三十話 ■■■
失敗は成功の母、という諺がある。
何事も最初からは成功しない。大切なのは失敗を重ねても諦めず挑戦を重ね、そうして一歩ずつ成功へと近付いていくことなのだ、と。失敗には原因や理由が必ずあり、それを一つ一つ丁寧に取り除いていけば、必ずや成功という道に到達できるというわけだ――。
「独り言ぼやいてないでさっさと行きますよ」
「や、待って下さい。この前は失敗に終わりましたが、今度こそ行ける気がするんですって。確かに実感は」
「無茶しないって台詞は嘘だったのですか」
「む、無茶ってほど無理はしてないっていうか、ではあと一回だけというのは」
「いやです」
げし、と脛の辺りに重い蹴りを受け、ユラギは大きくよろめいた。
前のめりになった身体を支えようと出した片足が地面に伸びていた蔦に引っ掛かり、鼻先から土へと盛大にダイブする。地面がぬかるんでいたのが幸いして痛みは軽減されたが、顔が泥パックになるのは当然の結果と言えよう。
「ぺっ……酷過ぎない? 俺はそう思います」
口の中に入った汚れを吐き捨てつつ抗議すると、顔を泥だらけにしてくれた下手人はこちらを見下ろし、呆れた様子で溜め息を吐いた。
「――割と自信満々そうだったから私は承諾しましたが、あれから何日無駄にしたと思っているのです? 力尽きて倒れるユラギさんを丸一日介護するこちらの身になってください」
「……もうちょっとで感覚を掴めそうなんですよ。何で失敗するのか分からないくらい、これは本当に次こそは成功できても」
「しつこい男ですね。三回ほど死んでください」
「暴言に遠慮がなさすぎる……せめて嫌われる工程は挟んでいいのでは?」
顔の泥パックが乾燥して剥がれ落ちるまで抗弁を続けようとする意志だったが、彼女が再度の溜め息と共に身を反転させて一人で進み始めたので、ユラギは観念した。
ここまでのやり取りで察する通り、身体を電子分解し探知を行う試みはものの見事に失敗していたのである。しかも、一度や二度の失敗ですらないのは言うまでもない。
感覚的には冗談抜きで行けると踏んでいたが、そもそも身体を電気に変えることさえ出来なくなっていたのが想定外の一つであろう。拉致されたあの空間内を駆け抜けるのには成功したのだが、同じように力を込めても能力は上手く起動しなかった。
どころか、余計な力を消耗する感覚と共に――何故か、全力疾走で数十キロを駆け抜けたかのような脱力感が身体を襲ったのだ。それが倒れた理由。
これまで能力を使うこと自体による直接的な体力消耗はなかったはずなのだが、どうも勝手が違うらしい。お陰で最初こそ心配の様子を見せてくれていたリシュエルも、今では倒れると凍り付いた視線を浴びせてくるようになってしまった。
「……行けそうな気はするんですけどねぇ」
「まだ言いますか。蹴りますよ。大体あの時の一回が奇跡だったとは考えられないのですか? 奇跡はそう何度も起きません」
「奇跡で身体は再構築できませんよははは」
「はあ。蹴ります」
彼女はそう丁寧に宣言してから先程と同じ箇所にローキックを叩き込んで来た。痛い。
けれど痛いからと言って避けるともっと強烈な攻撃が飛んでくるので甘んじて受け入れる。偉い。
「いい加減諦めるとしますが……でも、引っ掛かってはいるんですよ。腑に落ちないというか」
「はあ。蔦には引っ掛かっていましたね」
「そっちじゃない」
既に話を聞いてくれる段階でもなかったので、ユラギは言い訳を止めた。
その後は今はどこを歩いているのだろう、とか意味のない思考逃避に走る。
「……うわ、手で拭うのにも限界があるな。お湯でも浴びたい」
沼で洗えとか言われるかも、と思ったがそこまで彼女は突っ込んでくれなかった。
――さて、何故能力が発動しないのかは自分の頭の中だけでも整理はつけておこう。
顔と前髪に張り付いた土と泥を拭いつつ、考える。
感覚的に出来そうなものならば今までも可能だった。しかし今は成功せず、体力までもが失われている。
