三十一話 手遅れの帰還者
――ぽつり。
額に何かが当たる嫌な感触がして、目を開く。
それが雨粒による刺激だと気付いたのは、瞳に直撃した雫で大きく瞼を閉じた後の事だった。
「ここは……」
どうやら雨が降り出して、その衝撃で起きたらしい。
衣服が水を吸って重くなっていくのを感じる。このままでは風邪を引いてしまいかねない、とユラギは手の平で瞼を覆い、降り注ぐ雨粒を拭い去った。
そこでふとした違和感を覚え――無意識に動かした腕へと目を向ける。
「左腕、あるし……ていうか、なんだこの服?」
腕が付いている。肩口からばっさり斬り落とされて目の前に転がっている姿を目撃したはずだ。
それに、雨に濡れている服も見慣れたものではない。着ていたシャツとかズボンは何処へ行ったのか、全身黒づくめになっている。どういうことだろう。
「――ていうか。ここ、どこだ」
そして、何より周囲の景色が可笑しかった。
地面は舗装された冷たい石畳。
人工的で灰色の壁面が両サイドを囲んでいる。
激い雨で視界こそ悪いが、ここまで来て目の錯覚だとか幻覚だとかは思えない。
ここは――。
「都市の、路地裏……?」
もっと言えば、スラム指定された区画のそれに近い。
整備が行き届いておらず、壁掛けの電灯が割れて機能していないことと、付着した汚れもそのままにされていることからの推測だ。
立ち上がり、壁伝いに通路を抜けて通りへ出る。
狭い路地の先には枝分かれした通路が見え、同じように静寂を作っていた。
そこにはユラギ以外、誰の存在も認められない。水を踏みつける自分の足音が一つだけある。
通りに並ぶ民家の窓を外から覗いたが、人が住んでいる気配もない。
「スラムで間違いなさそうだし、景色的に俺が知る都市の中……だろうけど」
雨が降る。その中を当てもなく彷徨いながら、ユラギは冷たい息を吐く。
身体が少しずつ冷えてきた。
この雨の中で傘も差さずに居れば体温は容赦なく奪われるのだから当然だが、そんなことも二の次にしたくなるほどには状況が呑み込めなかったのだ。
一体、目覚めた此処は何なのか。
あまり現実味は湧かないが、夢の中と断言するには嫌に現実的だ。それに、スラムだとは分かるが実際に立ち入ることはほぼなかった――つまりは知らない場所になる。
仮に夢であるのなら、そんな微妙な場所が脈路なく再現されるのかという話だ。
と、そんなことを一人ぼやきつつ近場の屋根下へと逃げ込む。
「うわ、脱ぎにくいし」
ひとまずの安堵感にほっと息を吐き、濡れた服に手を掛ける。
着た覚えのない黒づくめの衣類ということもあるが、造りが分からない上に水を吸った重さで脱ぐのに苦心した。
ようやくと釦を全て外し、脱ぎ捨て丸めた衣類を屋根下にあった柵に引っ掛ける。
そこでようやく見えたインナーすらも案の定身に覚えがなく、更に言えばそれも真っ黒だったのには思わず溜め息。
はて、もしかすると自分は既に自分ではなくなってしまったのかと地面の水溜まりに目を向ければ、しっかりと自分の顔面が映ったので直ぐに目を逸らした始末である。
「ていうか、これは無くしてなかったのか」
胸元で揺れていた首飾りが眼下に入り、ふと銀色に輝くペンダント部分を手に取った。
便利屋階下に住まう初老の優し気な顔が頭に浮かぶ。
これは彼――ヴィリアからお守り代わりで貰ったものだった。紛失していなかったのは、彼がもたらす加護か何かなのだろうか。
いや、そういう能力はないと言っていた気がするけれど。
「……腹、減ったな」
ぐるぐると腹の虫が鳴り出したところで、頭も徐々に覚醒し出す。
雨は一向に降り止む気配は見えないが、雨音は人を冷静にさせるという。お陰様で心にゆとりは持てるようになってきた。
一旦、状況は整理しておこう。
「とりあえず……アリムと戦った直後じゃなさそうだ。理由は場所が全然違うこと、俺の服が中二病になっちゃってることと――後は腕が付いていること」
誰も居やしないというのに、左手の指を人差し指から順に三本立てて言う。
「目覚めた場所からしてリシュエルさんが助けてくれた線はない。一番ありそうなのは……全部自分でやった、ってことかな」
その記憶はない。
