二十三話 外の世界
「――持ってきましたが?」
「うぉっ」
少しして、アリムは部屋の中央に戻ってきた。
その両手にリシュエルの衣類が丁寧に畳まれているのを確かめ、ユラギはほっと一息吐く。
「いきなり瞬間移動で出て来られると心臓に悪いですね……」
「先程は気にしてなかったではありませんか」
「さっきは背後取られただけですからね」
「はい……? そうですか」
今、意味不明なものを見る目で見られた気がした。
背後はよくランシードに取られてるし、物理法則を完璧に無視した動きを直視するより心臓には悪くないはず……はず? もしや自分の感性はおかしいのではないか、そうユラギは思った。
「服は、着せれば文句はありませんね」
「あ、はい……ないですね。服についた血はアリムさんが綺麗にしてくれたんです?」
「はい。そのために脱がせたので」
アリムはベッドの前へすたすた歩いていく。
ユラギは話しながら彼女を視線で追いつつ、途中でリシュエルを直視してしまわないよう床へと目線を落とした。
「――は? へ?」
そして、そんな声が聞こえてきた。
「起きましたね。服を着てください」
次いで、そんな声も。
ユラギは思わず「あ」と声を洩らす。
どうせ洗いざらい暴露するつもりではあったのだけれど――やり取りで全部分かってしまった。
最初の呆けた声はリシュエル。そして次の台詞がアリムの声。ということは、だ。
やってしまったと嘆いた言葉はもう遅く。
アリムが服を着せてあげるはずがないのだ。どう考えても起こすだろうという思考にまで辿り付かなかったユラギにも落ち度はある。
「あぁ? ……え、な、なな、なななななっ――なんで!?」
「服を着てください」
「これほんとどういうことなのです!?」
「女の子の肌は大切なので気軽に見てはいけないらしく、服を着てください」
一字一句同じこと言わないで欲しい。
「……あ。…………ユラギ、さん?」
びく、とユラギの肩が震えた。
視線と矛先が同時にこちらを捉えたことを悟る。今すぐ何か返事を返さなければ、と咄嗟に発した言葉は最悪そのものだった。
「見ました……あっ、いやそうじゃなくてそうだけど、でもほんの一瞬だけって、違う!」
最低の言い訳みたいだった。
「意味が分からない……の、です……何その反応……」
「えーと、何からどう、説明、すればよろしいか」
「――こっちを見ろ」
「ひっ」
「いつまで床と会話してやがるのですか。もう隠しましたよ」
声にあまりの圧を感じ、恐る恐る視線を上げると――毛布で肩までを覆うリシュエルの姿が映った。彼女は形容し難い表情でユラギとアリムとを見やり、それから、
「状況が分からないのです。私は死にかけたはずで、でも、起きたら、服着てなくて……え、わかんない……」
「あなたの服を脱がせたのはワタクシですが」
「な、いつ脱がせたんですか! どうして!?」
「気絶させた時ですけれど。開いた傷と衣類を元の状態に戻しておきました」
「な、治して、くれたのです……?」
「死なせるつもりはありませんので。その後、彼が目覚めるるまで共に眠らせていただけです」
「――」
リシュエルは口をぽかんと開けて硬直した。
きょろきょろと周囲を見渡し、最後に真下の毛布へと目線が動いて、引きつった笑みを浮かべる。
か細い声を震わせながら、彼女はぽつりと言った。
「分かりました……あの、ユラギさん」
「はい」
「じゃあ。一応、あっち向いていてください。着替えます」
「はい」
「殊勝過ぎてむかつくからそれもうやめてください」
「はい……どうしろと!?」
「気にし過ぎなのですよ、裸ならあの時にも見てるじゃねぇですか!」
「え? あ、ああレイシス……それとこれとは状況がちが」
「うるさあぁあい!」
閑話休題。
ベッドに座り直したリシュエルが正気と服を取り戻し、ようやく土下座姿を解除したユラギ。
一人、何くわぬ顔で突っ立っていたアリムの説明の元、ようやくこの状況を二人ともが認識することになる。