ただ、能力の発動プロセス自体は問題なく踏めている。現に使ったその日は能力が使えない状態になっているからだ――いや厳密には使えるけどそれは置いておいて。
その先の成果だけを得られない、というべきか。
夢の世界、深層心理で彼が言っていたことを纏めれば能力の枷は外れているとのこと。身体が使用制限の撤廃された力に馴染めていないとか、そういうことなのだろうか。
結局のところ答えは出なかった。
自分の能力のことさえも不明瞭なのだから当然と言えようが……ただ、そこでふと気になる事があった。
能力に直接関係するものではなかったけれど。
きっと、そこから始まっていたのだろう。
リシュエルの勘に従い、ユラギはひたすらに後を付いていく。
時間的問題を除けば旅路は非常に安定していた。
ほぼリシュエルが全てを担当してくれたことが大きいだろう。比較的安全な道のりは彼女が確保し、食糧は彼女が確保し、移動と休憩の感覚も彼女が管理していたのだから当たり前だ。
「ぶっちゃけ俺ってお荷物ですよね」
「ぶっちゃけそうですね。訓練もしてないので普通だと思いますけど」
そう言ってくれるのはありがたい話だが、ユラギが役立たずという点に変わりはない。
その後、少なくとも旅路に於いて特筆するべき事はなかった。
道中で他の人間と会う事もなく、どころか人工物と思しき建物や景色を見る事さえなかった。ユラギにとってはそれがどの程度の確率なのかは推し量れないが、リシュエルからすればさして珍しいことではないのかもしれない。
ともかく、話すべき事柄はない。物語足り得る出来事はその間一切起こらなかった。
順調に続く、いっそ退屈とさえ言える長い旅。
ただ、そう。
それは小さな違和感から始まって。
――ユラギの中で、無視できない段階まで膨れ上がっていた。
◇
「この辺りでお休みを挟んでおきましょう」
彼女の一言で、本日何度目かの休息になった。
丁度良い洞穴の中へと侵入し、道中で見繕った毛皮を敷き、ユラギは腰を落ち着ける。
逃亡の日から果たしてどれだけの時間が経過したのだろうか。太陽の動きで正確な日数を測れない以上、時計も持たぬユラギには分からない。
しかし、体感でかなりの日数は経過しているはずだった。
「リシュエルさん」
「はい? どうしたのですか」
慣れた手つきで鞄を漁っていた彼女がこちらに視線を向けてくる。
旅を続ける内、随分と生活も潤ったものだ。
着の身着のままで放り出された最初とは違い、今や草編みの鞄から保存食を出す姿が見られている。内容は採取した野草類や干し肉など、中々に充実している。
倒した獣から剥いだ毛皮の絨毯も生活には便利過ぎるほど。
当然、ユラギは製作に何の関与もしていない。彼女が持つ知識と技術が実を結んだ結果と言っていいだろう。
――その姿を見る度、ユラギにはそれがもう戻ることを考えていないように見えていた。
「いつからですか」
だからそう聞いた時、彼女は一瞬表情を強張らせた。
「……何がです?」
と、はぐらかす言葉にいつもの調子はなく。
いずれそうと聞かれることが分かっていた顔で、いや、と首を振った。
「まぁ……あなたは勘が鋭いので言い訳はしないでおきます。これでも本気で動いていたのですよ? ただ、帰り道なんて私には分からなかっただけなのです」
「そりゃあそうですね。いくらリシュエルさんが頼れる人でも、出発点も不明な場所から都市まで帰れるわけがないですから」
この世界はそんなに甘くはない、というのはリシュエル本人から散々学んだことである。人はその状況を打開するために冒険者を生み、どうにかして抗っているのだ。彼女の勘一つで気軽に帰れるならそんなに深刻でもない。
「それが分かっているのにリシュエルさんに焦りの様子は窺えなかった。そして、帰り道が分かっていないのに、俺が能力を使うことを止めていた――だから、聞きました。俺に言ってないことありますよね?」
「……いえ、ないですよ」
