十九話 水上防衛都市グリーフ
ユラギとリシュエルが水上都市へと向かうその頃。
報告書を提出し、一人調査へと出掛けていたランシードは――黒装束を身に纏い、高層街のとある家宅へやってきていた。
足音も無しに進む道は長い一本道の廊下。そこは等間隔に吊り下げられた燭台灯だけが光源のため薄暗い。
壁には数ある調度品が飾られており、赤い絨毯が端から端まで敷かれている。
見た目だけを取れば、モールド家にあるような廊下と大差はない。
ランシードはそれが本来の役割を果たすための偽装だと見抜き、ぼそりと呟く。
「……随分と古風な手法を使うものだ」
廊下一面に設置された侵入者用の仕掛けを眺め――とん、軽やかに駆け出す。
一番手前。壁掛けの絵画に開けられた小さな穴を潜り、絨毯に隠された落とし穴は飛んで回避する。着地先に張られた糸には触れないよう避け、容赦なく奥へ突き進む。
あっさり通路の端に到達すると分厚い鉄の扉が一つ見えた。開閉部分を鎖でがんじがらめに固定され、そこは開かないようになっている。
少女は懐に隠す短剣をしゃんと引き抜いた。
細身で両刃、刃渡りは手に収まる大きさ。衣類の内に違和感なく収納しておける得物だ。
右手に構え切っ先を水平にし、中心から一閃。断ち切られた鎖の束が床へ落下した。
もう片方の手で扉を引く。
先に続くのはどこまでも黒い空間と――開閉にて起動した弓矢の罠だ。
それらを全て、右手の短剣で弾く。
これ以上の罠は仕掛けられていない。
ランシードは扉を抜け、その先へと侵入した。
「――我が家に入り込んだかと思えば。隠された地下通路まで突破し、挙句気配を殺した私のところにまであっさりと到達してしまうとはな……流石は仕立て屋と言えよう、いやはや、参った」
短い通路。矢を発射した穴だらけの壁を横に折れると、そんな声が掛けられる。
長い廊下の終着点には小部屋が一つだけ存在していた。
入口に扉などはなく、テーブルに設置された燭台の明かりに照らされ一人の男性が浮かび上がる。白髪交じりの頭髪を後ろに流した小太りの初老だ。
彼は揺り椅子に腰掛け、灯された火の明かりを頼りに分厚い本を指でなぞり読み進めていた。
「――ようやく見つけたよ。マイルズ・オーガン」
「見つけたとは面白いことを言う。我が家に押し入り隠し部屋にまで入り込んできたのだから、追い詰めたが妥当ではないか」
彼はぽりぽりと右手の人差し指で頬を掻き、ぱたりと本を閉じる。
切れ長の目が開かれ、くすんだ灰色の瞳がランシードを見据えた。
「隠す気もなさそうだね。では、大人しく出頭して貰いたいのだけれど……」
「別に構わんが。私が行ったとて何が変わるというのかね」
「何が言いたい?」
「道は開かれたのだ。空いた穴は塞がらん。御柱のモールドは離れ――灰の雪崩は防げない」
「ギルドが防いでいるらしいがね」
「一時的にな。だが直に限界が訪れるさ。なんのための御柱だと思っているのだ。技術無き者で代用が効くならそんなものは必要ない」
「……まぁ、どうであろうと君には来て貰うつもりだよ」
男性はせせら笑うようにし、揺り椅子から腰を離した。
「別に構わんと言っているだろう。だが付いて行く前に幾つか質問をしなければな」
「君が、私に質問をかい?」
「そうだ。いずれ接触されることが分かっていたものでな。ならば逃げ仰せることよりも有意義な話を持ち込んだ方がよいと判断する。君に実力で敵おうとすれば――それは現世界を敵に回すも同然なのでね」
言って、彼は腰を上げ揺り椅子から立ち上がる。その際、ごく自然に机に置かれた本の背表紙を掴み取った所作を見、ランシードは半歩だけ間合いを詰めた。
それが本を読むだけの用途には使わない動作――遺産や魔力の宿る術式を描いた、所謂魔導書と呼ぶ得物を扱う者特有の動きだったためだ。
