幕裏 天よりの楔
レイの姿が見えなくなると、ニルは膝から崩れ落ちた。
「……レイ。レイ……どこ? ……いや。お願い、ひとりにしないで……! 」
先程の激昂が嘘のように、ニルは涙を流しながら譫言のように男の名前を呼び続ける。
彼の音を探して、耳が切なげに動いていた。
それでいて、尻尾は芯が抜けてしまったかのように垂れて微動だにしない。
彼を呼ぶ声は、次第に絶叫へと変わる。まるで幼子が親を求めて吠えるように、がむしゃらに感情を吐き出していた。
マシロに抱かれると、彼女は驚いたように全身の毛を逆立たせる。
一瞬のうちに、瞳に光が戻る。尻尾が喜びに音を立てる。
しかし、彼でないことを”頭”で理解すると、再び魂が抜け落ちたように生気を失った。
「レイが帰ってきたら、一緒に謝ろう。大丈夫。きっとわかってくれる」
マシロは優しく声をかけるが、ニルの心を慰めるには至らなかった。
(……もっと早くに、気付くべきだった)
この腐った世界にあって、曇りひとつ見つからない、常に前だけを見つめる狼眼を、俺はどこか貴石のように思っていた。
しかし、玉石は自然と光を放たない。
絶望に歪み震盪する涙石こそが、本来の彼女の姿なのだろう。
「……うぅ……ぁあ゛……ひっぐ…………」
ニルは心の臓に直接痛みを負うように、息絶え絶えに背中を丸める。
ウズラが慌てて強心薬を出すが、彼女は首を横に振るばかりだった。
孤独に怯える狼は、ただ祈るように小指に縋り付いている。
「あんな体で、もし誰かに襲われたら……。……レイは、死んだりしないよね。…………大丈夫、だよね? 」
ニルは、不安に頭を掻きむしる。
「助けに行かないと! 」
レイの後を追おうと、ニルは立ち上がる。
しかし、俺が彼女に与えた傷は軽くはない。今の弱りきった心では、数歩進むのが限界だった。
けれど、彼女は惨めに地を這ってでも追いかけようとする。
「……そこまで相手を想っていて、どうして止まれなかった」
その理由に、当てがない訳ではない。
むしろ、嫌と言うほど思い知らされる。
「魔人は、月の満ち欠けに情動が扇動される。……だが、お前は意地でも耐えなければならなかった。レイがお前を想って、そうしていたように」
「…………っ」
ニルは歯を食いしばって押し黙る。
月の放つ魔力は、魔人を幸福へと導く祝福の光だ。
故に、従っているうちは、大いに力を貸してくれる。
けれど、この狼は数いる同胞ではなく、たったひとりの人間の雄を番にと望んでしまった。
その瞬間から、月は逃れ得ぬ呪いへと変貌する。
理性は本能に塗り潰され、心の機微が単純な欲と挿げ替えられていく恐怖は、筆舌に尽くし難い。
或いは、自由に目眩を起こすのも、天が下した沙汰なのかもしれない。
「……運命とは、よく言ったものだ」
苦難によりて願いは生まれ、救いを求めて祈りとなり、差し伸べられた想いに自身の境遇を重ねて、それは静かに芽生える。
生まれたての感情に、特別な名前などない。それを、人は長い時間をかけて育み、自ら望む形へと成長させていく。
ニルの心の種は、未だ萌芽したばかりだ。世話の仕方が分からずに枯死しかけているが、いつかあっと驚く大輪の花を咲かせるかも知れない。そう思わせるだけの何かが、確かにそこには埋まっている。
そんな儚くも尊い想いを、翼人たちは天つ罪と刈り取るばかりか、自らの意思で蹂躙するように扇動し、祝福を騙る。
「……遣る瀬無いな」
俺は光に目を瞑り、渦螺と子を想う。
けれど、例え言葉だけでも、レイの真似は出来そうにない。
そもそも、”太陽を喰い、月を砕く”など。祝福を”悪夢”と断じ、茨の道に生きようなどと。一体、どうして願えるだろう。
しかし、無能の少女もまた、道を外れて迷い怯える狼に寄り添い、どこか誇らし気に、愛おしいものを見るような目つきで夢を手繰り始める。