「隠し事下手くそですか。あるって顔してますよ」
「顔は何も言ってません。ありません」
「えぇ? 言い訳しないのでは?」
「それとこれとは話が違うのです……逆に何があると思うのですか」
「例えば〝アリム〟から何かを言い含められていて、話せない状況にあるとか」
「――っ」
再び彼女は、黙った。
もうそれが答えみたいなものだが、答えが得られないのなら聞くしかない。
彼女から帰り道が分からないと白状したのだ。ならばユラギの行動を止めるのはおかしい。少しでも可能性が見えているなら、彼女ならそこで止めてくるはずがない。
「考え過ぎです。それに、ずっとあの自動人形はあなたといたではないですか」
「それなら俺が倒れている間にいくらでも話せますし、必ずしも言葉だけが伝達手段でもない」
「だったら今私達が逃げ続けてるのはどうしてです? もしそうなら二人で脱出する意味ないですけど」
そんなことはない。意味ならある。
「この壮大な時間稼ぎが全て、俺を都市へと辿り着かせない事だけを目的にしているなら意味はあります。リシュエルさんが俺と二人で逃げようが何だろうがアリムには関係ない。そうじゃないですか?」
「……ユラギさんは、本当に勘が鋭いのですね」
そこまで断言をすると、彼女は諦めたように白状した。
既に鞄から手は離れていて、視線はユラギを見ることなく下に向いている。
「それで……私をどうするのです?」
「どうもしませんよ、俺はリシュエルさんが敵だなんて言ってない。けど、アリムに何を言われて立ち止まっているのかだけは聞いておきたいと思ってます。それは、話せないことですか? 話さないだけですか?」
「どっちもと言ったら、あなたはどうするのですか」
やはり、彼女はアリムと何かを話していた。
そしてユラギに話していないことがある。その内容は話してはならないと言われており、なお且つ彼女自身も話したくはないこと。
多分それは――聞かなくても分かってしまった。
これまで言わなかったのは、彼女の優しさなのだ。
彼女から視線を外すようにその場で仰向けになった。ついでに両手も大の字に広げ、身体の力を抜く。
割とどうにも出来ない状況にあるということが分かってしまったからなのか……上手く考えが纏まらない。
少し、どうするべきか悩む。
――要は。
ユラギが都市へと戻れば、何らかの理由で死に至る。
意図して都市から遠ざけられたのだ、灰の浸食と共に発生する何かがそれを齎すのだろう。
その事実を理解したからリシュエルは何も言わないし、能力の使用も止めてきたのだ。
きっと彼女もどうしようもない状況にある。本当はすぐにでも都市へと向かいたいが、そうできずに苦しんでいる。
「どうするというか……何もできないままなら、例え死ぬかもしれなくても俺は行きたい。それが答えです」
「……分かってるんじゃないですか。まだ何も言ってないのに」
「リシュエルさんは違うんですか?」
天井を見つめながら、そう問う。
その時の彼女の顔を見ていたら、こちらを睨む姿でも映ったのだろうか。
そんな筈がないと分かっている質問だ、意地が悪いのは重々承知している。
「リシュエルさんだって、キースのことは」
「――行きたいに決まってます! でもそれをやるってことは、あなたの命を奪うってことです」
「拒否したって、俺は一人でも行きますよ?」
「あの……私の教え、本当に何も聞きませんね……私は! あなたが死ぬところなんか見たくないっつってんですよ」
「俺は死にませんよ」
一体なんの根拠があるかも分からないが、強く言い放つ。
その辺りはまあ、なんとかなると思う他ない。
どうにかする――そう、言い換えるべきだろう。
「死ぬつもりで行くわけじゃない。ちょっと無茶はするでしょうけど」
「ちょっと? 嘘を吐くな、あなたは死んでも自分の身体なんか顧みないじゃないですか。ちょっと一緒に過ごした私でも分かるほどあなたは馬鹿だしクソ野郎です」
「あの、酷くないですか?」
