君を愛するつもりはない。奇遇ですね、私もです ――真実の愛を探した夫婦は、もっとろくでもないものを見つけました
「先に言っておくが、私は君を愛するつもりはない」
初夜の寝室で、レオンハルトは言った。
暖炉の火が、寝台に散らされた花びらを照らしている。
向かいに座ったセシリアは、葡萄酒を一口飲んだ。
「奇遇ですね。私もです」
「そうなのか」
「はい」
「……もう少し、何かあると思っていた」
「何がです?」
「泣くとか、怒るとか」
「愛してもいない方に愛さないと言われて、どう泣けばよろしいのでしょう」
レオンハルトは杯を持ったまま黙った。
セシリアも寝台を見る。
花びらだけが、ひどく張り切っていた。
「では、この結婚はどうする」
「今から取りやめますか?」
「明日の朝から両家へ説明だな」
「教会への申し立ても必要です。披露宴の費用でも揉めるでしょう」
「招待客への詫び状は?」
「百二十通です」
「次の縁談も来る」
「今度は互いに、相手を選ばせてもらえないでしょうね」
二人は黙った。
レオンハルトが杯を空にする。
「このまま結婚していた方が楽ではないか」
「私も、今そう思っていました」
その夜、二人は寝台を使わなかった。
卓上へ紙を広げ、互いの生活には干渉しないこと、必要な場では夫婦として振る舞うこと、家同士へ損害を与えないことを決めた。
最後に、レオンハルトが羽根ペンを取る。
「真実の愛を見つけた場合は、速やかに報告する」
「探すおつもりですか?」
「せっかく自由なのだからな」
「先ほど、愛するつもりはないと」
「君を愛するつもりはないと言っただけだ」
「なるほど」
セシリアは、その下へ一文を加えた。
真実の愛を探すにあたり、双方は可能な範囲で協力すること。
「協力までしてくれるのか」
「他人の恋愛を見るのは好きですから」
「自分でするのは?」
「面倒です」
「見るだけなら面倒ではないと?」
「当人たちが勝手に右往左往してくれますので」
「趣味が悪いな」
「真実の愛を探そうとしている方には、言われたくありません」
レオンハルトは椅子へ深く腰掛けた。
「愛とは、人生を変えるものだ」
「どの程度?」
「家も地位も捨てられるほどに」
「それは事故では?」
「君には分からないだろうな」
「分かりたくもありません」
こうして、二人の結婚生活が始まった。
最初の相手は、旅回りの歌姫だった。
「運命だ」
出会って三日目の夜、レオンハルトは外套も脱がずに言った。
セシリアは本を閉じる。
「どの辺りが?」
「仮面舞踏会で出会い、名も知らぬまま別れた。翌日、市場で再会した」
「よくある導入ですね」
「彼女は明日、この街を発つ」
「それはいい」
「何が」
「期限があります」
翌朝には、馬車も宿も用意されていた。
セシリアが手配したものだった。
レオンハルトは出発前に戻ってきた。
「行かないのですか?」
「彼女は、私よりも自分の悲恋を愛している」
「似た者同士では?」
「だから合わない」
「同族嫌悪ですね」
五日だった。
次は、敵対する伯爵家の令嬢だった。
「今度こそ本物だ」
「まだ二日目です」
「両家は十年来争っている」
「見ものですね」
若い二人の仲を知った父親たちは、その日のうちに和解した。
帰宅したレオンハルトは、椅子へ沈み込んだ。
「抱き合っていた」
「よかったではありませんか」
「障害がなくなった」
「それで?」
「終わりだ」
「やはり、事故をお探しなのでは?」
四日だった。
三人目とは、夜の庭園で密会を重ねた。
庭園の持ち主であるセシリアが、毎回、使用許可を出していた。
「今夜は行かないでください」
外出の支度をしていたレオンハルトの手が止まる。
「なぜだ」
「三晩続けて会っています。今夜は姿を見せない方が、相手はあなたを意識します」
「しかし、約束が」
「破ってください」
レオンハルトはしばらくセシリアを見た。
やがて外套を脱いだ。
