ムシノシラセ -0-
高校時代に書きかけてた執筆中小説に加筆修正を加えて短編として投稿しました。
それは小雨の降る日の夕方のことだった。
蟹江周次。彼はとある田舎の高校生で、もう十八の青年である。今は学校から帰宅しているところで、せかせかと自転車をこいでいた。
自転車の勢いも相まった雨粒は小雨であれど些か強く、周次の露出した腕や顔面でパチパチと弾けている。学校を出た時にはまだ雨が降ってなかったので、雨具は着ていない。生暖かい気温と多い湿気でじめじめとしていたので、今さら雨具を着るつもりもなかった。
「蒸し暑いな。こんなじゃ進路の心配する余裕なんかないわ」
――もう七月の半ば。進路希望調査には一応、家から遠くない公立の大学名を書いておいたが、実際のところどうしようか悩んでいた。
周次の通う高校は進学校で、進路といえば進学が当たり前だった。将来をあまり考えたことのなかった周次は、一層周りに流されて進学を志望としていたのだ。
今はそんなことよりもこの環境が気持ち悪い。パチパチと小粒が身体中にぶつかってくる。雨とはまた違う。
至近距離になってようやく不気味なホバリングが認識できる――――極小さな虫である。
暑い日の夕方でさえ虫は発生するのに、高温多湿な今の環境は、虫が湧くのにあまりに適していた。
周次は幼い頃から虫が大の苦手である。蚊を殺すことだってできない。それが雨粒に紛れて体当たりしてくる。髪の隙間に入り込んで頭皮がムズムズする。目や口に入ることだってざらだ。
腕を見てみると、いくつもの黒い点が尾を引いている。湿り気のせいで腕に密着したまま潰れてしまっていたのだ。
周次は思わず目を反らす。
「あーもう! 俺は虫を殺したい訳じゃないのに! お前たちだってこんなにあっさり死ぬのは嫌だろう!!」
田畑に囲まれた田舎道での嘆きは誰に聞こえるはずもない。
一定の区間で襲ってくる虫の大群。この一瞬一瞬ばかりは目と口を瞑って加速して強行突破する他ない。
またその時が来た。周次は目と口を瞑る。自転車をこぐ脚の回転を速くする。耳元にはおぞましい虫の声。
しかし同じ時、周次は雑音に違和感を覚えた。――雨の音。自転車をこぐ音。虫の音。まだ他に何か音があった。
――――急に雑音が大音量になり、頭が真っ白になった。天地がひっくり返ったような感覚。身体中の細胞一つひとつまで響き渡る衝撃。
刹那の間に思考は何度も反芻し、周次は理解できた。
"交通事故だ。車かバイクかに衝突したのか‥‥‥"
視界はまともじゃなかった。耳鳴りで音も確かに拾えない。全身が怯えて機能していない。
しかし思考だけは冷静だった。
(――あぁ。虫たちよ‥‥‥。小さく弱い虫たちよ‥‥‥。もしお前たちと会話ができるなら、お願いだから聞いてほしい)
案じているのは自分のことではなく、虫のこと。
(人間にだけは気を付けてくれ‥‥‥。とにかく人間に無様に殺されることだけはないように、進化してくれ‥‥‥。もっと、丈夫に、強くなってくれ‥‥‥――――)
念じ終えた周次の意識はそっと途切れた――――。
* * * * *
次に周次が目を覚ましたのは、なんと一週間後のことだった。そこには母親が居り、声にならない泣き声をあげていた――否、周次の覚醒に気がついて今し方泣き出したのである。母親は、一週間毎日周次の病室を訪れ、ほとんどずっと見守っていた。
その時自分が一週間も眠っていたことなどいざ知らぬ周次は、母親の泣いている姿に動揺していた。
それから医者がやって来て、診察などが行われた。
身体に異常はないらしい。もちろん怪我はあったが、周次が眠っている間にほとんど完治できたという。ただ長い間身体を動かせていないので、しばらくは日常生活の注意が必要のようだ。
そうして、翌日に周次は退院した。
帰路で母親が言った。
「本当に無事でよかったよ。最近の夜は危ないから、気を付けないとね」
「うん」
周次は普通に頷いた。頷いて、改めて母親の言葉を脳で反芻した。
「夜が危ないって、どういう?」
母親は「そうだ、周次は眠ってたから知らなかったね」と納得して説明した。
ここ数日、夜間における死傷者数が世界的に激増しているらしい。それも、とても惨い姿で発見されているとか。腹を深く抉った切り傷や、四肢の切断、何かに押し潰されたようで身元が分からなくなっている遺体まで。
