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異世界 イルフェスト

君を愛するつもりはない。奇遇ですね、私もです ――真実の愛を探した夫婦は、もっとろくでもないものを見つけました

作者: tomato.nit
掲載日:2026/07/12


「先に言っておくが、私は君を愛するつもりはない」


 初夜の寝室で、レオンハルトは言った。


 暖炉の火が、寝台に散らされた花びらを照らしている。


 向かいに座ったセシリアは、葡萄酒を一口飲んだ。


「奇遇ですね。私もです」


「そうなのか」


「はい」


「……もう少し、何かあると思っていた」


「何がです?」


「泣くとか、怒るとか」


「愛してもいない方に愛さないと言われて、どう泣けばよろしいのでしょう」


 レオンハルトは杯を持ったまま黙った。


 セシリアも寝台を見る。


 花びらだけが、ひどく張り切っていた。


「では、この結婚はどうする」


「今から取りやめますか?」


「明日の朝から両家へ説明だな」


「教会への申し立ても必要です。披露宴の費用でも揉めるでしょう」


「招待客への詫び状は?」


「百二十通です」


「次の縁談も来る」


「今度は互いに、相手を選ばせてもらえないでしょうね」


 二人は黙った。


 レオンハルトが杯を空にする。


「このまま結婚していた方が楽ではないか」


「私も、今そう思っていました」


 その夜、二人は寝台を使わなかった。


 卓上へ紙を広げ、互いの生活には干渉しないこと、必要な場では夫婦として振る舞うこと、家同士へ損害を与えないことを決めた。


 最後に、レオンハルトが羽根ペンを取る。


「真実の愛を見つけた場合は、速やかに報告する」


「探すおつもりですか?」


「せっかく自由なのだからな」


「先ほど、愛するつもりはないと」


「君を愛するつもりはないと言っただけだ」


「なるほど」


 セシリアは、その下へ一文を加えた。


 真実の愛を探すにあたり、双方は可能な範囲で協力すること。


「協力までしてくれるのか」


「他人の恋愛を見るのは好きですから」


「自分でするのは?」


「面倒です」


「見るだけなら面倒ではないと?」


「当人たちが勝手に右往左往してくれますので」


「趣味が悪いな」


「真実の愛を探そうとしている方には、言われたくありません」


 レオンハルトは椅子へ深く腰掛けた。


「愛とは、人生を変えるものだ」


「どの程度?」


「家も地位も捨てられるほどに」


「それは事故では?」


「君には分からないだろうな」


「分かりたくもありません」


 こうして、二人の結婚生活が始まった。


     