翌日の夜。
「どうでした?」
「かなり怒っていた」
「結構です」
「だが、別れ際には向こうから手を握ってきた」
「成功ですね」
「次は、もう少し強く止めてもいい」
セシリアは一度、夫の顔を見た。
「承知しました」
その恋は、相手の方から終わらせた。
妻が逢瀬の場所を整え、会う日まで決めていると知り、気味悪がったらしい。
「理解のない女だった」
「理解のある方を探す方が難しいと思いますよ」
それからも夜になれば、レオンハルトは妻へ顛末を話した。
相手が何と言ったか。
どちらが先に目を逸らしたか。
沈黙がどれほど続いたか。
ある夜、恋人が別れ際に三度振り返ったと得意げに報告すると、セシリアが首を傾げた。
「二度です」
「なぜ君が知っている」
「遠くから見ていました」
「いたのか?」
「観察です」
「声をかけろ」
「こちらを意識されると、動きが変わりますので」
レオンハルトはしばらく妻を見た。
「私より趣味が悪くないか?」
「今さらですね」
王立図書館で、エステル・ランバートと出会うまでは、そんな日々が続いた。
「今度は、どなたです?」
帰宅したレオンハルトへ、セシリアは尋ねた。
「なぜ分かった」
「先ほどから三度、時計を見ています」
「エステル・ランバート。伯爵家の次女だ」
「どのような出会いを?」
「私が座っていた椅子を、譲ってほしいと言われた」
セシリアは続きを待った。
「それだけだ」
「同じ本へ手を伸ばしてはいない?」
「いない」
「本棚が倒れてきたりは?」
「していない」
「面白くありませんね」
「私もそう思う」
それでも、レオンハルトは翌週も図書館へ行った。
その次の週も。
「彼女は紅茶へ砂糖を三杯入れる」
「多いですね」
「だが菓子は食べない」
「甘いものが好きなのか嫌いなのか、どちらでしょう」
「同じことを聞いたら怒られた。飲み物と菓子は別だそうだ」
レオンハルトは笑った。
「いつ告白するのです?」
「まだいい」
「珍しいですね」
「何が」
「三日も経っています」
「急ぐ必要はないだろう」
セシリアは本から顔を上げた。
「今、何と?」
「急ぐ必要はないと言った」
「具合でも悪いのですか?」
「失礼な女だな」
エステルとの間には、何も起きなかった。
両家の対立も、許されない身分差もない。
レオンハルトは図書館へ通い、帰ってくるたび、エステルが読んでいた本や、昼食に何を選んだかを話した。
ある日、エステルは書架の前で古びた目録をめくっていた。
「まだ見つからないのか」
「北方植物誌の第三巻だけがないのです」
「他の図書館は?」
「二年前に火災で焼けたそうです。古書商にも当たりました」
エステルは目録を閉じた。
「もう諦めます」
それから三週間後。
いつもの席へ着いたエステルの前に、レオンハルトが一冊の本を置いた。
革表紙は新しいが、ページの端には古い染みが残っている。
エステルは表紙を見たまま動かなかった。
「……どこで見つけたのですか」
「地方の古書商だ」
「地方の?」
「六軒目にあった」
「探してくださったのですか」
「君が読みたいと言っていただろう」
「三週間も前の話です」
「だから何だ」
エステルは本を開いた。
欠けていた挿絵を確かめ、ページを一枚ずつめくる。
「贈り物なら、もう少し劇的に渡そうとは思わなかったのですか」
「思った」
「やめたのですね」
「君が嫌がる」
エステルは顔を上げた。
「覚えていたのですか」
「君は、雨も大げさな前置きも嫌う」
「雨の話はまだしていません」
「そのうち嫌うと思った」
エステルが笑った。
レオンハルトも、少し遅れて笑った。
別の夕方。
彼はエステルを庭園へ連れ出した。
空には厚い雲が垂れ込めていた。
「雨が降りそうですね」
エステルは空を見上げた。
「それがいい」
「何がです?」
「雨の中で告白するのは、悪くない」
「よくありません」
「なぜだ」
「風邪を引きます」
「愛のためなら――」
