一話 回想に耽る始まりの日
少年は追憶していた。
ただひたすらに入り組んだ路地を走りながら、自らの置かれている現状を考えたりもしてみながらふと物思いに耽る。
「俺がどうしてこんなことをしているのか、改めて考えると全く不思議だけど――」
少年は路地の曲がり角にて足を止めた。
慌てるように気配を殺して視線をやった先に見えるのは、一匹の猫であった。
「よし……やっと、見つけた」
少年は小さな意気込みを言葉にして、思考を一旦取り止めて右手に握られていた紙へと視線を落とす。
そこに描かれているのは視界の奥に映っている猫と同じ姿の猫の絵だ。茶色の毛並みに黒い斑点、尾が長いのが特徴の飼い猫。一応同じであることを何度か確認した上で、少年は腰を深く落とす。
紙を乱雑にポケットへ叩き込んで、構えを取って準備完了。
少年は深く息を吸い込むと、猫が居る通路へ一直線に飛び込んだ。
瞬間、猫は少年の方を見もせずに一目散に逃げていく。
その時――ばちり、と地面に雷が走った。
地面を蹴った少年の足が青白い雷を纏う。それは紛れもなく少年の身体から発生した電流であり、次いで全身の体表が僅かに青白く発光して、
「逃がすかあぁ!」
――凡そ人が走れる速度を超過して、少年は加速する。
がしり、と。
伸ばした手が、路地を曲がろうとした猫の尻尾を見事に鷲掴みにしたのであった。
◇
「君は馬鹿だねぇ……いいや、なんでもないよ。まぁうん、無事に捕まえられて結構。『雷で致命傷を与えてしまった』以外の点は、良かったと褒めてあげるよ」
――請負業。
便利屋アリシード、二階事務所。
応接間のソファで居心地悪そうに過ごしている少年を見下ろしつつ、そう言い放った人物は机を挟んだ反対側のソファで悠々コーヒーを飲んでいた。
彼女の名はランシード。女性と表現するには少々幼いが、また少女と表現するにも少しばかり大人びている気風をした――つまるところ、少年を雇っている請負業のオーナーである。
ほとんど褒められない少年の行動をつらつら皮肉りつつ、ランシードはコーヒーを一口に飲み下した。三拍ほどの間を置いてから、彼女は苦々しい口調で少年を諭しに掛かる。
「それにしても、またそれを使ったんだね。一日に一度しか使えない上に体力が持たないから、一応は禁止していたハズだけれど?」
「そうなんですけど、人間と猫では基本スペックが違いますからね。能力でも使わないととてもとても……」
彼女は飲み干したカップをテーブルに置くと「はぁ」と溜め息を吐いた。右手を肩に回して凝りをほぐす仕草を見せつつ、哀れな物でも見るような目つきで少年に視線を送り付けている。
「そうだね。そうかもしれないね。けれど依頼主も私も、ぶちのめせだなんて一言も発しちゃいない。あぁストレスで肩が凝りそうだよ……全く、誰のせいなんだか」
何度か肩を揉みほぐすそのすぐ下、豊かに育まれた豊穣の二つが肩凝りの原因だと少年は思って――思って、まさか自分を雇ってくれている人にそんなセクハラ紛いの発言をするわけにもいかないので、オブラートに包むことにした。
「なんだい、私の胸の辺りをちらちらと」
「いや、違うんです。ただ肩凝りの原因を見つけてしまっただけで」
「そうかい死ね」
どうやらこの程度のことは何とも思っていないらしい。彼女は大した反応もなく切り返し、事も無げに立ち上がると、
「言っておくけれど、君の衣食住全権は私が握っていることを忘れないようにね」
冷静にそんな警告を呟いてきた。
「そんなまたまた……あ、嘘です。次から気を付けます」
「本当にそうして貰いたいものだよ。全くね」
頭を床に擦り付ける少年を尻目に、彼女は空のコップを片付けてしまう。
そんなやり取りが日常的に交わされるが、これでも上司と部下の会話である。
――今は。それ以上でも以下でもない。強いていえば少しだけ訳ありの事情を孕む、そんな関係が少年と彼女の間柄であった。
ランシードは食器を洗い流しつつ、ふと「そういえば」と口にした。
「ユラギ、ところで君は――記憶のほどはどうなんだい?」
「あぁ、そのことですか」
少年はユラギと呼ばれると頭を上げ、それから参ったように首を傾げる。
「まぁ、ぼちぼちですかね。相変わらずですけど、それでもランシーのお陰で収まったというものです」
「ふうん。それは良かった、拾ってやった甲斐があったというものだね。これで仕事も出来れば文句はないのだけど」
「冗談止して下さいよ、これでも俺はランシーの右腕じゃないですかははは」
ランシー、というのは彼女の愛称だ。
