第十一話 対寓
「なろう、なろう、あすなろう……。明日は、強い雄になろう」
咥えたばかりの干し肉をふやかしながら、譫言のように唱える。
けれど、祝福はうんともすんとも言わない。
「今日は、暑いなぁ……」
木漏れ日を肩で避けながら、肉の旨みに体を揺らす。
青嵐が梢を退けて、夏木立が涼しげに踊っていた。
それにつられるように、何やら騒がしい鳴き声も聞こえてくる。
「元気だね」
思わず、くすりと笑う。
そのまま、流れる雲に絵を描いていると、ふと風が止んだ。
それと同時に、毛糸の塊が足元に落ちてくる。
僕は驚いて、目を見開いた。
すると、次の瞬間、今度は灰猫とカラスが飛び出してくる。
「カー、カー!! 」
「シャー!! 」
二匹はひとつのおもちゃを巡って、取っ組み合いの喧嘩を始める。
僕は高鳴る胸を押し付けて、じっと息を潜めた。
しかし、ふとした拍子に目が合ってしまう。
金縛りにあったように固まっていると、二匹の視線が次第に口元へ落ちていく。
小さな瞳は、新たな獲物を見つけて輝いていた。
「…………ひ、ひる? 」
可愛らしい狩人たちは、警戒しつつも勇敢に迫ってくる。
僕は干し肉を小さく割いて、体を挟んでひとつずつ地面に置いた。
「どうぞ」
両手を後ろに回して、敵意がないことを示す。
しかし、不意を突かれて、自分の分まで持っていかれてしまった。
「少しは遠慮してよ」
小さくも逞しい姿に苦笑していると、今度は干し肉の取り合いが始まってしまう。
「もう一個あるから、喧嘩しないで」
鞄の中に手を入れると、二匹は瞬時に飛び退いた。
その隙に、干し肉を奥歯で噛んで、真ん中で分ける。
「おいで」
両手の肉に、二匹はそれぞれ食らいつく。
「いてっ……」
僕が声を上げると、どちらもぴたりと食事をやめてしまう。
「食べないの? 」
尋ねると、おもむろに口をつける。
けれど、その勢いは優しく、白い手を慰めるようだった。
右にいる灰猫さんは、二本の尻尾を幸せそうに振っている。
左のカラスさんは、鮮やかな水色の瞳が印象的だった。
「さて、どうしたものか……」
ご馳走を終えた二匹は、鞄に頭を突っ込んでいた。
「もうないよ」
僕は薬を取り上げて、瓶から一錠を手に取り、噛み砕いた。
そのまま不貞寝しようとすると、ふと二匹の怪我が目についた。
軽い体で手頃な枝を見繕い、開けた地面に文字を彫る。
「よし、できた」
仕上げに円形の結界を描くと、自然と刻印が光り始めた。
「君たち、運がいいね」
真下に太い地脈が通っているのだろう。僕が魔力を流さずとも、魔法は十全に動いた。
「おいでー、って言っても来るわけないよねぇ……」
そう言いながら、ニルとの出逢いを思い出して、思わず笑顔が浮かぶ。
枝を放って、肩の力を抜くと、途端に体がぐらついた。
同時に、激しい眠気にも襲われる。
僕は鈍る思考を、そっと地面に預けた。
次に見た景色は、夕暮れに落ちる嵌合体の影だった。
「変な時間に起きちゃったなぁ……」
「ナー」
「カー」
野宿の支度がまだなのに、これっぽっちも体が動かない。心なしか、空気も重たく感じられる。
「君たち、お家に帰らなくていいの? 」
背中に乗って遊ぶ二匹は、すっかり元気になっていた。
「……暗くなる前に、巣に戻りなよ」
睡魔に引き摺り込まれるように、瞼が帷と落ちる。
「…………あれ、もう夜? 」
気付くと、茜色の彩雲は、その姿を星へと変えていた。
「カー! カー! 」
くるくると回る月影が、薄闇を揶揄っている。
白んだ闇は、にべもない。
