二話 荷物運びに舞い込んだ依頼
とある文献によると。
異世界から転移してくるユラギのような存在は、さして珍しい現象ではなかったようだ。
ここ数百年間では発生していないだけで、それよりも昔の時代では他の世界から此処へ転移してくるといった事象は半ば日常茶飯事のような出来事であったらしく。
人や動物などの生命だけではなく、世界そのものの一部や概念すらも呼び寄せてしまうその現象は一緒くたに『神隠し』と呼ばれ、当時の英雄やら女神やらが結託して現象の発生を止めたのだそうだ。
以上――この世界の歴史のお話である。
解決した現象がこうして発生している時点でそれが異常であることには変わりはないはずなのだけれど。
ユラギは自身の来歴についてぼうっと思考を張り巡らせつつ、それが答えの出ない堂々巡りに達する段階で中断する。
そのタイミングも丁度よかったらしく、
「呼ばれて来ましたよーっと、はいはいなんでしょう?」
微妙にやる気の感じられない台詞と共に、明るい色のツインテールが視界に映る。
思考の海に身を投げていたユラギはその声で意識を呼び戻されると、ぼうっと下を向いていた目線を彼女の方へ向けた。
――ギルド。
国家が運営する大規模な組織、その末端施設の一つ。
えへんという擬音が見えそうなほど胸を張る女の子に、まずユラギは首を傾げた。
「どうしてこんな小さな女の子が……? 駄目だよ人の制服を勝手に着ちゃ」
「違いまーす、初めて私に会った方々は皆口を揃えて言い……っていきなり酷くないです? 私はギルド受付員のリシュエル・ラウンジなのです、小さくないのですさあ早く用件を言ってください!」
ぴょこぴょこと揺れる桃色の二房がより幼さをアピールしている、そんな受付員。いや、本当に幼いかと言われると素直には首を縦に振れないのだけれど……なんというか、小さい。身長がお子様サイズなので、否定されなければ勝手に納得していたことだろう。
しかしながら結構フランクな対応である。国家直属の施設と言う割には固い雰囲気もない。若い子が働いているというのも、一つの驚きだ。
「えっと、お届け物がありまして」
いつものノリと悪戯心から出てしまった言葉に反省をしつつ、ユラギは用件を告げる。
「お届け……んーと、それは聞いてないですね。見せて貰ってもいいですか?」
「あれ、お話通ってません? 俺は頼まれて来たのですが、てっきり伝わっているものかと」
「いいえ全くなのです、そもそもこの受付は依頼の受注か貼り出しが主ですからね。でもあなたは初めての方なので大目に見ますよ」
ユラギは周囲を見回し、受付が幾つかに分かれていることを確認する。円形に広がる施設の内、両サイドに一つずつと中央に一つ、入口から見て奥に一つの計四つだ。
特に何も考えずに入り口付近の受付まで来てしまったが、まあ大目に見てくれるのなら構わないか、と一人納得する。
「ちなみに他はどんな受付があるんです?」
「はい、反対側の受付が各種便利品の売り出しと遺産品の買い取り商店、これは秘境から持ち帰った物がメインですね。中央がギルドへの登録受付や昇格承認などのランクに関わるもので、あちらの奥にあるのが総合相談窓口となってるのです」
各種受付の場所を手で示され、ユラギはそれに一つずつ頷いていく。
商店は今は用がないとして、もう一つの目的でもあるギルド登録はどうやら中央にあるようだ。本来届け物を渡す所は、総合相談窓口とやらだったのだろう。
「丁寧にどうも。ではあっちに行った方がいいですか?」
「いえ私が取り次ぐのでいいです。でも今度からは向こうにお願いしますね」
そう言って彼女ははにかんだ。
ユラギは懐に入れていた小さな箱を手に、リシュエルへと手渡す。彼女は両目を近づけたり叩いたりして見せながら、むむむと唸って数秒。
「――ふむ。危ないものじゃないみたいですね、じゃあちょっと待ってて下さい」
リシュエルは受付椅子からぴょんと降りて奥の受付へと歩いていく。ツインテールが左右に揺れる後ろ姿はもうむしろ髪の毛が本体なんじゃないかという光景、ぼんやり眺めていると制服を着た別の女の人と会話をし始める。
