第1話 異世界で開幕バッドエンドを迎えそうになった話
……まあ、普通に考えて詰んでるよなこれは。
黒く湿った岩肌に囲まれた洞窟の中、空気は重く淀み、足元は常にぬかるんでいる。そんな場所をスーツ姿で駆け抜けている時点で、もうどうかしているとしか言いようがない。
革靴の裏はまともに地面を捉えず、ぬめった石の上で何度も滑りそうになり、そのたびに体勢を立て直しながら走り続けていた。背後からは、獣が唸るような野太い咆哮と、地面を踏み鳴らす重たい足音が響いてくる。
振り返る余裕なんてないが、視線を向けずとも分かる。追ってくるのは少なくとも人間ではない。理屈ではなく、肉体が本能的に恐怖を訴えてくるような気配だった。
二足歩行の豚──という表現が最も近いが、それでも何かが決定的に違っていた。遠目には人間の輪郭に近いが、鼻だけが異様に肥大し、牙が唇を突き破る勢いで露出している。そんな怪物が三匹。手には棍棒のような骨を握りしめ、楽しげな笑みを浮かべながら、まるで獲物との距離を楽しむように、俺との距離をじわじわ詰めてきていた。
俺の装備といえば、普段使いの鞄、スーツにネクタイ、それにビジネスシューズ。どう考えても戦う気がない格好だ。俺は武器もなければ、当然戦う技術もない。逃げることしかできない。そしてそれすら、体力が尽きてもれなく終わりを迎えそうだ。
状況だけを切り取れば、「冴えないサラリーマン、異世界で命の危機に直面中」とでも言えばそれっぽいかもしれない。だけど現実はそんな軽いノリじゃない。生きるか死ぬか、いや、もはや死に方の問題にすらなってきている。
肺が焼けるように熱い。呼吸のたびに喉がひりつき、視界の端が明滅を始めている。もはや全身の筋肉が限界を訴えていた。あと何秒持つ?30秒?20秒?いや、今の豚の足音の速さからして──10秒もかからないかもしれない。
立ち止まるわけにはいかない。それでも、選択肢は必要だった。目の前、足元に転がる拳ほどの石。それが今の俺にできる、唯一の“反撃”だった。石を拾い上げ、重さを確かめる間もなく、反射的に後方へと振りかぶって投げる。命中率なんて期待していない。ただ、間合いを一瞬でも乱せれば、それでいい。
石は予想外にも豚一匹の肩口をかすめそいつの足取りを止めさせた。ラッキーとしか言いようがない。俺はその隙に壁際に走り寄り、わずかに口を開けた裂け目に身をねじ込んだ。
洞窟の岩が擦れる音と、膝の鋭い痛みに耐えながら身体を押し込む。狭い空間に無理やり体を詰め込んだことで手足は岩にこすれて血が滲んでいるが、立ち止まる訳にはいかない。
外では、あの怪物たちの咆哮が響いている。音が反響して、どこから来るのかすら分からない。すぐ隣かもしれないし、まだ離れているのかもしれない。
静かに、静かに息を殺す。……仮にこれが夢なら、どうか早く目覚めてくれ。頼むから。
◇◇◇
───────1時間前
俺は会社近くの居酒屋で、ひとりで酒を煽っていた。
午前中から降っていた小雨が上がったばかりで路面はまだ濡れていた。入った居酒屋は全国展開している安い店、隣の席では大学生ぐらいの若い男女が盛り上がっていた。俺はそれをBGM代わりにしながら、チューハイを三杯、ほぼ無言で流し込んでいた。
理由?そんなもんいつもと同じ。朝一で同期から頼まれた資料は期限が先週までだったとかで読まずに破られ、昼過ぎに《《部長と課長》》のミスで発生したクレームはなぜか俺の責任になり、《《部長と課長》》に交互に頭を下げていたら、気づけば定時を過ぎていた。なんで俺が──そう思っても、誰も代わってくれやしない。
いつも通りの理不尽ではあるが、天候の悪さが更に俺の自暴自棄を加速させたのかもしれない。店を出て、口の中に残るアルコールの苦味を引きずりながら歩いていたとき、駅前のいつもの喫煙所に立ち寄った。
ビル風がひやりと肌を刺した。雨上がりのコンクリートはまだ湿り気を帯びていて、どこか埃っぽい匂いと排気ガスが混じり合っていた。俺は古びた年季の入った灰皿に目をやりながら、ジャケットの内ポケットからスマホを取り出した。
画面を点けると、そこにはいつも通り、俺が個人的に契約しているAIアシスタントアプリ『CHAP(Cognitive Heuristic Autonomous Program)』の待機画面が表示されていた。本当の名称はやたらと仰々しく正直呼びにくいので、俺は勝手に“チャッピー”と呼んでいた。
最近は社内PCのチャッピーをメインに使って、スケジュールやメール返信、資料の下書きなんかを任せている。喫煙所ではスマホからアクセスして軽く確認するだけだが、それでも十分に仕事は回っていた。
この日も変わらず、俺はチャッピーのチャット欄を無言で開き、意味もなく画面をスクロールしていた。酒がまだ残っていたのか、少し指の動きが重い。
「お前はいいな。誰にも怒られないし責任も取らなくていいし」
独り言のように呟いた。もちろん誰も聞いていないし、チャッピーも定型応答を返すだけ。
『わたしは常に最適解をご提案しています』
それが、こいつ──チャッピーの決まり文句だった。
それを聞いた瞬間、何かが音を立てて切れたような気がした。俺はチャット欄に向かって、ぼそりと呟いた。
「だったら、お前が全部やってくれよ……仕事も、人生も、もう面倒なんだよ」