だが自分でやったのだとすれば、まぁ理解の範疇ではあろう。服のセンスは理解し難いが、どうにかして都市まで辿り着いた可能性はありそうだ。
――で、ここで力尽きたのだ。
記憶がないのは、その前後で想像もできないような無茶をしでかしたのかもしれないし、或いは自分ではない外部の干渉によるものなのかもしれない。
とはいえ、その辺りを探っても何も出てきやしないだろう。
「時間は結構経っていて、そしてスラムがゴーストタウン化していて、なお且つこの現状は夢でもないと来た」
一応頬を抓ってみる。
うん、この地味な痛さは夢じゃない。
……大体読めてきた。
雨で冷静になった頭は、今この状況が何を指しているのかを冷酷に告げている。
この場所が間違いなく円状拠点都市エクサルだというのであれば――異様な静けさが全てを物語る。
いくらスラムとはいえ、通りに誰もいないなどあり得ない。民家に生活感すらないのはもっとあり得ない。
「――滅びた、か」
ぽつりと吐いた台詞は、雨の中に掻き消えた。
具体的にモールド・バレルが言う滅びは分からなかったが、人が住んでいないのは立派な滅びの形ではあろう。
どうすることもできないが、言い知れぬ感情だけは胸の内を伝っている。
――どうするべきかは思いつかなかった。
ここまでの経緯を知りたいものだが、そんなものが分かれば苦労しない。リシュエルの安否も知りたかったが、捜す術がない。
「……事務所、戻ってみようか」
冷静な頭が絞り出した結論は、その程度のものだった。
都市の中は広すぎるほど広いが、屋根伝いに上から進めば知っている通りにも出られるだろう。
寝起きで腹も減っているが体力は残っているし、そのくらいの確認はしないと次に進めない。
柵に引っ掛けた上着を一応回収し、現在地を再確認する。
道はしっかりと覚えておかねば――と。
そこに、蠢く何かを発見した。
建物の端で積み重なった荷に隠れていた形で、ぬうとその姿が出てくる。灰一色に染まった人型らしき何かがこちらに意識を向けていた。
人の形をしているが、そこには目も、鼻も、口もない。
何だと疑問を感じるより、身体が先に動いた。
半ば反射的に放った雷が、人型の何かを貫く。
すると煙のように霧散し、その姿は呆気なく消滅した。
「……今のは一体――」
と。
瞬きをした次の瞬間、視界には同じ立ち姿のソレがひしめき合うようにして立っていた。
彼らは顔のないその顔でこちらを確かに凝視しながら、取り囲むようにぐるりと全方位を塞いでいる。
「……っ」
いつから現れた?
分からない。ただ一瞬、本当に瞬きで目を閉じた瞬間に現れた。
直感が危険を全身に伝えている。この場に留まるのは不味いとすぐに理解し、建物の上へと飛び乗って逃走する。
逃げながら背後を振り向くが、追ってくる様子はない。彼らはその場で停止しながら、こちらの方角を正確に見続けている。
だがひとまずは抜け出したと、再び前へ首を戻して――事態はそう単純ではなかったと、ユラギは嘆息一つ。
「君達何……? 実体とかある?」
今度は屋根上の逃走経路を塞ぐようにして、ソレら人型の黒い何かが立っていた。自動人形と追いかけっこをしたどころの騒ぎではない、追われている感覚すらないのに逃げられる気がしないとはこれ如何に。
当然、彼らからの返答はなく。
ぬるりと眼前まで入り込んで来たその黒い何かの、腕部がこちらに伸びてくる。
「――それに、触れるな!」
どう対処しようかと思考を巡らせた時のことだった。
遠くからそんな声がして、ユラギは咄嗟に雷で腕部を焼き払った。
消え去るその姿が一瞬、灰色に霧散する姿を間近で目撃してようやく理解する。
こいつらは、害種なのだと。
そうと分かれば話は早い。身をくるりと回転させ、指先から放った雷で周囲一帯を凪払う。
立ち塞がるソレらを全て灰へ回帰させつつ、声のした方角へと直行した。
屋根伝いに飛んで行けば、そこに人影が映っているのが分かる。
ボロ布のローブを身に纏った、人間と呼べる人物だ。
顔は隠れて窺えないが、あの人型と違って実体がよく分かる。
ローブで体型が隠れてしまっており見た目から判断できないが、それほど高くはない身長と先程の高い声から判断するに、若い男か女性のどちらかと窺える。