「明日も会うのでしょう?」
レオンハルトは黙った。
エステルは彼の外套を引いた。
「屋根の下へ行きますよ」
「雰囲気が」
「必要ありません」
「君は少しも、人生を乱してみたいと思わないのか」
「あなたと本を読むためなら、予定を空けます」
エステルは屋根の下へ入り、振り返った。
「それでは不足ですか?」
雨が落ち始めた。
レオンハルトは、しばらくその場から動かなかった。
その夜。
「告白は?」
セシリアが尋ねた。
「しなかった」
「雨まで降ったのに?」
「明日も会う」
「そうですか」
「それで十分だと思った」
セシリアは杯へ葡萄酒を注いだ。
縁から一滴、卓上へこぼれた。
半年後。
レオンハルトは離縁を申し出た。
「エステルと結婚したい」
セシリアは、初夜に交わした契約書を取り出した。
「真実の愛を見つけたのですね」
「恐らく」
「まだ曖昧ですね」
「彼女といると、何も起きない」
「不満ですか?」
「いや」
レオンハルトは少し考えた。
「何も起きなくても、次の日も会いたい」
セシリアは契約書を閉じた。
「おめでとうございます」
財産の分割。
両家への説明。
教会へ提出する書類。
セシリアは一週間で整えた。
書類を提出する三日前、エステルが一人で屋敷を訪れた。
「本当に、よろしいのですか」
応接室で、エステルはセシリアへ尋ねた。
「何がでしょう」
「レオンハルト様を手放すことです」
「契約通りです」
「私といるときも、あなたの話をします」
セシリアの指が、茶器の取っ手で止まった。
「報告の癖が抜けていないのでしょう」
「私が何か言うたび、あなたならどう答えるか考えています」
「そのうち治ります」
「治らなければ?」
「そのときは、叱ってください」
「簡単におっしゃるのですね」
「私が彼を愛しているとでも?」
「分かりません」
エステルはカップを置いた。
「ですが、あの方の中には、思っていたより深くあなたがいるようです」
「長く暮らしましたので」
「それだけですか?」
「それだけです」
セシリアは笑った。
エステルはしばらく彼女を見ていた。
「分かりました」
立ち上がり、外套を手に取る。
「その言葉、忘れないでくださいね」
「何をです?」
「手放すと決めたのは、あなたです」
書類を提出する前日。
エステルが屋敷へ迎えに来た。
玄関前で、彼女がレオンハルトの腕へ手を絡める。
レオンハルトは、見たことのない穏やかな顔で笑った。
その手が、エステルの腰へ回る。
セシリアは、指の位置まで見ていた。
五本とも布の上にある。
抱き寄せるほど強くはない。
それでも、自分へ触れたときより親しげだった。
レオンハルトが、エステルの耳元で何かを言う。
二人が笑った。
セシリアのことなど、目に入っていない。
「セシリア?」
呼ばれて、手摺から指を離した。
「どうかしましたか?」
エステルもこちらを見ている。
「いいえ」
「顔色が」
「少し寝不足なだけです」
セシリアは笑った。
「お幸せに」
二人を乗せた馬車が、門を出ていった。
車輪の音が聞こえなくなっても、セシリアは玄関前に立っていた。
その夜。
目を閉じるたび、エステルの腰へ回った手が浮かんだ。
自分よりも、あの女を愛している。
妻である自分を忘れて、別の女だけを見ていた。
「夫を他の女に取られる……」
声に出すと、身体の奥に残った熱が強くなった。
「こんなにも、昂るのですね」
セシリアは毛布を頭まで引き上げた。
その夜、寝室の灯りはなかなか消えなかった。
翌朝。
鏡の前に座ったセシリアは、目元を冷やしていた。
夫婦でなくなれば、もう取られることもない。
「困りましたね」
侍女が首を傾げた。
「何か?」
「馬車を用意してください」
レオンハルトとエステルは、街道沿いの宿に滞在していた。
翌朝には、エステルの領地へ向かうという。
部屋へ通されたセシリアを見て、レオンハルトが立ち上がった。
「どうした」