最初は事務的な会話。別に聞こえているはずもないが、表情からその程度は分かる。
そのリシュエルが血相を変えてこちらに走ってきたのは、すぐのことだった。
「あ、分かりました?」
「分かりましたじゃないですこっちに来るのです!」
がし、と右手を強く掴まれた。頭一つ分は小さい女の子にしては強い握力で、突然の行為でユラギは混乱する。しかしながら少女の焦りは汗ばんだ手から伝わる体温と息切れで察したので、大人しく連行されることにした。
がらんと空いた受付とユラギの後ろに並んでいた数名の視線を浴びつつ、仁王立ちで構える女の人の前に突き出される。
「あのう……俺ちょっと事情を掴みかねているんですけど」
ユラギは依頼を受けて品物を届けに来ただけの者だ。末端ですらない仲介であるが、しかし信頼の出来ない怪しげな組織から手渡された物でもない。
装飾品店スレイリアは端から端までクリーンな表の仕事で、危なげな物品を運ぶ仕事ではないはずだ。
息を荒げるリシュエルを尻目に、ユラギは腕を掴まれたままおずおずと問い掛けた。
「勘違いさせたなら済まないな。別に、君を捕まえるつもりじゃない」
仁王立ちに腕組みをした女の人はそう答える。
すらりと伸びる高身長。
ユラギよりも高い目線から見下ろしてくる目は切れ長で、どこか怜悧な印象を帯びる藍色だ。漆黒に染まる髪は眉毛の上で切り揃えられていて、背中まで伸びる後ろ髪がそれらの印象を際立たせている。
偉い立場の人間なのは、リシュエルとのやり取りやユラギへの反応を見れば分かるだろう。
彼女は切れ長の目を更に細ませて言った。
「本題だ。これをギルドに運んでくれと頼んだのは、誰かな」
「あー……装飾品店のヴィリアさんです。あー俺は便利屋アリシードの下っ端みたいなもんなんですけど、その方に依頼を受けまして」
便利屋という言葉に、彼女は僅かに息を呑んだ。
ぴくりと眉が動いたのをユラギは見逃さない。
「ああ、ランシードの……うん? 彼女はとうとう従業員を作ったのか」
――ひとしきり警戒して、しかしユラギは安堵する。
裏側の人間か、と勘違いをしたけれど、彼女が知っているのは便利屋としてのランシードの身の上か。
それでもあのような台詞を持ってくる辺り、そこそこ事情は知っているらしい。お得意さんか、個人的に仲が良いのかまでユラギは分からないが。
便利屋自体は全くの無名でもないため、きっとその辺りの関係だと推察する。
どの道これ以上の警戒を続けてもどうしようもない。
要らぬ誤解を相手に与えることになるし、どの道相手が裏事情まで知っていた場合は逃走するしかないのだから。
「なんかお願いしたら雇ってくれましたよ。雇うつもりなんてなかったらしいですけど、お願いすればなんとかなるもんですね」
「そ、そうか……君は凄いな」
彼女はどこか引き気味に相槌を打った。
確実に褒めてない台詞の後、話の流れを切り替えてくる。
「して、君はこれの中身を聞いてはいないんだったな?」
「はい。欠片も」
そこにユラギへの不信感などもないようで、予定調和といった風に彼女は頷く。
次に何の躊躇もなく箱の紐を解き、蓋を開いて逆さにした。
「げ、開けちゃっていいんですか……」
彼女の手の平に転がったのは、小さな玉だった。
宝玉――ではない。柔らかな球体のそれは黒く茶色く濁っており、玉の中央に一際黒く輝く光が内包されている。
どこか薄気味悪さを覚える球体を見て、まず装飾品の類ではないなと感じつつも、一体どんな用途かまでは分からない。
「いやぁ、だって君、これを隠しておく理由はどこにもないからね」
彼女は苦虫を噛み潰したような顔でそう言うと、球体と同じく箱から落ちてきたメモを摘んだ。
空箱に蓋をしながら器用に片手で開くと、読み上げる。
「ええと、『調整は完了したよ。後はそちらでどうにか活用して欲しい』――うん。君、これが何だか知りたいかい?」
「いえ全く、あ、じゃあ用事は終わりみたいなので俺はこれで失礼しますね」
