二十四話 盤外戦交渉は雑談と変わりがなく
白い通路。等間隔の扉。
夢と勘違いするほど現実味の無い通路。
ひたすら歩くユラギはその廊下に夢のような既視感を覚えて眉をひそめつつ、廊下の構造を注視する。
建物と言うよりかは、以前侵入した秘境を想起させる造りをしていた。ランシードから学んだ罠構造に近い、と言えばいいだろうか。
隣り合って歩くアリムは、迷わず前方へ進んでいる。
数ある別れ道は一つも曲がっておらず、物理的には結構な距離を進んだように思えるが――。
「そろそろお気づきでしょうが」
と言って、彼女はぴたりと足を止めた。
「まっすぐ進んでも目的地には着きませんよ。さて、まさか時間を稼ぐためだけではないのでしょう? お話を期待しているのですが」
遅れて歩みを止める。そろそろ切り出そうかと思っていたタイミングでのことだったので、丁度いいと言えばいいかもしれないが……。
「やっぱ分かってて乗ってくれたんですね」
「仮にそれだけだとすれば。今からあなたを蹴り殺し、動き出した鼠を排除しに行きます」
「や、待って下さい」
やや目を細めるアリム。
彼女が意識するおおよその方角を察し、ユラギは冷汗を流す。
「あの時は……館での時は答えてくれるはずもなかったのでアレでしたが、今なら訊けるかもと思っていたことが一つ」
「前置きは結構です――なんでしょうか」
「では。アリムさんはどうしてマスターに従っているんです?」
それは、単純な疑問。
彼女達の目的は感情を得ることだ。
それはマスターも承知の上だろうが、その一環でユラギとの接触を許されていると言えば否だ。
行動を鑑みるに、彼女には自由行動が許されているはずで――これまでの行動と言動のほとんどは、彼女自身の選択によるものだと考える。
だから、可能性がないかと思ったのだ。
思ってしまったのだ。
だって、彼女は――。
「妙な事を聞くものですね。答えるのは構いませんが、質問の意図を先に教えて頂けますか?」
「命令で従っているのであれば、条件次第ではこちらに寝返ってくれるのかと思いまして」
その企みを、嘘偽りなく告げる。
アリムは表情を更に強張らせ、ユラギを睨んだ。
「ふざけた事を言いますね」
「そうですか? 俺は、マスターと同じことをしようとしているだけですよ」
「なるほど、理には適っていますが……ではお答えしましょう。ワタクシは命令だけで従っていませんので、あなたの提案に頷くことはありません」
「そうですか、それは残念です。まあ半分くらい分かってましたけど」
「ならば何故聞いたのですか」
確かに変化の見られる表情を見、ユラギは軽く言った。
「ほら、言うだけタダって言いますし」
「聞いたことがありませんね」
「言わなきゃ分からないってことですよ。可能性的な意味でも、俺の意志的なもの――勿論、アリムさんの意志だって返答聞くまで分からないわけで」
なら、そろそろ大人しくマスターへ会いに行こう。
向こうの要求は一つ。
こちらの要求も一つ。
呑んでもらわなければ――雷が、心の内で弾けている。
今はまだ、これを使うつもりはないが。
便利屋を利用したのだ、お前は。望み通り来てやったが、安楽椅子から全て上手く行くと思われても困る。
一つの世界を滅ぼそうというのだ。
なら聞かせて貰おうじゃないか。その意志を。
ユラギは特に合図を交わすことなく歩みを再開する。次の曲がり道を右へ曲がると、アリムは何も言わずについてきた。
「――ふむ」
小さく、静かに頷く。
つまりはそういうこと。
がむしゃらには出られない造りなだけだ。試しに曲がった右の廊下がマスターの部屋へ辿り着く道順なら、後はそう難しくはない。
条件の探り方は粗方理解した。
感覚的に、ループしない道を進めばいいだけ。
違和感のない道を進めば――言い換えれば、ある道を進めば、辿り着く。
逆の場合は、ただ間違えればいい。
冷静にそう思考しながら、ユラギは別の違和感を覚えていた。
己の持つ感覚が、見える世界が今までとは違って見えるような気がしていた。
……今はまだ、気のせいだと思うことにする。
◇
いくつかの道を適当に曲がっていると、やがて行き止まりが見えてきた。