常人離れな殺害であるとはいえ、警察は人為的なもので間違いないと見ている。しかし、未だに犯人の特定に踏み込めていない。世界中で夜間の犯行が行われているので、何か大規模な組織が動いている可能性も考慮しているらしい。
周次は母親の話を上手く呑み込めなかった。目を覚まして二日目で、脳があまり回転できていないというのもあるかもしれないが、そもそも言っていることがまるでマンガか何かのあらすじのようで、現実の話として理解できない。
その時はあまり深く考えず、ぼーっとして帰路についた。
* * * * *
――――その日の夕食は、とても美味しかった。
何せ一週間ぶりの、母親が作ってくれた食事なのだ。一週間ぶりという自覚が周次になくとも、自ずと涌き出る感動で目元が潤む。
家族と顔を合わせることだって久しぶりだ。父親に、妹、そしてペットの猫。あらゆる当たり前のことがとてもなつかしく感じる。まるで、長い時間が過ぎ去ったかのように。
「――――眠っている間、どんな夢見てたの!?」
突然、妹の夕夏が訊ねた。周次は一瞬目を丸くした。突然の質問への驚きと、質問の内容への戸惑いである。
「えっと‥‥‥」
周次は質問の答えを探ってみる。
「意識がなかったんだ。夢も何も見ていないだろう」
父親がため息をつきながら言う。ところがその時、父親の言葉は周次の意識に届いていなかった。
その一瞬の間に、周次は何かを思い起こそうとしていた。
"――――貴方に逢いたい――――"
女の声のような何か。はっきりと女の声であると断言できない不気味さを孕んでいる。しかしそれは慈愛に満ちているように、周次には感ぜられた。
「――――じ、‥‥‥周次!」
「あ」
母親に呼び掛けられ、周次の意識は外側に向かった。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
母親の心配に周次は首を振った。
「大丈夫大丈夫、何でもない。‥‥‥何か夢を見た気もするけど、思い出せないや」
そう夕夏に答えて、苦笑した。
「そっか‥‥‥残念。面白い話とか聞けそうだったのに」
夕夏は何故か少し拗ねて頬を膨らませていた。周次は顔をしかめる。
「普段の俺じゃ面白くないような言い方だな」
そう返すと夕夏は慌てて顔の前で手を振った。
「そ、そういう意味じゃないってば!!」
そして一家には笑いが溢れた。
* * * * *
深夜2時。家族は寝静まっているが、たった一人は起きていた。リビングのソファーに一人腰掛ける周次。何かソワソワして眠りに就けない。
「病院で寝過ぎたからか?」
しかし意識を取り戻してからの病院での一晩は普通に眠れていた。睡眠欲がないという訳ではないらしい。
恐らくは、久しぶりのこの環境に自ずと高揚しているからだろう。周次はそう推測するが‥‥‥。
「高々一週間でこんな感傷的になるって、俺どんだけホームシックになりやすいんだよ。一人暮らしとか到底敵わないじゃないか」
と勝手にショックを受けつつ、それでも違和感は拭えなかった。やはり事故で気を失う前と今とで、とてつもなく長い時が過ぎているような不思議な感覚だ。
「やっぱ何か壮大な夢でも見てたのか?」
――――そう考えていると、なんだか外が騒がしいことに気がついた。
「ちょっと、止めて! 離してよ!!」
女の声だ。どうやら相手と揉めているらしい。辛うじて周次の耳に入るくらいの騒音なので、気にすることはないはずなのだが。
「差し詰め、カップルで口論にでもなってるんだろう。男の浮気疑惑が浮上して、女が男の携帯を物色、それにキレた男が攻撃的になってるんだな? ‥‥‥さすがに差し詰め過ぎか」
病院で覚醒してから何かと神経質になっていたので、周次には気になって仕方がなかった。――――他人の恋愛事情を憶測するくらいに。
「ああクソ。なんだかイライラしてきたな。なんで俺が見ず知らずのカップルの憶測をしなきゃならないんだ! 無視しようにも気になってしまう」
周次は怒り、立ち上がった。そして玄関から外に出た。柄にもなく他人を注意しに行く気なのだ。女の声がする方へ、走って向かう。