「死んじゃうんですよ! だって、あなたは……」
天井を見つめていたその視界に、彼女の姿が映った。
その顔は酷く辛そうに歪んでいて――当事者であるユラギよりよっぽど、深刻そうに見える。
見えるというか、実際そうなのだろうが。そこまでなのか。
「嫌に断定的ですね?」
「理由は言いませんよ。何ならあなたを置いて私一人で戻ります」
「いやそれはちょっと……あとリシュエルさんいないと俺サバイバルできないんで死んじゃいますけど」
「どうぞ死ぬならここで野垂れ死んで下さい」
「えぇ……」
情緒不安定か何かだろうか、とはもう茶化すまい。
以上の話から――ここでいくらぐだぐだしていても、戻れない事が確定してしまったのだから。
見下ろすリシュエルに、目を向ける。
「じゃあ、俺は行きます」
言って、上体を起こすと――両肩を勢いよく掴まれた。
「駄目です」
「嫌です。戻るつもりないんでしょう?」
「ユラギさん一人でどうするつもりですか」
「まぁ、気合で」
「馬鹿ですか?」
肩に置かれた手を退けると、意外にも抵抗は弱く。
あっさりと離れたところでユラギは立ち上がった。
彼女はこちらを強く睨むだけで、これ以上引き留めようとしてくる素振りはない。
本気で心配してくれているのは……分かる。
だが、ここで諦めるという選択はしない。
まだこの命でやりたいことは残っている。
それにここで戻らない道を選んだら、一生ランシードと会えなくなる気がしていた。
だから、歩みは止めない。
「行かせませんよ。どうしてもというのなら、私を殺してから行くんですね」
――洞穴から出ようとした身体が、ピンと張る糸に拘束されていたと気付いたのは、その時だった。
「糸……ですか」
皮膚が裂ける寸前にまで食い込んで、一歩でも離れようとするユラギを強固に押さえつける。
肩に手を当てた時か、或いはもっと前から予見して引っ掛けていたのか。なるほど、彼女の本気度が窺える。
何を知ってしまったのかは知らないが、よほど明瞭な絶望を叩きこまれたのだろう。それも、挑む選択を彼女から奪ってしまうほどの、凶悪なもの。
……これ、どうしようか。
「あー、リシュエルさん、ばらばらにして俺を保存食にしようってわけじゃないですよね」
「あなたは雷で私の糸から逃げられませんし、無理に抵抗すれば糸はより絡まります。もう、諦めてください」
「……分かりました」
何が分かったのかとは自分でも思う。
そう言われて考え付いた行為は彼女の思いを踏み躙るものにしかならないが、それでもだ。
彼女がそこまでするように、ユラギにも譲れない一線があった。
歩みは止めない。
ぎりぎりと皮膚へと食い込む糸がより深く内側に潜り、やがて赤い線が走り出す。
このまま無理を通せば骨まで断ち切られ、やがてはハムのようにばらばらになるだろう。皮膚から流れ出す血液に内心恐怖は込み上がるが、それでも足を前に踏み出す。
――はらり、と糸の拘束が解かれた。
僅か視線を落として確認すれば、まだ浅い位置に食い込む糸が緩んで垂れている。他の部位も同様に拘束は解かれているだろう。
ずきずきと広がる痛みは継続しているが、これ以上傷は広がらない。
彼女はユラギを殺すつもりが無かった。
それを利用した最低な手口。自殺を図ることで相手に止めさせる。
自分でも最低だとは思うが――それは全てを終結させた後で、清算しよう。
「……ありがとうございます」
言って、振り返らずに進む。
理性的な事を言えば、無理してまで向かう必要はないと誰もが答えるはずだ。そもそも、野垂れ死ぬ可能性だって高い。
ただ――これから都市に起こる事象を知って、ひっそりと隠れてやり過ごすつもりはない。
〝あのランシードなら、きっと大丈夫だ〟。
そういった思いは確かにある。何故ならユラギより遥かに強いから。
でも同時に嫌な予感も走っている。
そんな時にようやく、この力でしか取り払えない物が出てくるはずだ。
――なのに諦めて取り返しの付かないことになっていたら?
