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閑話 同じ穴の狢

「レイ、起きて」

「ん、んん……」

「寝ぼけてないで。体起こして。もう朝よ」

 マシロさんに体を揺すられて、僕は重たい瞼を開く。

 細目に映る景色は薄暗かった。夜のうちに一雨あったのだろう。草花は露に濡れていて、森にはうっすらと霞がかかっている。自然の静謐が耳に心地よい穏やかな朝だった。

 そんな夢が現実へと溶け出してきたかのような森の中で、彼女と二人きりでいる。夢幻の霞は、花に似た甘やかな香りがした。

(あと五分だけ、いいよね……?)

 浅い呼吸で朧になっている思考は、息苦しくも痺れるようで晴らし難い。だから、嫌なことは未来の自分に投げて、無言で微睡へと潜る。

 しかし、頭の鈍痛を頼りに夢の続きを探そうとすると、マシロさんに思い切り蹴りを入れられた。

「うぅ、痛い……」

「無視は嫌いよ」

 マシロさんは不機嫌に言った。

「折角自由になったんですから、時間なんて気にしないでゆっくりしてもいいんじゃ……」

「自由と怠惰は違う。それに、早起きは銅貨三枚の価値がある」

「それは、確かに……ニートには大金です」

 ぐうの音もでない正論に、僕は苦笑するしかない。

 起き抜けに無為徒食を責められる衝撃は大きかった。夜に見ていた妄想の色もあって、襲い来る罪悪感と劣等感は凄まじく、心臓がきゅっと締まる。

 しかし、思えばここは僕の家だ。他人同然のマシロさんに文句を言われる筋合いはない。

(……どうして奴隷に罵倒されなきゃいけないんだ。ご飯も寝るところもあげたのに、いきなり蹴るなんてあんまりだ)

 そんなことを考えていると、ふと体が温かな布団に包まれていることに気がつく。

「壁で寝てたはずなのに……」

「寒そうにしてたから。……迷惑だった?」

「そんなことないです!」

「そう。なら、よかった」

 マシロさんは家主である僕に気を遣ってくれたのだろう。彼女が布団で幸せそうにしていたことを思い出すと、少しだけ申し訳ない気持ちになった。

 昨夜は随分と寝汗をかいたのだろう。毛布はしっとりと湿気を帯びていた。それでいて、肌に触れた時の不快感は薄い。

「マシロさんは寒くなかったですか?」

「気にしないで」

 マシロさんは平然と言う。

「期待してないから……ですよね? すみません、不甲斐なくて」

「そう言うのやめて」

「ご、ごめんなさい……」

 マシロさんは真似をされたのが不快だったようで、静かに怒っていた。それでいて、何かを求めるような熱っぽい視線も向けてくるから困惑する。

(そんな顔しないで……)