家から数百メートル離れた道の角に、その人影はあった。思ったより遠かったために、周次は少し息を切らしていた。周次の家にまで届くほど、女は大声を上げていたのだ。
「あのちょっと、お取り込み中申し訳ないんですけど! こんな深夜の街中で近所迷わ――――」
周次は一瞬、言葉を失った。
怯える女の影の側にあるのは、刃物を持った人影だったのだ。暗がりでよく見えないが、手にしている"モノ"の異様なまでの尖り具合は影でもよく認識できた。
「ちょ、いくらなんでも攻撃的になり過ぎだろう!?」
警察に通報している暇などない。自分が止めに行かなければ。周次は男の元へ全速力で駆けた。女は今にも切りつけられそうになっているのを、なんとか男を押しやって凌いでいた。
周次は男の腕を掴み、必死に女から引き剥がそうとした。
「‥‥‥え」
そこで、違和感を覚えた。
――――硬い。皮膚が鉄の塊のように硬い。そして、デカイ。あまりにガタイが良過ぎる。常軌を逸した図体。周次は男を引っ張り続けたまま、男の顔を見上げた。
「なっ――――!?」
――――言葉が出ない。身の毛が弥立つ。何せ男の顔は――――――――――――――――
巨大な虫の顔面をしていたのだから。
それは人間ではない。巨大な複眼と屈強な顎を持つ頭部、複数本の脚が生えた胸部、翅を持った長く太い腹部。それは昆虫――――蟷螂だった。
刃物を握っているように思われていたのも、体に直接繋がった腕の一部で、見た目はまるで鎌。
周次は恐怖で身体が固まってしまった。相手が人間ですらない化け物だからというのもあるが。何より周次は虫が苦手だった。
犬や猫は身体の動きなどから"餌が欲しい"や"外に出たい"など考えていることを推測できる。だが虫は違う。その挙動から何を考えているのか分からない。その上、虫は人や哺乳類と体の構造が大きく異なる。
――――故に虫が怖い。
幸いにも周次の蟷螂の腕を引っ張る力は緩んでおらず、隙を見いだした女は蟷螂から脱出することができた。
しかし女は疲れ果てたのか、逃げ出すや否や路上のすぐ先で気を失って倒れてしまった。
「ギュルルルルル!!!」
女に逃げられた巨大な蟷螂は不気味な奇声を上げて周次を振り離した。凄まじいパワーに、周次の身体は地面に強く打ちつけられた。
「があっ!?」
打ち所が悪ければ骨折していただろう。運が味方した。しかしそれでも、数ヶ所を強く打撲している。気が動転していたが、激しい痛みに周次は正気を取り戻した。
視界の端に蟷螂を捉える。普通の蟷螂とは思えない発達した二本の脚で立ち、弧を描いた巨大な鎌は周次の方を睨んでいる。
「蟷螂って‥‥‥二足歩行‥‥‥だったっけ?」
命の危機が迫っているにも関わらず、周次の思考は別のところにあった。目前にある死を受け入れきれずに現実逃避をしているのだろうか。或いは――――
蟷螂は腕を振り上げた。攻撃体勢だ。
(目が覚めて二日でまた眠りに就くのか‥‥‥。それも今度は、目覚めることのない眠りになりそうだ)
周次に生への執着は、そこまでなかった。人生が辛かった訳ではない。しかし、明確な目的意識も存在しなかった。
生命は繰り返す。生と死を繰り返す。そうやって地球誕生から四十六億年が経過している。――――何のために?
教室の隅の席で進路希望調査の紙を眺めながら、そう考えた。将来何をしたいのか、何になりたいのか。そもそも自分は今、何のために生きているのか。
考えても、分からない。そんな具体的な生き方、考えたこともない。
これまでの人生が特別裕福だった訳じゃない。極普通の人生だ。そんなものに執着はないはずだ。
周次は生を諦め、瞼を下ろした――――。
アスファルトに鉄球が打ちつけられたかのような重く鈍い音を、周次は聞いた。
おかしい。
また、重く鈍い音。
おかしい。
何度も、何度も、重く鈍い音がする。周次にはそれが聞こえるだけで、それ以外何もなかった。
感覚がおかしい。重力のベクトルが明らかに変わっている。これが死の味か?
周次は目を開けた。目の前には蟷螂が立っている。そして――――――――――――――――周次もまた、そこに立っていた。
足元のアスファルトには、それまではなかった大きな亀裂が入っている。
なぜ?