 最初の相手は、旅回りの歌姫だった。


「運命だ」


 出会って三日目の夜、レオンハルトは外套も脱がずに言った。


 セシリアは本を閉じる。


「どの辺りが?」


「仮面舞踏会で出会い、名も知らぬまま別れた。翌日、市場で再会した」


「よくある導入ですね」


「彼女は明日、この街を発つ」


「それはいい」


「何が」


「期限があります」


 翌朝には、馬車も宿も用意されていた。


 セシリアが手配したものだった。


 レオンハルトは出発前に戻ってきた。


「行かないのですか?」


「彼女は、私よりも自分の悲恋を愛している」


「似た者同士では?」


「だから合わない」


「同族嫌悪ですね」


 五日だった。


 次は、敵対する伯爵家の令嬢だった。


「今度こそ本物だ」


「まだ二日目です」


「両家は十年来争っている」


「見ものですね」


 若い二人の仲を知った父親たちは、その日のうちに和解した。


 帰宅したレオンハルトは、椅子へ沈み込んだ。


「抱き合っていた」


「よかったではありませんか」


「障害がなくなった」


「それで?」


「終わりだ」


「やはり、事故をお探しなのでは?」


 四日だった。


 三人目とは、夜の庭園で密会を重ねた。


 庭園の持ち主であるセシリアが、毎回、使用許可を出していた。


「今夜は行かないでください」


 外出の支度をしていたレオンハルトの手が止まる。


「なぜだ」


「三晩続けて会っています。今夜は姿を見せない方が、相手はあなたを意識します」


「しかし、約束が」


「破ってください」


 レオンハルトはしばらくセシリアを見た。


 やがて外套を脱いだ。


 翌日の夜。


「どうでした?」


「かなり怒っていた」


「結構です」


「だが、別れ際には向こうから手を握ってきた」


「成功ですね」


「次は、もう少し強く止めてもいい」


 セシリアは一度、夫の顔を見た。


「承知しました」


 その恋は、相手の方から終わらせた。


 妻が逢瀬の場所を整え、会う日まで決めていると知り、気味悪がったらしい。


「理解のない女だった」


「理解のある方を探す方が難しいと思いますよ」


 それからも夜になれば、レオンハルトは妻へ顛末を話した。


 相手が何と言ったか。


 どちらが先に目を逸らしたか。


 沈黙がどれほど続いたか。


 ある夜、恋人が別れ際に三度振り返ったと得意げに報告すると、セシリアが首を傾げた。


「二度です」


「なぜ君が知っている」


「遠くから見ていました」


「いたのか?」


「観察です」


「声をかけろ」


「こちらを意識されると、動きが変わりますので」


 レオンハルトはしばらく妻を見た。


「私より趣味が悪くないか?」


「今さらですね」


 王立図書館で、エステル・ランバートと出会うまでは、そんな日々が続いた。


     