それだけは嫌だった。そんな選択で後悔することだけはしたくなかったのだ。
「俺が何らかの形で関係しているってのは、疑いようもない事実だから。今都市に在る筈の何かを、或いは誰かを俺はどうにかしなくちゃいけない……はずだ」
さて、本番はこの後だ。
殺されることがないと分かっていたからこそ、糸の拘束を外せただけ。
どうして彼女がユラギの知り得ない何かを知っていたのか、何故この能力の発動に支障が発生したのか、どうして時間稼ぎをされていたのか、答えは探る必要がない。
休息の場としていた洞穴から一人、抜ける。
少し視界が開けた目の前に、一つの影が降り立った。
それは紫を基調としたゴシックドレス。リボンと華の装飾が風にふわりと揺らめいて。
漆黒の髪の元、輝く紫紺の瞳がこちらを射抜いていた。
「いるとは思ってましたよ。表に出てくるとは思いませんでしたが」
彼女は微動だにせず、出方を窺うように佇んでいる。
幸い向こうから仕掛けてこないのなら――ユラギは周囲へ意識を巡らす。
まず真正面。彼女が塞いでいる先はユラギとリシュエルがやって来た方角で、獣道だが安全な道が続いている。仮に彼女を堂々と退けて通れるのなら、それが一番良かっただろう。
背には洞穴とどこまでも続く断崖絶壁。登って逃げようなどという考えすら浮かばない。
そして、両サイドには隆起の激しい岩肌と木々に囲まれた景色が見える。彼女から逃げるならばどちらかに振り切って、全力で駆け抜けるしかなさそうだが……。
「どこへも逃げることはできませんよ」
「どうですかね。案外、何かあるかもしれませんよ?」
それが無理だということは、身体能力とスタミナの差で明らかだ。
勝手知ったる街中での逃走劇すら酷いものだったというのに、こんな地形で後先考えずに動き回ったら、撒けても二度と元の場所へは帰れないだろう。
それに、リシュエルと共に居たから心配せずに済んでいたが、逃げた先こそ危険な場所である可能性はある。手に負えない化物が潜んでいたらおしまいだ。
「雷に変換して逃げるつもりなら不可能です。封じられていると理解しているのでは?」
「やっぱり、あなたの仕業でしたか」
「そう何度も逃げられては困りますので。大人しくして貰います」
「大人しく? そんな往生際が良かったら、ここまで抗わない」
アリムの全身から、視認できるほどの力が溢れ出した。
紫色に染まる塊の幾つかが追尾するようにこちらに飛んで来て――強引に腕の力で弾く。
後方へと弾けるそれらは岩壁を削りとって爆砕していくが、洞穴が崩れる様子は見えない。そこだけはちょっと安心。
「うわ、飛び道具とか卑怯なのでは」
「あなたも使えばいいでしょう」
「いや無理ですけど?」
もう、あの手段は使えない。
彼女の邪魔の範疇がどこまで及ぶか不明な以上、逆に意識を削ぎ落される危険の方が高いだろう。
紫色に膨れ上がる力の本流。キースと同じ、けれど彼と違って完成されたその力。
能力の強度ですら負けている上に身体能力も勝てないと来れば、最早選ぶ手段がどこにもないではないか。
――次弾が飛んでくる。
こちらの体力が尽きるまでそれは止まないはずだ。なら防戦を張り続けたって無意味。
だったら、彼女に唯一勝ると言えるもので勝負を掛けるだけだ。
「ならば抗うのを諦めてしまえばいいではありませんか」
「それはお断りです」
「――っ?」
「諦めたら俺は俺じゃなくなるんで……ね!」
逃走の一手は捨てる。ユラギは奥歯を噛み締め、勢いよく彼女の懐へと飛び込んだ。
当たれば頭一つ吹き飛びそうな力の塊が、頬を切り裂き後方へ抜ける。
更に一歩、地面を割り砕いて加速し接近する。
