二十五話 一方その頃、便利屋の主人は
凍結した空間で戦う姿が二つあった。
凍った壁と床とを跳ねるように飛び回り、黒装束が背後より少女へ迫り来る。
逆手の刃が首筋へ軌道を描く。
「――っ!」
首元へ突き立てられる寸前、表面で弾けた氷で刃先が滑る。寸でのところで致命傷を避けた少女がランシードの下方へ身を落とす。瞬間、彼女を包むように空間が歪んだ。
小さな身体が歪みに呑まれ、虚空へ消える。
退避した先は両者の間合いから少し離れた位置だ。
叩き付ける乱暴な音と共に着地し、少女は蒼白の髪を振り乱す。
「さては、私が言った言葉の意味、分かってないですね?」
「いや?」
対して、ランシードは黒く塗られた刃を横へ振るう。刃先から血飛沫が走り、再び構えた逆手に刃が隠蔽された。
暗闇に溶ける暗色の刃に、隠匿する得物の手捌き。
自らと変わらぬ背丈の女は噂に違わぬ存在であった。
都市を都市たらしめる治安維持装置、その暗殺者としての姿に気圧され、少女は一歩後退する。
すぐ背後には小さな机、椅子、転がる魔導書。
そして壁の隅に倒れ伏す小太りの初老。
ランシードとの戦いで意識を断ち切られたマイルズ・オーガンだった。
「ああ、もう、やりますよ……私が」
少女の顔が歪められ――瞳に、僅かな輝きが灯った。
それは何らかの能力の予兆であり、ランシードの脳裏にユラギとの会話が蘇る。つい先日ユラギが触れていた話題の一つで、あれは神の力を宿した少年の話であったか。
目の前の少女がそれを披露したなら、まず当てが外れることはないだろう。であるとすれば、周囲を包む異質な氷壁にも納得が行くというもの。
ランシードは少女が放った言葉を改めて復唱する。
「逆らえばユラギの命を奪う、だろう」
「嘘でも、はったりでもないですよ」
「承知で刃を振り返したのだよ。君は、私にこれ以上の返答を要求するのかい」
「はっ――その言葉、撤回しても遅いですよ」
瞳が強く輝くと、彼女と初老を蒼光が包んだ。
青という色。氷という概念。時間操作にほど近い異能。能力の傾向は掴めたが、完全な解析は不可能であろう。
全力を賭してその異能を逃走に使われたのなら、ここで打てる対処はない。
早々に見切りを付け、ランシードは動きを止めた。
少女と初老の姿が蒼光に包まれ消えていく。
その直後、氷の世界が溶け出した。能力の影響力が弱まったためだろう。周囲の変容を確認しつつ、ランシードは刃を懐へ収納する。
襲われても彼らが堂々としていたのは、最初から逃走の算段まで付けていたからか――。
「クルーエル・ブルーブック、と名乗っていたね」
聞き覚えのない名前だ。
ランシードが知る限りの情報網にはなく、ユラギとの会話にも出ていないが、あの少女がマイルズ・オーガンの切り札なのであろう。
脅迫を行った以上、ユラギを狙おうとするはず。
個別に動いている彼が現在何をしているのかは不明だが、それを原因として動きを縛られるわけにはいかない。
「だが……心配はすまいよ。ユラギが望んで入った世界だ」
それに、彼はただの足手纏いではない。
高い理想と現実的な思考が噛み合っておらず、行動に危険が伴うことはあるものの、ユラギという人間は確かな実力を備えている。
「私が関与しておらずとも、恐らくユラギ単体でも目は付けられていたはず。原因は雷と見るべきか……こちらへの脅迫は、ついでみたいなものと捉えるべきだろうね」
ふと、彼らの言を思い出す。
純粋な人間が減ることで加護が無くなり、都市としての形を維持できなくなるという話だったが――。
「さて」
一つ息を吐いて、ランシードは目を閉じる。
本来なら暗闇に閉ざされる視界の奥に、青白い光の線が走った。やがて精巧で立体的な建物が映し出され、ランシードを中心に広がり都市の全体図を描き出す。
その中、外側へ移動する赤い点が二つ。
それは紛れもない現在の都市の姿であり。
ランシードには、都市に害意を与える者達を視る時のみ作動する力が備わっていた。よほどの対象ではない限り発動とはならないが――つまり、その力の意味するところは。
閉じた視界に映っていた都市が、ちかちかと歪に明滅して消え去る。
ゆっくりと瞼を開け、ランシードは呟いた。
「そうかい。私の代で終わるのだね……この家業は」
この都市は、人によって繋ぎ止められている。
言葉の綾ではない。神という支柱を失った都市が人という種を代用にすることで、かつての存在を維持している――しかし、代用できる人の数を維持できないなら、終焉は時間の問題だ。
御柱の一つが砕け堕ちていることもあってか、ランシードに与えられている権能にも支障を来している。
「彼らは本当に終わらせるつもりなのだな。その上で、免疫機構の私に静観していろ、と」
ランシードは都市の権能を受け、殺すことで繁栄を担う者。
その人間が都市に存在する以上の害を及ぼした時、対象を殺害することで結果的な延命を図る――故に暗殺者。そういう家系であり、既に何代も昔から引き継がれてきたものだ。