けれど、時折気まぐれに、本影の縁を駆けるように跳ね上がった。
「いいな……」
付かず離れずの距離に、目が離せない。
残照が落ちる。
しかし、僕の影は、割れたままだった。
「—— Φῶς, σιωπᾷς」
——光よ、なぜ沈黙する。
その問いに、答えるものはいない。
代わりに、手のひらに小さな光が熾る。
けれど、灯滅する温もりは、まだその色さえ掴めない。
「さて、寝る準備、寝る準備……! 」
「……にゃーお」
「うるさーい。寝るったら寝るの」
二匹の邪魔者の相手をしながら、適当に寝床をつくる。
「こんなものかな」
体ひとつ分の天幕を張り、その下に寝床を広げた。
鞄を持って横になり、肩まで毛布をかける。
腕に抱いた皮袋からは、ほのかに土の匂いがした。
けれど、その肌触りは固くて、ひんやりとしていて、じっと動かない。
「嫌われただろうな……」
夜になると、嫌でも心に意識が向いた。
「……僕は悪くない」
レストの街を出て、ここに来るまで、ひたすら走り続けてきたように思う。
あの頃の僕には、何もなかった。
けれど、マシロさんと出逢って、世界が一変した。その昏い瞳の奥に、探し求めていた夢を見た。
すぐに彼女と旅に出ることになって、今度は魔人の狼と友達になった。
ニルが奴隷商人に捕まった時には、ラムネさんが力を貸してくれた。
それから、アヅキさんたちを仲間に入れて、銀さんがやってきて、山に遊びに行く約束もした。
「どうして……」
まだ小さく幼かった頃、誰にともなく願った。
「どうして…………」
夜空には、星が溢れている。
けれど、幾光年の時を経て、それでも交わらない。
「……どうして、今なんだ」
どれでもよかった。たったひとつを幸せにできれば、それで夜を越えられた。その瞬間まで、光であれればよかった。
“それは、レイの夢じゃない”
天使が、そっと瞼を撫でるように囁いた。
“欲しいものを諦めないで”
悪魔が喉元に噛みつき、悲しみに濡れた声で、ただ選択を迫る。
黒く潰れた手が、甘い香りを放っていた。
けれど、裏を返せば、痛みを包み覆う白がある。
肉と血は混じり合い、熟れた香りが鼻を狂わせた。
「皮肉だな……」
天の光が、麦の匂いをまとい、恵みを標と落とす。
しかし、残香を取り返すは、影なき獣の道だ。
僕はただ、流れる星であれたら、それでよかった。
それが、どうして光と溶けて、未だに夢を見ているのだろう。
「”——おやすみ“」
願いは、届かなかった。
「”——一緒に、夢を見よう”」
祝福は、二度と頼れない。
光は胸の内に、夢は続き、今も静かに脈打っている。
「……んなー」
「うぐっ……」
思考を踏まれて、呻きと漏れた。
「くあ…………ふっ」
灰猫さんは悪びれもせずに、大層立派なあくびを吐く。
「ん」
一対の燐光は、僕の顔色を一瞥すると、静かに毛布の隙間を占領した。
それでいて、こちらが温もりを求めると、冷たい夜風に撫でられる。
「……けち」
「…………カー」
にわかに起きた半点が、船を漕ぎながら、気怠げに喉を鳴らす。
「…………はいる? 」
枕元の瞳は、返事もなく夜に溶けた。
まもなく、二匹は寝息を立て始める。
(もう干し肉はないんだけどな……)
夢を食べているような寝顔に苦笑する。
思えば、ニルとの出逢いも、今日のように突然だった。
あの頃の彼女は、まだ野生の狼で、餌でも差し出さなければ、言葉ひとつ返してもらえなかった。
帰り際に燻製肉が根こそぎ持って行かれたときは、どうしようかと思ったものだ。
それでも、いつしか彼女は食事を分け合うようになり、旅の仲間になって、今は僕の隣で笑っている。
