二十二話 封じた記憶と雷と■■■
「てか遠すぎるし広すぎるわ……それがいいことなのか悪いことなのか分からないけど」
――あれから、どれだけの時間が経過したのだろう。
恥辱の自分一人対談を終えた後、再び雷と暗闇の精神世界へ戻ってきたユラギはひたすら先へ進んでいた。赤い絨毯を踏みしめる感覚も慣れたもの。
変わらぬ景色を退屈そうに歩き、ぶつぶつ独り言を呟く暇さえある。当然誰からも返事はないし、呟くだけ虚無だった。
散歩なら音楽とか聴きながら歩けば一人でも楽しいが、こんなところにそんなものはない。心の中なのに創造とかできなかった。せめて景色は変わってくれ。
「そもそもコレ、概念的なものであって本当に先へ進めているのかも不明過ぎるんだけど……うん?」
そこで、ユラギは少し違った感覚をその身に覚える。その変化は初めて発生した景色の変容であり、所謂世界の終点――というべき場所への到着だった。
「これ以上は、進めないな」
ある地点へと足を踏み入れたユラギの目と鼻の先で、無限にも思えた絨毯の道が消失していた。代わりに巨大な雷が降り注ぎ、聳え立つ大木のように道を塞いだのだ。
明らかに現実感のない雷の柱――。
この世界の雷を全て集約してようやくこうなるだろう、といったサイズ。
「雷に触れる……だったっけ。過去の俺が何を経てこんなモノを手にしたのかは、終ぞ思いつけなかったけど。まあ、今はいいや」
ユラギは右腕を捲り、広げた手の平を意味もなく見つめる。
幾度も何かを殴りつけて痛めた拳は、幾度も雷を放って痛めた拳は、いつの間にか自分には少し歪に見えるようになっていた。傷跡は残っているし、ふと耐えぬ生傷を見ていると自分が本当は何をしたかったのか分からなくなる。強くなりたい、誰かを守りたい、ランシードの隣に立ちたい、そのための過程であるはずだ。無謀と無茶と暴力の果てに刻まれた傷などでは、ない。
いや、そんな高尚な事など深くまで考えてなかったのかもしれないけど。でも誰しもあるだろう。ふと自分のやってきたことが分からなくなる瞬間は。自分の場合は――それが、今だっただけだ。
無駄じゃない。今生きている自分の存在は、確かにここにある。生きている意味はいつだって自分で決めるもの。他の誰かに左右されるものじゃない。
「まあ、今はお別れだ。けど必ず清算はする……だから必ず戻ってくる――その忠告は、確かに受け取ったよ」
雷に、触れる。
『■■■■■■』
――刹那、怖気が走るような奇妙な台詞が、脳内をぐちゃぐちゃに掻き回した。脳天を裂く程の激痛が脊髄を駆け抜けて背筋へ流れ、身体が硬直する。
何だ、今のは、何を、言われた。
触れた右手が灰色に染まっていく。それは腕へと侵蝕し、肩を上り、あっという間に首筋までもを灰に染め上げる。
感覚が無くなっていく、おかしな感覚がそこにはあった。
今更に手を離そうとしても、身体の支配権は既に自分ではなく。己の身体が全て灰色に染まり切った時、目の前に――その自分の姿が、映し出された。
『カミヲコロセ』
ソイツはユラギの顔で、ユラギの声で、そう言った。
返事を返そうとした口が開かない。言っている言葉の意味が分からない。段々と、意識が薄れていくのが分かった。
世界が暗く、暗く、堕ちていく。
そのまま意識が沈んでいく――。
◇
――次に目を開くと、そこは白一色の光景が映った。
灰色でもない。雷が天上から降って来るわけでもない。そこは確かに、物質感ある普通の天井だ。
「……っ、い、って」
ゆっくりと上体を上げると、全身が軋むような痛みを発した。眠っていたのにも関わらず、限界まで疲労しているかのような気怠さが全身へ渡っている。
――とりあえず、ここは。
周囲を確認する。
真っ白な部屋だ。自分が眠っていたのは小さなベッド。清潔感のある白い毛布と、柔らかなシーツのさらさらした感触。四方は壁に包まれ、よく見れば背後側の端の方に鉄製の扉があることが分かった。
「えっ」
そして何より驚くべきは。
ユラギの隣に、同じように眠っているリシュエルがいたことだった。彼女はすうすうと安らかに寝息を立てて動かない。