「戻ってきてください」
「何だと?」
「私のところへ戻ってきていただきたいのです」
レオンハルトの目が揺れた。
「今になって、私を愛していると?」
「いいえ」
エステルが立ち上がった。
「では、なぜ来たのですか」
「分かってしまったのです」
「何が」
セシリアはレオンハルトを見た。
「私は、夫を他の女性に取られるのが好きなようです」
エステルが固まった。
レオンハルトは眉を寄せる。
「意味が分からない」
「あなたが私よりも別の方を愛し、それでも私の夫でいる。その状況に、ひどく興奮します」
「私はエステルを愛している」
「存じています」
「君よりもだ」
セシリアはスカートを握った。
「ええ。それが、よいのです」
「昨夜の話は何だったのですか」
エステルの声が低くなる。
「手放すと決めたのは、あなたでしょう」
「そのつもりでした」
「今は違うと?」
「はい」
「なぜ」
「あなたに取られている間だけ、私は彼の妻でいられるからです」
エステルの顔から、表情が消えた。
「レオンハルト様」
呼ばれた男は、まだセシリアを見ていた。
「あなたは、どうするおつもりですか」
「私は――」
「私のために、エステル様を捨ててください」
セシリアが言った。
レオンハルトの手が、椅子の背を掴んだ。
小さく木が鳴る。
「私が、どれほど彼女を愛しているか分かっているのか」
「分かっているから、お願いしているのです」
レオンハルトは何か言おうとして、口を閉じた。
「もう一度」
「何をです?」
「今のを、もう一度、頼む」
エステルがレオンハルトを見る。
「レオンハルト?」
返事はなかった。
セシリアは夫の前まで歩いた。
「私のために、その方を捨ててください」
レオンハルトは目を閉じた。
椅子を掴む指に力が入る。
「……最高だ」
乾いた音が響いた。
エステルの平手が、レオンハルトの頬を打っていた。
「最低です!」
レオンハルトは赤くなった頬へ触れた。
その指が止まる。
「……もう一度」
エステルは振り上げかけた手を下ろした。
「今ので、喜んだのですか」
レオンハルトは答えなかった。
「そうですか。では、二度と殴りません」
「エステル」
「あなたへのご褒美になるのでしょうから」
エステルは指から指輪を抜き、卓上へ置いた。
「真実の愛を見つけたのではなかったのですか」
「見つけた」
「それを、奥様に命じられたから捨てる?」
「……そうなる」
エステルは首を振った。
「あなたが捨てるのは、私ではありません」
レオンハルトを見る。
「私が愛した、あなたです」
彼は何も言えなかった。
エステルは外套を掴んだ。
「あなたたちの趣味――いえ、妙な性癖に付き合うつもりはありません!」
「申し訳ありません」
「その顔で謝らないでください!」
エステルは扉へ手をかけた。
「なら、二人だけで壊れていなさい」
扉が閉まった。
足音は一度も止まらなかった。
レオンハルトは扉を見ていた。
「追いかけますか?」
セシリアが尋ねる。
「……行けと言うのか」
「いいえ」
セシリアは初夜の契約書を取り出した。
「戻れと申し上げました」
レオンハルトは扉から目を離した。
「君は本当に性格が悪い」
「それでも、私の言うことには従うのですね」
レオンハルトが息を止める。
「今のは、もう一度言わなくていい」
「残念です」
「笑うな」
「嫌です」
二人は屋敷へ戻った。
数日後。
朝食の席で、セシリアは新聞を畳んだ。
「西の公爵家に、たいそう美しい未亡人がいるそうです」
レオンハルトは紅茶を飲む手を止めた。
「まだ早い」
「では、ひと月ほど、喪に服しますか?」
「一週間だ」
「ずいぶん早いですね?」
「忘れたのか。私の愛は七日で燃え上がる」
「セミですか」
お読みいただきありがとうございます。
この二人は本当に、山奥かどこかで大人しくしておいてほしい。
評価などいただけますと、大変励みになります。