 彼女が何を欲しているのかはわからない。けれど、期待されるような大きな自由と幸福は、とても贈れそうにないから胸が痛かった。

 それでも、望まれた以上は手を抜くつもりはない。

「おはようございます、マシロさん」

「うん。おはよう、レイ」

 遅れて朝の挨拶を済ませると、顔を洗いに行くために出かける支度を始めた。

「何してるの?」

「汗を流そうと思って。マシロさんも汚れたままは嫌ですよね?」

「そうね」

「ここには水道は通ってないので、近くの川に案内しますね」

「外で脱ぐのは嫌」

「冷たくて水浴びなんてできませんよ。だから、顔と髪だけでも洗いましょう」

 着の身着のままのマシロさんには、タオルとサンダルを貸した。一応着替えの服も渡す。どれも男物の服だが、奴隷の麻服よりはずっといいはずだ。

 しかし、部屋の外で着替えを待っていると、彼女は服を手に持ったまま出てくる。

「着なくてもいいんですか?」

 マシロさんはこくりと頷く。昨日あげたコートは着ていたから、寒くないわけではないのだろう。もしかすると、髪を洗う時に服が濡れることを心配しているのかもしれない。

 基地を出て数分も歩くと、綺麗な小川が見えてくる。

「静かなところね」

「森の中ですからね。魔獣はたくさんいますけど、他に人はいませんよ」

 僕は透き通った川辺に膝をついて、手のひらで水を掬う。

 しかし、マシロさんが服を脱ぎ始めるのが見えて焦った。

「ま、マシロさん!?」

「なに?」

「なにって、この時期に川に入ったら風邪引いちゃいますよ!」

「平気。慣れてる」

「でも、外で脱ぐのは恥ずかしいって……」

「他に人がいないならいい」

 マシロさんは広げたコートの上にタオルと着替えを置くと、躊躇なく川に入って行ってしまう。

「待ってください! この川は見かけよりも流れが速くて危ないんです!」

 僕が止めるのも聞かず、マシロさんはどんどんと奥に突き進んでいく。

「マシロさん!」

 慌てて連れ戻しに走るも、足がもつれて背中からこけてしまう。

 けれど、幸いとマシロさんを引き止めることは叶ったようだ。

「風邪引くよ」

 マシロさんは一糸纏わぬ姿で屈み込み、上から顔を覗き込んでくる。

「止めに来てくれてありがとう」

「ど、どういたしまして……」

 僕は視界の肌色に耐えきれず、咄嗟に手のひらで目元を覆った。

 けれど、マシロさんはそれを嫌がった。

「照れないで、あなたの全部を見せて」

 マシロさんに寂しそうな表情で乞われると、強く拒めなかった。何より、誘うような文句に慾が刺激されて、理性が溶ける。

 裸体で朝日を浴びるマシロさんは、水面に揺れる光を受けてキラキラと輝いている。薄汚れた麻布を着ていた時とは、まるで印象が違う。非の打ち所のない美しさに胸が高鳴り、興奮でおかしくなりそうだった。

(欲しい)

 身勝手な感情を口につきそうになり、慌てて水面に頭を沈める。

(奴隷が嫌で逃げてきた子に、欲しいだなんて……! ニートの癖に、最低だ!)

 僕は自己嫌悪を水中で叫ぶ。

「ダメよ、溺れちゃう!」

 マシロさんは僕の気も知らずに、必死な顔で助けてくれた。二度と溺れないように頭を膝に乗せて、両手で体を固定されてしまう。

 腹元から見上げるマシロさんの姿は扇情的で、否応なく全身が熱くなる。

「もう無理ぃ!堪えられない! 早く何か着てください!」

 僕は粗く目を塞ぎ、じたばたと悶える。

 しかし、マシロさんは困ったように首を横に振る。

「まだ水浴びの途中。それに、私は平気。慣れてるから」

「その慣れてるって言うの、やめてください! 僕は女の子の裸なんて見るの初めてなんです!」

「……そう。なら、もう言わない」

 そう言うマシロさんは、いつの間にか上機嫌でいた。

 けれど、僕の要望は通らなかった。彼女は浅瀬に座り込むと、水浴びを再開するから、背を向けるしかない。

(奴隷だったからって、大胆過ぎだよ……)

 ここに来るより前、マシロさんは道具のように扱われて、意志を奪われて生きてきたに違いない。

 それでも、彼女は自由と幸せを求めて逃げてきた。ならば、もっと自身を大切にすることを覚えるべきだ。

(嫌なことを全部、忘れさせてあげられたらいいな)