そして、殺しの基準は都市が持つが故に、不当な殺しはなくとも不誠実な殺しは幾度となく行われてきた。
ユラギに裏側と伝えていた暗殺者の実情は、そんなところである。
だから、力を知った上でランシードに近付く者はほぼ存在しない。
暗殺者は都市の基準を実行するだけの装置と同じ。その手が止まらないとくれば、当然の反応だ。
「……けれど、やることはそう変わりはしないな。どちらにせよ、私は依頼を遂行する」
そう、しかしこれは依頼である。彼らは都市に仇なす大罪人であり、同時に依頼主モールド・アンテリアーゼを救出する要である。その為に動いて来たのだから、仮に役目が無くとも何も変わらない。
来た通路を元に戻って外へ出、ランシードは一度建物の屋上へと駆け上がる。都市を一望可能な位置取りを――取る必要さえなく、現状が目に入ってきた。
青空に、灰色が侵蝕している。
都市の最端から霧のようなものが溢れている。
見下ろした視界では、人々がパニックを起こしている。
「……これは」
再び目を閉じるも、視界は暗闇に閉ざされていた。
事態が予想よりも悪い方向へ進んでいる。
きっかけは御柱が崩されたこととは言え、進展が早すぎるのだ。彼らが追加で仕掛けてきたと思う他なく――現状を鑑み、マイルズ・オーガンの追跡は不可能と判断した。
認識を改めるや否や、ランシードは事務所へ踵を返す。
最優先は現状把握と情報共有。この事態に気付いていれば、ユラギは戻っているはずだ、と。
◇
「ランシード君」
急いで事務所へと戻ったランシードを出迎えたのは、装飾品店であり便利屋の事務所を貸し出している大家――ヴィリアであった。
彼は一階の店先に出て外を確認していた様子で、ランシードの姿を目に入れると手を大きく振り、声を掛けてくる。応じて眼前で歩を止めれば、何かを察したか彼は首を横に振った。
「ユラギ君は、まだ来ていないよ」
「……感情でも読まれたかな? 分かった。情報感謝するよ、ヴィリア」
「君が焦りを露にするとは珍しいと思っただけだよ。それでこの状況は一体?」
「見た目通りというべきかな。お陰で仕事も中断して戻ってきた所だ……困ったね」
ヴィリアが眺める視界、モールド家の屋敷がある方角から、微かに盛り上がる灰色が視認できた。
距離こそ遠いが、放置すればあっという間にこの辺りまでやってくるだろう。
「まあ、そのようだね……っと、そうだ。小耳に挟んだのだが、中央を始めとしたゲートで都市間の転移が行えないらしい。何か知っているかい?」
「いや、初耳だが――それで住民が恐慌していたのだね」
「どうもね。僕自身は店から出ていないが……これは、店は諦める方向で考えなきゃいけないかなぁ……」
「どうかな。恐慌がゲートの封鎖を原因としたものなら、逃げる場所がなさそうだ」
空間を繋いで安全地帯へ渡るゲートが使えないというのならば、都市から先に逃げ道などない。世界は既に詰んでいる――今や、この小さな箱庭より外に安全な場所などないのだ。
答えれば、彼は険しい様子で顎を撫でる。
「……止める手立てはありそうかい?」
そう、不安げな声音が発される。
正に外側の脅威が都市へ侵入してきたのだ。
灰が何を齎すのかを正しく知らないとなれば、仕方がないのかもしれない。
ランシードは眉を曲げ、苦笑を浮かべる。
「私では無理だよ。実体化した個体を倒せはしても、根本は断てない」
「うーむ。まあ、だよね」
「ひとまず、店の安全確保が先決だろう。品の中には結界の類もあるのではないかな。灰の侵入に対処はできずとも、影響をある程度防げるかもしれない」
「もうやったよ。一応は君の事務所の分まで処置は終えている」
「それは、助かるけれど……いいのかい? そこまでして貰って」
「君の居場所でもあるからね。可能な限り守ってやりたいと思うのがおじさんの心だ」
ランシードは一度ヴィリアから目線を切ると、二階にある自身の事務所を見上げた。
「居場所、か」
「おや。不服かい?」
「いや……言われてみればそうだね」
昔は帰る場所ではなかった、と。
続けてそう言い、ランシードは小首を傾げてから。
「今の、彼のことも言っていたね?」
「ははは。不服かい?」
「そうではないよ。ただ……」
「ただ?」
「彼の居場所として、ここは相応しいものではないと思うのだよ」
「おっと、急に僕の貸家を貶されたが」
「ち、違うよ。今のは言葉を違えただけだ。君に文句を付けたかったわけではなくてだね」
珍しく狼狽した様子にヴィリアは微笑む。
表情の奥には先に待ち受ける不安が拭えないまでも、やり取りを交わす内に幾ばくかの余裕は生まれていた。
漠然と〝灰〟がなだれ込んでどうなるのか、それはヴィリアにもランシードにも分からない。
何せ観測ができないのだから。だが毒ガスのように、蔓延しただけで死に絶えるわけではない。未踏の地のように、場の環境が一変してしまう――だけ。適応をしなければ、とヴィリアは覚悟を強めて。
