第七話 凍傷
僕は手早く夕食を済ませると、ひとり試作の熱交換器を携えて、川辺で野宿をしている銀さんを訪ねた。
「もういいぞ。着替え終わった」
降る声と共に、肩に手を置かれる。
違和感を覚えながらも振り返ると、銀さんは防護服こそ着ていたものの、前は全開のままでいた。
「具合はどうですか? 温かったり、寒すぎたりしませんか? 」
「問題ない。とても快適だ」
「それならよかったです」
返答に安心して、笑顔が溢れる。
けれど、僕を見下ろす魔人は、何故だか落ち着かない様子でいた。
「……気を遣わなくても良いですよ? 気になる箇所があったら、遠慮しないで言ってください。所詮は素人の作ったものです。完璧にできたとは思ってませんから」
隠そうとしていた弱音が、聞かれてもいない言い訳をつらつらと並べる。
(……格好悪いな)
失敗をするのは、仕方がない。課題を見つけて、改善の努力をすれば良い。それだけのことだ。
けれど、どうしてだろう。年を重ねるごとに、つまらない見栄を張るようになり、自分の首を自分で締めて、羞恥を誤魔化すための作り笑いばかりが得意になっていく。
「ひとつ、聞いてもいいだろうか」
「そんなこと言わず、幾つでも大丈夫ですよ」
僕は平然と、自慢の笑顔で返す。
しかし、銀さんの表情は曇るばかりだった。
「……どうして、君は私を助けてくれる? 」
銀さんは膝を折ると、獣の一部を見せつけるように迫ってくる。
「私と君とは、他人だ。人間だからと言う理由だけで、失礼な態度も取った。それでも、君は私を真剣になって助けてくれようとしてくれている」
「困っている人を助けるのは当たり前のことです」
「君の正直な気持ちを聞かせてほしい」
「……難しいことを言いますね」
漠然とした感情に名前をつけるのは、とても怖いことだ。
けれど、人間と魔人の間にある溝は、言葉なしで埋められるほど容易いものではないのだろう。
僕が河原に腰掛けると、銀さんは自然と隣に座ってくれる。それが、どれだけ幸せなことだったかを語っても、恐らく信じてはもらえない。
だからと言って、出会って間もない相手に心底の願望を浚う道理も、またなかった。
「月が綺麗ですね。もう直に、満月です」
「……珍しいことでもない。人の願いを戯れに叶える羽つきが、世界のあり方を変えてしまったからな」
銀さんは、追及を諦めたように肩を竦めると、帷の落ち切っていない半端な空に向けて愚痴を吐いた。
月は明るい空にあって、凛と輝いている。昔は稀だった満月も、今では特別な景色ではない。
「月は嫌いですか? 」
「歪められた美しさが不憫でならないだけだ」
「天使にとっては、祝福のつもりなんでしょうか」
「それは違う」
「どうして言い切れるんですか? 」
「人間の君には、理解し難いことだ」
銀さんはうんざりと言った様子で、丸い月を睨みつける。
「夜くらいは、暗闇と静寂に沈んで、穏やかに眠りたい」
銀さんは、天に向けて乞い願う。
縋るような声は、木々のさざめきと川のせせらぎに掻き消された。
けれど、悲嘆をすることはない。もはや、誰も天使や祝福に期待などしていない。
だから、これは亡き神への恨み言だ。
「月がなくなったら、嬉しいですか? 」
「そうだな。それこそ、夢のようだ」
銀さんの言葉に、改めて月を観察してみる。
人間の視力では、何一つ不審な箇所は見つからない。綺麗で美しいと言う他ない、完璧な姿で宙に浮かんでいるように思う。
それでも、とても他人事とは思えなかった。
「……狼の娘が心配か? 」
「別にそんなことは……」
「惚れているんだな、彼女に」
「ニルとは、そう言うんじゃないですよ! ただ、仲良くなりたかっただけで……。一緒に旅はしてますが、まだ何もないですから! 本当ですよ、嘘じゃありません! 」
動揺して言い訳を捲し立てるも、言っているうちに恥ずかしくなって、呂律が回らなくなる。
すると、銀さんはくすりと笑った。
「君は可愛いな」
「か、揶揄わないでください! 」
「すまない。褒めているつもりだったのだが、気に障ったのなら謝る。君の男としてのプライドを傷つけるつもりはなかったんだ」
銀さんは、申し訳なさそうに言う。
けれど、その手は子供をあやすように、上から頭を撫でてくるから、何もわかっていない。
人間を嫌悪していた彼女だ。気を許してくれたことは、素直に嬉しく思う。
しかし、警戒心がなくなると、今度は一気に距離を詰めてくるから戸惑った。
「ぎ、銀さん……近いです……」
「すまない。雪以外との会話は久し振りで、少しはしゃいでしまったようだ」
銀さんは、照れたように顔を伏せる。
大きな体躯に反した、おっかなびっくりな仕草が可愛らしくて、心を奪われそうだった。
小指の呪いが、浮気を疑って責めてくる。
誤解を解こうと、彼女を拒んでみせた。
