鬼母
ぱぁんと乾いた音が部屋に鳴り響く。掌がじんと痛む。みるみるうちに叩いた手が赤らんでいく。娘はぐっと涙を堪えて私を睨みつける。本当は泣き叫んでもおかしくないのに、うるさくすればまた叩かれると分かっているのだ。
「ちゃんと勉強しなさい」
すっと娘から距離をとる。娘の刺すような視線を背中に感じる。
ーー母さん。やっとあんたの気持ちが本当に分かったよ。
自分の頬に手を添える。あの日幾度となく母に叩かれた頬。火照り、痺れ、熱い痛みの感覚が生々しく甦る。掌の痛みはとっくに消えていた。
母から受け続けた痛みを、今私は自分の娘に与えている。
*
わたしはおかあさんがきらいだ。
どなったり、たたいたり、ひっかいたりするから。
ごはんもすくないから、いつもおおなかがすく。
ともだちもつくっちゃだめっていう。
いたい。いたい。
やめてっていっても、やめてくれない。
「あんたのためなんだから」
おかあさんはいつもそういう。
なにがわたしのためなのかわからない。
わたしはたたいたり、ひっかいたりしてほしくないのに。
「あんたがちゃんとしたおとなになるためだから」
おとなになったら、わたしはぜったいにこのいえからでていく。
いたいおもいをしたくないから。
*
母が死んだ。私が二十歳の誕生日を迎える一週間前だった。心臓発作だったそうだ。
ーーざまあみろ。
涙は一切出なかった。
解放と安堵。ずっと縛られた呪縛から解放され、どこまでも清々しい気持ちに満ちていた。
私にとって母は鬼だった。
何かあればとにかく手を出された。身体には無数の傷と痣が刻まれた。大怪我こそなかったものの、常に身体中の痛みを抱えながら過ごす虐待の毎日だった。
今思えばもっと早く外に助けを求めるべきだっただろう。
父親は幼い頃に別れたようで一度も見たことはなかった。誰にも家の事を言うなと口止めされ、約束を破ればまた虐待される恐怖から何も言えなかった。
十八歳になった頃、我慢の限界から家を飛び出した。何度も携帯に母から着信やメールが来たが全て無視した。
怖くてたまらなかった。
身体は大きくなり、身長は母を超えていた。十分に立ち向かえる体格になったはずなのに、幼い頃に埋め込まれた絶対的恐怖に真っ向から立ち向かう勇気はでなかった。
警察に駆け込もうかとも考えたが、うまく話せる自信もなかったし、最悪家に戻される可能性が頭をよぎり結局は諦めた。
ーー助けて、さやこ。
頭の中で何度も繰り返した。私の唯一の理解者で味方で親友。
“私はいつもいっしょにいるからね”
私が生きていけたのは彼女のおかげだった。
牢獄に等しい家の中で灯る微かで、でも絶対的な希望だった。
*
さやこちゃんと今日もしゃべった。
さやこちゃんは私のことを怒らないし、たたいたりもしない。
いつもえがおでやさしく話を聞いてくれる。
「私はいつもいっしょにいるからね」
そう言ってくれるのがすごくうれしかった。
*
「これ、あなた宛てみたいだから」
そう言われて一冊のノートを渡された。
『希美へ』
鬼のような人だったが、そんな人格とは真逆で昔から字だけは芯のある清く強く正しく綺麗だった。
希美という自分の名前と改めて正面から向き合うと、思わず鼻で笑いそうになった。どんな想いでこんな未来のある素敵そうに見える名前をつけたのか。この名前に見合うような教育なんて一つも受けてこなかった。
「病室で死ぬ直前まで大事に持ってたみたい。あ、あとこんなものもあったわ」
もう一つ渡されたのは私の幼い頃の日記だった。
「なにか必要な事があったら連絡ちょうだい」
その人が誰なのかもよく分かっていなかったし別に興味もないので何も追及しなかった。