(……わからない)
ニルは、僕に何を求めているのだろう。
彼女は綺麗で、可愛くて、親しみのある人の姿をしている。
けれど、その本性は、野に生きる狼だ。興味がないものには全く反応を示さないし、嫌いなものには剥き出しの敵意を向ける。
ならば、先焦げた耳が求めるように音を追い、表情よりも先に尻尾が花を描くのは、どうしてだろう。
“レイ! ”
ニルは、理由もなく僕を呼ぶ。
僕が応えると、君は太陽のように笑った。
けれど、その光りは世界を照らしながらも、いつもひとりを見つめて離さない。
ずっと、ずっと。わかっていた。
彼女はいつも、ただ純粋で、曲がり方を知らず、ひたすらに真っ直ぐに今を駆けて、明日を生きていた。
だからこそ、信じるのが怖かった。時の運で絡んだ絆が、ふとした拍子に解けるのではと思うと、足がすくんで動けなかった。
僕はずっと、森の隅でうずくまっていた。天の光を嘆きながら、隠れるように息をしていた。本当の夢を求めて、無能を祈るばかりだった。
そこへ偶然、腹を空かせた獣が飛び出してきた。
彼女は、僕に牙を剥いた。
その牙は、僕に届いた。そのはずだった。
今ものうのうと生きているのは、閉じた祈りのうちに、たまたま飢えを誤魔化す餌があっただけ。
それでも、狼もまた、自身の恐れよりも、僕の手のひらの傷を舐めることを選んだ。
お互いに、求めるものがあった。利害が一致した。
はじまりは、確かにそれだけだった。
けれど、もしも。もしもだ。僕が抱える絶望さえも、彼女と同じだとしたら。狼はその名前を知らず、理由もつけられず、本能のままに、全てに真正面からぶつからないといけないのだとしたら。ただ答えを探して、恐怖と不安を振り切るように、がむしゃらに走っているのだとしたら。その先で、僕と出会ったのだとしたら。
彼女は今も、命を懸けて生きている。
僕は今も、命を溢しながら死んでいる。
彼女は僕に、沈まない太陽をくれた。
けれど、僕は何も言わずに、ただ逃げた。
「ごめん……」
ニルの必死な姿に、自身の弱さが映る。
ずっと逃げてきた影は、足元でひとつに重なった。
勘違いだ。
自惚れだ。
そんな言い訳は、もう声にはできない。
“好き”
ニルの声を、鼓膜が諳んじる。
夜の静寂が、やけに痛い。
森の空気に、彼女の面影を探した。
すると、闇が遥かを越える糸となる。
「……もう、ひとりじゃない」
月に隠れて、小指を呪いごと抱きしめる。
彼女は、ずっと心の中にいた。
血と、土と、陽だまりの混ざった匂い。
その血は、今日を生きる糧となった。
その土は、明日へ踏み出す勇気になった。
金色の髪と小麦の肌は、いつも笑顔で手を引いてくれる。
その黄金に触れると、温かくて、切なくて、喉がなった。
これは、自分の夢だ。そう信じられる。
心は、いつも凪いでいた。
心が、いつも泣いていた。
君は俯く僕を見つけてくれた。
だから、もう一度走るなら、君の隣がいい。
「ニルの明日が、光に食われる前に、僕が……」
光に隠れて、闇に呑まれないように、そっと夜に口を付ける。
想いは、陰への祈りではなく、さくらと燃ゆる星に生った。
向かう葵に、限りの無い夢を見る。
僕は、君と生き果てよう。
君も、僕と死に果てよう。
なろう、なろう、あすなろう。
あすは、きみと疾る風になろう。
草の波蛇を喰らい、いつか頬を撫でる黎となろう。
なろう、なろう、あすなろう。
あすは、きみと懸ける星になろう。
そして、凪の嵐はどこ吹く風と、もう、その名もわからない。