ユラギが気を失った直後、リシュエルとアリムで壮絶な争いが発生したこと。この白い空間は水上都市グリーフには位置せず、灰に包まれた世界のどこかの場所であるということ。移動方法は当然、彼女による瞬間移動である。
そしてアリムは――ようやく、その台詞を放った。
「ワタクシがあなたを連れてきたのは、あなたが六百年前の英雄だからです。記憶と力の大半が戻ることはありませんでしたが、あなたが英雄本人であることは判明していますので。代わりなどおりません」
「俺が……英雄、か。分かったのって、やっぱり俺と戦った時なんです?」
「そうなります。初めはアルムと戦った際に浮上した可能性でしたが、確信を得たのは館での交戦ですね」
「アルム……? それって、もしかして殺戮機関の」
「そうでしたね。あそこであなたが交戦した一体が、ワタクシと同一個体の自動人形ですよ」
「なるほど……――やっと、繋がった」
便利屋に送られた謎の依頼の意味は、ユラギの本質にあったのだろう。気付けるわけもなかったが。
右手へ視線を落とす。なんとなく理解はしていた。この身体に封じ込まれたあの世界の異質なモノが、どういう類の能力であるかということを。記憶の情景と、記憶の己が、どういう存在であったかということを。
こうまで直接言われてしまえば、嫌でも理解せざるを得ないだろう。
「その上で、マスターはあなたに世界を救って欲しいと望んでいます」
だが、請われた懇願に、動揺は隠せない。
「世界を救って欲しい……俺に? 本気で言っているのは、まあ分かるんですが」
「冗談で言っているわけではありません。神話に記述はありませんが、あなたの持つ力だけが現状で唯一灰色に対抗できるのですから」
問い返すように疑念を繰り出すユラギへ、彼女はそう言う。ベッドに座り込んでいるリシュエルは、悩むような表情をして口を閉ざしている。
「……」
だが、その話は余りに重すぎる内容だ。
いきなり世界を救えと言われて実行する精神性などユラギは持ち合わせていないし、それが使ってはならないものであることを、皮肉な事にアリムの干渉で知ってしまったわけで。
そんな切り札を救世の為に使うつもりはない。
モールド・バレルはそういった理由でユラギを呼び寄せたのだろうが、こちらは彼の問答に付き合う為に来たわけではない。
ユラギが此処に来ているのは、ひとえにアンテリアーゼを救出するためだ。
「でも、俺にはまだその力はありませんよ」
「構いません。今すぐと言っているわけではありませんので」
「なら、とりあえずはマスターに会わせて貰っても? 返答はアリムさんにしても意味ないでしょうし」
「そうですね。では、案内致します」
アリムは小さく頷くとユラギの肩へ手を置く。
がたりとベッドが揺れ、こちらに手を伸ばしていたリシュエルが静止を掛けてきた。
「待つのです」
アリムは首だけ動かしてリシュエルを見る。
「私も一緒に行きます」
「あなたは呼んでいません」
「……駄目なのですか?」
「その質問に答える義理はありません」
リシュエルが苦しい顔で口を閉ざす。アリムはそれきり彼女と目を合わせることなく、ユラギの肩へと乗せる手に力を込めた。紫色に洩れ出る能力の一片が、僅かにユラギを覆う。
「……もしかして、瞬間移動ですか?」
「そうですけれど」
「あ、歩いて行きたいなーって」
アリムは眉をひそめ、意味不明といった表情で首を傾げる。
これまでは見られなかった一面……というか初めて顔を見ているが、その素顔は人間よりも人間らしいかもしれない、なんとなくそんな感想を抱いた。
口調とは裏腹に少しちぐはぐな印象も受けたが、その違和感は上手く言葉にはならなかった。
「それに何か意味はあるのですか」
至極当然の問いを投げられ、ユラギは慌てて返す。
「ああいや、ちょっと……空間に酔い易い質なのと、アリムさんと少し話したいこともあったりするので」