 昔のことを一時とて思い出す余裕がないくらい、たくさんの幸せを贈れなら素敵だ。

 しかし、彼女はニート相手ですら遠慮がちだ。このままでは目の前の幸せすら掴めないのではないかと心配になる。

「お待たせ」

 水浴びを済ませたマシロさんは、服に袖を通すと隣までやって来て横座りする。

 清められた白髪が視界を横切る。陽光に透けたそれは、虹色に輝いていて目を奪われた。

「どこか変?」

「綺麗な髪だなって思って……見惚れてました」

「髪だけ……?」

「え?」

「……なんでもない」

 マシロさんは拗ねてしまう。

 けれど、僕が体を震わせてくしゃみをすると、彼女はタオルを持って寄ってきた。

「髪、濡れてる」

「放っておけばすぐに乾くきますよ」

「いいの。やらせて」

 マシロさんは自信満々に拳を構えると、答えも聞かずにタオルを乗せてくる。

 しかし、既に彼女の体表からたっぷりと水分を吸い取ったタオルはびちょびちょだ。汚いとは思わないまでも、肌に触れていて気分の良いものではなかった。

 けれど、僕がどれだけ遠慮をしても、彼女はやめてくれない。むしろ、不安そうな表情で追い縋り、自身の価値を示すように強引にお世話をしようとしてくる。

「レイ。私ね……」

 途中、マシロさんは何かを打ち明けようとしていた。指先で首の傷痕を気にしていたから、きっと奴隷の身分に関することだろうと思う。

 なればこそ、彼女に他人の世話をさせる訳にはいかなかった。

「やっぱり自分でやります。マシロさんは先に基地に戻って、部屋で休んでてください」

 僕は突き放すように語調を強めて言う。

 しかし、マシロさんはしみじみと胸元を押さえながら小さく微笑むばかりだった。

「レイ、耳赤い。ほっぺも真っ赤」

「誰のせいだと思ってるんですか」

「なら、私が冷ましてあげないといけないね。そうしたら、私もレイも気持ちよくなれる。だから、同じになるまで、分け合いっこ」

 マシロさんは悪戯に僕の首筋に触れてくる。

 彼女の指先は氷のように冷たかった。驚いて、跳ねるように飛び退く。

「もう、揶揄わないでください!」

「私は本気」

「本気にしても相手選ばないと!マシロさんは女の子なんですから」

「レイは甲斐性なしね」

 マシロさんはジト目で不貞腐れる。

 しかし、奴隷生活で性根が腐っているとは言え、貞操観念まで歪んでいたのは流石に想定外だ。

(矯正には時間がかかりそうだなぁ)

 世の中は有為転変。人の心を変えること、それ自体は何も難しいことではない。

 それでも、元の形に戻すことは非常に難しい。それが綺麗に完成されたものであるなら、尚更のことだ。

 しかし、何も時間がかかると言うのは、悪いことばかりではない。

(もう少しだけ、マシロさんと一緒にいてもいいよね?)

 そんな願いは、声にすれば叶う。スキルで唱えれば、確実な現実になる。

 けれど、それは人を傷つけるいかさまだからいけない。

 僕は手頃な石に腰掛けて青い空を仰ぐ。返事はない。当然だ。けれど、天には暖かな陽光が燦々と輝いていた。なれば、濡れた髪が乾き、凍えた体に熱が戻る。それまでは、彼女の隣を望んでも許されるように思う。

「太陽って、こんなにあったかいんですね」

 そう言う僕に、マシロさんは何も言わずに肩を寄せてくる。

 だから、僕は続ける。

「この後は、一緒に街に行きましょう。きっと楽しいはずです」

 些細な理由をつけて、彼女と同じ時間を望む。それを僕は何度でも繰り返すだろう。

「次は一緒に水浴びがしたい」

「夏になるまでは我慢ですね」

「早く夏が来ないかな」

「お金を貯めて水着が買えるようになる頃には、もう暑いくらいですよ」

「そうしたら、今度は水遊びね」

「ですね」

「待ち遠しい」

 僕の気の長い誘いに、マシロさんは願いを重ねてくれた。それが嬉しくて、ついつい欲張ってしまいそうになる。

 けれど、すでに濡れた体は乾き、髪も春の風に軽やかになびいている。

 それでも、僕たちは小鳥たちの遊ぶ声と小川のせせらぎに理由をつけて、煌めく水面を静かに眺め続けていた。夢に浮かされた体には、木々の隙間を抜けてくるそよ風が、思わせぶりな緑風であるかのように感じられた。


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