そこには異様でも豪奢でもなく、他と同じ簡素な扉が一枚設置されているだけではあるが。行き止まりに来たということは、この先で待ち構えているのだろう。
およそ尋常な者でないのだけは、この先の雰囲気からも伝わってくる。
「どうぞ」
ユラギは背後からの声で我に返り、扉に手を掛ける。
ゆっくりと開き、最初に目に飛び込んだ光景を直視して――僅かに顔をしかめる。
ああ、だから姿を見せないのだと分かる光景。
「……失礼します」
一応そう挨拶をし、入室する。
中は普通の一室だった。白を基調にした簡素な部屋。
やや大きめな執務机の向こう側で、機械に全身を委ねる老人へ目をやり――彼がまだ眠っているのを確認した。
全身骨ばったミイラのような肢体。そのあちらこちらに突き刺さる管と、彼を支える機械の部品。僅かに胸が上気してやっと生命を認識できる、痛々しい状態だ。
「来たか」
それにしては、荘厳さを覚える声が、眼前の男から発されて。
機械の駆動音と共に、彼の目が見開かれた。
「モールド・バレルさんですね」
「如何にも。不思議そうな顔しているな?」
「失礼ながら、もう少し若々しいと思っていたもので」
隠さず本音を言えば、彼は大開きの口でからから笑う。
「――年齢と姿に関係はない。俺は殺されなければ死なんからな」
見た目とは裏腹、力強い声だ。
なるほど、確かにこりゃ死にそうにはない。疑問は残るが――常識で語るべきでもないか。
彼もまた己の肉体に細工をした口なのだろう。目に映る姿が真実であるかも怪しいが……偽物ではない、それは理解した。
「そうですか。まず、話はお断りします。この力をあなたのために使うつもりはないので」
「そうか。じゃあ先に、お前の言いたい台詞から聞こう」
「なら――俺と同行し、都市に来てください」
「はっ、俺に死ねと?」
「来なければ娘は死にますが」
「はっはははは――ははははははは! 脅迫かよ、会っていきなり、この俺に? あははははは面白れぇなあおい!」
「……それで?」
長話をするつもりはない、と一蹴すれば。
彼は――その顔から表情を消した。
「やってみろ」
「……何を勘違いしているのか知りませんが、ここで強制するつもりはありません。ただ聞いただけです」
「だったら断る。俺は俺のためにしか動かねぇんだ、残念なことにな」
「なら、平行線ですね」
「ならどうする? お前じゃ、この場からは抜け出せねぇだろ」
そう。厄介なことに、彼の言葉が事実だから困っている。
ユラギとしても、気軽に逃げられる実力があればこんな場所に長居などするものか。
圧倒的に上の位置から、ユラギは見下ろされているのだ。
右足を僅か後ろへずらした瞬間、背後の冷たい圧が背中を刺してくる。
今の所、逃げ出す方法があるとすれば一つ。
使えば脱出は可能、しかし相手も十分に把握しているこの異能――しかない。
「っていうか、助けようとしてたのか? そいつは予想外だったな……さては、俺の娘に入れ込んでんのか?」
彼はおどけた様子でそんな台詞を吐いた。
「……助ける、ですか。強いて言うなら〝依頼〟ですよ。便利屋なもので」
「そんなら俺の依頼も聞いてくれよ」
「俺の上司に話を通してください」
「そうかい。んじゃあ別にいいわ」
しゅう、と機械越しの息が部屋へと洩れた。人工呼吸器のような何か越しに、彼は席を立つ。
その姿は――異様。
死者が死後も徘徊しているような骨と皮で、機械に半分以上汚染された肉体は乾き切っている。そのふざけた声がどこから出ているのかが、本当に分からなくなってくる。
レイシスのように肉体と記憶を引き継ぐのではなく、同じ肉体を使い潰しているからこその弊害か……だが、それだとやはり辻褄が合わないのだ。
最初からこうだとすれば、アンテリア―ゼの反応が普通過ぎる。
まじまじとその姿を見ていると、彼は小首を傾げた。骨ばった指先で自分を指し、片方の眉が吊り上がる。
「気になるか?」
「別に。聞きたいのはあなたの状態ではありません。あなたがどのような意図で都市を滅ぼそうとしたのか、だけです」
彼の姿が気にならないと言えば嘘にはなる。