仮に術式発動の予兆が見えたならば魔法の起こりが見える前に術者を潰さねばならない――そのための間合い。十分に警戒しつつ、返事を返す。
「それは言い過ぎではないかな」
「だがその能力は今も都市から欲されているものだ。決してこれは過大評価ではない――して、君はその都市をどう思っている?」
「なんだいその質問は……よく分からないことを言うね。哲学でも話したいなら私以外に頼みたい」
「いや純粋な君の考えを述べてくれればいいだけだ。遅かれ早かれ、この都市は必ず限界を迎えるのだ。君も、それは分かっているのだろう」
その断定した言い方にランシードは表情を強張らせる。
「知らぬ顔でいられるほど無知ではあるまい? 見ての通り、都市の人口減少は避けられぬ運命ではないか。この都市の加護は直に終わる。国が都市の機械化を図り延命を続けたが――持って数十年、そこが寿命だろう」
「何故君に分かる。未来でも見てきたと言うつもりかい」
「神託があった。数百年、都市を守護してきた我らが神の加護は消滅するのだと。残り火に集って生き永らえる生活は唐突に消え去る。灰はこの都市を襲い、世界は滅びるだろう――そうなっては全てが遅いのだ」
「分かっていて御柱を襲ったのかい」
「分かっているから襲うのだ――埃被った人の意地を、呼び覚ますために」
吐き捨てたような台詞と共に、彼の周囲に鈍く黒い光が顕れた。力の発露を見るや否や床を蹴り、ランシードは手の内の短剣を躍らせる。
狙うは魔力濃く渦巻く彼の左手首。殺害する訳にいかずとも、魔導書ごと魔法の発現元を落とせば終わりだ――短剣の切っ先がずぶりと肉を抉り、骨ごと両断す――。
「ですから一人は危険だと言ったじゃありませんか」
――手首に斬り込んだ切っ先が、腕に当たる寸前で静止していた。
「……!」
いや、確かに斬り落としたはずだったのだ。
手の内の感触は確かに肉と骨を断ち、鮮血と共に手首が離れた――直後、まるで時間が巻き戻されたかのように、刃は寸前で停止していた。代わり、刃の表面を――薄氷が覆っている。
背後から女の声が響いた。
「私がいなければ死んでましたね」
「殺されんさ。私に価値がある限りは」
聞くだけで凍えるような、平坦で冷徹な声音――そこまで聞き、ランシードは異変にようやく気が付く。
凍っているのは切っ先だけではないことに。
己の肉体に凍り付いている感覚だけがあった。
だが視線が固定されて動かない。
指先一つに渡るまで、身体が言うことを聞かない。周囲へ張り巡らせていた感覚が消失した。
そして何より――目に見える範囲の空間が全て、凍り付いていた。壁から床まで青白く凍り付き、そこには冷気が漂う。
しかし、視界に映る全てが事実ではないこともまた確か。
これらの現象は全てが物理的なものではない。視覚の作用はそう見せているだけ。或いは、概念が凍結という結果を引き起こしたか――男の傷が戻った要因はそこにある。だからただの氷ではない。
それは――。
「あ、うん、そーですか。なら今から時間を元に戻せばあなたは失血死ですね。それともショック死しますかね」
「――はっ。分かった、分かった。自ら危険に身を晒したことは謝ろう」
と。
男の前を塞ぐように一人の少女が立ち、ランシードの視界に映り込んだ。凍結された世界で自由に滑らかに動く少女は、その雪のように白い手をランシードの右手に這わせ、そっと退ける。
少しだけ屈むようにして少女は目を見開いた。
青い瞳。暗色の修道服から覗かせる蒼白の髪が、ほんのり冷気を纏い輝いている――。
「どうも。《魔法使い》の弟子、青色のクルーエル・ブルーブックです」
「――青、ね」
「お気付きになられたようで何より。さて本題ですが……あなたには〝人質〟になって貰いますね。国家最高の治安維持装置さん」