いやごめんどういうことか全く理解できないんだけれど――動揺が脳を支配したが、すぐに冷静さを取り戻す。何が起きてユラギが眠り、夢の中で何を体験し、そして起きたのかを考えれば……焦ることじゃない、本当、きっと。絶対にそういうことにはなってない。酔っ払って記憶を失くして寝たとかじゃないし。間違いない。そして彼女はそういうことする人物でもない。完璧理論。
何よりそんな価値が自分にはない。
さて、アリムはどこに行った。
――こんな状況になっているのなら。ユラギが眠っている間に、起きてしまった事が必ずある。
少なくとも、あまり歓迎されるようなものでないのは確かだ。場所を移動しているなら、それはアリムにしか行えない。そしてそれをリシュエルが許容するはずがない。ここで眠っているのは――眠らされているから、だろう。
アリムは余程の理由がなければ人を殺さない。それは戦い方を見ていれば分かる。
なら問題は、時間がどれだけ経過しているかだ。
夢の中でどれだけを過ごしたかなど分かるわけもないし、確認する方法がない。
ユラギは毛布を剥いでベッドから抜け出し、自分の恰好を一度見る。
革製ジャケットに白シャツ、スラックス系のズボン。あと運動靴履きっぱなし。
……まあ、一応の確認のつもりだったがここへ来た時と同じ服装だ。元々武装を仕込むスタイルでもないし暗器を抜かれるも何もないだろうけど。一応。
こんな場所に来てるってことは既に水上都市から離れてしまっているのだろうし。
〝マスター〟とやら――即ちモールド・バレルがどういう性格かも分からない以上、確認は大事だ。変なことすると爆発する首輪とか付けられてたら嫌だし。
「ついでに罠は無し……と。防犯とかはあんまり考えてなさそうだ」
鉄製の扉には鍵などは掛かっておらず、ノブを捻ると扉は素直に開いてくれた。
引くようにして開くと、まず視界に入るのは眩いばかりの白い通路。もはや気が狂うほど一色な通路が奥へ奥へと続いていた。一歩前に出て通路の真ん中まで出、辺りを見回してみる。
同じように鉄扉が各所に設置されているが、目立った目印がないために下手に歩き回ると道に迷ってしまいそうだ。
「目が覚めましたか」
――そこで、背後から無機質な声がユラギを呼んだ。半ば反射的に振り返ると、そこに突っ立っているのはゴシックドレスの少女。
この白過ぎる空間で見ると、いつも以上に紫の姿が浮いて見える――あれ? とそこでユラギは呟いた。
「いつもの仮面は……してないんですね」
「第一声がそれですか。あなたは」
どう形容していいものかはいまいち分からないが、アリムやその前に交戦したあの自動人形――彼ら二名は通常の自動人形とは違い、前面を覆うような仮面を常に張っている。仮面と言っても、簡単に取り外し可能そうなものでもなく、何かを顔に分厚く塗り込んだような――或いはゴムでも密着させたような、明らかに異質と見える仮面。
恐らく何らかの理由があって付けていたのだろう。だが、今彼女はそれを取り外していた。
人工皮膚である肌色の――凡そ人と見分けの付かない少女の顔が、こちらを見上げる。紫色の瞳が、じぃっと無機質にこちらを見つめる。
「で、いつのまに背後取ったんです?」
「…………」
「えっと?」
「まずは、部屋に戻ってください」
「あぁ……と、とりあえず一つ訊いても?」
「戻ってください」
立ち尽くしていると、彼女は脚を身体の中程まで振り上げた。
慌ててユラギが元の部屋内へと引き下がれば、彼女も続けて入ってくる。そして後ろ手で扉を締め、奥で眠るリシュエルを一瞥した。
「端的に言えば。あなたが眠っている間に彼女を気絶させ、ここまで連れてきました」
「……まぁ、そうなりますよね」
「先ほどあなたがワタクシに気付けなかったのは、その位置に瞬間移動してきただけのことです」
「え?」
「勝手に出て行かれて迷われても困りますので」
いやそういうことなんだけどそうじゃない。
――瞬間移動? あってもそれ自体にはそこまで驚かないけど。
「〝記憶〟はどうなりましたか? ワタクシは結果を聞きに来たのですが……」
アリムは続けて質問を飛ばしてきた。
これにはどう応えてやるべきものか悩んでいると――彼女の瞳が僅かに輝いて。