だが、それを知ることに意味はなかった。聞きたくもなければ必要もない、相手の事情に入り込み過ぎると――いやそれを今更言うのかって感じだけど。
この男の事情は大体、察した。それだけでいい。
こいつは……いや、こいつも、そうなのだ。
ユラギは苛立たしげに、しかし表情は努めて変えぬように冷徹さを張り付けたまま、返事を待つ。
心の内の奴と同じ、妙な雰囲気。
こいつはユラギという存在を知っている。まるで旧友であるかのような距離と態度を取られるだけで、嫌というほどに理解した。
まだ追いたくないと願った過去が、向こうからわんさか詰め寄って来る。
彼は眉をひそめると、ユラギの言葉を訂正するようにこう述べた。
「まぁ間違ってもいねえんだが、俺達が都市を滅ぼす原因かと言われたらそりゃ否だ」
「……どういう意味です? 原因が他にあると?」
「あぁそうだぜ。何もしなくても滅びの運命は変わらない――俺は、時期を定めただけだ。いきなり消えられたら困っちまうだろ?」
機械に動かされるように、ミイラのような右手がぎこちなく動く。警戒の色を強めたユラギに――彼は、ただ右手を差し出してきた。
「ほれ、握手だ。俺の手を取れ」
「……どういう意味です?」
「お前の〝世界〟から持ち込まれた常識さ」
――敢えて言うか、その台詞を。
当然、手は取らない。
「そうじゃない。何もしなくても滅びるってのは、どういう意味です」
「あ? そのまんまの意味だ。字面通りに取れ。それとも本当に何も知らないか? まさか予想も付かないか? お前ぐらい機転が利く奴なら――散らばった状況証拠から答えに辿り着けるはずだ。それとも、そんな能力さえもどこかに置いて来たか」
「――無茶を言いますね。いつまでも、過去の英雄に縋り付かれちゃ困るんですよ」
「……そうか。まぁ、大体分かったわ。辿りつけねぇってことは、やっぱ封印は深い……或いは破壊されたか? それとも――はは、こりゃ……笑えねぇ冗談だぜ」
ユラギに話し掛けてきているようで、その実何も話してなどいない。
今のユラギと話すことで、過去と今とを照合しているだけ。大層気分が悪くなるやりとりだが、生憎と逃げ場はどこにもなかった。
背後はアリムに押さえられている。
「勿体振るのはやめだ。教えてやる」
腕を下ろし、彼はどこか物憂げにユラギから視線を外す。
沈んだ黒紫の瞳はもう、どこも見ていなかった。
「前提として、都市は灰に覆われないことで今の形を保っているわけだ。そして、灰とは幻想そのもの。願いを形作るものが灰であり、想いを現実へ投影するのが灰であり、そんな幻想と現実を同一化した世界は――混沌そのものになる。分かりやすく言おうか? 夢のような曖昧な世界となる」
「それは……なるほど……秘境と同じになる、と?」
「八割程度正しい。秘境は夢の成れの果てだがな」
灰――都市の外にあるものについて、ユラギはほとんど理解していない。
何せユラギの傍に最初からあった概念だ。ユラギだけではなく、ほとんど誰もが正しい認識をしていないだろう。
あるのは灰が危険なものであるという共通認識のみ。だから都市は対策を取っていたし、ユラギもそういったものだと思っていた。
「では、都市が機能しているのは? 人がいるからだ。人という養分を吸って都市は形を維持し、中枢にある機構と御柱の生贄を揃え続けることで、かろうじて世界の浸食を食い止めている――だが、肝心の人がもういない。これも簡単に言おうか? 神の支払う代償を人間が払い続けるには無理があるのさ」
その話にはあまり驚くことはなかった。
寿命がとっくに来ていたのだと、納得するしかない。
ふと、己の身体が灰色に砕け散る幻視が過った。今の話はあれと同じようなもの。彼が話しているものは、そのスケールを大きくしただけに過ぎないのだろう。
都市に存在する自動人形は人の代替品である。労働力を肩代わりし、人間の代わりを務めることで世界を維持するための装置だ。
けれど、自動人形に永遠はあってもその先はなく。