その口調でもう怪しさ満点の厄介事だと咄嗟に判断したユラギはさっさと話を切り上げようとするが、ここで未だリシュエルに腕を掴まれていたことを思い出した。
しまった、これでは動けない――。
「すまないな、聞き方が間違っていたよ。知りたくても知りたくなくても君には知ってもらう必要があるらしい。メモに書いてあるよ、『遣いの人も巻き込んでおいてくれ』と」
「いや、それ絶対聞いちゃいけないやつですよね厄介事ですよね?」
「厄介事だね。胸を張って厄介事だと言おう、さあ言うぞ」
「……まぁ、じゃあ聞きますけど」
いい性格してるなこの野郎と言いたかった言葉を噤んで、諦めと一緒に溜め息を吐き出す。
そうまで書かれていたのならばユラギが断る理由は何もない。含みのある台詞を何度か呟いていたヴィリアがそんなメモを残した以上、恐らく必要なことなのだ。
多分それは、頃合いを見計らった一つの試練のようなもので。
ユラギがこの世界へ、都市へ住んでから大分時間が経過した。ならばそろそろ崖から突き落とす頃合いだっただけのことなのだ。
知識と常識をそれなりに植え付けられた今、ユラギに求められているのはこれからのランシードについていけるかどうか――多分、そんなところ。
目に見えて分かる試練の形で突き落としてくれたのは僥倖だと思う他はない。彼が依頼という形でそれを持ってきた以上、便利屋のユラギは依頼を遂行するべきである。
……と強引に納得する言葉を頭の内に並べ立てていると、彼女はこほんと咳払いを一つ。
「やけに素直だな。てっきり逃げ出すものかと……リシュエル、手を離してやれ」
「はいはい了解なのです」
リシュエルの掴んでいた手がようやく離れる。
それまで息切れをしていたポンコツ職員具合はどうしたのか、何事も無かった顔でユラギの後ろを陣取った。
「大人しく付いてくるのですよ? 逃げたりしたらバコンです」
「え、何、それ拘束してたつもりなの、じゃあ今の、ええ……」
どうやらそういうことらしい。
別に何も悪いことはしていないはずなのに犯罪者にでもなったかのような気分を味わいつつ、ユラギは半分以上訳も分からぬまま、前後をギルド職員に挟まれ職員通路まで連行されていく。
ただ一つ言えることがあるとすれば。
全てがヴィリアの好意と親切によるもの――ではなさそうだった。
◇
「とまあヴィリアとは友人同士でグルだったわけだが、何か言いたいことは?」
職員通路を進むこと少し、ユラギが案内されたのは広さにして六畳程度の小さな個室だ。机と棚と照明しかない最低限の設備、その片方に座って一人の女性と対面している。
名はアドリアナ・ハウル。どことなくランシードの雰囲気と似ている、硬質で怜悧なイメージの強い女性だ。
ちなみにリシュエル・ラウンジは部屋全体を見渡せる位置に立っている。これではまるで取り調べか何かのようだけれど、あながち間違いではないのかもしれない。
「いやあ分かりますよそれくらい……ここまでされれば。でも、どうしてこんな大掛かりなことを?」
ユラギは聞く。
ユラギが荷を持ち込んだ時点でこうなるようにヴィリアが手配していなければ、良い意味でも悪い意味でもこうはなっていなかったはずだ。
持ち込んだ物的に危険な物品を運ばされたわけだし。
「君の為にやったわけではない。何せ私は本当に遣いが誰だか聞いてはいなかったんだ。但し戦力として優秀な人材であるとは聞き及んでいたが……まさか便利屋だとはね」
「はあ。俺が戦力、ですか」
「そうだ。そして、重ねて私から君に依頼をする手筈になっている。この箱の中身――遺産品、殺戮機関の防衛をね」
流れるように本題へと移された。
聞いた以上は逃げられない、ほとんど今回の確信を突くであろうその中身の説明だ。字面からしてもう怪しげな代物である。
ユラギは苦笑して後頭部を引っ掻いた。
「……依頼、ですか。分かりました、それが依頼であれば俺は請け負います。報酬の掲示を」
「ほう。一端を気取るじゃないか? いいだろう。報酬は君が一月生活していくだけの金か、もしくは君に見合う遺産品を進呈する。どうだい?」