周次は全ての事象に疑問を抱きながら、同時にその答えを推測できていた。
周次の全身は鳥肌が立っており、また少しの疲労と、夜とはいえ真夏には不自然な寒気を帯びていた。これらから導き出される答えは――――
"無意識の内に立ち上がり、敵の攻撃を回避していた"
‥‥‥自分で推測しておきながら、俄には信じ難い。しかし、体が勝手に動き出すほどに周次は――
「死にたくない‥‥‥!」
真にそう思っていたのは、間違いないようであった。気づけば涙が頬を伝い、手足は小刻みに震えている。季節外れの寒気は、彼が死に対する極度の恐怖と緊張状態にあるということ。
将来の展望がなくとも、目的意識がなくとも。当たり前に享受していた何気ない生活がそれだけで幸せだったことを、周次は理解した。
「――――標的を確認。戦闘を開始します」
長い黒髪を靡かせた少女が、凄まじい速さで周次と蟷螂の元へ疾走していた。
《うん。頼んだよ、セツナ♪》
少女が耳元に着けたインカムの向こうで、女性が陽気に返答した。少女――――セツナは駆けながら腰の柄に手を掛け、そこから刀をすらりと抜いた。
そして蟷螂に向かって飛び込み、三日月のように美しい弧の軌道を描いた刀は、吸い込まれるように蟷螂の鎌に当たった。
鈍い金属音が鳴り響く。
セツナがこちらに向かっていたことなどいざ知らない周次にはとても不思議な出来事に見えており、彼は呆然としていた。それは、まるで空から星が降ってきたかのようにすら思えた。
蟷螂は突然の刺客に動揺しながらも、両腕の鎌でセツナの一太刀をしっかり受け止めていた。
削り切れない。そう判断したセツナは蟷螂の鎌を弾いて一旦距離を取った。
「思ったより硬い‥‥‥。少し面倒ね」
そう呟くと、セツナは周次を一瞥して言った。
「あなたはどこか遠くに避難して。コイツは危険だから」
周次はセツナに見とれていた。
長い黒髪、整った顔立ち、マゼンタのリボンを備えたセーラー服、そして華奢な彼女が携えるには些か重そうな日本刀。
数秒遅れて、彼女の言葉がようやく耳に入った。
「俺は避難って‥‥‥あの化け物と戦うつもりなのか!?」
武器を持っている。確かに自分よりは太刀打ちできるかもしれない。だがどうみても学生だ。身長も周次より低い。それが一人で、この巨大な虫と戦えるとは到底思えない。
「大丈夫。私は特別な訓練を受けているから」
「何その専門家みたいな文言!」
「そう、私は専門家なの。――――虫殺しの」
周次は一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかった。そうしている内に、セツナは蟷螂との戦闘に戻ってしまった。
蟷螂は先ほどと打って変わって、セツナに対して攻勢に出た。両腕の鎌で連続攻撃を仕掛ける。セツナはそれを見極め、受け太刀しながら刀を傾けて一切をいなしていた。
いくつもの金属音が重なり合うのを周次は聞いていることしかできない。そこに近づこうものなら、間髪入れずに体を細切れにされよう。しかしだからといって、おめおめと逃げることには何か抵抗を感じていた。
「あなたの内に秘める正義感が、何もせずに逃げることを拒んでいるの? ‥‥‥ならそこに倒れている女性を、どこか遠くに運んでほしいのだけれど。戦闘に巻き込む訳にはいかないから」
「えっ」
セツナは蟷螂の攻撃をいなしながら、周次に話しかけていた。周次は図星を指されて動揺した。
「今この場に居合わせているあなたにしかできないこと。どう? これであなたは一人の人民の命を救った紛れもないヒーロー。あなたの矜持は保たれるでしょう」
周次は、あまりに分かりやすく煽り立てられていた。同年代の少女にそのように言われるので大層不服だったのだが。
「――悔しいけど、手ぶらの俺がここに居ても役に立たないのは確かだ。言い返せない。その化け物は"虫殺しの専門家"に任せて、俺は言われた通り大人しく逃げる」
「聞き分けが良くてよろしい。夜道は暗いから気をつけるようにね」
