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第九話 天命の拒絶

「どうしてこんな簡単なこともできないんだ! 」

 僕はニルに、今日何度目かもわからない罵倒を浴びせられる。

「ただ走るだけなのに、何がそんなに難しいんだ! 」

「人間は四つん這いで動けるようにできてないんだよ! 」

「根性が足りないだけだろ! 」

「根性で岩を砕ける方がおかしいんだよ! 」

 僕は、悲鳴を上げるように訴える。

 ニルが強くなるためにと教えてくれたのは、魔人の戦い方だった。

 剣や魔法、銃器のような道具に頼ることなく、自分の肉体ひとつで戦う技術は、人間の世界にも確かに存在している。

 しかし、彼女が僕に求めたのは、人間を辞めて狼に成ることだった。

 特訓の間は、常に獣のように低い姿勢を取るように矯正された。走るにも四肢で大地を蹴ることを強いられた。不意に猪と対峙した時でさえ、拳と脚で意識を刈り取り、爪と牙で肉を裂いて斃すようにと難題を吹っ掛けられた。

 改めて、自分の体を顧みる。

 手のひらは表皮が擦り剥けて、血と泥がへばりついていた。一時と痙攣がとまらず、物が満足に掴めない。無理な姿勢が祟り、腰が壊れそうだ。足先の感覚が無くなったのは、いつのことだっただろう。遠吠えの練習をしてから、声が枯れて戻らない。酷使した顎が軋んで、食事もままならない。耐え難い激痛に襲われて、久しく眠れていなかった。

(どうして、こんな目に合わなくちゃいけないんだ……)

 ふっと、糸が切れるように涙が溢れた。

 必死に弱音を隠した。笑顔を繕った。そうしなければ、またどこかの骨を折られる。

「ニル。何を焦っている」

 アヅキさんが、見かねて庇ってくれる。

 けれど、ニルは悪びれもしない。

「アヅキは黙ってて」

「稽古をつけ始めて幾らも経っていないが、レイはよくやっている。この短期間で、基礎体力が人並みに身についただけでも、十分な成果だろう」

「それじゃ間に合わないの! 」

 ニルは、苛ついたように叫ぶ。

「レイが強くなるのを待ってたら、わたし、おばあちゃんになっちゃう! そうしたら、赤ちゃん産めない。それだけは嫌だ! 」

「それは、お前の都合だ。子供が欲しいだけなら、他のオスに頼め」

「うるさい! お前にわたしの何がわかる!! 」

「俺にはお前が、レイで遊んでいるようにしか見えない」

 アヅキさんは、血肉で汚れた岩を一瞥して顔を歪める。

「一生涯を武術に費やした達人でさえ、届くか届かないかの境地。お前がこいつに求めているのは、そう言うものだ」

「だから、どうした」

「人間の体は、魔人と比べて脆い。その中でも、レイは殊更貧弱だ。争いを好まない性格も災いして、修練の効率も芳しくない。やり方を変えなければ、潰れるぞ」

「ウズラの薬があれば、すぐに治るだろ」

「治癒魔法が効かないから、止むを得ず薬に頼っているだけだ。副作用も、軽くない。あの回復速度が普通だと思わないでくれ」

「……わたしは悪くない。全部、こいつが弱いのが悪いんだ」

「苛立ちを他人にぶつけることを、指導とは言わない。ただの八つ当たりだ」

「こいつが望んだことなんだから、別にいいだろ! 」

 ニルの咆哮に、アヅキさんは絶句する。

「……レイのことを想っての行動だろうと、口出しはしないつもりでいたが……今の発言は、流石に目に余る」

 アヅキさんは一瞬のうちに、ニルを戦闘不能に追い込む。

 反撃すら許されなかった彼女は、怒りをぶつけるように切歯していた。

「レイ! 」

 マシロさんが、ウズラさんを抱えて駆け寄ってくる。

「お薬よ。飲んで」

 強張る口をこじ開けられて、薬を捩じ込まれると、数秒と待つことなく全身の痛みが引いていく。

 けれど、所詮はまやかしの安寧だ。

「……もう無理です」

 痛覚が戻る瞬間を思うと、今から気が触れそうだった。

 処置を終えた体は、包帯で覆い尽くされていた。

 全身に染み付いた薬品の匂いのせいで、内臓を掻き回すような吐き気に襲われる。

 今日まで、ウズラさんの薬と、マシロさんのマッサージのおかげで、何とかやってこれた。

 しかし、もう、限界だ。

 アヅキさんが貸してくれた東國刀に、思わず手が伸びる。

 こんな時でさえ、ニルの言いつけを守り、無意識に逆手に握る自分が嫌になった。

「……ほら! レイなら、まだやれる! 」

 ニルは、アヅキさんに笑って見せる。

 しかし、言葉を返す価値もないと言うように、彼は無視を決め込んだ。

「そうだ! わたしと勝負するって言うのはどうだ? レイが勝ったら、明日の特訓はお休みにしてあげる! 」

 ニルは、アヅキさんから受けた痛みを跳ね飛ばして、気合い一つで立ち上がる。

 そんな彼女は、強くて、格好良くて、可愛いのに、僕なんかに好意を抱いてくれている。

 失望されまいと、必死に特訓を続けてきた。

 けれど、今の彼女は、違う。僕のことなど、ただの少しも見ていない。

「刻印でもスキルでも、何でもいい。わたしを倒して見せろ! 」

「…………嫌だ」

 僕は、刀を杖代わりに立ち上がり、横暴な魔人に背を向ける。

「……ニルだけは、わかってくれてると思ってたのに」

 僕は、逃げるように森に入る。

 一瞬、悲鳴に似た嗚咽が聞こえた。

 しかし、背中を叩いたのは、叱責の言葉だった。

「どこに行くつもりだ! まだ特訓は終わってないぞ! 」

「ニル、謝らないと! 」

「うるさい! いいから、レイを連れ戻して! 」

「……ニルのお願いでも、それは聞けない」

「……嫌いだ。嫌いだ、嫌いだ! レイも、マシロも、アヅキも! みんな、全員、大嫌いだ! 」

 ニルの叫び声が、森の中で孤独に響く。

 僕は、恐怖に突き動かされるように逃げ続けた。

 しばらくして、怒りは落ち着いた。

 代わりに、不安と罪悪感が押し寄せてくる。

「ニル……」

 木々の隙間から、狼の泣き噦る声が聞こえてくる。

 そんな彼女が可哀想などと感じてしまう僕は、きっと世界の誰にも治せない病に罹っている。

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