ひとまず相手が人なら警戒する必要はないだろう、とユラギは屋根から飛び降りた。
その際、周囲を注視してあの人型が追って来ていないことを確認しつつ、声を掛ける。
「……いや、助かりましたよ。よく分かってなかったんですが、あの言葉がなかったら多分触ってたかも知れない」
「――よく分かってなかった? そんなんでよく生きられたわね」
辛辣な台詞に、ユラギは微苦笑を浮かべるしかない。
いや本当によく生きていたものだと自分でも思う。
「何、人探しでもしていたの? それならはっきり言うけど、諦めた方がいいわよ。もうこの辺りに人間が住める領域はない」
ローブのその人物は悔し気に言って、小さく首を振る。
「いや、人を探しているわけではないんですが……。それで、あなたの方はこんな危険地帯に何の用で来ているんですか?」
「人探し、ただ私の場合は話が別ね。こんな辺境の地に人の姿を確認したから、わざわざ探しに来たのよ。まぁ、その身のこなしなら別に要らなかったかしら?」
「あー……それ、もしかしなくても俺ですか?」
「他に誰がいんのよ。さっき言ったでしょ、もうこの辺りに人なんかいないの――って、え?」
その人物は途中で言葉を切ると、いきなりむんずと肩を掴んで寄せて来た。そこから覗く機械の腕を見てぎょっとするが――いや、彼女は自動人形ではない。
「ちょっとその顔見せなさい」
「うお、いきなりなんですか……」
半ば無理矢理向けられ、結果的にユラギ側も彼女の顔を直視することになる。
ローブから僅かに覗く、雨に濡れるブロンドの毛髪。
均整の取れた顔つき、強気な逆八の字の眉。
どこかで見たことがあるようなと思い返せば、該当人物はすぐに挙がった。ただその記憶から照合すると、少し老けたようなごほん、大人びたような雰囲気があるが……。
「……まさかアリア?」
「その名で私を呼ぶってことはやっぱり。てか愛称を許した覚えないんだけど」
「いや……うん。色々と俺の方も突っ込みたいところはありますが」
するりと機械の腕が離れ、ローブの中に仕舞い込まれる。
彼女は深い溜め息を吐いて、こちらから視線を外した。
モールド・アンテリアーゼ。
その腕がどうして機械化されているのかとか、どうして一人で居るのかとか、色々と聞きたいことはある。
だが――無事に生きているとは。
結局何もできなかったが故に、ユラギとしては合わせる顔はない。都市の中枢に連行されていたのなら、運が悪ければもう処罰が下り命はなかった可能性があったのだから。
どう声を掛ければいいのか。
誰か分からなかった時よりもどう話せばいいか分からず、首裏を掻く。
ユラギが口を開くより先、彼女がこう言った。
「――遅すぎるわ。あれから何年経過してると思ってんの、何もかもが手遅れよ」
「……は?」
ただその内容は、到底受け入れられるものではかった。
「いや、ちょっと待った。今なんて」
「手遅れって言ったのよ」
「それもだけど、違うそうじゃなくて……何年経ったって?」
「は? こっちだって正確に覚えてないわよ」
「……いや、え? まさか」
――目の前の全てが、色褪せるような気がした。
今、彼女は数年が経過しているとそう言った。
だが、そんなはずはない――とは、言い切れないが。
少なくともユラギの記憶では、そうはなっていない。
外の世界を旅していた時も、時間の流れが進み過ぎないようにリシュエルが気を付けていたはずで。
顔を真下に向ける。
気付けば雨は、少しずつ勢いを弱めていて。
波紋で揺らめく自分の姿は、しっかりと視認ができる。
その顔は――確かに、自分のものではあったのだが。
よく見れば、アンテリアーゼと同じように少し大人びて見えたのだ。
「……幾つか、聞いても?」
「まず離れるわよ。一掃したとはいえ、そろそろ復活して襲ってくる」
彼女は遠くを睨むようにして吐き捨て、ユラギの腕をその機械化した腕で掴んでくる。
「――早くなさい。動かないなら置いてくわよ」
「あ、ああ……すみません」
半ば引っ張られるように彼女に連れられ、ユラギはその場を後にする。
まるで迷子の子供のように、もしくは酔っ払いのような覚束ない足取りでどうにか彼女に付いて行きながら、現状を纏めようとする。