まぁ拒否権はないけどねと呟いて、彼女は何故か得意げに片眉をひしゃげてみせた。
「……うん」
実質ユラギが選択できるのは報酬の二つだけである。
どちらも側面的には美味しすぎる内容であるが、その分の危険度については言うまでもない。果たして自身の力がそこまで及ぶかどうかを考えて、しかし、ユラギは小さく首を振った。
やるしかないのだ。拒否権もないのに出来なかった未来の話を考えても仕方がない。
「とりあえず、遺産ってのは具体的にどういう物なんですか?」
「能力付与型の装着品だよ。これは依頼料として君に貸し出すつもりだから、気に入ったならば受け取るといい。気に入らなければ金になる」
「……なるほど」
――遺産。秘境に眠るアーティファクトと呼ばれる発掘品には、特殊な能力が宿っていることが多い。どのような影響と過程から生まれるかは判っていないそうだが、ヴィリアの装飾品とは違って戦闘等に直接影響を与える効果の強い代物が多い印象が見られる。
効果の強さで言えば、中にはアーティファクト一つで今後の人生を大きく変える物まであるらしいが、少なくともこの報酬でお目に掛かるような事はまずないし、そのクラスになるとそもそも世に数個出回っているかいないか。
ちょっとした便利品でも十分にお高い――それが、アーティファクトである。
もっとも、まるで使えない代物もあるということだけは覚えておかねばならないだろう。生活や冒険やその他諸々の一部として取り込まれているからこそ、選別と選定は重要だ。
「そういうわけだ、それでは今回の依頼内容を説明する」
アドリアナは懐から折り畳まれた紙を持ち出し、机の上に広げる。どうやら鑑定書のようだが、ランシードが何度か見せてきた紙の質と文字の並びでそう覚えていただけのユラギに読み解くことはできない。
それを察したのか、アドリアナはなぞるように紙面に指を走らせる。
「鑑定者は《科学者》シャインハート、この遺産品は殺戮機関、別名キリング・コアと名付けられている。身体の一部に埋め込むことで遺産内部の性質と同調させ、特殊な能力を得るアイテムだな」
「埋め込む……?」
「このサイズなら眼球を抉って嵌め込むのには丁度良いだろう」
ぐえ、とユラギは舌を出してえずく。想像するだけで目の奥が疼いてくる。
「効果は名前の通りだ。埋め込むことで殺意が増幅し、同時に戦闘及び殺しの技術が身に馴染む。シャインハート曰く、長らく秘境で瘴気を浴び続けた魔石の類が様々な種の闘争の中で記録と蓄積を続け、変異したものらしいのだが」
「いやなんでそんなものを……ほとんど呪いのアイテムみたいなものじゃないですか」
教訓、これが使えないアーティファクトの例。
「それが欲しい奴はいるんだよ。呪われていると分かってはいても、一定数はね」
アドリアナは呆れた様子でこみかみをつつく。机の端にて置かれた箱に目をやり、面倒そうに顔をしかめる。
つられてユラギも見る。今アーティファクトは箱に入っているから見えないが、あんな見るからに禍々しい物に手を出そうとするとは――まぁ、十中八九、そういう人種なのだろうけれど。
「私達はこんなものを販売するわけにも放置しておくわけにも捨てるわけにもいかなかったからね。まず保険のためヴィリアに頼んで少しだけ加工を施して貰い、性能を劣化させて貰った」
「え、そんなこと出来るんですかあの人」
「意図せずとも装飾品に余計な力を付与する人物だぞ? 狙って相反する性質を与えてやれば、相殺とはいかずとも軽減くらいは可能だろう」
能力の付与的に似ていると先程評しはしていたが、まさかそこまで密接する関係だと思わなかった。
ユラギは驚きに目を白黒させる。
ランシードの本質を知っている身内だけあって彼自身の性能も中々にぶっ飛んでいた。もしかしてこれからはもう少し腰を低く接した方がいいだろうか、いや、変な事は止めておいた方が身のためだ。
「君には調整したそれを運んで貰ったわけだね。まあ、案の定、君を付け狙っていた人物がいたようだけど」
「――はい?」
ぴしりと背筋が寒くなった。一体、どこから?