その自殺とも思える行動に意表を突かれ、アリムは一瞬動きを止めた。
「近接戦闘でワタクシに勝てると?」
「いやあ、それはちょっと無理」
その身体ががちり、と人成らざる音を立て、ユラギの特攻を迎え入れる。
実際、アリムの言葉は尤もだ。人の可動区域を大きく逸脱した自動人形に接近して殴り合えるはずもないし、関節技や投げ技を用いた体術も通用しない。
殴り飛ばせば砕けるのはこちらの拳だけ。
そんな反則的な身体にダメージを与えられる方法など、ユラギが知る中で一つだけだ。
眼前まで接近した身体を僅かに屈め、彼女の攻撃範囲に入る前に飛び上がる。
宙返りの形で頭上を取って――右手に雷を収束させた。
この位置ならぎりぎり可動域の範囲外、接近できないならぎりぎりから――流し込むしかない。
五指の先端に青白い雷が迸る。雷に固定した能力の極限。
限界まで溜め込んだそれは掲げた先へと集まり弾ける。
――どうやらこの段階であれば、いくら力を注いでも阻害はできないらしい。
「霹靂神!」
放たれた雷の暴力がユラギの視界を全て呑み込んだ。
連鎖する耳鳴りが鼓膜を叩き、力の余波が大地へ流れていく――。
だが。
晴れた視線の先には彼女の姿は認められない。
「アルムを破壊した一撃よりも強力なものですね。当たるわけにはいきません」
「今のを簡単に避けちゃいます?」
「ワタクシが瞬間移動可能なことを、あなたは知っているではありませんか」
身を捻って着地するユラギの後方、視界の端にて。
余裕気な返事と共にゴシックドレスが揺れるのを片隅に確認する。
彼女は獣道の真ん中を陣取り、ユラギの逃走経路を再び潰す形で立っていた。
「まだ続けますか?」
「えっと、続けないって言ったら帰ってくれたりするんですか?」
「いいえ。あなたの意識を奪います」
「まあ、だろうけど……なら!」
問答の内にも攻撃の手は止めない。
右手に溜めた雷と同じ要領で、放つ直前から左手にも溜めていた雷を――。
直線状に、叩き込もうとして。
ごとり。
重たげな音が足元に聞こえた。荷物か何かを落としたような鈍い音だ。
突如身体の重心が崩れそうになるのを抑え、その原因を見る。そこにはあるべきはずのモノがなかった。
直前まであったはずの自分の腕が、肩から先が存在しない。
「な――っ、あが、ああああ……ああああぁ!」
ユラギは理解する。
倒れそうになったのは彼女の術の影響下にあるわけではなく、振りかぶろうとした腕が無かったからだ。それに気付いてしまえば痛みは際限なく広がり、嫌な寒気と激痛の熱気が同時に全身を駆け抜ける。視界の端に、見慣れた腕が転がっている。
その手の平から青い電流が小さく走り、弱々しく地面に流れて霧散していく。
「く、あ――」
これまで身体が引き千切れるような痛みにも、内臓が貫通する錆びた痛みも、死の直前の喪失感も味わってきたけれど。
腕が直接落とされた時の、寒気のような神経の痛みが頭から離れない。
寒い、痛い。もうないはずの腕の神経が熱を帯びたように叫んで、指先が感電したように震えている。
「まだ、続けますか?」
そんな怜悧な声が、上の方から聞こえた。
僅かに顔を上げる。眼前にまで接近した彼女の顔を見上げる形だ。
彼女との身長差はそこまでないはずだ、と――気にする必要すらない疑問を抱いた後に、自分が膝から崩れ落ちていることに気が付いた。流れる鮮血の上に倒れ込んで、落とされた腕の前で無様に左肩を抱え、無意識に震えていたのだ。
まるで戦いになどなっていない。こちらは端から全力で飛ばしているというのに、まるで赤子のように捻られている。
前回やり合った時にはそこまで実力に差の開きはなかったはずだ。拮抗はできないまでも、多少抵抗する余地はあったはずなのに。