「おいおい。それ以上同年代の女の子に片手間で気を遣われると、羞恥心で死にたくなるっての!」
セツナが何者なのか分からない。しかし彼女の戦いぶりから、ただの女子高生ではないことは明らかだった。専門家というのもどうやら本当らしい。
後にも先にも関わらないであろう"知らない世界"の片鱗を垣間見た。周次はそんな不思議な感覚だった。
気を失っている女性の元へ駆け寄ると、周次は自分の背中に女性を負ぶって、そのまま道なりに走っていった。
――それを確認したセツナは蟷螂の攻撃の合間を見切って再び距離を取った、先ほどより大きく。それまでは倒れている女性や周次が居たので間合いを狭くせざるを得なかった。
地面の亀裂に目を向ける。この蟷螂がやったもので間違いないだろうが、何故わざわざ地面を斬りつけたのか? 異常進化を遂げた虫に人を襲う以外の思考はないはず。
「或いは――。いや、まさかね」
ふと浮かんだ一つのある可能性を否み、セツナは視線を蟷螂へと戻した。
あの硬度、腕を落とすのには相当骨が折れるだろう。狙うなら胴体か――。セツナは考える。どこを狙うにしても、リーチの長い鎌が厄介だ。
セツナの考えがまとまるより早く、蟷螂が攻撃を仕掛けた。間合いを詰め、無数の斬撃を繰り出す蟷螂。セツナは受け太刀に回った。
‥‥‥気のせいだろうか? 斬撃を重ねるにつれて威力が上がっているように感じる。
「っ‥‥‥!」
セツナは腰を低くして構えているが、蟷螂の斬撃で徐々に後方へと押されていた。
腕がじんわりと鈍い痛みを覚え始める。受け太刀こそできているが、重なる衝撃に耐えることができない。一度この連撃から脱出しなければ。
セツナは先ほどのように斬撃の隙を見極めようとするが。
「こいつ‥‥‥!!」
隙が一切見当たらない。蟷螂の斬撃は威力だけでなく、速度まで上がっていた。
異常進化した虫は、ある段階に到達すると特異の技術を会得することがある。
しかしセツナが事前に知らされていた情報では、この虫はまだしばらくその段階には及ばないはずだった。
とにかく蟷螂の斬撃に視線を集中させるセツナ。蟷螂の加速よりもさらに速く適応し、僅かな隙を見出して連撃から抜け出すことに成功した。
蟷螂は相手を殺し切れると思い込んでいたのか、距離を取られたセツナと己が腕とを交互に見つめて首を傾げた。
セツナは少し息が上がっている。表情には出さないが、余計に体力を消耗してしまったと心に悔やんでいる。時間をかける持久戦は、セツナの得意とする戦法ではない。
敵の急所を見極め、少ない手数で素早く仕留める。これがセツナの基本的な戦闘スタイルだった。
ところが今回はそうはいかなかった。蟷螂の強固な装甲と凄まじい成長速度によって、短期決戦を否まれた。
表情には出さないが、セツナは些か苛立ちを覚えた様子でインカムに手を当てた。
「‥‥‥あの、聞いてた情報と違うんですけど。まだ第二段階に到達して間もないはずじゃなかったんですか」
――応答はない。なんとなく察してはいたが、セツナはため息をついた。あの人はいつも適当だ。何を考えているのかだってよく分からない。
こうなれば、戦法を変えるしかない。
次こそ仕留めると言わんばかりに蟷螂がまた間合いを詰めてきた。今度は受け太刀の構えをとらずに後方へ下がるセツナ。
蟷螂は尚も間合いを詰めて鎌で斬りかかろうとする。それを刀でいなしつつ、やはりセツナは後退して一定の距離を保つ。もしまた連撃に呑まれてしまえば、次は殺される可能性の方が高いからだ。
蟷螂の攻撃をいなしながら、こちらが斬り込む隙を窺う。急所を狙うなら頭か胴体だが、さすがにガードが堅く、刀が届きそうにない。
蟷螂の斬撃の精度がだんだんと高くなっていくのが、刀づてに分かる。短期決戦は不可能だが、しかしだからといってあまり悠長にもしていられない。
セツナは蟷螂の脚を狙った。鎌を一ついなした直後で、そのまま蟷螂が踏み込んだ右脚に向かって刀を走らせる。
取った。セツナがそう確信できるほどに、その刀身は蟷螂の脚元に迫っていた。しかし――。