念のためユラギなりに結構注意はして、怪しげにならぬよう迅速にギルドまでやって来たつもりだったのに。
「正確には君ではなく、私がヴィリアに遺産を渡した時からずっと、それを狙っていたと言うべきかな。はははしかし安心したまえ、さっきギルドで中身をひっくり返したからな」
「えっ」
「ソイツは『間違いない、あれが殺戮機関だ』と気付いて今頃仲間に連絡をしているに違いないと言ったんだ」
「……」
数瞬の空白が、アドリアナ以外の空気が凍りついたことを意味していた。
言葉も出ない。背後のリシュエルもがたがたと震えながら子犬のような瞳で何かをこちらに訴えかけているし、アドリアナは軽やかに笑っている。
「……なんで見せてんですか? 普通、隠すでしょう!」
「馬鹿だな。そんなことしたら『間違いない、あの不自然なやり取りは殺戮機関だ』と気付くに決まっている。話を聞け、当然わざとやった意味は持たせているさ」
「どっちも駄目だー!」
頭を抱えて机に突っ伏した。
わざわざ公共の場で箱にまで入れて中身を隠していた物を広げたのは――はっとして即顔を上げると、一瞬にして額や頬に冷や汗が。
それから口を開こうとして。
「当然だよ。だからこそ、これを狙ってくる奴らがいるのならば狙われなくなればいい。そうじゃないか?」
「……あの、具体的には何をどうするつもりで?」
「君にはそれを持ち、まず普通に帰路について貰おう」
それは死刑宣告のようなもの。
依頼内容、つまるところ――餌を持って逃げ回る囮になれ、そういうわけだった。
「中身が完全に割れた今、君は絶対に狙われるし逃げられない。中身がすげ変わっている可能性を考慮したとしても、それならば君を捕まえ拷問して在処を吐かせればいいだけだからな。そこを逆手に取り、逆探知を行う作戦だよ」
「その作戦には俺の意思も組み込んで欲しかったところですが……拒否権どころか、逃げ道も潰してくれるとは」
「しかしそのくらいで丁度良いだろう? ヴィリアからも手厳しくするように言われていたし――何より君も、嫌々しげな事を言いつつもやりたげな目をしているじゃないか」
そう言われて、僅かに口角が上がっていたことに気が付く。
無理難題。手厳しいというよりも理不尽な依頼で、けれどそんな依頼よりも難しい物をこなしてきた彼女の背中がユラギの脳裏を過る。
――自分だって。
そうじゃない。この程度は出来て当然、雑務のようにこなして夕方にでもへらへら帰って来られるように、平然と事務所に居るようでなければお話にはならない。
だから、これはその証を立てる最も近いチャンスであり。そのチャンスを拾って寄越してくれた巡り合わせは、またとない絶好の機会なのだ。
「そう、見えましたかね」
己の拳を握りしめて、脂汗と緊張が走っていることを確かめる。口元が僅かに震えている。妙に落ち着かない気分が身体中を駆け巡っている。
今までほんの手伝いしかこなしていなかったけれど、自己鍛錬を怠ったつもりはない。
ユラギはずっと機会を窺っていた。
今がその時、逃す理由はどこにもなく。
「まあ、じゃあ。しっかり平穏無事に逃げ回りますんで、きちんと暴いてぶっ潰して下さいよ」
不敵に笑って、ユラギはそう応えた。