しかし、掴んだ体は驚くほど冷え切っていて、真冬の寒さに凍えるように震えていた。
「銀さん……? 」
肌が焼き付くような鋭い体温が怖くて、気付けば彼女の額に手を伸ばしていた。
二度触れた手は、痺れて感覚がなくなった。そのまま触れ続けていると、体の熱を吸い取られるようだった。
本人に病気の自覚はないようで、僕の行動を不思議そうに見つめている。
かく言う自分も、直接触れるまで気付けなかった。
沸々の湧き上がる熱を伝えるように、銀さんの手を握り込む。
けれど、どれだけ体温を注いでも、体に生気が戻る気配はない。
「……離してもらえないだろうか? 」
銀さんは、汗に濡れた手を恥じるように腕を引くと、その体で小川に涼を求めに行ってしまう。
僕は居ても立っても居られず、立ち上がる。
「ここに座って、待っててください」
返事を聞くより先に、足が動いていた。
急いで巣へ帰り、鞄の中から毛布を一枚ひったくって戻る。
「もう用事は済んだのか? 」
銀さんは大人しく、河原の隅で小さく座って待っていた。
「どうぞ」
「……これを、私にか? 」
「凍えてるように見えたので」
「いや、私は……」
「いいからかけてください」
汗だくの銀さんは、毛布をかけられることをとても嫌がった。
けれど、体が毛布に包まれると、明らかに安堵の表情が浮かぶ。
「わからない……」
銀さんは困惑していた。
彼女の体は、無意識に毛布を掴んで、離そうとしない。
それは、失うことに怯えるようで、耐え難きを耐えるかのようだった。
「今夜は冷えますね」
そう嘯いて、銀氷のように凍てついた手を握る。
「私は暑いんだが……」
「僕は寒いんです」
「それなら、戻って焚き火に当たれば……」
「ここでいいです。ここがいいんです」
「……そうか」
銀さんは抵抗を諦めて、照れたように俯く。
しばらくして、彼女はぎこちなく僕の手を握り返してきた。
「少しだけ、寄りかからせてくれ」
弛緩する彼女を支えるように、こちらも体を預ける。
今夜は夏らしい、茹だるような暑さだった。お互いに汗だくで、今にも倒れそうなほど苦しい夜だった。
それでも、僕たちは独りではない。
「どうしてだろう。ずっと前から、そばにいてくれた。そんな気がする」
「まさか。雪君と勘違いしてるだけですよ」
「おかしなことを言った。忘れてくれ」
銀さんは、そっと瞼を閉じると、夢見心地に微笑んだ。
お互いの体温が落ち着いた頃。彼女は、おもむろに僕の頬に触れた。
「君は、欲張りだな」
「……どういう意味ですか? 」
「恍けるつもりか」
銀さんは、呆れたように言う。
けれど、言葉を重ねるようなことはしなかった。
その代わりに、そっと僕の胸元へと手を這わせて、耳元で甘く、意地悪く囁いてくる。
「君はもう、私の心にいる。それでも、君のことだ。満足はしないのだろう。理想とする生き方を決して曲げず、ここまでしても、見返りを求める素振りもない。……だが、それは君の独りよがりだ」
銀さんは、衝動に身を任せるように、僕を後ろから抱きしめてきた。
彼女は感傷に浸りながら、慰めを求めるように体を弄ってくる。
未知を探るような好奇心と、気持ち程度の背徳感を乗せた艶かしい指遣いが、いたずらに肌を掠めた。
首筋や二の腕に触れるだけでは飽き足らず、堂々と服の下に手のひらを滑り込ませると、もはや触れていない場所がないと言うまで撫で回される。
不満を訴えようと視線を上げても、誘うような眼差しで見つめられると、拒む気持ちが一瞬で溶かされる。
否応にも、彼女を異性として意識させられた。
心臓がズキリと痛んだ。言い逃れのできない想いに、頭がぐちゃぐちゃになる。
けれど、ひと回りも大きな魔人を相手に、非力な人間が逃れる術はない。
「……銀さん! 」
一縷の望みをかけて、理性と良心に訴えかける。
しかし、魔人の耳には、獲物の悲鳴が甘美に響くばかりだった。
「雪に番を見つけろと急かされていてな。私は君にしようと思っている」
白い巨獣は僕の髪に鼻を埋め、ぶつかる耳を食み、頬擦りしながら愛を囁いてくる。
「……僕、人間ですよ? それに、さっき会ったばかりで、まだお互いのことを何も知りません」
「私では不足だろうか? 」
「それは僕の理由です」
「私の気持ちなら、すでに伝えたはずだ。言葉だけでは信じられないと言うなら、この場で全てを曝け出すことだってやぶさかではない」
「ちょっと、何してるんですか!? こんなところで、風邪ひきますよ! 」
「君が温めてくれるから平気だ」
「当然のことのように言わないでください! 」
「人間は難しいな……」
「それは、こっちの台詞です! 」
隙をついて銀さんの腕から抜け出すと、その勢いのまま大きく距離を取った。
彼女の寂し気な表情が目について、罪悪感に襲われる。
しかし、その肌は微かに赤らむばかりだったから、全く納得がいかなかった。
