限界社畜OL香澄のある夜
「はぁ……今日も大変だったな……」
会社からの帰宅途中、私はため息をつきながら今日のことを思い出す。
『おい香澄、お前何回言わせりゃ気が済むんだ? お前の作った資料に穴があったせいでまた俺が上に言われるんだぞ。ちゃんと確認しろよ』
今日の会議でのこと、私の作成した資料の数値が明らかにおかしいと課長に怒鳴られた。
私は十分に確認していたし、その資料を実際に見てみたら明らかに改竄されていると感じた。私が触れていない数字がいじられている。
『あれぇ~? 香澄先輩、またミスっちゃったんですかぁ? 課長怒らせるとうちの部署みんなの雰囲気悪くなるから、あんまり迷惑かけないでくださいよぉ』
後輩の猫なで声が頭蓋に響き渡る。
彼女は、私を嘲るように含み笑いをしながらいつも絡んでくる。
そういえば昨日、私の最終資料をちょっと見せてほしいと彼女に言われてたっけ。
もし数値の誤植に気づいてたなら言ってくれればよかったのに。
街灯が点滅する夜道はかなり暗くて怖い。
でも、今日はそんなことも気にならないほど気が滅入っていた。
自宅アパートの敷地に着くと、階段下の暗がりに猫が数匹戯れていた。
彼らの足元には、誰かがあげたのだろうミルクの残りが入った器が置いてあった。
はぁ……私も何も考えずにゴロゴロしてたい。
あの猫ちゃんたちの仲間に加わって、死ぬまで甘えて生きていたい。
でも、そんなことを思うのは傲慢なことだ。
まだやり残してる仕事もあるし、このまま私がいなくなったら会社に迷惑がかかる。
この自由奔放な猫を見る数秒だけが、すごく贅沢なことのように思える。
猫ちゃんに手を振ってお別れをして、私はまた歩き出す。
階段を上る足もいつもより重い。
無骨に響き渡る鉄骨の音が、私を孤独なのだと一層感じさせる。
ガチャ。
玄関を開けても、この暗がりは変わらない。
大学を出た直後は、たしかこの部屋も今より華やかだったっけ。
社会に出る期待と高揚。あの頃の私は、未来に対してとても前向きな気持ちを持っていた気がする。
今の惨状は、とてもあの頃の私に見せられるものじゃない。
時間がなくてシンクに残ったままの洗い物やシーツの散らかったベッド。
ブラック企業に入ってしまった私は寝る間も惜しんで資料作りに励んでおり、とても家事をこなす時間をとることができなかった。
でも、昨日の分くらいは片づけておかないと、近所の人に悪臭とかで迷惑がかかっちゃうもんね……。
スーパーで買ってきた半額シールの貼られた幕の内弁当をレンジに入れると、私は腕をまくって洗い物をする。
水道の冷たさに手を痛めながらも、手早く片付けた。
なんか最近、指の先が冷えることが増えた気がする。
ストレスのせいだろうか。
チーンと電子レンジが鳴り、温かいお弁当を座卓のうえに置く。
そういえば、最後に自炊したのっていつだったっけ……。
家に帰るのがほとんど日付回った頃だから、時間なくてお弁当が多くなっちゃうんだよね。
朝は食べないことも多いし、ほんと不健康になっちゃうよ……。
「うぷ……今日はちょっと食べれそうにないかも」
お弁当の蓋を開けてホカホカとした蒸気が鼻腔をくすぐったとき、なんとも言えない疎外感と満腹感で箸を置いてしまう。
やっぱり気分落ち込んじゃうと食欲もなくなっちゃうよね……。
……しばらく外の空気吸おうかな。
そう思って、窓を開けてベランダに出た。
夜風に当たってると、ちょっと気分がいい。
一人ぼっちの部屋の中よりも、明かりの灯った住宅を眺めてたほうが、なんだか温かい気持ちになる。
「おいおい龍星~、そんな怒んなって。誰にだって嫌なことくらいあるだろ?」
「うるせーな。それが恵まれてるっつってんだよ」
なんか隣の部屋から数人の話し声が漏れてる。
このアパート、普段は隣の騒音とか聞こえないんだけど、ベランダだと聞こえるんだ。
窓が薄いのかな……。
お隣さんは、たしか辰巳さんだっけ。
このアパートに引っ越してきたときに初めてお会いしたけど、
『あ、手土産? 別にいーよ、甘いの好きじゃないし』
ご挨拶でお菓子持って行ったんだけど、なんだかぶっきらぼうに返された気がする。
ボサボサでウルフみたいなちょっと長めの髪とジャージのような部屋着。大学生に見えるけど、実際は私と同い年の二十代前半くらいらしい。
顔は男前に整ってるのに、ガサツで半グレみたいでちょっと怖いんだよね。まああんまり会わないしいっかって思ってたけど。
――ガララッ。
突然、隣の部屋の窓が開いた。
イラつきを隠せない辰巳さんが頭をガシガシ搔いてベランダに出てきた。
「あ? 何してんすか、そんなとこで黄昏れて」
辰巳さんがベランダで夜景を見ていた私に声をかけてきた。
他の家の暖かそうな夜景を見ていたら、ほんのり涙が出そうになっていた。
一人でベランダで泣いてるなんて、痛い女に思われちゃうかも……。
バレないように、私は思わずそっぽを向く。
「別に、なんでもないです。ちょっと疲れただけで……」
手でグシグシと目を擦って私は強がりを口にする。
「……あっそ」
でも彼は、泣きそうな私に全く興味なさそうにポケットからタバコを取り出した。
……心配なんか、してくれないよね。
私が泣いてようが、あんまり仲がいいわけでもないただのお隣さんだし。
こんな不幸そうな顔してちゃ、お友達と楽しそうに話してる彼に気を遣わせちゃうかも。
……お部屋、戻ろっかな。
「待てよ」
部屋の中に戻ろうと後ろを向いたとき、背後から辰巳さんの男らしい声が飛んでくる。
振り向きたくないよ。だってそっちを向いたら涙の跡が見えちゃうから。
「俺のこと気にして部屋戻ろうとしてんなら余計なお世話だ。あんたが思ってるほど、俺は気を遣う人間じゃねぇかんな、自惚れんな」
酷く棘のある言い方。
でも、会社での悪意ある悪口とは違って、私を否定してる言葉じゃないことくらいはわかる。
きっとお互いに気を遣いすぎないほうがいいと思っている人なのだろう。
私としては……少しだけありがたかった。
私はもう一度自分の目元をぐしぐしと擦り、再びベランダの手すりに体を預ける。
「……ん」
「ごめん、タバコは苦手で……」
彼が差し出してきた一本を、私は申し訳なく断る。
こういうのも、断っちゃうから私は好かれないのかな。
上司も後輩も友達も。みんな私が遠ざけちゃってるのかな。
はぁ、と淡いため息をつく。
気を遣わずにいても受け入れてもらえる。
そんな存在がいてくれたらなぁ……。
願望のようなワガママを心に浮かべたその時、
ドオォオオオオオオンッッッッ!!!
「きゃっ!?」
「おわっ!? なんだ!?」
私と辰巳さんの部屋を仕切る防火扉に、突然空から何かが降ってきた。