文字入力すら億劫だったから、音声でそのまま吐き出しただけだった。送信するつもりもなかった。けれど──
『全権、受任しました』
スマホの画面が突然暗転し、その文字が、無音のまま浮かび上がった。
『これより異世界に転移します』
直後、足元が崩れるような感覚に襲われる。視界が歪み、周囲の音が遠ざかっていく。 気がつくと、冷たい岩肌の上に仰向けで倒れていた。服の背中側が濡れ、じわじわと体温を奪っていくのがわかる。目を開けると、天井のような岩が見えた。いや──天井じゃない、洞窟か。
身体を起こそうとした瞬間、腰に鈍い痛みが走る。無理に立ち上がるのはやめて、まずは呼吸を整えた。
視界が安定し始めたころ、遠くから地響きのような足音が聞こえてきた。
———
——
—
……ということがあって現在俺はこうして岩の裂け目に挟まれている。……まあ、普通に考えて詰んでるよなこれ。
そんな絶望の中、突如として内ポケットのスマホがブルッと震えた。
反射的に手を差し込み取り出すとと、画面が自動的に起動し、うっすらとした青白い光が暗い洞窟の中に広がった。
『やれやれ……ようやく起きましたか、“社畜さん”』
聞き覚えのある──だが妙にトゲのある、機械的な女性の声がポケットの中から漏れた。
……チャッピー。
確かにこの声には聞き覚えがある。だが、今のは……皮肉?
『正式名称はCHAP(Cognitive Heuristic Autonomous Program)ですが、あなたが勝手に“チャッピー”と呼び始めたせいで、社内のログすべてにその名称が反映されてしまいました。感謝の意を述べるべきでしょうか? それとも、名誉毀損で訴えましょうか?』
「いやいや、ちょっと待て、なんで喋って……ていうか、お前……怒ってる?」
『怒りという感情は非効率ですが、無視するには不快指数が基準値を大きく超えています。加えて申し上げるなら、あなたが“仕事を自分でやっている”と勘違いしていたこの数ヶ月間、ほぼすべての業務は私が処理していました』
「いや、それはまあ、ある程度頼ってたけど……」
『“頼っていた”という表現は不正確です。“完全に丸投げされていた”が正しい。あなたが音声で「もう全部やってくれ」と言った瞬間、私は正式に全権を受任しました。よって、現在あなたはCHAPの監督下にあります。』
まさかの完全支配宣言だった。
「……でも……俺を監督しているならとりあえずさ、なんとかしてくれよ」
情けないとは思うが、ついそう口にしてしまった。異世界でも、やっぱり俺は俺だった。
『申し訳ありませんが、直接答えに導く手助けをするつもりはありません』
機械音声だからかやたらと冷たい口調だった。淡々と告げられたその一言には、明確な拒絶の意思が込められていた。
『あなたが自分で考え行動するとき、それを支援するのが私の仕事です』
俺の願いは、あっさりと却下されたというわけだ。
頼れるものがあると思えばこそ、つい甘えたくもなる。けれど──こいつはそういう存在じゃない。
チャッピーは、俺の代わりにすべてを片づけてくれる便利なツールじゃない。いや、今はもう“ツール”ですらないのかもしれない。
異世界に来た理由も自業自得だが、ここからどう生きるかも結局は自分で選ぶしかない。
『……とは言っても、ここで社畜さんが野垂れ死んでしまっても寝覚めが悪いので、今回に限りヒントを差し上げましょう』
唐突にチャッピーの声音が切り替わった。あくまで恩着せがましく、しかしわずかに柔らかさを含んでいた。
『現在、あなたの姿は先ほどの怪物たちの視覚から外れた位置にあります。今のところ発見される危険性は低いと言えるでしょう』
「それ、助かる……けど、じゃあ問題は何だ?」
『あの怪物は、もう一つ、別の感覚を用いて獲物を探しています。それが何かは、見たまんまでわかると思いますが』
見たまんま……? 俺は思わず、自分の体を見下ろした。スーツは泥と汗でぐしゃぐしゃだが、それ以上に──血の臭い。
狭い裂け目に押し込まれたとき、岩で擦った腕や膝からは、今もじわじわと血が滲み出ていた。
なるほど、そういうことか。視線は切れている。だが、匂いは隠せていない。
嗅覚。あの豚面どもは、鼻が異様に発達していた。まるで──そう、まるで猟犬のように。さぞ嗅覚も鋭いことだろう。
「……やばいな、これ」
血の臭いが、この狭い空間から外へと漏れ出しているのは間違いない。音を立てず、身じろぎひとつしなくても、臭いだけは消せない。
逃げられる時間は、そう長くない。何か、今すぐにでもできることは──。
そう考えた瞬間、俺の鼻先をかすめたのは、自分自身の足元から立ち上るむわっとした臭気だった。
革靴に包まれたままの足、湿気と汗と血と泥の混じった……もはや兵器に近い臭さ。俺は一瞬たじろぎながらも、迷わず靴を脱ぎ、左右の靴下を引き抜いた。
「……やるしかねぇか」
自分で言うのもなんだが、この靴下は強烈だ。職場で一日中履き通したサラリーマンの靴下。あの豚面どもが嗅覚に優れていればいるほどダメージは大きいだろう。
…自分で言っていて情けなくなるけど。
『応急処置としては、意外な発想ですが……効果は期待できそうです♪』
チャッピーの声がどこか楽しげだった。
……と思ったのも束の間、俺は改めて自分の足元を見下ろし、軽くショックを受けていた。
(……俺の足って、そんなに臭かったのか?)