というよりフルネームで呼ぶと彼女が何故か怒るという理由でそう呼んでいるわけなのだが、その訳が「なんか女の子っぽくないだろう?」なのは可愛げがあるところである。
だったらまずはその口調を女の子らしくすればいいのに、だなんてことを言わないながらも考えつつ――ランシードが半目でこちらを見つめていることに気が付いた。
「な、なんですかその凄い不満そうな顔は、嫌ですか?」
「いや……そりゃ君以外に従業員なんていないからね。必然的に右腕も左腕も君になろうよ」
「左腕も任せてくれるだなんてそんな」
「任せてない」
溜息混じりに言って、ランシードは依頼書をぶん投げてくる。
「ほれ、依頼だよ。君が帰って来る少し前に来ていてね。下の階の装飾品店の店主からだ」
「げ……それってもしかして依頼の体を為してない依頼じゃないですか」
「うん。それでも依頼だよ、行っておいで」
ユラギは微妙そうな顔をしつつも、渋々書類を受け取って頷いた。中身も見ずに四つ折りにしたのを見てか、ランシードが釘を刺す。
「言っておくけれどこの階は建物の所有者である彼から借りているんだからね、無下に断るわけにもいかない。何、たかがトイレ掃除だ、君にも出来るだろう」
「いえやりますけどね。けど飼い猫探しにトイレ掃除って……もうそれ請負っていうか、あまりにも何でも屋っていうか、雑用というかお手伝いさんというか」
その前の依頼は確か野菜売りのお手伝いであった気が……ユラギは自分の発言に息を飲む。っは、本当にお手伝いさんだった。
「おや? なんだい。ならば君は血で血を争う血みどろで血生臭い依頼でも欲しいのかい? 例えば――害種を狩ったりだとか」
「何回血って言うんですか。そこまで言いませんが……」
「――例えば人殺し、とか。君にはとてもとても荷が重いだろう」
徐々に、真剣味を帯び出した口調に対して。
茶化そうと濁した発言を全て一蹴された挙句、ぴしゃりと言い切られて言葉を失う。
そう、その通りだ。ユラギは都市の外に出て害種と呼ばれる化物を倒すことなんて出来ないし、ましてや人殺しなんて出来ようはずがない。
「ここはそういう職場だよ。私はそれが依頼であれば何だって受ける。選り好みはしない、こちらに損害がなければ遂行するし――さて、君に任せてもいいのかい?」
「そう言われるとちょっと、如何とも……いえ、素直に言います。すみません、俺では力不足です」
ここは請負業務、頼まれた依頼を仕立てる便利屋。人を死立てる殺し屋。彼女の本業は実のところ――そういった世界の闇の側、裏の仕事を生業とするものであった。
可愛らしい顔つきや大きな胸からは想像も付かないけれど。便利屋というのも表の話であって、そういう依頼人が度々彼女を求めてやってくる。
表向きにはお手伝いの範疇であろう。実際そのような依頼は多い。
しかし実態は、公的な部分で始末に負えない汚れ仕事を引き受ける暗部――知る人ぞ知る人間殺し、《仕立て屋》のランシード。同業界の裏連中には酷く嫌われている、彼女はそういう人間だった。
とまあ。
そんな裏でもない限り、ユラギのような素性の知れない少年など雇ってくれるはずもないのだけれど。
――約半年前のこと。
ユラギはいつの間にか気付けば故郷日本からどこか遠い別の世界のこの地に飛ばされていて、直前の記憶を全て失っていた。
どうすることも出来やしない。知らぬ地、知らぬ世界。何故か言葉が通じてしまったところで、少年が出来ることは何もなく。ユラギが餓死寸前の死に掛けの時、そこで初めて出会った彼女に言われた言葉は――決して忘れることはできない。
助けてくれと叫んで、食べ物をくれと恥ずかしげもなく強請って、とにかく救いを求めて懇願したあの日の台詞は今でも忘れることはない。
『別にいいけれど、きっとここでのたれ死ぬより後悔するよ。何故なら私は人殺しさ――私と一緒に来てみろ、君も最後は碌な死に方をしない』
冷たく言い放った彼女の言葉を。
けれどユラギが頼れる人など他には誰もいなくて。
それでもとお願いをすると、彼女はあっさり引き受けた。
――後から彼女に言わせると、表向きの面目を保つための雑用が欲しかったのだのなんだのと言っていたが。
多分それは、本心からの言葉ではなく。
これまでのやり取りでも分かるように――彼女は、本当は優しいから。
きっと、断れなかったのだろうとユラギは思う。
だから傲慢にも――いいや。それは、今考えるべきではない言葉だ。口に出してはいけないどころか、思うことすらおこがましい。
少なくとも、今は。