「そうですか」
まだ何も喋っていないのに、そう言った。
「俺まだ何も喋ってないんですけど」
「聞くまでも無くなっただけです。ワタクシが干渉した程度で解けるモノではないことが分かれば充分でした」
「えっと、心の中でも覗いたんです?」
「あなたが何を考えているのかは知りません。肉体と魂魄の状態は見ましたが、ほとんど変わりがないためそう判断したまでです」
ぴしゃりと言い、アリムはユラギの横を通り過ぎてずんずん歩いていく。
その先はベッド、即ちリシュエルの前だ。そこでアリムは足を止め、彼女へと手を伸ばそうとする。
「ちょっとアリムさん、リシュエルさんに何をするつも」
どことなく嫌な予感がしたユラギが止めようとした瞬間、アリムは彼女に掛けられた毛布を勢いよく剥ぎ取った。
ぱさりと捲れて端へと折り畳まれた毛布を直視し――同時にユラギは硬直する。
「――えっ」
それは、全裸。
紛うことなく全裸だった。
仰向けで寝ていたそんな状態のリシュエル・ラウンジが、そこには居た。
ユラギは即目を閉じた。
どういうことなの。そこまで確認してなかったけど自分は普通でリシュエルだけ生まれたままの姿なのおかしいでしょ普通に考えて。この状況がそもそも普通じゃないけどこれもそういうことじゃなくて。
「警戒する必要はありません。彼女を手に掛けるつもりはありま――何故両手で顔を隠しているのですか?」
「全裸だからですけど!?」
「? 何故でしょう」
「いや今答え言わなかったっけ!? もしかして全裸だと目を隠さなきゃいけない理由を説明しろって言ってるんで!?」
「見るつもりがないなら何を警戒して止めようとしたのですか」
「……あ、あぁそういうことねってそうじゃなくて! ……これ、説明しなきゃいけないんです? 本当に?」
対する返答が存在しなかった。
既に色々と遅い感じはするが、彼女の名誉のために視界を漆黒に染めているため状況は窺えないものの――大方アリムはこちらを見つめて黙っているのだろう。
いくらなんでも恥ずかしさがあるが、これは真摯にそして紳士に答えるしかない。そしてどうにかしないと死ぬ。具体的には起きたリシュエルが色々と死ぬ。
「こほん……えーっと。女の子の裸は大切なので、気軽に見てはいけませんのですよ」
テンパって日本語おかしくなった。
「聞いたことがありませんね」
「今のは人間の常識です」
「常識、ですか。見ただけでは何もすることなどできないのに、そのような常識が浸透しているのですね」
「何もしませんけど!? というか服を着るのは普段は裸を見せないためでもありますからね!? アリムさんだって、ドレス脱いだ裸姿を他の人に見られたら嫌でしょう?」
「いえ。全く」
「説得方法を間違えた……というか俺だって見られたら恥ずかしいですし、リシュエルさんも恥ずかしいんです。なので脱がせた服は着せてあげて欲しい!」
「マスターが同じような事を言っていましたね。『せめて衣類は着せてやれ』と」
「まぁそうですよね、良かったアリムさんのマスターが人間の感性で……では、何で服なんか脱がしたんですか」
「衣類が血で濡れたので、一度脱がせて綺麗にしただけですよ」
――その瞬間。
頭の中で渦巻いていた違和感が、かちりと嵌まった。
ユラギは両手を離し、アリムへ殺気を飛ばす。
それを受け、彼女はこちらに正面を向けた。ユラギへの警戒度が明らかに上昇したのは間違いなく――だが、そこでへらへらしてやる理由などない。
「リシュエルさんに、何をしたんですか」
「先ほども言いましたが、気絶をさせました」
「服を脱がせるほどの出血で気絶させたと? ――まずそこから離れろ」
「それは構いませんが……」
ベッドから離れ、彼女はこちらへ一歩ずつゆっくりと近付いてくる。
「ワタクシは戦うつもりなどなかったのですけれど。あなたがそのつもりなら容赦は致しません、戦力の差はお分かりですね?」
「戦うつもりがなかったのなら何故リシュエルさんを攻撃したんです」
「必要以上に抵抗されたので、動きを止める手段がそれしかなかっただけですが」
「つまり、ここへ無理矢理連れて行く際に抵抗をされたため、攻撃した――そうあなたは言うわけですね」