「……まあ。構いませんが」
肩から手を離すと、アリムはすたすたと部屋の出口へ先行する。
「ついて来てください。離れすぎて迷われても困りますので」
「分かりました」
扉を通過したアリムの姿を見失わないよう、ユラギもすぐ背後をついて出ていく。
「ユラギさん――その力はあなただけのもの、なのですよ」
「ええ。すぐ戻ってきますよ、リシュエルさん」
廊下へ消える寸前、ユラギは後ろ手でグーサインを送っておいた。
何を危惧しているかと思えば。きっと、キースの影が自分と重なったのだろう。
そういうことなら気にする必要は全くない。
ユラギという人間の使い方は、とっくの昔に決めている。
◇
「――ああ。見られちまった、ですか」
ぱたり、閉じられた部屋で一人、リシュエルは呟いた。
小さな吐息は誰に聞かれるでもなく、零れた嘆きはどこへも届かない。
己の傷を右手の平で撫でるようにして奥歯を噛み締める。
「裸なんて、どうでもよかった……ってか、ユラギさんは実のところ、そんな部分に目なんて行ってないんでしょう。知ってますよ。私が一番見られたくないのが――この傷跡だって。だから、あんな台詞をわざわざ口に出す」
そこまでは、もしかすると考え過ぎかもしれないけれど。
「気にし過ぎなのですよ」
くぐもった言葉で、独り言を呟く。
腹部の布を僅かに上へとずらせば、露わになったのはぐちゃぐちゃに抉れる皮膚の痕。
焼け爛れた肌には渦を巻くような赤黒い火傷が深々と刻まれ――その異常性を物語っている。明らかに、普通に残る痕ではないから。
そんなものを見られた時点で、誰がやったのか、誰にやられたのか、きっと彼は知ってしまっただろう。
知ったところで何かが変わるわけではないし、彼が深く訊いてくることは絶対にないだろうが。
一瞬で全てを見透かされてしまったような気がして……嗚咽でえずく。気持ちが悪い。思い出そうとすると、明瞭な痛みが今でも全身を駆け巡る。
一度開き切った傷が、破れた内臓が、言い知れぬ寒気を発して背筋が凍り付く。
戦えないのは、それのせい。動けなくなったのも、それのせい。
だけどそれは、誰のせいでもないものだ。だから誰にも見られたくはなかったものだ。
無意味に伸ばした手の平を見つめ、リシュエルは力なく腕を下ろした。その先に触れたのは、それから必死に覚えた自衛の為の糸。
自動人形が傷と服の修復と共に武器まで元に戻して放置していったものだ。
たかだか無力な人間一人が武器を手にしたところで何も変わらないと突き付けられた気分だった。
だがその通り。あの自動人形はこちらの全てを理解した上で、武器を置いて行った。
「……動かなきゃ。それでも動かなきゃ。私は本当の意味で無力になってしまう、それは、嫌なんですよ」
糸を装着し、震える身体を鼓舞する。
握り締めた拳に力は入っていなかったが、それでも意志は力強く。
リシュエルが何のためにユラギに付いて来たのか――決まっている。
再起不能を覚悟して〝神子〟を救い出したあの日から、何一つとして変わっていない。
「……畜生。どこまでも余裕ぶりやがって、ユラギさんの野郎……ああもう助かりましたよ、お陰で時間が出来た」
後ろ手のサインはリシュエルを不安にさせないためだったのだろう。
後は一人で全てを片付けるから任せろと言わんばかりに。
「あの顔はマジで腹立たしいですけど、でもマジで頭は回りますからね……アリムの監視がなければ、多少は自由に動けるはずです」
恐らくここに人数は詰めていないだろう、という予想。
人の気配も動きも一切ない。きっとここには〝マスター〟一人しかいないような隠れ家だ。
立ち上がり、リシュエルは部屋から出ていく。
彼はきっとどのような条件を出されても呑まないだろう。
今の自分にできることは脱出路の確保くらいなもの。どこまで意味があるかは分からないが、そうなった時に必要になるはずだ、と――。