しかし、本来の意味で人が磨り減ったからこそ、使わなければ回せなくなったのだ。それは決して根本的な解決にはならない。場当たり的な対処は遅効性の毒となって、いずれ未来の世界を侵蝕する。
アリムの方へ目を合わせたが、彼女は反応の一つさえ返さなかった。
扉の前から微動だにせずこちらを見つめ返してくるだけ。
「御柱……ですか。あなたは自らが離れることで世界の崩壊を早めた、と? でもその解釈だと……モールド・アンテリアーゼはまだ」
「三割正解。言いたいことは合っているな、では解答はこうだ」
男の身体が光り輝き、そしてすぐに収束する。
次に現れたのは、ミイラとは何もかもが違う金髪の長身痩躯だった。そこには、彼女の父親を彷彿とさせる雰囲気がある。
「こうしたのさ」
「よく分かりませんが……やっぱ、その方が見た目通りですよ」
「は、そりゃ良かった。まァあっちの姿も別に偽装とかじゃねえのは俺としちゃ残念だが」
ぎらりと射抜く鋭い視線が、ユラギを刺した。
ばらばらと弾けて落ちる機械とチューブの束を見るような隙などなく、彼はユラギを見下ろすように。
「俺が離れただけじゃせいぜい維持力が低下するだけなんでな、都市に流れる〝紫〟を俺が断ち切ったのさ。お前を救出した時点で、俺が都市を繋げる理由はねえ」
「……そうですか。たった俺一人のために。あなたはやったんですね?」
ああ、となんの感慨なく彼は言った。
「お前と世界を天秤に掛けたらお前を取るさ。その比重がなんでこっちに傾いてんのかは言うまでもないだろ」
「そうですか」
小さく頷き、ユラギは深く息を吸い込んだ。
今のは、ユラギが彼へ投げた最後の確認でもあった。
半ば分かっていたが、どうあっても意志を変えぬのであればこちらにも考えはある――もとい、腹を括る手段が、覚悟がある。先ほどまではタイミングを見定めていただけに過ぎない。
ここでの使い道が最善となるのなら……まぁ、妥当なところだろう。
目の前の二人を出し抜くには、分かっていたところで防げない力で対抗するしかないのだ。
――だから。
己の意志で、奥底に眠った雷を起動する。
心の奥底から湧き上がる雷の奔流が、己の意志と共に全身へと駆け巡った。
青白い電光が空気へ引火する。
そして、瞬く間に雷が外へ暴れ出す――視界すらも埋めてしまう雷の量に、目の前の男も、アリムでさえもが構えを取った姿が分かった。
果たして今までそんな出力があっただろうか。
今までと同じ雷の質ではあるものの、どこか何かが違う。
そこでようやく、今まで自動で掛けられていた制御はなくなっているのだ――と、ようやく心の底から実感した。
ユラギは一方的に告げる。
「なら、俺の比重がどこにあるかを考えるべきでしたね」
雷が向かう先は、今回ばかりは敵の懐ではない。
走る電光は彼ら二人を越え、部屋を越え、この世界の隅々までその概念を伸ばしていく。
この力は雷そのもの、ならば間隙を抜けるなど造作もないだろう。それが行えるキッカケは、アリムがくれている。
今巡らせた雷でやるたった一つの行動は――。
「……な」
それに気付いたアリムですら、もう間に合わない。
煌めいた紫色の瞳がユラギを捉え、機械の四肢が伸び指先がユラギの肩を掴もうとして――雷が、指先の間を縫うように弾けた。
「すみませんね。話はまた今度ってことで」
そんな捨て台詞だけを残し、室内からユラギの姿が消失した。
◇
「――っと……流石にきっついなあっていただだ!」
稲妻が、どこまでも白く続く通路を駆け抜ける。
それは、遠く離れたある場所で静止すると、次に人型へ収束し――無様に転がって床に額を打ち付けた。痛みに苦鳴を洩らしたユラギが顔を上げると、そこには口元を痙攣させた少女が一歩後退る姿が見えて。
少しだけほっとする。
ああ、無事に目的地には到達はできたのか、と。
できそうだからやったってだけで、今の瞬間移動の物真似が上手く行く保証などなかった。
それだけの所業を達成せねば無理だったとも言うが。
雷そのものの概念に自身を落とし込んだ高速移動の極致――概念に身を寄せるって感覚は、あまり良いものではなかった。一歩意識を見失えば、空気に身体が溶けてばらばらになってしまいそうな不安定感だった。
