モノローグ 「もう星に願いを託すのはやめにしました」
「もう寝てる」
壁に背中を預けて眠る彼は、私が近づいても起きる様子はない。
(警戒心のない人)
隣に屈み込んで無防備な表情を眺める。すると、不意に彼はバランスを崩して倒れそうになる。それを見た私は、咄嗟に体で受け止めてしまった。
どうしようと頭を悩ませていると、突然彼が可愛らしいくしゃみをする。私はびっくりしてぴんと背筋が伸びた。
しばらくの間、彼を見つめたまま固まる。
「寒いなら自分で布団を使えばいいのに」
寝床を私に譲ったのは彼の意志だった。だから、その場に放ってしてもいいようにも思う。
けれど、こんな浅慮で頼りない人でも、一夜の宿をくれた男の子だ。私のせいで風邪を引いてほしくはなくて、仕方なく布団まで引き摺っていく。
しかし、私も布団の温もりを知ったから、外で眠るのは嫌だった。
「私からなんてはじめて」
彼を布団の端に寝かせてから、私も隅っこで毛布を被る。
「あったかい」
ふわふわな毛布が肌を撫でるたびに、くすぐったくて笑ってしまう。その感触が新鮮で、もっと、たくさんと胸元に手繰り寄せた。
しかし、そのせいで彼にかけてあげた毛布を奪ってしまった。
「あっ……。待って……!」
彼は温もりを求めるように寝返りを打つと、ぎゅっと私に抱きついてくる。
反射的に首筋に噛みついた。けれど、彼は全然気づいてくれない。
「どうしよう……」
そう言ってはみるけれど……別に困ることはなかった。彼の腕は他の男たちとは違い非力で、抜け出すのはとても簡単だった。
それなのに、私は彼の顔を見つめたままじっと動かずにいる。
(……どうして逃げないの?)
初めての優しい手に戸惑ったんだと思う。それでも、やはり大人しくしている自分の思考はとんと理解できない。
体がじんと疼くように熱かった。そわそわとして落ち着かず、感情の行き場を探すように太腿を擦り合わせる。
今も私の背中には引き止めるように腕が回されている。ひどく力のない手だ。押せば退けられる程度の軽い腕だった。それなのに、どうしようもなく逃れ難く感じてしまうのはなぜなのだろう。
“君だけを待つよ。それ以外は、何もいらない”
不意に彼がくれた言葉を思い出す。
今更ながらに想いが意味を持って沁みてきた。
すると、おかしい。ずっと枯れていたはずの涙がとめどなく溢れてくる。
「……いじわる」
私は涙の止め方がわからず、彼を責めるように身を寄せる。
彼は私の閉じた膝をこじ開けると、絡み巻き込むように抱いてくれた。汚れた服も髪も気にせずに、酷い体臭も構わずに、丸ごと全部を受け入れてくれた。
私は勇気を持って自ら彼に触れてみた。彼はよく眠っている。それでも、心臓はとくんと高く跳ねていた。私と同じだ。とてもドキドキとしている。それがわかると、無性に嬉しい気持ちになる。
「これじゃあ、私がえっちな子みたい……」
そう言葉にすると、カーッと顔が熱くなる。自身の状態を客観的に思うと堪らなくなる。
でも、もっと強く。もっと近くに行きたい。そう欲張る心があることに気がつく。
(これが特別なの……?)
感情の整理がつかずに混乱する。
すると、不意に眩しい光が差し込んできた。暗闇の中で私を導いてくれた月光だ。空では叢雲が晴れて、綺麗な満月が浮かぶところだった。
奴隷の私に寄り添ってくれるのは、いつだって物言わぬ月と星だけだった。心無い星々は、心ある人たちと違って優しかった。いつも変わることなく静かに寄り添ってくれる味方だった。
でも、あれは違う。あれは夢ではあっても、夢ではない。悪い夢だったんだって、この人にわからされてしまった。
「「「「「「「レイ」」」」」」」
芽生えた想いに応えを求めるように彼の名を囁く。
(私は……“私たち”は、ここにいたい)
白い髪が虹色に揺らぐ。それは意思を持ち、思うままに蠢く。それを私は、彼との間に空いた隙間を惜しんで無数に絡みつけて繭とした。
彼と呼吸が合う度に胸が強く締め付けられて苦しい。その痛みが切なくも、どうしようもなく愛おしくて、狂おしかった。
だから、もういい。眩しいだけの月光はいらない。
私は幸せのありかを決めた。明日の居場所を選んだ。彼と歩む未来に決めた。
(……本当にいいの?)
心の一つが不安を呟く。
わかってる。彼は見るからに路傍の石だ。夜の月にすら遠く及ばない。街に行けばもっといい人に出逢える。もっと大きな幸せが待っている。それは間違いない。いつか後悔する日がくる。そんな予感がした。
それでも、私はそれを拾い上げて、手の内に隠して特別にした。他の誰にも見つからないように、横から取られてしまわないように、私だけのものにしようと印を重ねる。
「「「「「「「好きよ、レイ」」」」」」」
そうして想いを口にするだけで、怖いほどに心が満たされていく。恍惚と漏らす吐息ですら、とろりと形のある熱を孕んでいた。
だから、もう好意を口にすることはやめた。
彼は優しいから、私が願えば何でも叶えてくれるだろう。それこそ、死の際まで添い遂げてくれる。そんな気がする。
でも、そんなありふれた関係は嫌だった。お情けで横に置いてもらうだけの女でいるなんて、とても我慢できない。
――何に置いても一番でいたい!
――この世の全てを捨てて追いかけてきて。
――いじめても健気に後ろをついてきてほしい。
――面白おかしく笑い合いたい。
――おかしくなるくらいに激しく求められたい。
――ぐずぐずになるまで甘やかしてあげたい。
(――あなたの光になりたい)
そんな七曜の願いを叶えるには、力を合わせるのが一番なんだろう。
けれど、私が彼の心に惹かれたように、彼にも生身の私を見てほしい。直に触れて、感じて、想ってほしいと、そう願ってしまった。
彼が注いでくれる優しさが他のもの、ましてスキルになんて僅かたりとも取られたくない。私たちが望むものは、スキルでは絶対に掴み取れないものだ。だからこそ、彼の前でだけは真剣に自由になれた。
それでも、自由は怖い。夢の見方なんてわからない。
だから、今夜は特別にしたい。
「しあわせ」
私は彼の温もりに溺れるように眠る。伝わる感覚に呼吸を合わせて、持て余した体温を混ぜて、隔たりのない繋がりにどこまでも深く沈み込んだ。