「……はぁ……ふっ……う……、ま、だだ――」
駄目だ。ここで諦めてはいけない。
ユラギは即座に弱気な思考を切断し、自分を心中で叱咤する。
腕を失くしただけで恐慌し意識を失うなどふざけるな。
まだ何もかもが終わっていない。
戦いは続いているのに、途中で眠っていいわけがないのだ。
まだ手は残されている。
腕が身体から離れただけなら、一度肉体の一部を電子化させれば再構築も可能なず。
道こそ細いが反撃の糸口はそこからでも、まだ。
「その能力は封じてあると言ったはずですが」
――何かに弾かれたように、意識が遠ざかる気がした。
これは出血によるものではない。激痛のショックでもない。
ああ。ああ。そうだった。
〝雷〟の範疇を逸脱した能力は発露の段階で阻害されていたはずなのに、何故この土壇場で忘れてしまったのだろう。反射的にそれを使おうとした反動で、全身から力が急速に抜けていく。
抗うこともできず、頭から地面に倒れていく。
眼球すら動かせない視界が、アリムの足元を映していた。
徐々に視界が狭まっていく。いくら駄目だと意識を強く持とうとしても、抜ける落ちる力がそれを許さない。
「俺は……こんなところで、倒れる、わけには」
せめて、ランシードに報告くらいはしないと、いけない。
最悪でも現状は伝えなければいけない、のに。
意識は無慈悲に薄れていく。
やがてアリムの足元さえ見えなくなり、黒く目の前が塗り潰される。
自分の中の何かが消えていく寒気が最後に全てを支配する。
意識が奥底に沈む。
……――。
■せ。■■■せ。
■■■は■■■■呼■■■■。
――――――――。
◇
「気絶しましたか。完全に死亡してしまう前に、処置を施さないといけませんね」
血塗れの道でぽつんと立つ少女は、眼前で倒れ伏すユラギの腕を持ち上げる。
その断面図を紫色の力で包むと、空中へと浮かべた。
その背中側から、長身痩躯の男がやってくる。
「――終わったみてぇだな。しかしやり過ぎじゃないか? 俺は腕まで斬り飛ばせとは言っていなかった気はするんだが」
「マスターは〝気絶させろ〟と仰いました。殺さなければ方法は問わないと」
「そうは言ったかもな。方法はそもそも問う以前に何も言ってねぇけど……あー、まあ……いいか」
ぼりぼりと金色の毛髪を掻き分けて頭を掻き、男はユラギを見下ろす。
その目は虚空でも見つめるかのように、感情は篭っていない。
「これで二度目になるのか?」
「いいえ。百年前とは状況が異なっています」
「それもそうだが結果は同じだろう。俺ももう待てねぇし、待つつもりもねーな。あと時間がねぇ」
「なら、どうされるのですか?」
「残された神の都市はラス一だろ。そこが潰えたらおしまいなんだ、流石に俺が動くしかねぇよ」
「では、彼はどうしますか?」
男は答える。
「傷は治してやれ、だが捨てては行くぞ」
「畏まりました」
少女は浮かべた腕を片手で押さえるようにすると、それを倒れ伏すユラギの肩へと接合する。切断面が綺麗に重なり合ったところから紫色の力が溢れ――傷口が、急速に塞がっていく。
「じゃあな。揺樹」
そう言って、男は振り返らずに去っていく。
その背を、自動人形の少女が追い掛けていく。
――そのやり取りを、どこか遠い遠いところから、聞いている人物が居た。
深海で漂う不思議な心地の中で、ぼんやりと状景は揺らいではいたけれど。
それは小さなモニター越しの会話を、傍観者の如く眺めていただけだけれど。
彼は、悲しそうな、嬉しそうな、けれども諦めたような――複雑な顔を一瞬だけ見せて、そして最後に笑って。
「じゃあね」
そう言って、掻き消えた。




