第四話 満ちゆく月の間に
ウズラさんの治療のおかげで、僕は夜になっても食中毒に陥ることはなかった。
「あれって、本当に飲んで大丈夫な薬だったのかな……」
極彩色の薬液を含まされた時は、不安で震えが止まらなかった。
けれど、彼女の処置は完璧で、体は恐ろしいまでに快調である。
「とにかく、病気には気をつけないと! 具合が悪いのを知られたら、今度は何をされるか……うっぷ」
薬のひどい味と舌触りを思い出して、生活習慣の改善を決意した。
とは言え、今夜ばかりは、まともに食事をとる気分になれそうにない。
弦月が沈み始める頃。夕食の支度をしていたマシロさんから声がかかった。
「……どう? ちゃんとできてる? 」
「いい匂いですね。おいしそうです」
「スープの作り方を教えてもらったから、お肉と山菜で作ってみたの」
そう言うマシロさんは、はにかみながらも、どこか誇らしげだった。
けれど、僕が料理に手をつけないの見て、静かに表情が沈んでいく。
「……無理して食べなくてもいい」
「すみません、食欲がなくって……。明日の朝に、改めていただきますね」
よそってもらった料理を、僕は口をつけずに鍋へと戻す。
マシロさんは、器からこぼれ落ちるスープを何も言わずに見つめていた。
「……馬鹿だろ、お前」
ニルが突然立ち上がり、僕の前に乱暴に座り込む。
「食べろ」
彼女は目を据えて、食べかけのスープを突き出してきた。
「お腹が空いてたら、悪いやつが襲ってきても戦えない。口の中に入れられるものは、入れられる時に入れろ」
「僕のことはいいよ。ニルの食べる分がなくるよ? 」
「子供じゃないんだ。わがまま言うな」
「……どう言う意味さ」
「これは、アヅキが取ってきたお肉だ。マシロが作ったご飯だ。何もしてない奴が、選べるなんて思うな」
ニルは握り込んだ匙でスープを掬うと、苦虫を噛み潰したような表情で僕に押し付けてくる。
拒めば潰れてしまいそうな様子と、マシロさんへの罪悪感もあって、断りきれずに匙を受け入れた。
そこからは、なし崩しで料理を平らげさせられた。その間、一度も食器を触らせてもらえず、飢えた雛鳥のように口を開くことしかできなかった。
「マシロ、おかわり」
「ニル、もうお腹いっぱいだよ……」
「お前は済んだだろ。今度はわたしのだ」
「二人とも、無理して食べなくてもいいのに……」
「そんなこと言って、独り占めするつもりなんだろ」
「そんなことない……! 」
マシロさんは慌てて首を横に振り、空の器にたっぷりとスープを注ぐ。
ニルの態度は、終始高慢だった。食べ方も汚くて、味わうよりも腹を満たすことが優先と言うような行儀で、見ていて不快な気分にさせられる。
しかし、マシロさんの表情は嬉しそうに見えるから、不思議でならなかった。
一方で、ニルは食事を終えても、変わらず不機嫌でいる。
「……本当に、どうしちゃったんだろう」
最近のニルは、様子がおかしかった。
突然怒り出したと思えば、憑き物が落ちたように静かになる。物思いに耽るように座り込むと、どれだけ声をかけても上の空で、食事の時間すら忘れることも少なくなかった。
前触れもなく這い寄ってきて毛繕いを始めたり、悪戯に甘噛みをされる日もあった。元よりスキンシップの過激な子ではあった。けれど、その表情には、かつての無邪気な笑顔はなく、代わりに不安を紛らわすような必死さが目についた。
彼女は日を追うごとに、情緒が不安定になっているように思う。気に入らないことがあると、暴力に訴えることも増えた。そうして負った傷は、今は衣類で隠せないほどに広がっている。
「……レイ。おい、レイ! 」
「はい!? な、なんだ……アヅキさんでしたか……。どうかしましたか? 」
「警戒心のない人間だな」
アヅキさんは、肩を竦めて笑う。
ふと辺りを見回すと、みんなの姿が見えないことに気がついた。
「マシロとニルなら、水浴びに行ったところだ」
「全然気がつきませんでした……」
「綺麗好きなのは結構だが、風呂があるわけでもあるまい。今夜は一段と冷える。風邪を引かないように、火は絶やしてやるなよ」
アヅキさんは寒さに身震いすると、巣の中に放置された卵の上に腰を下ろして、体で包み込むように脱力した。
「ウズラさんは、一緒じゃないんですね」
「お前の心配をしていたから、ここを離れないと思って卵を任せたんだが……何か別のことに興味を惹かれたんだろう。どちらにしても、すぐには戻ってこないさ」
「マシロさんたちと一緒ですかね? 」
「やめろ。縁起でもない」
アヅキさんの言葉の真意は、わからなかった。
それでも、漠然とした不安に襲われて、無用にたき火の世話をする。
「……アヅキさんには、二人がどう見えますか? 」
「藪から棒だな」
「……二人は、仲良く見えますか? ……ちゃんと、お友達同士に見えますか? 」
気付けば、不安を吐露していた。
僕たちに残された時間は、多くはない。そんな予感が、口を軽くした。
「何を考えてるのか、わからないんです。川では喧嘩してたのに、今は一緒に水浴びをしてる。それって、変ですよね? 」
「わからないのなら、本人たちに直接聞けばいい」
「それができたら、アヅキさんに聞いてません」
「言い訳は結構だ」
アヅキさんはピシャリと言うと、やにわに気味の悪い笑みを浮かべた。
「お前、マシロを昼の月にしてやると約束したそうじゃないか」
「だ、誰に聞いたんですか!? 」
「ニルには、一緒に生きてほしいと告白したんだって? 」
「ニルのばかっ!! 」
羞恥に耐えられず、犯人の名前を叫ぶ。
「大口を叩いたものだ。聞いてるこっちが恥ずかしくて敵わなかったぞ」
「あの時は、何と言うか……! その、えっと…………」
「まったく、仕方のない男だ」
アヅキさんは、生暖かい視線を向けてくる。
「人助けは、善行だ。恥じることはない。……だが、せめてもう少し現実味のあることを言えないものか。実現できない理想ばかりを囁くのなら、それは気障なだけの無能だ」
「どうせ、僕は無能ですよ! 」
「どうして、二人はお前なんかのことを……。いいや、だからこそなのか」
「……何の話ですか? 」
「どうせ壊すなら、夜の月も一緒にと、そう思っただけだ」
「アヅキさんも、気障なこと言うじゃないですか」
「そうでなければ、不公平だからな」
「よくわかりません」
「お前も恋敵ができたら、わかるようになる」
アヅキさんは、深夜の月を恨めしそうに見上げていた。
僕は、これまで月を美しいものとして疑わなかった。
けれど、彼と望む月は、どこか邪な力を帯びているように感じられる。
「もう直に、満月だ」
静かな宣告は、僕らから明日を奪うようだった。