少女は無表情のまま――続ける。
「逆らえばユラギという少年を殺します。この意味、分かりますね?」
「――ふむ。君達はそういう手段を取るわけだ」
「はい。そしてあなたなら私が嘘を吐いていないことも分かりますね。では、どうしますか?」
◇
水上防衛都市グリーフの外観を例えるなら、正に水の都とでも称するのが適切な表現であろう。
巨大な海の上にて成立するこの都市は、海底から伸ばした柱と海水の浮力により成り立っている(らしい)。
その為陸地は少なく、基本的に建造物に架かった橋を渡るのが通行手段だ。他は建造物間の海面を小船で渡るか、もしくはジャンプしたり空を飛んだり――まあ一般的ではないだろう。
ユラギは周囲を眺めて観光に勤しみつつ、隣で地図を片手に唸っている彼女へ視線をやった。
刷ったばかりであろう真新しい紙をくしゃくしゃにしながら、リシュエルはそこで立ち止まった。
彼女が地図を降ろして目線を上げた先にあるのは古ぼけた建造物だ。
長い間波に晒されて錆びや風化が目立ち、入口の鉄柵は凡そ本来の機能を保ってない。
安物の物件――家自体は小さいわけではないが、相応の代物ではあろう。あまり手入れの行き届いていない外観だ。
苔生した門へ指先で触れようとすると、リシュエルがその腕を引っ張って止めてくる。
「どうして普通に入ろうとするんですか。この先――あんまり良い気配がしてないの、分かってますよね」
「いや、でもまさか蹴破って入りはしませんよ。ここまで来て躊躇するのもどうかと思いますし」
「……はぁ。分かりましたよ。見たところ仕掛けはありませんし、入るならお先にどうぞ」
「そういうの、分かるんですね?」
リシュエルはそれには返事をくれなかった。
受付嬢という仕事に就いている彼女だが、堂々と秘境に足を踏み入れたりもする辺り探索や戦闘の心得は確かであるらしい。風格はないが、その辺り妙に肝が据わっている。
昔は冒険者側であったのだろうか……ふむ。
思案を巡らせつつ、門を開く。
錆びた門が内側に開き、風化した石畳が出迎える。手入れがされていない――即ち、本当に細工は行っていないということだ。
扉まで歩いていくと、こつ、と足音が一つ。家の中から鳴った。
ぎぎぎと扉を外側に開き――その人物は姿を現す。
紫のゴシックドレスを身に纏った少女。先日と何も変わらぬ姿で現れ、鈍く光る紫紺が二人へ向けられる。
――紫。幾度も話で聞いたことだが、彼女のそれがどういう類のモノであるかは定かではない。
しかし、キースのそれと似たような空気は感じなかった。
一声、初めに彼女が口を開く。
「ようこそ――ですがお二人ですか。まあ、いいでしょう。そちらのあなたは?」
「リシュエル・ラウンジ……ギルドの職員をやってる者です。お聞きしたいことがあったのでこちらのユラギと共に伺いましたが……」
「あまり、身構えないで欲しいものですね。そのつもりがあるなら最初から足は付けておりませんよ」
今のは十中八九、この家を購入したことを言っているのだろう。
少女――アリムは小さく礼をした後、右手で扉の内側を示す。
「中へどうぞ。お話はそちらで致しましょうか」
くるりと身を反転させ、アリムは扉の内へと消えていく。
「……自動、人形?」
その背を見つめ、小さく、リシュエルはそう呟いた。
「何か気になることでも?」
「いえ、なんでもない……とは思うのですが。少し……」
彼女は妙な顔付きでそんなことを言うと、ユラギより先に扉へと足を踏み出した。
アリムの姿と声を聞き、妙なモノを感じ取ったのだろうか。ユラギには何がおかしくないのかさえ分からないが、自動人形と言ったからにはその辺りに違和感があるのかもしれない。