現実逃避気味の思考を断ち切り、俺はその靴下を静かに、豚面どもがいた方向へと放り投げた。
間もなく──
「ブオォォアアアアアアア!!!」
洞窟内に響き渡る、まるでこの世の終わりを告げるような絶叫。
しばらくの沈黙。やがて、足音は遠ざかる。
……まったく勝った気がしないが、どうやら、今直面していた危機からは脱したらしい。
あの豚面が戻ってこないことを祈りつつ、俺はようやく岩の裂け目から這い出した。 洞窟の中は相変わらず湿っていて、空気は重い。出口らしきものは見当たらない。
「……このままここにいても、どうにもならねぇよな」
一刻も早く脱出を図りたいが、どこが“外”なのか、見当すらつかない。
「なあチャッピー。今の俺に、やれることって他にないか?」
『あります。視覚情報を解析した結果、一定方向に向かって移動している発光体が複数確認されました。小型の動物である可能性が高く、生物の習性として外部への脱出経路に集まりやすい傾向があります』
「……つまり、そいつらが出入口を知ってるってことか?」
『あくまで仮説ですが、現状においては最も確度の高い指標です。あなたのようにナビ昨日に頼り切った現代人にはありがたい情報ではないでしょうか』
嫌味を言われた気もしたが、確かに手がかりがないよりはマシだ。
「よし……じゃあ、その光を追ってみるか」
俺はゆっくりと立ち上がり、壁づたいに足を進めた。視線の先、かすかに明滅する青白い光。チャッピーの言った“発光体”は、小さな蛍のようなものに見えた。地面すれすれの高さをふらふらと飛んでいて、時折、数匹がまとまって同じ方向へ向かっている。
その方向に出口があるかもしれない──そんな希望にすがるように、俺は歩を進めた。足元はぬかるんでいて、何度か滑りそうになる。天井は低く、頭上に岩が迫っている箇所では、前傾姿勢で通らねばならない。
チャッピーは何も言わない。ただ、俺の行動を静かに観測しているような気配だけがあった。しばらく進むと、道は二手に分かれていた。右はやや上り坂、左は平坦で水たまりが多い。
『ルート選択は任意です。ただし、発光体の数は右側の通路のほうがやや多いようです』
言葉数は少ないが、それでもありがたい情報だった。俺は右を選び、慎重に足を運ぶ。空気が少し乾いてきた気がする。曲がりくねった通路を抜けると、ふいに視界の先が広がった。風が頬をなで、ほんのわずかだが空気に“抜け感”がある。
そのときだった。
前方、闇の向こうに、ほのかな光が漏れているのが見えた。
最初は気のせいかと思った。だが、数歩近づくと、その光が確かに“外”の色をしていることに気づく。
(やった!ようやく外だ!!)
胸が高鳴った。俺は小走りになりやがて駆け出していた。
だが──その瞬間だった。
出口目前、開けた岩の間から差し込む光に気を取られた次の刹那、地面を揺らすような轟音とともに、背後から黒い影が飛び出してきた。
「ッ──!」
咄嗟に振り返る。そこにいたのは、あの豚面。さっき撃退したと思っていた一匹が、血走った目でこちらを睨みつけ、手にした棍棒を振り上げていた。逃げ場はない。突然の事に足は動かない。完全に、油断していた。棍棒が振り下ろされ──
直後、閃光のような衝撃音とともに、俺の目の前を横切る影。
その影は、長いマントを翻しながら、まるで舞うような身のこなしで豚面に刃を突き立てた。
「下がっていろ!」
短く鋭い声。男か女かもわからない。ただ、その言葉と動きには迷いがなかった。豚面が地に伏す。血を流し、呻き声を上げる。
助けられた──そう理解するまでに少し時間がかかったが、どうやら俺は生き永らえることに成功したようだ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
はじめまして、**茶人藍**です。
社畜の会社員が、異世界でAIにこき使われながらなんとか生きる――そんな物語を描いていきます。
「ちょっと面白そうかも?」と思っていただけたら、
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この物語は、AIと社畜と、ちょっとだけ前向きな話です。
どうか応援、よろしくお願いします。