いつの間にか、セツナの刀はどこか明後日に向かっていた。あまりに意外な出来事だったために、セツナは状況を理解するのがコンマ数秒遅れた。
蟷螂の強烈な斬撃。セツナはかわすことができず、これを諸に食らった。
吹き飛ばされるセツナは、まるでボールがぽんぽん跳ねて転がっていくように、身体を地面に何度か強く打ちつけてしまった。
うつ伏せに倒れ込むセツナ。身体中の激痛が、彼女の表情にもうっすら滲み出ていた。
身体を地面に打ちつける際には受け身を取っていた。蟷螂の斬撃も辛うじて刀で受けたため、直接的な切り傷はない。それでもダメージは大きい。
セツナが蟷螂の脚を狙って刀を振ったその時、刀は脚元に及ぶ直前で弾かれていた。
蟷螂が、鎌を使ってセツナの斬撃をいなしたのだ。それまでセツナが蟷螂の斬撃をいなしていたように。
驚異的な成長速度。あまつさえ相手の戦い方を学習し、模倣する。蟷螂の戦闘力は疾うにセツナの想定を大きく上回っていた。
セツナから十字路を跨いだ数十メートル先。蟷螂は自分の成長が嬉しいのか、ギシギシッ‥‥‥と笑い声のようなものをあげてはしゃいでいる。セツナはそれを脇目に、刀を杖のようにして地面に突き立て、なんとか起き上がった。
蟷螂に同じ攻撃は通用しない。恐らく並大抵の攻撃もいなされ、カウンターを食らうことになるだろう。蟷螂にとって目新しく、且つ強力な一撃で学習する暇を与えないほどにダメージを負わせる必要がある。
セツナは右足と刀を握る右腕を後ろに引いて半身になり、腰を低くしてその剣尖を蟷螂に向ける。
蟷螂もまた、セツナの方を睨んで構えを取った。
蟷螂の思考は、かねてより目の前の人間を攻撃することしかない。しかしてセツナも、今この瞬間に限り蟷螂を仕留めることのみに意識を集中させていた。
奇しくも双方の思考が淀みなく一点に重なった。物音一つなく極限まで張り詰めた空気の中、セツナと蟷螂は互いへ向かって駆け出した。
互いの攻撃が触れるまで二秒足らず。そこには何人たりと介入の余地はない――――はずだった。
ちょうど攻撃が交わるであろう十字路。セツナと蟷螂の間に割って入るように、一つの影が飛び出してきた。
暗がりでよく見えない。至近距離になって、初めて影の正体を捉えた。
セツナは目を丸くした。影の正体は、先ほど女性を連れて避難したはずの周次だった。
何故ここに? それを考えるような暇はなかった。セツナは咄嗟に刀の向きを変えて突きの姿勢を解除しようとしたが、蟷螂は依然として攻撃の構えを緩めていなかった。
即座に刀を周次の頭上で走らせ、辛うじて刀身の先端で蟷螂の斬撃の軌道を逸らした。
三つの点は十字路で交差し、しかし互いに大きく干渉することなくそれぞれ通過した。
踏ん張りで疾走の勢いを殺し、すぐに背後を確認するセツナ。十字路の隅の方に、やはり周次が立っていた。
「‥‥‥なんだ今の?」
周次に怪我はない。それどころか、そもそも何が起こったのか分かっていないような素振りである。
「あなた、何をしているの?」
声をかけられて、周次はようやくセツナの存在に気がついた。
「あっ、ここに居たのか。無事そうで良かった」
セツナを一瞥してから、周囲をキョロキョロと見渡す周次。蟷螂を視界に認めて、苦虫を噛み潰したような面持ちになる。
「げっ‥‥‥、こいつも無事なのかよ」
「――ねえ聞いてる? 私の言ったこと、どうして守っていないの?」
怪訝そうに問うセツナ。そちらを向き、答える周次。
「守ったよ。女性はちゃんと安全なところまで連れて行った」
「そうじゃなくて‥‥‥いや、そうだけど、どうしてここへ戻ってきたのかを私は訊いているの」
セツナは周次の風貌に注目した。そして周次が鉄パイプとプラスチック製のゴミ箱の蓋を携えていることを確認した。
「‥‥‥あなたふざけているの? 蟷螂はあなたが戦えるような相手じゃない」
今のセツナに、周次の矜持までを気遣う余裕はなかった。
「分かってるよ。俺だってこんなこと関わりたくない。全部見なかったことにしてさっさと帰りたい。死にたくないし。虫も苦手だし」