「ねぇ、ニル。ニルは、レイとどうなりたい? 」
「……わからない。なんにも、わからないんだ。……でも、レイを誰かに取られるのだけは、絶対に嫌なの」
「未来を見てみよう。楽しいことを思い浮かべれば、きっと頑張れる。大丈夫よ。ニルは強い子だって、私は知ってるもの」
「……それはダメ」
「どうして? 」
「レイとね、約束したの。この目の力は使わないって……」
「レイは、何度も約束を破った。ニルが少しくらい欲張ったって、誰も責めたりしない」
「……違う、そうじゃない。……わたしは、あいつをひとりぼっちにさせたいんじゃない」
ニルは悪夢に呑まれかけていた想いに触れると、二度と見失うことのないように強く胸の奥に押し付ける。
「あいつの隣で、生きていたい。頑張ってたら、たくさん撫でて褒めてあげたい。辛くて泣きたい時には、胸を貸してあげたい。二度と嘘の笑顔をしなくていいくらい、欲しいものをほしいってねだれるような居場所になりたい」
「レイは、優しいから……困っている人に出逢ったら、助けようとすると思う。それが彼の願いで、幸せよ。その想いは、生きている限り、誰にも止められない。……それでもいいの? 」
「……わたしは、人間じゃない。手を繋ごうとするだけで、あいつを傷つけちゃう……。だけど、レイが真っ暗な道で迷って、それでも声も上げられない時、わたしだけはあいつを見つけてあげられる。レイをひとりにさせたりしない。どんな理由があっても、捨てたりしない。あいつの生きる理由になりたい」
「素敵な夢ね」
「あいつの柔らかい声が好きだ。歩いてる時に無意識に体をぶつけて甘えてこられると、可愛くて抱きしめたくなる。弱いくせに、意地っ張りで頑固なのもほっとけない。でも、わたしが間違ったら真剣に怒ってくれるし、必死に守ろうとしてくれる。そう言う時の、真剣な目が好きだ。誘っても手を出してこないのはムカつく。……でも、あいつに耳と尻尾がなくたって、わたしを本当はどうしたいのかくらい、わかっちゃうんだ。そんな、もしもを期待させてくれる、いじわるで、優しいレイが大好きだ」
ニルは、止めどなく溢れる想いに酔いしれる。
夏の陽光が、燦々と降り注いでいた。
青葉の隙間から、絶えず小鳥の囀りが響いてくる。
徐に耳を欹てれば、獣の息遣いが風に乗って聞こえてきた。
微かに漂ってくる甘酸っぱい香りに、意識が誘われる。
地上は、遍く光で満たされている。そのひとつひとつが、唯一の色彩を持ち、無二の祝福と宿り、生命を約束された未来へと導いてくれる。
しかし、この狼は、足元に落ちる影に疑問を抱いてしまった。
かがみ込めば、光に紛れてぽつんと埋もれる闇があった。周りの輝石には目もくれず、どこか引かれ合うように拾い上げたそれは、見た目通り暗くて冷たい、つまらない石だった。
けれど、不思議と愛おしさを覚えたように、そっと懐に忍ばせる。
そして、時折膝を折り、光を背にゆったりと尻尾を揺らしながら、ヒビの入った原石の内に夢をみる。
「朝日で目が覚めて、隣にはレイがいて。起きたら一緒に狩りをして、お腹いっぱいになって動けなくなったら、お昼寝するんだ。たくさん遊んで、夜になったら巣に戻って、寝床の中であいつの夢を、くだらない話を、ただそばで聴きながら、眠りたい」
ニルは涙の滲ませながら、震える体を抱いて許しを乞う。
願いを言葉にしようとする度に声を詰まらせ、それでも遥かな夢に届かんとして手を伸ばす姿を見ていると、胸の内に痛みが刺した。
「レイには伝えないの? 」
「聞いてくれないよ……。狼の言うことだって、信じてもらえない。だから、たくさん考えて、いっぱい頑張ったに……おかしいな。レイが、いなくなっちゃった」
ニルは、泣きながら嗤っていた。