何れにせよアリムが普通の自動人形でないことは明白だが――。
アリムを追いかけるよう二人が進むと、短い通路の先に広間が待っていた。
木造りの古ぼけた机一卓、椅子が四脚。アリムは奥側の席へと座ると、相も変わらず表情の分からぬ顔で二人へ「さあ」と空いている椅子を示した。
他に誰も呼んでいないらしい。モールド・バレルの気配は愚か、他の自動人形さえも見る限りはいないようだ。
本当に二人で話をするつもりだったのか。
ユラギは言われるがまま、正面の椅子を引く。
「次の機会とは言ってましたが……まさかこのような形で招待を受けるとは」
「だって、便利屋なのでしょう? こうすれば嫌でも反応するではありませんか」
そう言われれば、そうだろう。わざわざ見つけられようとして情報を残したのだ、だから結果としてユラギは此処まで来た。来てしまった。
知ってしまった以上、来ないと言う選択肢はユラギにはなかった。
「……さっそく聞かせて貰いますけど、モールド・バレルはどこに?」
「マスターは既にこの世のどこにもいません」
今度は何を隠すでもなく、彼女は答えた。
「いえ、死んでいるわけではありませんよ。人類が観測する地点にはいないといった意味でこの世と言っただけです。あなたは、マスターにお会いしたいのですか」
「いや、まあ俺は最初からそのつもりで来ているので」
会いたいというか、表に引き摺り出せればというか。
こちらから掴んだわけではない以上そこまで望むつもりはなかったが、彼の真意くらいは知りたかったのは確かだった。現状手にしている情報では彼が何をしたいのかが掴めていない。
都市を滅ぼす――それは分かった。
だが娘を手に掛けたり結果的に守っていたり、読めない行動が多過ぎる。
「でしたら歓談はしない方向で進めましょう。あなた個人に訊きたいことは多々ありますが――こちらの事情が変わりましたから」
「それ、どういう意味です?」
前回の話の続きをしたかったのではなかったか。したところでユラギの回答が変わることもないが、その話を歓談として片付けるのであれば――呼び付けた本題が別にあることになる。
ユラギが来る理由はあっても、アリムにそれがあるとは思えないが……。
薄明りの室内で紫紺の瞳が鈍く光を宿す。
それはちかちかと、切れそうな電球のように明滅している。
アリムは細い指を己の眼球へと這わせ、そう言った。
「ワタクシの瞳に宿る《狂喜》が警告を発しています。予定より遥かに早く、円状拠点都市エクサルに《灰》が浸食を始めた、と」
「――っ、あなたは」
その言葉にまずリシュエルが反応を示した。
ユラギにとってはなんのこっちゃという話……いや、そうでもない。都市に浸食というワードで思い浮かぶのは、どう考えても外界に蔓延する灰以外にはなかったからだ。
だが。
「その崩壊に巻き込まれ、手遅れとなる前にあなたをこちらへ呼びました」
「じゃあ、アリムさんが俺を……助けたと?」
話こそ分かったがやはり意味が分からない。事情は繋がったが理由が不明だ。
彼女がこちらを助ける理由など欠片もありはしないだろう。
なのにそうした。
そこに理由がないはずがない。
――嫌な予感が背筋を走る。
「そうなるのかもしれませんね」
「……何故です?」
「何故、ですか。確信したからですよ。記憶がないようですが、あなたは正真正銘――」
す、と指先がこちらへ向けられる。正確には机の下へとあるユラギの右手を。
這うように、雷が右腕へと迸っていた。
「――六百年前の英雄だからですよ。ですからその記憶を、ワタクシの力で一部だけ起こしましょう」
「な、待――」
咄嗟に止めようと伸ばした手を、覆うよう雷が邪魔をして。
次の瞬間――視界の全てが紫に覆われ、ユラギの意識は消失した。