「それでよいのだよ。それが普通さ、特に君は力不足というよりも精神が参りそうだしね。君には平和が似合っている、無理にこちらへ踏み込む必要もないのだよ」
それは、どういう意味での平和なのであろう。果たして遠回しの皮肉だったのか、それが彼女の本心からの台詞だったのかは分からない。
平和。きっと本当に平和が似合っているのならば、こうはなっていないだろうに。
「……依頼、行ってきます」
「ああ行ってらっしゃい。ところで二転三転した話題ですっかり誤魔化せると思っているようだけれど、失敗した依頼については後でお仕置きがあるからね。心するように」
すっかり忘れてた。けれどランシードは忘れてくれなかったようだ。
なのでユラギは捨て台詞でも吐いて一先ず階下へ逃げ去ることを心に決める。忍び足でさささと玄関扉に手を掛け、ふと後ろへ振り返ろうと。
背後数センチの距離に彼女が立っていた。
「えっうぇ、いつの間に」
「何やら余計な言葉が飛んできそうだったので手刀を入れる準備をしていたところだが。はて、そのおかしな反応は」
「やめて下さい死んでしまいます」
言えない。
エロいお仕置きなら八割くらい歓迎しますよだなんて。
絶対に言えない。
◇
事務所を出て階段を降り、ユラギは装飾品店『スレイリア』の中へ入っていた。
店内はどことなくアンティークを思わせる内装で、シックな木材で纏められた空間は自然の匂いで居心地が良い。木彫りの調度品や生花なども気風に合っていて趣が良いが、ここに古風な壁掛け時計があればなお良いとユラギは思う。
まぁそんな文化はこちらにはないけれど。
黄色く照らされる照明の元、ガラスケースの中で輝くネックレスや指輪を眺めたりしつつ歩を進めていく。
店内スペースを抜けて扉一枚隔てた先にあるのが、今回の依頼人である店主の居住スペースだ。
勝手知ったる我が家みたいなものである。
扉を開けると、一人の男性が何やら宝石を磨いている姿が目に映った。
赤、黄、緑、三色の丸い玉の形をした宝玉だ。机には研磨剤にシルクの布やらがどっさりと。見慣れぬ機械類もちらほら見受けられるが、専門分野に出す口はない。
「やぁ、ヴィリアさん。依頼を受けてきましたよ」
「ああユラギ君かい? どうぞ、席なら僕の反対側を使うと良い」
挨拶一つ。柔和な笑みを浮かべた店主――ヴィリアは目元の宝石から目を離すと、こちらへ軽く一礼をしてきた。赤茶けた毛髪に少々白髪の入り混じる初老の男性で、笑うと頬皺が目立つ優しげな風貌をしている。
穏やかな空気を醸している彼は片眼鏡をくいと上げ、流れる動作で歓迎の仕草を見せる。ただ反対側の椅子を示しているだけなのに、凄い大人の雰囲気だ。
こんな大人になりたい男性上位に食い込むのは間違いなしだろう。
「では失礼し……っと。流れで座ろうとしちゃいましたが、ゆっくりする前に依頼はこなしておきませんとね」
「うん? 違うよ、今日はトイレ掃除で呼んだつもりではない」
「へ?」
では一体。
ユラギは四つ折りに仕舞っていた依頼書を取り出し、一度目を通す。そして今や見慣れた記述の後半部分が、いつものそれとは違いがあったことに気が付いて。
「あ、本当だ……すみません、ランシーさんからもそう聞いていたものでして」
「ほう? なるほどさてはあの娘っ子、中身も見ずに君へ渡してしまったんだね」
まさかそんなことがあるだなんて。
てへへと舌を出して側頭部に拳を当てるランシードの姿を一人勝手に妄想しながら、ユラギは改めて依頼書を読み通す。読むと言ってもまだ文章を読めるわけではない――覚えた単語を拾って、意味を予測するのが精一杯だ。そんなユラギだったが、思わず「え」と言葉を漏らしてしまった。
「これが依頼、ですか?」
「君もこちらに馴染んで来たのだ、そろそろ頃合いだと思ってね」
声に出してしまう程度には、ヴィリアの送ってきた依頼は依頼の体を為してはおらず、一目で分かるものであった。
「――ギルドに行って貰う。それが今回の依頼だ」
依頼内容を要約すれば、その一つは都市に設置される施設――ギルドに赴き、指定の品物を届けること。
そしてもう一つ、ギルドで冒険者登録を済ませておくことの二つであった。
ギルド、というのは町単位で存在しているとある施設の名称である。
そこで何をするかと言えば、依頼形式による仕事の斡旋……というのが正しいだろうか。請負業がより巨大化したシステム、人材派遣事業をギルドという名称で行っていると考えれば幾分ほど分かりやすいかもしれない。
そこでは主に害種討伐、未開地探索、そして危険度の定められた秘境攻略といった三つの種別に仕事が設けられており、ギルドに登録した冒険者がギルドに貼り出された依頼を受注するのである。