表情には出さないがセツナは困惑した。彼の言っていることとやっていることは相反している。
「‥‥‥けど目の前で助けてもらって、碌に礼もせずに忘れましょうってのは流石に無理だった」
「別にお礼なんて必要ない。寧ろ、これであなたに危害が及ぶ方が私は困るの」
「それは百も承知してる。っていうか、あの蟷螂がまだ生きてたなんて思わな――」
言いかけているところで、蟷螂の鎌が周次に迫っていた。
周次はゴミ箱の蓋でガードしようとするが、蟷螂はいとも容易くそれを両断してしまった。
「マジかよ!」
周次が態勢を崩す。蟷螂が追撃をしかけ、しかしそれより先にセツナの刀が蟷螂に向かっていた。
追撃を諦めて後退する蟷螂。周次は尻餅をついた。
「もう分かったでしょう。あなたがここで戦ったところで、無惨に斬られるだけよ」
「‥‥‥最初から戦おうとなんか思っちゃいないよ」
「じゃあその武装とも呼べないような持ち物は何?」
「これは女性を避難させた先でたまたま見つけたんだ。なんとなく、持ってきた」
セツナはため息をついた。
「とにかく、五体満足の内に逃げて」
「‥‥‥ああ、そうするよ。折角助かった命だし」
周次はそう返事すると、鉄パイプを地面に突き立てて立ち上がった。
「改めて、助けてくれてありがとう。専門家さんの健闘を祈る!」
目的だった礼を言い終え、周次は踵を返して走り出した。蟷螂の様子を窺いながら、セツナも挨拶を返す。
「ええ、さようなら」
今度こそ周次が走り去るのを見届けて、セツナが次に蟷螂の方へ視線を移した時――――蟷螂は居なかった。
まさか背後を取られたかと、即座に後ろを確認するが、そこにも居ない。
バチバチバチっと何かが連続で弾ける音が聞こえて、セツナは上を見上げた。
目にしたのは、月夜に羽ばたく暗緑の巨影。
蟷螂が飛行していたのだ。つい今し方セツナの頭上を通過し、飛び去っていく。
ある程度の知能を備えた虫であれば、命の危険を感じて逃走することがある。しかしセツナは、不本意ながらも蟷螂がそんな状況だったとは思えない。それにあの方角は――
「彼を狙っているの!?」
すぐに蟷螂を追いかける。幸いにも蟷螂は高い位置を飛んでいるので、離れたところからでも視認できる。が、蟷螂の飛行速度は尋常じゃなかった。
武器を構えていては到底間に合わない。セツナは納刀し、全速力で駆け出した。
住宅の塀に足をかけ、屋根上まで跳躍した。道なりに追いかけていては間に合わないからだ。
最小限の衝撃で屋根に着地したが、先ほど蟷螂から受けたダメージが波打つように全身に蘇る。全速力を維持できない。
蟷螂は周次が走っていった方へ一直線に飛んでいく。セツナの全速力と同等の速さ。故にセツナは追いつけない。
蟷螂の向かっている先に、周次が走っているのが見えた。蟷螂は両腕を構えて攻撃態勢に入った。これにより僅かに減速したが、それでもセツナが刀を抜くほどの暇はない。
セツナは大きく息を吸った。
「後ろから攻撃が来てる!! なんとかして防いで!!」
言葉で伝えるのが精一杯だった。
その声は周次に届いたようで、周次は振り向くや否や驚愕した。
「は!?」
当然の反応である。蟷螂の視界に入らないであろうところまで走ってきたにも関わらず、目と鼻の先に蟷螂が迫っているのだから。
周次の手持ちは、鉄パイプと両断されて半円状になったゴミ箱の蓋。蓋の方は使い物にならない。鉄パイプを両手に握り、身体の前に構えた。
そこに二つの鎌が襲いかかる。周次は鉄パイプを合わせて受け太刀した。振り向き際だったために踏ん張りが利かず、蟷螂の凄まじい膂力に押し倒されてしまった。
セツナが追いつき、すぐに刀を振る。ところが、蟷螂は右腕の鎌のみでそれを止めた。依然として周次に圧力を加えながら。
「離れなさい!」
セツナは何度も刀を振るが、全て止められてしまう。蟷螂はセツナを片腕で相手できるほどに成長した。蟷螂の視線は周次に向いており、セツナのことは流し目に見る程度だった。
