


 仏教には「盂蘭盆経」があり、供養する方法(=システム)も持ち合わせていた事に対し、神道(道教)にはそれが無かった、と言う事に尽きると思う。


 悪く言えば、仏教に呑みこまれてしまった…良く言えば神仏混交が分離不能なまでに一体化していた、ともいえる。




 日本に仏教が伝来して1500年。初期仏教の形はもうあまり残っていない。しかしこれはよりよく社会に適応するためのアップデートだと思う。


 「ウィンドウズは95が至高! ウィンドウズ10なんてウィンドウズじゃない!」


 …ほんの時々、本当に95を使っている人がいるので世の中侮れないが、基本的にこういう事を言っても大多数の人が最新のOSを使っていると思うし、初期OSを使い続けるとサービスを受けられなくなったりするのと同様に、初期仏教に帰依しても苦難しか待ち受けていないのである。


 蛇足だが、南方仏教は大乗仏教ではないが初期仏教でもない。彼等は彼らなりに南方で発展した最新OSであり、北伝と云われる我々大乗仏教と同じく、理不尽や欠陥システムを抱えている。日本のキリスト教がカッコよく見えるけど、本山のバチカンでは腐敗問題が深刻なのと同様に、海外から見れば二ホンのブッキョーはクールジャパンなのだが、日本人にとっての仏教は堕落の象徴である。


 つまり何が言いたいのかというと…「隣の芝生は青く見える」という事である。


 


 


 4:最後に




 お盆という行事は、先述の通り稲作と先祖崇拝が密接に結びついている。翻って現代、稲作農家はだいぶ減り、それに伴ってお盆をやる家庭も減ってきた。


 稲作をしないのだから先祖を敬う気持ちが減るのも当然であり、若い世代に対し嘆く事ではない。生活様式が変わったのだから、お盆も変わって然るべきなのだ。


 そもそも先祖が誰か…とか、そういう思考自体無くなってしまった気もする。これは実は大東亜戦争の見えなかった弊害で、終戦後に日本人の伝統や文化を教えるという人がたくさん亡くなってしまった事が一つ。


 その後の戦後復興で人手不足によるなりあがり、金の卵、団塊世代…という国家総動員によって金を稼ぐことが至上命題となり、教育・食事文化・伝統文化を蔑ろにして引き換えに、現在の世界有数な現代国家を手に入れたのだ。


 失ったモノを回顧してもしょうがない。先ほども言った様に、この時代に合ったお盆が求められているというのが実感である。


 


 ただ一つ。ちょっと別の所にも書いたが、何で夏にやるのかという個人的な考察なのだが…草が青群れて、虫も大量に湧く夏…つまり生命エネルギーが充満するのがこの季節なんだと思う。だから死んだ者もついウッカリ「生き返っちゃう」。


 だけど身体はもう無い。霊魂だけの存在で目覚める事となる。そうした時、やはり寄る辺ないのは心細いので、実家というか家族というか…そういう所に行きたくなるのは自然な考えだと思う。


 そういう存在が家に寄って来た時、お迎えをするのか無視するのか…自分がそういう存在になった時、どう思うか。


 形式とは言え、お迎えしてくれれば嬉しいし、海外旅行に行ってて誰も居なかったりしたらムカつくんじゃないだろうか? ワタシャ個人的にはムカつきますね。


 そういう「ムカつく気持ち」が「禍」となっていくと考える。そしてこれが「餓鬼」なのでは…とも考えるのだ。だから先祖霊が「和魂にぎみたま」だと家に良い事をもたらすけど、「荒魂あらみたま」は餓鬼と云われて災禍を齎す…人は死んだからってそうそうスグ仏になるもんでは無く、生前とあまり変わらないのではないかと思えるのだ。






 結論をいえばどういう形であれ、人はいつか必ず死にます。「死」がある限りお盆も無くならないんじゃないかと思います。


 ただし、今までの「お墓」「先祖」に括られる旧パックシステムはもう必要ないのではないかもしれませんが、独りでも出来る、どこでもいつでも出来るお盆というのは必ず必要だと思います。




 一年の気持ちの大掃除なのではないかと思うのですよ。

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