言葉を変えて訂正を続けるランシードに、ぽつりと呟く。
「相応しくないっていうのは? 彼、君に好意を寄せてくれているじゃないか」
「それは……頼れるのが私だっただけの話だろう。拾ったのが私でなくとも、彼は同じようにしていたはずさ」
「そうかなぁ? それに、君でも良かった、で僕は良いと思うけど」
「――私は人殺しなのだよ。長く時を共にするには、彼にとって毒だ」
悲しげに視線を落とし、ランシードは断定するように言った。強まった語調にヴィリアが言葉を発せないでいると――こちらへ駆ける足音が響く。
「やはりこっちにいてくれたか!」
二人がその方向へ顔を向くと、遠くからやってきたのはアドリアナだった。
制服に汗をびっしりとかいたその姿は、恐らくギルドからずっと、こちらに走ってきたためだろう。荒い息を吐きながら叫んだ彼女は、続けて己の片目をこめかみ越しに示した。
「――ランシード、権能はどうなっている?」
「機能していない。つい先程のことではあるけれど」
「やはりそうか……考えても仕方がないな! とにかく、今は灰が都市に流れて大変なのは判っているな? こっちも通信が取れなくてな――人海戦術で人員をギルドに召集してる」
つまりは、都市の機能が一部または大半失われているということだ。都市の力で動作していたゲートの移動を始めとして、ランシードの権能や、ギルドが持つ通信機器などにも弊害を及ぼしているらしい。
他にも問題は多数起きているはずだ。都市の機能に頼り経済を回してきた今、それが使えなくなってしまえば――。
ランシードは頷く前に、質問を返す。
「中央の区画状況は?」
「当然分からない! だが連中も動いているはずさ。何せ都市の危機だ、方々から溢れた灰を直接抑えられるのも、我々ギルドではなく中枢によるシステムしか行えない以上は必死になる他あるまい?」
「そうかい。納得は出来る、ここで動かなければ終いだろうね」
都市中枢の守護を担う人間――人間というよりは存在そのものがシステムに則って動く概念、彼らが外に向けて動かざるを得ない事態は、ランシードは生まれてこの方目撃したことはない。
しかし――。
片目を閉じて権能が使えないことを再確認し、遠くの景色を見据える。灰色は徐々に侵蝕してきていた。
この場の三人でなくとも、誰もが理解をしている世界の異常だ。こんな光景は数百の年月を記録するレイシスですらも知らない未知。いずれ必ず訪れる終焉がたまたまこの世代で起きただけの、悲劇。
この先、何事もなく終わったでは済まされない結果が待ち受けていると――。
「アドリアナ、私は一度国の中枢へ向かう」
「うん……何の用が?」
「果たすべき約束があってね。行動に制限のない今、実行すべきだと踏んだ」
「――そりゃ、冗談か何か? もしや混乱に乗じて……はないだろうが」
「まさか。システムに投獄された依頼人を救出するだけだよ。可能であれば後に戻る」
「投獄された……? ああ、当の東の御柱」
「その技術を継いだ《機械技師》、だね」
「どう戦況に当てるつもりだ?」
問えば、ランシードは残念そうに首を振った。
「戦略的な考えではないよ。ただ、私は便利屋だからね――依頼は投げ出さないよ。まぁ、上手く行けば、戦力になれるかもしれないね」
投獄の解放に必要であったからマイルズ・オーガンを探していただけのこと。彼らがどのような企みを持っていようが、力を手にしていようが、自身の最大限で始末を付けるつもりだった。
その必要がないなら、直接救出するだけでいい。後のことは――最早考える必要がない。その点についてだけは、マイルズ・オーガンの発言は信用出来る。
「……こんな状況で――は言わないが」
アドリアナは顔を険しく歪める。時間を費やして捜したランシード本人が、それを蹴ってどこかへ去ろうと言うのだから当然と言えば当然だ。
「別れる前に聞いておく。あの少年はどこだ?」
「ユラギか……ここにはいないね。《科学者》に会いに行くとは言っていたから、君の部下の家には行っているはずだけれど」
「――そう、か。なら彼にも頼めないな」
ほんの少し言い淀んだのが、何を起因にしたものかはランシードには読み取れなかった。
「見つけたらこき使ってくれて構わないよ――ああ、それと。マイルズ・オーガンと〝青〟の女が現れたら、気を付けてくれ。都市の敵だ」
キースという存在、自動人形の事情を理解するアドリアナであれば、その台詞だけで十分に伝わるだろう。彼らは、都市を守護する者達に牙を剥く危険がある。その際にどれだけの抵抗が出来るかは不明だが――心構えはした方がいい。
「戻れれば、私も協力するさ」
そう言い残し、ランシードは都市の中心部へと進路を変える。
状況を鑑みるに、猶予はあまり残されていない。
モールド・アンテリアーゼ救出後にギルドへ合流できるほどの時間があるのかは、流石に分からなかった。