表情には出さないが、セツナは焦燥を覚えた。やはりこの蟷螂の成長速度は異常である。特別な何かがあるというのだろうか? しかし皆目見当つかない。
周次は蟷螂の圧を堪えるのが苦しくなってきた。セツナもその様子を察している。
蟷螂は片腕とはいえ、こちらが斬撃を重ねるだけでは威力が足りない。渾身の一撃をぶつけなければ。
セツナは斬りかかるのを止め、先ほどのように突きの構えを取った。
セツナの動きが変わったことに蟷螂は気づき、視線をそちらへ移そうとするが。
セツナは隙を与えなかった。
蟷螂がセツナの方を向き終えた時には、片腕の鎌を刀が貫通していた。
セツナの持つ戦闘技術の中で最も速く、瞬間的に絶大な威力をもって敵を穿つ必殺技――"破鎧突き"。
「グギギッ!?」
蟷螂は鎌を貫かれたことに酷く動揺している。蟷螂の想定では、セツナの刀で鎌を穿つことは不可能なはずだった。
実際のところ、その通りである。ただ、蟷螂の鎌は先のセツナとの打ち合いの中で脆くなっていた。セツナが予め同じ箇所に刀を当て続けるよう注力していたのだ。
セツナはすぐに刀を抜き、もう一度突きの構えを取った。
堪らず退避しようとする蟷螂だったが、それも間に合わない。
次の破鎧突きは、蟷螂の首から左腕の鎌までを穿った。青黒い血液が首元から噴き出し、蟷螂はもがいた。
周次は返り血を浴び、恐怖で硬直してしまっている。
蟷螂の右腕は完全に捥げ落ち、動きは次第にゆっくりになっていく。セツナは刀を抜かずに、そのままじっとしている。
――数分後。蟷螂は全く動かなくなり、絶命した。セツナは刀を抜き、付着している血液を振り払った。
「ようやく片付いた。怖い思いをさせてごめんなさい」
セツナの言葉で、周次は脱力して鉄パイプを手放した。静寂の中にカランカランと音が響く。
目の前にある蟷螂の死骸を見つめ、その不気味さを再認識した。
「何なんだよこいつ‥‥‥」
「あなたに対する執着がとても凄まじかった。何かあの虫に好かれるようなことでもしたの?」
あまりアテにするつもりもなく、冗談混じりに訊いてみるセツナ。周次は首を横に振る。
「俺は寧ろ嫌悪感剥き出しだったんですけど。‥‥‥もう一生関わりたくないね」
「戻って来なければ良かったのに」
「もう戦闘は終わったと思ってたんだ」
「終わってなくて悪かったわね」
周次は、セツナが蟷螂にとどめを刺した時の様子を思い出した。
「あの凄い突きを最初から使っていれば、すぐに倒せたんじゃないか?」
「そう簡単にポンポン出せる技じゃないの。それにもしあれを一度防がれたら、きっともう決まることはなかった」
「そうなのか」
少し会話したおかげで、周次の心は平静を取り戻しつつあった。しかし緊張状態はまだ完全に解かれている訳ではなかった。
起き上がろうとした時、周次は微かに音が鳴っていることに気づいた。カタカタと、音は少しずつ近づいてきている。
「‥‥‥まさか、まだ別の虫がいるのか!?」
周次が怯えながら辺りを見回す中、セツナは落ち着いた様子だった。
「こっちへ来ているみたいだけど、この音は虫じゃないわ」
セツナの説明に周次は首を傾げた。
「虫なんかよりずっと――」
そうセツナが言いかけたところで、音の正体が周次のすぐ背後に着地した。周次もその気配を察して、恐る恐る後ろを振り返る。
そこに立っているのは――――女性だった。
「来るならもっと早く来てくださいよ。あと勝手に通信切るのもやめてください」
「ごめんごめん」
セツナの不平に微笑みながら軽く謝る女性。
「でも怪異蟲について重要なことが判明したんだ。我々"殺蟲隊"の――いや、人類の未来に大きく関わる重要なことがね」
周次には二人の会話がまるで理解できない。聞き馴染みのない言葉もある。
「――さて、蟹江周次くん」
「‥‥‥はい?」
突然自分のフルネームを呼ばれて、周次は間の抜けた返事になった。女性とは面識がないはずである。
女性は周次の目を見て微笑んでいた。
「君には殺蟲隊に入隊してもらいます!」