だが最後までうまく纏まることはなく。
ただただ彼女の「手遅れ」という言葉が、胸の奥に残るだけだった。
◇
「ひとまず危険区域は脱したわね。この辺りなら敵性個体は減るだろうし……」
しばらく歩いていただろうか。
高い建物が近くに見え始めた頃だった。
通路脇で静止し、彼女はそう呟いてからユラギの腕を離す。
「あとアンタ引っ張るのも疲れたし……で。急に意気消沈して、何? むしろ何にショックなのかこっちは全く分からないワケだけど」
「いや、なんていうか」
「聞きたいことあんでしょ。何よ、アンタに関係ありそうな事だけ返事はしてあげる」
それは暗に自分の腕について訊くなと告げているのだろうか。それとも彼女の現在の境遇を詮索するな、と釘を刺しているのだろうか……。
モールド・バレルとの関係がどう響いているのかは分からない。だが、それは無暗に聞いていいことではないし、彼女は言うなれば被害者側である。知りたいのは向こうだって同じだろう。
流石に気になりはするが、ユラギとしても知りたい事柄は他に多い。
改めて彼女の顔を見て、ユラギはこう尋ねる。
「一応確認しておきますが、都市は滅んだんですね」
「見て分かる通りね。そこかしこに害種が蔓延っているのだから、加護もへったくれもないってのは分かるでしょ? 冒険者なんだから」
アレが害種なのは、外に出たことがあるなら理解が及ぶ。
存在そのものは解明すらされていないが、個体としての形を失う時は必ず灰と化して空間に溶けていくのは共通事項だ。
「じゃあ、手遅れっていうのは?」
「……もしかすると、あの時アンタが来る事で少しでも事態が好転したかもしれないってだけ。悪いわね、さっきのは思わず出た愚痴みたいなもんだから、ごめんなさい。忘れて頂戴」
こちらを睨むわけではないが、しかし苛立たし気な様子で彼女は答えた。
――ユラギが来ていれば何かは出来た可能性があった、ということだが。もう彼女からすれば数年前の出来事、になってしまっているのだろう。
どこか大人びて、達観すら感じさせる顔付きが物語っている。
だがこれがユラギには分からない。
――その間の記憶もないのだから、それすら分からない。
「まさかそんなに遅くなるとは、思わなかったですよ」
「そうらしいわね。話し方で察していたわ。けど、よく戻ろうと思って戻ってこられたわね。あの時出会えなかった時点でアンタが生きている可能性は考えてなかった。むしろどうやって来たのよ?」
「それが、俺には分からないんですがね」
「は?」
正直に答えれば、彼女の眉が更に吊り上がった。
いや、言われた側からすれば至極真っ当な反応だろうが、そうと答えざるを得ないのが実情だ。
「俺からすれば、数年が経過したっていう事実を呑み込むのが難しいくらいです。俺自身、どうやってここまで来たのかすら覚えていないんです。信じて貰えるかは分かりませんが――俺は今から数年間分の記憶がない、そういう状態らしいので」
他人の出来事を語るみたいな言い回しになってしまったが、努めて冷静に判断を下すとそう捉えるしかなかった。
ユラギ自身も歳を取っているであろうことから、それは確かだ。
リシュエルの計算が仮に狂って時間軸に差が生まれたのだとすれば、自分は数年前から一切変化していなければおかしいのだから。
「ああ、誤解のないように伝えておくと。あなたをアリアと呼べることと、その日から恐らくは数日程度先までの記憶は残ってます」
リシュエルと旅をした月日はこちらの都市換算では逆に数時間程度の出来事に集約されているはず。やはりアリムと戦った後、劇的に状況が変化してしまったということらしい。
「記憶がないですって……?」
「ええ、まあ。目覚めたらスラムの路地で雨に打たれてたもんでして。何らかの手段で俺を捉えて、探しに来たアリアの方がよほど詳しいと思いますよ」
「ねぇ。色々言いたいことはあるけど、まずアリアと呼ばないで」
「……じゃあ、アンテリアーゼ、様?」
「――アンタがそれで本当にいいなら別に構わないけど?」
瞬間、いつかの嫌な出来事が脳裏を駆け巡った。
ユラギとしては今からでも無かった事にできないかと考えるほど。ごく最近の出来事だというのに人生の中で結構な大失態だし、その張本人とこうして話している事実がもう嫌だ。