死んだ母は誰かが手配して葬儀やら火葬やらが済まされた。娘である私に確認はあったが、どうでもよかったので「勝手にしてくれ」と答えたら勝手に母は処理された。それでいい。母の死に何の感慨もないし関わりたくもなかった。
あの日出ていって以来二度と戻らなかった部屋の遺品整理にも私は参加しなかったが、気を利かせたつもりか遺品のいくつかは私の手元にやってきた。
私はまず自分の日記を開いた。
あまりにも拙く幼稚な文章だが、一目見た瞬間に当時の記憶が鮮明に呼び起こされた。
痛い。苦しい。辛い。楽しい事なんてまるでない苦痛の日記。読めば読むほど当時の痛みが心身に甦ってくると共に、母という鬼に対しての憎しみも禍々しく呼び起こされた。
『さやこ』
そんな負の記憶で埋め尽くされたと思っていた日記の中に、唯一の光を見つけた。
さやこ。その名前を見ただけで心の中に暖かい気持ちがじわっと滲み始めた。
懐かしい。彼女がいなければ私は乗り越えられなかった。私の唯一の理解者で味方で親友。なのに不思議な事に、彼女に関しての記憶全てが朧気だった。
見た目、声。当時ほぼ毎日のように一緒にいたはずなのにはっきりと思い出せない。その理由は自分でも分かっている。
彼女は実在しないからだ。
イマジナリーフレンド。私が自分を守る為に生み出した架空の親友。
母の虐待は私の心身に多大な影響を及ぼした。学校には通わせてもらったが、関わりを持つことは禁じられた。禁じられた事を口外する事も当然許されなかった。外での交流は無に等しかった。そこで救いを求めた私はさやこという存在を創り出した。
気付けばさやこはそこにいた。虐待が一番酷かった幼少期には毎日のように話したが、成長するに従って彼女を見る機会は減っていった。
人間というのは不思議な生き物だ。自分を守るためなら簡単に幻影を創り出せてしまう。でも今やれと言われても出来るものではない。本当に追い込まれ、本気で求めた時に人間はリミッターを外して能力を解放する。力の使い方さえ分かれば、またさやこに会えるのだろうか。
日記を閉じると自然と母のノートに視線が向いた。あの人の私物なんて見たくもないし触れたくもなかった。だが生理的な嫌悪感とは別に本能的に興味をそそられている自分もいた。
母は何を思っていたのか。どんな気持ちで私を痛め続けてきたのか。何度目かの逡巡を経て、結局私は母が遺したノートに手を伸ばした。
『ごめんね。本当にごめんね希美』
もしかしたらそんな言葉もあるかもしれない。期待や希望ではなく可能性としてごく僅かに頭に思い浮かべていた言葉が飛び込んできた瞬間、思わず呼吸が止まった。
『辛い。でもあの子の方がきっともっと辛いはず』
そこには母の悔恨がひたすら綴られていた。私の虐待に対する懺悔の日記だった。
信じられなかった。そんな素振りは一切自分の記憶にはなかった。徹底的な鬼。だが今目の前にあるのは、およそ鬼とはかけ離れた人間の言葉だった。
しかしそうなると意味が分からなくなった。母は本当は私を虐待などしたくなかった。じゃあなぜ鬼として振舞う必要があったのか。読み進めるとやがてその理由にあたる記述が見え始めた。
『母さん。やっとあんたの気持ちが本当に分かったよ』
『あんたがずっと憎かった。数えきれないぐらいあんたに叩かれた。でも全部私の為だった。私の為にしてくれた事だった。ずっと信じてこれなかったけど、本当だったんだね』
どうやら母もまた自身の母に虐待を受けていたようだ。
虐待を受けた人間は自分の子供にも虐待をする傾向があるという話を聞いた事がある。だが母は違う。母が私を虐待した理由は別にあった。
“あの子の前にもさやこが現れた”
さやこ。