登録に必要な資格は特になく、ギルドに入ることが出来ればその人物の力量に見合った《ランク》を選定され証明書が発行される。
このランクというのが大事で、これが高くなるほど受注可能な仕事の幅が広がり、危険度の高い秘境へ入れるようになったり、ランクに応じた特典があったり、またランク自体が直接実力の証明ともなるために――冒険者登録をする者は多い。
つまりもう一つの依頼とは、ユラギにギルドの証明を貰ってこいということであった。
これにはお礼以外の言葉が出てこない。
「ありがとうございます、ヴィリアさん」
「いや、いいんだよ。それに依頼として出された以上は、彼女も断れないはずだからね」
「ええ……あの人は俺が冒険者登録することには反対でしたから」
「君が心配なんだろう。その辺りはどうか多目に見てやって欲しい」
「俺を慮ってのことだというのは、分かっているつもりです」
ユラギを拾って助けてくれた彼女。
その本質が何であれ、彼女という存在がどういうモノであったところでユラギの感情は揺らいだりはしない。
ユラギにとっては彼女が全てで、彼女が救世主で、そして彼女はユラギを雇った現在の上司なのだ。少しでも彼女の役に立ちたいと考えるのは、何も可笑しいことではなくて。
「ふむ。しかし彼女の力になりたいという君たってのお願いだからねぇ、僕は君を応援しているよ。どうかその調子で――彼女を変えてやって欲しい」
「それはちょっと難易度が高いといいますか、自信が微妙といいますか……」
「はは。まぁ頑張りなさい」
この店主、ヴィリア=スレイリアは彼女の裏を知っている数少ない表の人間で、同時に理解者である人だ。世代を跨ぐ昔からの知己だそうで、色々と細かい関係と利害の擦り合わせは行われつつも便利屋と仲良くしてくれている人物である。
だから基本的にランシードも信頼を寄せており、ユラギは何度も仕事でヴィリアと関わっていた。とはいえトイレ掃除が主な業務だが……それはそれとして。
「とりあえずは強くなることを目標にします」
「うんうん。ひとまずは刺客に殺されないくらいにならないと――彼女と共には在れないからね。頑張って」
実際本当にそうなのだけれど、唐突に怖いことを言われてしまった。
強くなれなければ死ぬ。彼女の世界で生きていくのにそれは厳然たる事実として立ち塞がっていて。いつまでもユラギが雑用しかこなせないただのお手伝いさんのままなら――近い将来、遅れた死が迎えにやってくるであろう。
それがどのような死かなど、わざわざ想像するまでもない。
ユラギは他人事みたいに二回も言われた「頑張れ」を喉奥に呑み込むと、新たに心を引き締め直す。
「ところで配達の品はどちらに?」
「ああごめんごめん、ついうっかりしていたよ。ではこれを渡して来て欲しい」
そうしてヴィリアが懐から取り出したのは、手の平サイズの小さな箱だった。紐で蓋ごと本体を縛っていて、少し振ればからからと音が鳴るような軽い箱だ。
中身は当然見てはいけない。勿論見ないけれど、じゃあ聞いてみるというのはどうだろうか。
「ちなみにこれは」
「大した物じゃないさ。けれど少しばかり特殊な物ではあるから、公開はできないよ」
「分かりました。では運んできます」
「うむ、良い返事だ。今回は本当に普通の依頼だからね、気を付けるんだよ」
その言葉を最後に会話は断たれる。
ユラギは一度お礼をし、深々と下げた頭を反転させて部屋を後にした。
ヴィリアは腕の良い彫金師だ。
店先に飾ってある装飾品も全て彼の自作であり、また身に付けるだけで特殊な効果が付随することからギルドでも重宝されている。その効果を目的として作っていないがため、小さな効果ではあるのだが、単なるお洒落用品だけでは収まらないのがヴィリアという人物の装飾品であった。
恐らくはそれに関する物だろうとアタリを付けて、ユラギは店を出て行く。
「少しだけランシーに後ろめたい気持ちもあるけれど……背中を追うには、多少の無茶は必要経費だから。頑張ろう」
ランシードは彼女が自分で言っていた通り、依頼であれば断らない。その裏を掻く形で彼女の望まないことをするのは良くないが――結果を出せば、認めてはくれるだろう。
ユラギはよしと一人頷き、ギルドを目指す。
彼の足取りは常よりも幾分か弾んでいて、後ろめたいと考える心の底は――チャンスを目の前に、僅かに踊っていた。
だからだろう。
ユラギが背を向けた時、ヴィリアがにやにやと生暖かい視線をユラギに送っていたことには、終始気が付くことはなかったのである。