「見てたよ」
泣き噦る彼女に、マシロは優しく微笑みかける。
「ニルは、頑張ってた。大丈夫、何も間違ってない。今日のは、少し張り切り過ぎて、レイが驚いちゃっただけ」
マシロはニルの両手を握ると、静かに悪夢が涸れるのを待った。
「……もう、無理なのかな? 」
「どうしてそう思うの? 」
「だって、ひどいことしたから……。すごく怒ってたし、嫌われちゃったかも……」
「そんなことない。ニルの笑顔を見ている時、レイはとっても幸せそうな顔をしてる。だから、ニルが夢に向かって走り続けていれば、どこまでも追いかけてきてくれるって、私は思う」
「……逃げてたのは、わたしの方だったんだ」
「二人の苦しい時が、たまたま重なっただけよ。だから、すぐに仲直りもできる」
「強くなろうって、決めたのに……。不安で、落ち着かなくて……この気持ちが、本当に「好き」なのか怖くなって、確かめたいって気持ちばっかりで、あいつのこと、全然考えてあげられなかった……」
ニルは火照った体を押し付けて、溢れる唾液を隠そうとする。
しかし、上がった口角は戻ることを知らず、背中の尻尾も大きく膨らんで、腰を連れて捩れるように揺れていた。
「……わたしを選んでくれるか、わからない。番になれたって、すぐに飽きられるかも知れない……。でも、だからって、なにもやらないうちに終わっちゃうのは、絶対に嫌だ。……だから、マシロ。わたし、走り続けるよ。ほしい運命も、永遠もないなら、たくさん時間を積み重ねて、あいつの心をわたしでいっぱいにしてやる」
「わたしも、ニルの夢が叶うようにって、祈ってる」
「……そう言うの、いらない」
「え……」
「お前が一番近くで、わたしを応援して」
「……それは、命令? 」
「わたしに聞くな。自分の心に聞けばわかるだろ」
「私の、心…………」
マシロは、困ったように俯く。
そんな彼女を、ニルは抱きしめた。
「みんな、好きなように生きてるんだ。お前も立ち止まったままだと、置いてかれちゃうぞ」
「ニルは、それでいいの? 」
「いいとか、悪いとかの話じゃない。譲れないから、そうしないと、生きていけない。それだけだ」
「私も、二人には笑ってて欲しい」
「二人にも、だろ」
「強引ね」
「大丈夫。お前が歩けなくなった時は、わたしが引っ張ってやる」
「……私は平気よ」
「そうやって遠慮してても、いいことないぞ? 」
「もう十分、もらったわ」
「……ふんっ。あとで泣いても知らないからな」
二人は揃って顔を上げると、レイを探しに森へ入ろうとする。
「待て……ッ! 」
咄嗟に、体が動いていた、
しかし、どうして二の句が継げない。
(……止めるべきだ)
彼女たちは、人の道を踏み外そうとしている。
癒えない渇きに苦しむニルの姿が、目に見えた。背中を押したマシロが自責に潰れる音が、容易に想像できる。レイが魔人の欲求を受け止められる器だとも思えない。仮に万事上手く行ったとて、明日をも知れない関係だ。とても容認できる未来ではなかった。
けれど、胸に刺さったままの棘が、鼓動と共に悔恨を呼び起こす。
俺は、止められなかった。
「お前は、レイを傷つけた。なら、逆のことをして返せ」
俺は、渦螺と隠していたレイの病態を明かす。
「レイが、死ぬ…………? 」
渦螺の言葉を聞いたニルは、再び崩れ落ちた。
立ち直ったばかりの心には、酷な内容だとは思った。
けれど、今を逃せば、彼の魂は永久に失われてしまう。
「……わたしのせい? 」
「違う。……が、全くの無関係ではない」
「レイは助かるの……? 」
「あいつの気持ち次第だ」
「……どういう意味? 」
「祝福は、魂と同化している。その魂も、また肉体と繋がっている。祝福の拒絶とは、即ち生の拒絶だ。祝福を否定すれば、その力は一層の輝きを放ち、あらゆる手を尽くして宿主を生かそうとする。だが、それは諸刃の剣だ。過ぎれば、膨大な力に耐え切れなくなり、魂は自壊する」