どうしてその名前がここで出てくる。母にさやこの存在を打ち明けた事はない。なのに母もさやこを知っていた。私が創った私にしか見えない存在ではなかったのか。唐突に出てきた名前に私の頭は一瞬にしてかき乱された。思考が追い付かないまま母の文字をひたすら追った。
『間違いなく希美にはさやこが見えている。私と同じだ。母と同じだ。このままでは希美が殺されてしまう』
『とにかくさやこを遠ざけなければ』
『今日初めて希美を叩いた。こんな事をずっと続けなきゃいけないの? でも娘に死んでほしくない。やるしかない』
さっぱり意味が分からなかった。何故さやこと私の死が関係してくるのか。私にとっては救いの天使だったものが、母にとってはどうもそうではないようだった。
『希美の後ろにさやこがいる。私を見てにたにた笑っている』
『叩く力を手加減すると彼女は嬉しそうに私に言う。”頑張らないとこの子も連れて行っちゃうよ”』
『希美を連れてはいかせない。私が母さんを恨んだように希美に恨まれようと、娘の将来は私が守る』
混乱する頭を整理した。要はこういう事だ。
さやこは私のイマジナリーフレンドなどではなかった。母の、そのまた母の前にも姿を現していた。だがおそらく実在する存在ではない。いわば霊に近い存在なのだろう。ただし同じ霊でも悪霊の類として。
さやこは子供の前に現れやがて命を奪う。それを回避するには子供に痛みと苦しみを与え続けるしかない。
俄かには信じられない内容だった。あまりにオカルトじみた内容はもちろん、母の行動全てが今となってはまるで意味が違ってくる。
母は私を守る為に虐待していた。
何も知らない者が見れば、虐待を正当化する為の言い訳か精神を病んで狂ってしまった思考回路で片付けてしまうだろう。最初は私もそう思った。だが違う。さやこというたった一つの歪な存在がそれを妨げた。
私はずっと記憶違いをしていたのだ。虐待されたからさやこを創り出したと思っていた。
違う。さやこが現れたから私は虐待されるようになったのだ。
味方のように振舞いながら、その実虐待を仕向けていたのは彼女だったのだ。思えば一番虐待を受けていたのは、毎日のように彼女が現れていた時期だった。成長して彼女の存在が薄らいでいくと虐待は減っていった。自身の成長が関係していると思っていたが、そうではなかったのだ。おそらくは母も徐々にさやこが見えなくなっていた。さやこを遠ざける事が出来たと考え、虐待の必要性が減っていったのかもしれない。
ノートはまだ続いていた。私は続きを読み進めていく。
『娘が二十歳になる前に死んでも連れて行くらしい。何故そんな事をするのか。小さい時は味方だと思っていたのに。唯一の天使だと思っていたのに。間違っていた。さやこは悪魔だ』
『さやこという悪魔に魅入られ、運命にも見放されるのか。母さんは乗り越えたのに、私は駄目なのか』
『あともうちょっと。神様、あと二週間だけ待ってください。私を連れて行くのはそれからでお願いします』
『お願い。許して。娘を連れて行かないで』
『わたし、だめかも』
『希美、ごめんね』
そこでノートは終わっていた。
「え」
嘘だ。こんなの全部嘘だ。
“娘が二十歳になる前に死んでも連れて行くらしい”
「……ねぇ、待ってよ」
どうしてこんな理不尽な目に遭わないといけないの。私も、母も。
呆然とした。母は私が二十歳の誕生日を迎える一週間前に死んだ。
“あんたがちゃんとしたおとなになるためだから”
二十歳の誕生日は明日だ。母の想いは届かなかった。
ふいに耳元に生暖かい吐息がかかった。
「私はいつもいっしょにいるからね」
久しぶりにさやこの声を聞いた。
こんな声だったなとやっと思い出した。