「やっぱなしでお願いします」
「あっ、そう。まぁ大体分かったわ。その落ち込み方の割りに、軽いのも理解した」
「軽い……?」
「アンタはこの都市がどう変質したのかを知って訪れているわけじゃない。だから、案外反応が軽かったってだけ」
何が軽いのかと問えば、その返事ではユラギとしても納得せざるを得ない。記憶がなくなっていることへの扱いが軽いのは否めないが、世界と比べたら塵芥のようなものだし。
そして、それはユラギが尤も知りたい情報である。事情を探るに最適な人物と最初に邂逅できたのは、不幸中の幸いと言えるだろう。
「――結論から言えば、都市は崩壊したわ。害種が蔓延ってる今、最早ここは外の世界と変わりない」
「俺も交戦したのでそれは分かっています。でもアンテリアーゼさんのように、どこかで生活している人達はいるんでしょう?」
「……ええ、まあ肯定はしておくわ」
良かった、と胸を撫で下ろす。
害種に襲われてそのまま全滅とか、そんな状況になっているのが最悪のケースだった。
当然犠牲になってしまった人もいるだろうが……助けられなかった者をユラギが悔やんでも仕方がない。既に全力は尽していた上での結果なら、どうしようもできないのだから。
「で、これがアンタにとって重要で最悪の報告」
「……俺にとって?」
「そう。いい? 落ち着いて聞きなさい。これを聞いて、真っ先に飛びすんじゃないわよ」
「俺をなんだと思ってるんですか」
彼女はふん、とこちらを馬鹿にするように鼻を鳴らした。
それから、機械化されていない生身の腕を伸ばし、空を指差す。
正確には空ではなかったが。
目線で追った先、ぼやけてうっすらと見える高い建物を指しているのだろう。その建物は立地が悪くない限りは大体都市のどこからでも見える、待ち合わせの目印にもならない中央区画の塔だ。
かつて都市だった頃は、あそこが中枢と言えたのだろうが……。
「都市の機能が確実に崩壊すると知って、まず奴らは――都市全体の八割を放棄した。そこに残る住人や対処に当たる人員関係なく、加護を消したのよ。そして、残った二割を外界から封鎖した。あの塔の周辺がそうね」
「……それが最悪の報告、ですか?」
いや、違うのだとは分かっていた。
何せその報告だけで捉えれば、まだ機能が残っている区画があるということ。最悪と言うからには、問題はそれではない。
「封鎖にあたり、私のような者も含めた外の人間は例外無く放逐されている。でもね、当然でしょ? 安全がそこにあるとわかっているのなら、皆そこに逃げるわよね」
「……まさか入れないと?」
「全員、殺された」
冷え切った声でそう吐き捨て、彼女はユラギの反応を待たずに続ける。
その怒りと後悔の混ざり合ったような複雑な表情で、遠くの景色を睨みつける。
「理由は知らないわ。ただ恐らくは、定員にでも達していたんでしょうね。二割の区画で生活可能な人間の許容量を越えたのなら、後は邪魔でしかない。都市にとって益より害の方が勝ったから排除されてるんでしょうね」
それはあまりにも理不尽が過ぎる――だが、あり得ないと頷けないほどではない。
この都市は既に、それと似たことはやっている。元々が外界からの接続を断ち、殻に閉じこもった理想郷として繁栄を続ける閉じた世界なのだから。
それが緊急事態に陥り、理想郷とする範囲を大きく狭めたのなら、そこに住める人間の絶対数は大きく減少する。
彼らならば少なからず排除の選択を取る可能性はあった、が――。
だが、問答無用で始末する理由がどこにある。
疲弊した中で残りの全てを切り捨てて、外の八割を敵に回す力があるわけがない。
いくら何でも非合理的な判断だ。
「そう、あまりに非合理よ。私達を敢えて敵に回してまですることじゃない。でもね、可能だったからやったのよ。私達を無理に受け入れて害種を運び入れるよりは、良いと判断したということ」
そして、と続けて。
彼女は力なく、そう告げた。
「それをやったのが――アンタの上司。ランシード・ソニアよ」
次回が今章のエピローグとなります。
あと全然関係ないことですが、今日が僕の誕生日だということに今日気付きました。自分、おめでとう。




