飛び梅
菅原道真の屋敷には見事な梅の木があり、そのために紅梅殿と呼ばれていた。道真もこの梅の木を大事にしており、庭師に手入れをさせていた。
ある時、庭師が梅の木を剪定しているのを見て、道真は言った。
「そんなふうに枝を切り落として、梅の木は枯れたりしないのかね」
庭師は言った。
「いや、梅の木というのはむしろ悪い枝は切ったほうがよく育つんです。逆に桜なんかは切ると枯れやすいんですけどね」
「そうか。それなら私も、どんな枝を切るのか覚えておいたほうが良いかもな」
「いや滅相もない。右大臣にそのようなことをさせるわけには参りません」
「まあ、良いではないか。覚えておいたほうが役に立つこともあろうし……それに、私だっていつまでも人を雇えるような身分でいられるかどうかわからんしな」
「縁起でもないことを言われますな」
「そう思う心当たりがあるからこそだ」
果たして、しばらく後に道真は太宰府に左遷されることになり、子孫たちもそれぞれ別の地に流されることとなった。
都を離れる日、道真が庭を眺めると、さすがにまだ冬の盛りで梅の花も咲いていない。道真は言った。
「惜しいことだ。せめて最後にあの梅が花を咲かせるところを見たかったのだが」
そこで歌詠みしていわく、
“東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
主なしとて春を忘るな”
さて、太宰府に来て一年ほどした頃、道真が庭を眺めると、都の紅梅殿のことが思い出されて仕方ない。道真は言った。
「あの梅はどうなったのであろうか。屋敷はどうなったのであろうか。尋ねられるものなら、あの梅の木に尋ねてみたいものだ」
そこで歌詠みしていわく、
“ふるさとの花のもの言ふ世なりせば
いかに昔のことを問はまし”
すると、その歌に応えるかのようにして、誰かが漢詩を詠むのが聞こえた。
“先人於故宅
籬廃於旧年
麋鹿猶棲所
無主独碧天”
“先人故宅のありさまは
先年、籬も廃れたり
鹿の臥所となりし家に
主無く青空かかるのみ”
道真がそちらを見ると、庭に一人の娘が立っていた。緑の衣と裙に紅梅のような色の背子を着て、白い領巾を肩にかけ、結い上げた髪には梅の小枝をさし、ほのかに梅の香りをただよわせる娘であった。
道真は言った。
「どなたですかな?いつここに入ってこられました?」
娘は袖で口元を隠して笑って言った。
「つれないことをおっしゃいますわね。私達、都にいた頃はあれほど想いを交わした仲でしたのに」
「え?そんなはずは……」
娘は袖を払って言った。
「いや、想いを交わしたというのは間違いですわね。あなたの想いは私に届いていましたけど、私の想いはそうではなかったですから。
でも今は違います。私はあなたの想いに応えるために、こうして都から飛んできたのですからね。あなたにも、これで私の想いがわかるでしょう」
そう言うと彼女の姿はかき消えて、あとには梅の残り香がするばかり。道真は驚いてよく見ると、彼女の立っていた庭の土に、梅の小枝が刺さっているのが見えた。まるで、空から飛んできて突き刺さったかのように見える。
道真は身をかがめてその小枝を見る。
「これは……あの紅梅殿の梅の枝ではないか?そうだ、見覚えがあるぞ。この剪定の跡も……」
そして天を仰いで言った。
「まことに、都からここまで飛んできたのであろうか。不思議なこともあるものだ」
さてその梅の枝は、その場に根付いて育っていき、やがて花を咲かせるまでになった。道真は梅の手入れをさせるために、また庭師を雇った。庭師は言った。
「立派な梅ですね。どうやって育てたんですか?」
「去年梅の枝を挿しておいたら、そこから育ったのだ」
「へえ、そりゃ珍しいですね。梅というのは枝から育てるのはとても難しいんですよ。それにこんなに早く育つとはね」
「そうなのか……。やはり世の常の梅とは違った、霊妙な梅なのだな」
道真は、木の手入れをさせながら、庭師に言った。
「お前は庭師だから、木や草のことには詳しいだろうね」
「ええ、まあ」
「どう思うかね。木や草にも心が宿ることがあるのだろうか。仏典では、有情が木や草に生まれ変わることは無いと言われていたように思うが」
「そうですな。確かに、常にはないことでしょう。
しかし私の聞いた話では、かつて唐には、唐の帝が学問を好むと花を咲かせ、学問を怠ると散ってしまう梅の木があって、そのために好文木と呼ばれたということです。
それに、琴の名人が琴を弾くと、時ならぬのに大雨や大風が吹いたり、日照りが起こったという話もあります。『精誠は神明に通ず』と申しますから、時にはそういうこともあるのかもしれません」
「なるほど、そうかもな。だが、常には無いようなことを見聞きするようになったということは、私も常ならぬ領域に足を踏み入れ始めているのかもしれない。だとすれば、私ももう長くないのかもしれないな」
果たして、それから一年ほどして道真は世を去ったのであった。