俺は、慈悲もなく続ける。
「俺たちは、レイのスキルの詳細を知らない。だが、生物全体として見ても、その内容が攻撃的な傾向にあるのは明らかだ。天使が何かを企んでいるからとも考えられるが……いずれにせよ、まつろわぬ者から死ぬ。特に祝福が強い者は、気付いた頃には手遅れな場合が多い。渦螺が言うに、絶えず魂の軋む音が聴こえるそうだ。今は薄氷を渡っているような状態だろう」
「そんな……」
「レイ……」
「お前たちも他人事ではない。先の言葉を聞いて確信した。二人とも、あの人間に付き合って、スキルを全く使っていないだろう」
俺が確認をすると、彼女らは揃って目を逸らした。
しかし、その姿は清々しいまでに堂々としていて、後悔など微塵もないように、強く覚悟を決めている。
そんな、青臭くもひとつ芯の通った生き方を見せつけられると、また胸が締め付けられた。
けれど、同時に、無性に笑いも込み上げてくる。
「お前たちが自分で決めた生き方だろう。恥じる必要はないし、ここで咎めるつもりもない。だが、それで死んでしまっては本末転倒だ。改めて、三人で祝福との付き合い方を考えることだな」
「アヅキ、今、三人って……! 」
「協力すると言ったのは、俺からだ。約束を反故にはしないさ」
「ありがとう!! 大好き!! 」
「やめろ、節操なく抱きつくな! 」
「ありがとう、アヅキ」
「マシロも、言ってないで止めてくれ」
「次は、私よ」
「うん! 」
「……先が思いやられるな」
俺がマシロに撫で捏ねられている間、横から悩むような唸り声が聞こえてくる。
「う〜ん、生きたいって気持ち……」
「ニル? 」
「……そうだ、誕生日! みんなに祝ってもらった時、すっごく嬉しかった!! 今でも、あの夜のこと、はっきり覚えてる。だから、わたしたちも、レイに生まれてきてくれてありがとうって、生きててくれてありがとうって伝えたら、生きたいって思ってくれるよ! 」
「うん。レイが帰ってきたら、誕生日を聞こう」
「贈り物も探さないとね! 」
ニルの底抜けな笑顔を前に、首を横に振る者はいなかった。
「わたし、狩りに行ってくる! 」
「おい、レイはどうするんだ」
「そのうち帰ってくるだろ」
「その根拠のない自信は、どこから湧いてくる」
「あいつ弱いし、ニートだから」
「なら、なおさら急ぐべきだ」
俺は、翼を広げて煽る。
しかし、ニルは静かに笑った。
「あいつは、ひとりだ。帰る場所は、ここしかない。だから、わたしは信じて待つよ。巣を守りながら、ここで待つんだ」
不安を押し殺すように、ニルは微笑む。
その表情は、恋する娘と言うには、あまりに大人びていた。
「じゃあ、行ってくるね」
ニルは逸る気持ちに従って、獲物を探しに向かおうとする。
しかし、行手を遮るものがあり、早々に足を止めた。
「どうしたんだ、ウズラ。お前も狩りを手伝ってくれるのか? 」
「…………」
「 何か言ってくれないと、わからないぞ」
ニルは、渦螺に近づく。
「その咥えてる瓶は、なんだ? もしかして、わたしにくれるのか? 」
渦螺の嘴には、見覚えのある薬瓶が咥えられていた。
「…………どう言うつもりだ」
俺は加減をせず、両足で渦螺を取り押さえる。
「アヅキ、何してるんだ!? 」
「狩りに行くんだろう。邪魔をして悪かった」
「う、うん……。でも、喧嘩はほどほどにな? 」
ニルは首を傾げながらも、森の奥に入っていった。
「…………」
渦螺はニルの背が見えなくなると、俺に無邪気な瞳を向けてくる。
「…………二度と、その薬を出すな」
俺は、縛るように告げる。
しかし、眼窩の渦螺は、優しく笑うだけだった。
Elpis