マジで戻れてよかった、とは思う。
二度は使いたくはない。
「……え? いや、あの、まるで意味が分からないのです……けど」
「はは。逃げて来ました」
「そうじゃなくて! 何ですか今のは」
「はあ、肉体を雷に変換して瞬間移動っぽいことしただけですが、どこかにおかしな点が?」
「解説しろってんじゃねーんですよ!」
一通り叫ぶリシュエルははぁ、と溜め息を洩らし、すぐに意識を切り替える。
「脱出路は確保してあるのですよ」
「流石。やってくれると思ってました」
その時、ぴりぴりと空気が詰まるような気配がやってきた。
背後から――間違いない、アリムが追って来ている。取っ掴まるまでにそう時間は掛からないし、次にそうなったら今度こそ逃げられはしないだろう。
理由の真相はどうあれ、彼らはユラギを都市から遠ざけようとしていたのは言うまでもないのだ。
だからこそ、都市に戻らなくてはいけない。
崩壊が始まっているなら、迅速に戻ってランシードに合流しなければ。
情報共有を素早く行って、現状で出来る対策を打たねばならない。
ここで自分が戻ることが、どう転ぶのかは不明だ。灰が何を意味するのか、過去の自分が何の鍵となっているのか、詳しくは知らないが。
気を付けるべきはその辺りだろう。
「詳細なお話は後でするんですけど、まぁ有益な話は得られませんでした」
「でしょうね。どうせ向こうも一点張りです。それより、ここより外に出るということは……分かってますか?」
何もない、変哲な壁に手を当て、リシュエルはこちらをちらりと見る。
壁の先――ああ、そうか。とユラギは理解する。この不安定な概念、どこかで見たことがあると思えば……根本的な構造は先日の秘境と同じなのだ。だから、壁を破壊したらその先は――未知の世界。まだ誰も観測したことのない、冒険へと続く道が待っている。
「ええ。ああ、その……巻き込んでしまって、すみません。まさかここまで――」
「何を勘違いしているか知りませんが、私が、自らの意志であなたの手助けをしたのです」
指先で壁をなぞり、彼女はユラギを睨む。
「巻き込むとかじゃないですし、次そんなくだらないことで謝ったら一発良いの入れます。あと、逃げるってのには全面的に賛同ですから。仮にここから先が、未知の世界でも――」
その指先に何らかの力が込められて、壁に指の中程までが沈み込む。
ぱきん、と空間の割れる音がした。突き刺した指先を中心に、ガラス片のように壁が砕け落ちていく。
先にあるのは、どこまでも灰色に満ちた空間だ。
「――この連中に隔離されている方が、もっと危険でしょうし。では、ここから先は《冒険者》の領分になります。まだユラギさんに《開拓者》の仕事は教えてませんが、まぁ、そこは実施でどうにかしてください。私は事務員なので、サポートしかできませんから」
「ええ、了解です」
何を言うこともなく、ユラギは頷いた。
あくまでもサポート――敢えて口にしてきたのは、傷を見てしまったが故なのだろう。
「まぁ、今日はもう能力使えないんですけどね」
「なんで今不安になること言うのですか!?」
「俺、正直者なんで」
「やかましい! ……ああ、もう、手出してください」
リシュエルは溜息混じりに言って、ん、と右手を差し出してくる。
えっと?
「物理的な繋がりを保っておかないと、ここを通り抜けた際に時間軸や場所ごと離される可能性があるのですよ」
「……え、時間軸?」
「あくまで可能性の話です」
そして、こちらの返事を待つでもなくユラギの手を掴み取って「行きますよ」と呟いた。
彼女は灰色の空間へ視線を戻してしまったため表情こそ窺えなかったが、その手は少しだけ震えていたように思う。
なのでなんとなく握り返してみると、リシュエルは嫌そうに声を洩らした。
「あの、私、子供じゃないです」
「おっと、確か俺より年上なんでしたっけ」
「……デリカシーがなさすぎる……」
そんなやり取りを最後に、二人は通路から灰色の空間へ身を落とす。
飛び込んだ姿はすぐに見えなくなり――壁が、再び元の形へ戻っていく。
「――また今度、ですか」
そんな声が、白い通路に虚しく響いた。