「今度は、どなたです?」


 帰宅したレオンハルトへ、セシリアは尋ねた。


「なぜ分かった」


「先ほどから三度、時計を見ています」


「エステル・ランバート。伯爵家の次女だ」


「どのような出会いを?」


「私が座っていた椅子を、譲ってほしいと言われた」


 セシリアは続きを待った。


「それだけだ」


「同じ本へ手を伸ばしてはいない?」


「いない」


「本棚が倒れてきたりは?」


「していない」


「面白くありませんね」


「私もそう思う」


 それでも、レオンハルトは翌週も図書館へ行った。


 その次の週も。


「彼女は紅茶へ砂糖を三杯入れる」


「多いですね」


「だが菓子は食べない」


「甘いものが好きなのか嫌いなのか、どちらでしょう」


「同じことを聞いたら怒られた。飲み物と菓子は別だそうだ」


 レオンハルトは笑った。


「いつ告白するのです?」


「まだいい」


「珍しいですね」


「何が」


「三日も経っています」


「急ぐ必要はないだろう」


 セシリアは本から顔を上げた。


「今、何と?」


「急ぐ必要はないと言った」


「具合でも悪いのですか?」


「失礼な女だな」


 エステルとの間には、何も起きなかった。


 両家の対立も、許されない身分差もない。


 レオンハルトは図書館へ通い、帰ってくるたび、エステルが読んでいた本や、昼食に何を選んだかを話した。


 ある日、エステルは書架の前で古びた目録をめくっていた。


「まだ見つからないのか」


「北方植物誌の第三巻だけがないのです」


「他の図書館は?」


「二年前に火災で焼けたそうです。古書商にも当たりました」


 エステルは目録を閉じた。


「もう諦めます」


 それから三週間後。


 いつもの席へ着いたエステルの前に、レオンハルトが一冊の本を置いた。


 革表紙は新しいが、ページの端には古い染みが残っている。


 エステルは表紙を見たまま動かなかった。


「……どこで見つけたのですか」


「地方の古書商だ」


「地方の?」


「六軒目にあった」


「探してくださったのですか」


「君が読みたいと言っていただろう」


「三週間も前の話です」


「だから何だ」


 エステルは本を開いた。


 欠けていた挿絵を確かめ、ページを一枚ずつめくる。


「贈り物なら、もう少し劇的に渡そうとは思わなかったのですか」


「思った」


「やめたのですね」


「君が嫌がる」


 エステルは顔を上げた。


「覚えていたのですか」


「君は、雨も大げさな前置きも嫌う」


「雨の話はまだしていません」


「そのうち嫌うと思った」


 エステルが笑った。


 レオンハルトも、少し遅れて笑った。


 別の夕方。


 彼はエステルを庭園へ連れ出した。


 空には厚い雲が垂れ込めていた。


「雨が降りそうですね」


 エステルは空を見上げた。


「それがいい」


「何がです?」


「雨の中で告白するのは、悪くない」


「よくありません」


「なぜだ」


「風邪を引きます」


「愛のためなら――」


「明日も会うのでしょう?」


 レオンハルトは黙った。


 エステルは彼の外套を引いた。


「屋根の下へ行きますよ」


「雰囲気が」


「必要ありません」


「君は少しも、人生を乱してみたいと思わないのか」


「あなたと本を読むためなら、予定を空けます」


 エステルは屋根の下へ入り、振り返った。


「それでは不足ですか?」


 雨が落ち始めた。


 レオンハルトは、しばらくその場から動かなかった。


 その夜。


「告白は?」


 セシリアが尋ねた。


「しなかった」


「雨まで降ったのに?」


「明日も会う」


「そうですか」


「それで十分だと思った」


 セシリアは杯へ葡萄酒を注いだ。


 縁から一滴、卓上へこぼれた。


     


 半年後。


 レオンハルトは離縁を申し出た。


「エステルと結婚したい」


 セシリアは、初夜に交わした契約書を取り出した。


「真実の愛を見つけたのですね」


「恐らく」


「まだ曖昧ですね」


「彼女といると、何も起きない」


「不満ですか?」


「いや」


 レオンハルトは少し考えた。


「何も起きなくても、次の日も会いたい」


 セシリアは契約書を閉じた。


「おめでとうございます」


 財産の分割。


 両家への説明。


 教会へ提出する書類。


 セシリアは一週間で整えた。


 書類を提出する三日前、エステルが一人で屋敷を訪れた。


「本当に、よろしいのですか」


 応接室で、エステルはセシリアへ尋ねた。


「何がでしょう」


「レオンハルト様を手放すことです」


「契約通りです」


「私といるときも、あなたの話をします」


 セシリアの指が、茶器の取っ手で止まった。


「報告の癖が抜けていないのでしょう」


「私が何か言うたび、あなたならどう答えるか考えています」


「そのうち治ります」


「治らなければ?」


「そのときは、叱ってください」


「簡単におっしゃるのですね」


「私が彼を愛しているとでも?」


「分かりません」


 エステルはカップを置いた。


「ですが、あの方の中には、思っていたより深くあなたがいるようです」


「長く暮らしましたので」


「それだけですか?」


「それだけです」


 セシリアは笑った。


 エステルはしばらく彼女を見ていた。


「分かりました」


 立ち上がり、外套を手に取る。


「その言葉、忘れないでくださいね」


「何をです?」


「手放すと決めたのは、あなたです」


     


 書類を提出する前日。


 エステルが屋敷へ迎えに来た。


 玄関前で、彼女がレオンハルトの腕へ手を絡める。


 レオンハルトは、見たことのない穏やかな顔で笑った。


 その手が、エステルの腰へ回る。


 セシリアは、指の位置まで見ていた。


 五本とも布の上にある。


 抱き寄せるほど強くはない。


 それでも、自分へ触れたときより親しげだった。


 レオンハルトが、エステルの耳元で何かを言う。


 二人が笑った。


 セシリアのことなど、目に入っていない。


「セシリア?」


 呼ばれて、手摺から指を離した。


「どうかしましたか?」


 エステルもこちらを見ている。


「いいえ」


「顔色が」


「少し寝不足なだけです」


 セシリアは笑った。


「お幸せに」


 二人を乗せた馬車が、門を出ていった。


 車輪の音が聞こえなくなっても、セシリアは玄関前に立っていた。


 その夜。


 目を閉じるたび、エステルの腰へ回った手が浮かんだ。


 自分よりも、あの女を愛している。


 妻である自分を忘れて、別の女だけを見ていた。


「夫を他の女に取られる……」


 声に出すと、身体の奥に残った熱が強くなった。


「こんなにも、昂るのですね」


 セシリアは毛布を頭まで引き上げた。


 その夜、寝室の灯りはなかなか消えなかった。


 翌朝。


 鏡の前に座ったセシリアは、目元を冷やしていた。


 夫婦でなくなれば、もう取られることもない。


「困りましたね」


 侍女が首を傾げた。


「何か?」


「馬車を用意してください」


     