「僕ばっかり慌てて、馬鹿みたいじゃないですか……」
魔人の恋愛観や貞操観念を否定するつもりはない。
それでも、人間のそれとはあまりにかけ離れているから、振り回されるばかりだ。
他人から好意を向けられるのは、素直に嬉しい。それが種族を超えた友好なら、言うことはない。
けれど、相手の幸せを奪いたいわけではない。
(僕が、勇者だったら……)
月に願ったところで、叶うわけもないことはわかっている。
だからと言って、捨てられるほど易い想いではなかった。
幾夜も重ねた妄想は、とうの昔に擦り切れた。今夜も未練を片手に、ただ息をしている。
だから、例え相手が本気であったとしても、身を引くべきだ。
『……それは君の独りよがりだ』
彼女のくれた言葉に、心が揺れる。世界が滲み、冷たい月に熱が溢れる。
一度でいい。欲しいものをほしいと、声に出してみたい。
「レイ」
「…………っ」
求める声に、祝福が胸を焦がす。物語の語り部に成り替わり、望む結末を掴み取ろうと暴れ始める。穢れた力が、恩着せがましく、悪びれることなく、呪われた未来を押し付けようとしてくる。
僕は、自分を殺したくなった。
「……命とは、ままならないものだな」
ひとりで立てなくなった心を、銀さんが支えてくれる。
しかし、優しさとは、得てして恐怖から出るものだ。
きっと彼女も、自力では前に進めずにいたのだろう。
「君と望む月なら、私は愛せると思う。それが故郷の雪山からなら、言うことはない」
「意外とロマンチストなんですね」
「そんなことを言われたのは、君が初めてだ」
「もっといい人がいますよ。絶対に」
「他人が決めた理想の相手など、こちらから願い下げだ」
「でも、本当のことです。見ればわかるでしょう? 」
「私は、君に人間性や社会性など求めていない」
銀さんは僕が拒まないことをいいことに、夜風に失われた僅かな熱を埋めるためだけに抱きついてくる。
しかし、体に残る噛み傷や爪痕を見つけると、いきなり肌に爪を立ててきた。
「痛っ……」
「す、すまない! 」
「いや、別にいいですけど……。もう慣れましたから」
「しかし、血が……」
「何をそんなに慌ててるんですか。これくらい、放っておけば止まりますよ」
そう言って笑顔で返すも、抉れた皮膚は絶えず脈打ち悲鳴を上げていた。
しかし、不思議と脳裏に浮かぶのは、ニルの悲しむ表情だった。
「君は一途だな……」
銀さんは寂しそうに言うと、もの惜し気に離れていく。
それでも、下ろした腕の先では、変わらず気持ちを確かめるように指先が触れていた。
「地上が嫌になったら、私のところに来るといい。あそこは、しんと音のない、時が止まったような場所だ。きっと気にいると思う」
「魔人の集落に人間なんて入れたら、みんなに怒られますよ」
「初めはそうだろうが、魔道具の修理ができると知れば、みな喜ぶ。生物が過ごすには厳しい土地だ。魔導具は生命線だから、君の腕があれば無碍にされることはない」
「そんなものですか」
「起きているのが辛くなったら、冬ごもりをしよう。何もせず、日がな横になって過ごすんだ」
「いいですね。火に当たりながら読書とか、憧れます」
「暖炉に火を入れて温まるのもいいが、人肌を知っては、いささか物足りないな」
「いつか遊びに行きますね」
「……何かされれとは思わないのか? 」
「銀さんは良い人ですから」
「人は見かけによらないものだ」
「健全な魂は健全な肉体に宿れかしってやつです」
「褒められている気がしないんだが……」
「じゃあ、僕にだけいい人ですね」
銀さんは、困ったように苦笑する。
けれど、僕も彼女に善性を求めるつもりはない。
近くに置かれた武器が見えていない訳ではない。防護服の修繕に当たっては、用途が戦闘目的であることも聞いている。
しかし、だからこそ、ここから始めることに意味がある。
「もしも、天界の月を砕いて、太陽を壊して。悪魔が閉じた命の輪を元通りにすることができたら、人間と魔人の区別もなくなるでしょうか」
「……何を考えている? 」
「人間を辞めたくて。それが許されるだけの夢を探し続けてきました。それが、ようやく見えてきた気がします」
「……私の目の黒いうちは、君を死なせたりはしない。例え命の灯火が消えるその時も、その熱を看取るのは、私だ」
「その頃には、僕は無能の大罪人ですよ」
「善悪の概念を壊すなら、或いは君は英雄だ」
「英雄、ですか。いいですね。勇者より、ずっといい響きです」
僕は月影に嫌われて、心軽やかに笑う。
「願わくは、みんなが笑顔でいられるような、楽しくて、幸せな夢で溢れる世界でありますように」
誰にともなく呟いた祈りは、夜の闇と消えていく。
なればこそ、そこに唯一の生きる意味がある。
「……すまない」
銀さんは、悲壮な表情で得物を向けてくる。
しかし、その鋒が僕の体に届くことは、とうとうなかった。