「はい」
「――最後に。傷を治したのは誰です?」
先程不慮の事故で見えてしまったリシュエルの全身に傷はなかった。
いたたまれぬ傷跡こそ余計に見えてしまったが、それは別の要因による傷だろうと推測される。
少なくともユラギが知るアリムの技では、あのような凄惨な跡にはならない。
「それもワタクシです」
「……」
殴り掛かろうとした拳を下ろし、ユラギはそこで溢れんばかりの殺気を抑えた。
別に彼女に殺意を抱いたわけではない。これは、その前に確認を取らなければならなかっただけの話だ。
「ワタクシとやり合う気はないのですね?」
「なんの理由があって俺達を連れて来たのかを聞くだけの猶予はある、と思い直しただけです」
「猶予、ですか。元々それについての説明は行うつもりだったのですけれども、あなたが目覚める間もなくあなたを連れて逃げようとしたものですから」
アリムは小さく首を振りながらそう言い、僅かに眉をひそめる。
「やはり、分かりませんね」
「……え?」
「今、死を覚悟しながらワタクシと戦おうとしたではありませんか。彼女もそうでしたが、それは何故ですか? 戦いの最中に彼女を連れて逃走が可能なほど、あなたも強くはないでしょう」
「それは……どうしてですかね。まぁ、人の意地のようなもの、だと思います。例え負けることが確定してようが引き下がれないことはある。例えそれで死ぬのだとしても引いてはならない時はある。アリムさんの返答如何では、俺がどうしてたかも分かりません」
「……それも人だから、ですか。ワタクシは人ではありませんので、あなた方の考えを理解することはできないのかもしれませんね。マスターの考えもワタクシには分からないままですので」
いつもの仮面がないためか、アリムの姿がどこか普通の年頃の少女が悩んでいる様子にさえ見えて――路地裏で相対した自動人形が、頭の内に蘇る。あの自動人形だって、自己の在り方を悩んでいた。
ならばアリムが悩んでいないはずはないのだ。思考能力がここまで備わっているのだから、それ自体は不思議な事ではない。ユラギが持つ人間の常識は通用しないが、アリムはその人間という部分に興味があるから、館で交戦した時も攻撃の手を止めたのだろうとユラギは思っている。
その意志を吐き出したアリムへ、ユラギはこう訊いてみることにした。
「アリムさんは、人間になりたいと思うんですか?」
「いいえ。そうではありません。ですが、人の考えは理解したいと考えていますよ」
「なら――いや。そう考えてくれているのなら、いつか分かる時も来るでしょうし……」
「あなたが教えてくれるのでしょう? ワタクシは期待をしていますよ」
「あー……まぁ、教えるのは得意分野じゃないので。少しずつになりますけど」
「構いません。教えてくれるのであれば」
そりゃ、常識など教えなければ誰だって分からないものだ。
今やユラギにとって生死は大事なものだが、彼女にとっては何でもない事であるのだから。
理由がなければ殺さないというアリムの性質も、そういった側面が強く出ているのだろう。
「ただ、今はあなたを連れてきた説明をするのがワタクシの役目です。まだあなたには何もしておりませんので、まずはそこから――」
「いや、あの、ちょっと待ってくださいアリムさん」
「はい?」
何も言わなければどんどん話を進めていきそうなアリムに待ったを掛け、ユラギは話の軌道を元へと戻した。
「まずは、リシュエルさんに、服を、着せてあげてください」
「……説明した後ではいけないほどの急務なのですか?」
「いやいやいや! お願いします本当に!」
「はあ。それならば、先に彼女の衣類を持ってきますので」
瞬間移動で消え去ったアリムの前、ユラギはがくりと膝を落とした。
「……これ、俺、本当……どうしよう……流石に後で全部吐いて土下座した方がいい、よね……これ……うん……そうしよう……殺されても文句は言えない……俺悪くないと思うけど……それはそれ……これはこれ……」
そして、羞恥心あたりの感性だけは早急に覚えて貰った方がいいかもしれないと、切に思うのだった。