 レオンハルトとエステルは、街道沿いの宿に滞在していた。


 翌朝には、エステルの領地へ向かうという。


 部屋へ通されたセシリアを見て、レオンハルトが立ち上がった。


「どうした」


「戻ってきてください」


「何だと?」


「私のところへ戻ってきていただきたいのです」


 レオンハルトの目が揺れた。


「今になって、私を愛していると?」


「いいえ」


 エステルが立ち上がった。


「では、なぜ来たのですか」


「分かってしまったのです」


「何が」


 セシリアはレオンハルトを見た。


「私は、夫を他の女性に取られるのが好きなようです」


 エステルが固まった。


 レオンハルトは眉を寄せる。


「意味が分からない」


「あなたが私よりも別の方を愛し、それでも私の夫でいる。その状況に、ひどく興奮します」


「私はエステルを愛している」


「存じています」


「君よりもだ」


 セシリアはスカートを握った。


「ええ。それが、よいのです」


「昨夜の話は何だったのですか」


 エステルの声が低くなる。


「手放すと決めたのは、あなたでしょう」


「そのつもりでした」


「今は違うと?」


「はい」


「なぜ」


「あなたに取られている間だけ、私は彼の妻でいられるからです」


 エステルの顔から、表情が消えた。


「レオンハルト様」


 呼ばれた男は、まだセシリアを見ていた。


「あなたは、どうするおつもりですか」


「私は――」


「私のために、エステル様を捨ててください」


 セシリアが言った。


 レオンハルトの手が、椅子の背を掴んだ。


 小さく木が鳴る。


「私が、どれほど彼女を愛しているか分かっているのか」


「分かっているから、お願いしているのです」


 レオンハルトは何か言おうとして、口を閉じた。


「もう一度」


「何をです?」


「今のを、もう一度、頼む」


 エステルがレオンハルトを見る。


「レオンハルト?」


 返事はなかった。


 セシリアは夫の前まで歩いた。


「私のために、その方を捨ててください」


 レオンハルトは目を閉じた。


 椅子を掴む指に力が入る。


「……最高だ」


 乾いた音が響いた。


 エステルの平手が、レオンハルトの頬を打っていた。


「最低です!」


 レオンハルトは赤くなった頬へ触れた。


 その指が止まる。


「……もう一度」


 エステルは振り上げかけた手を下ろした。


「今ので、喜んだのですか」


 レオンハルトは答えなかった。


「そうですか。では、二度と殴りません」


「エステル」


「あなたへのご褒美になるのでしょうから」


 エステルは指から指輪を抜き、卓上へ置いた。


「真実の愛を見つけたのではなかったのですか」


「見つけた」


「それを、奥様に命じられたから捨てる?」


「……そうなる」


 エステルは首を振った。


「あなたが捨てるのは、私ではありません」


 レオンハルトを見る。


「私が愛した、あなたです」


 彼は何も言えなかった。


 エステルは外套を掴んだ。


「あなたたちの趣味――いえ、妙な性癖に付き合うつもりはありません!」


「申し訳ありません」


「その顔で謝らないでください!」


 エステルは扉へ手をかけた。


「なら、二人だけで壊れていなさい」


 扉が閉まった。


 足音は一度も止まらなかった。


 レオンハルトは扉を見ていた。


「追いかけますか?」


 セシリアが尋ねる。


「……行けと言うのか」


「いいえ」


 セシリアは初夜の契約書を取り出した。


「戻れと申し上げました」


 レオンハルトは扉から目を離した。


「君は本当に性格が悪い」


「それでも、私の言うことには従うのですね」


 レオンハルトが息を止める。


「今のは、もう一度言わなくていい」


「残念です」


「笑うな」


「嫌です」


 二人は屋敷へ戻った。


     


 数日後。


 朝食の席で、セシリアは新聞を畳んだ。


「西の公爵家に、たいそう美しい未亡人がいるそうです」


 レオンハルトは紅茶を飲む手を止めた。


「まだ早い」


「では、ひと月ほど、喪に服しますか?」


「一週間だ」


「ずいぶん早いですね?」


「忘れたのか。私の愛は七日で燃え上がる」


「セミですか」


お読みいただきありがとうございます。


この二人は本当に、山奥かどこかで大人しくしておいてほしい。


評価などいただけますと、大変励みになります。

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キーワードに破れ鍋に綴じ蓋、もしくは蓼食う虫も好き好き、これをいれておきましょう
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