第一話 非日常
目を覚ましたニルは、寝る前よりも少しだけ機嫌を直してくれていた。
「うん。やっぱり巣の中がいちばん落ち着くな」
ニルは腕を上げて伸びをすると、緩んだ頬で照れくさそうに笑った。
そのまま、寄りかかるように僕を押し倒して、お腹の上に陣取ってくる。
彼女は、人の体の上で、我が物顔で毛繕いを始めた。
「重いんだけど……」
「重くない! 」
「うぐっ!? ちょっと、膝立てないでよ! 」
「ふん、だ」
「女の子に重いなんて言ってはダメよ」
「……僕が悪いんですか? 」
「私が言われたら、悲しいと思うから……。だから、ニルにも言ってほしくないなって、思うの」
マシロさんは、ニルの寝起きでハネ放題の金髪に優しく手櫛を通す。
その姿は、どこか必死で、相手に気に入られようと媚びているように見えるから、余計に気分が悪くなる。
「……僕はそんなことのために、ニルを旅に誘ったわけじゃないです」
「なにか言った……? 」
「いいえ。なんでもありません」
「でも、不機嫌に見える」
「これが普通ですよ」
「嘘よ」
「……嘘ってなんですか。マシロさんに僕の何がわかるんですか」
「……ほら、やっぱり怒ってる」
マシロさんは、僕の声に怯えて縮こまる。
しばらくして、彼女は縋るように細い腕を伸ばしてきた。
それでも、決して自分から触れようとはしてくれない。
「……別に触ってもいいですよ」
そうして許しの言葉を与えるまで、マシロさんは黙ったまま動かない。
食事の時もそうだ。僕らが何も言わないと、こちらが料理を食べ終えるまで食器に手をつけようともしない。その癖に、人の嫌がる仕事だけは率先してやろうとするし、手際が悪いと自身の無能を詫びてくる。たとえ仕事を立派に果たしたとしても、手柄を主張することもしない。ただ一言、感謝の言葉をかけてもらうこと、それすら期待してくれない。
けれど、それらは奴隷として生き延びる上で、他者から不興を買わないために必要だった自衛手段なのだろう。
だから、彼女に非はない。少なくとも、そう思うことが叶うのだ。
しかし、それでも、自ら進んで奴隷のように振る舞い、自身のためではなく、他人のためばかりに身を削る。そんな痛みを覚える時ばかり、心から安心したような表情を浮かべる彼女のことが、僕は嫌いで、嫌いで、堪らなかった。
「……お前って、あんまり笑わないね」
ニルが僕の強張った頬をつつきながら言う。
「マシロが嫌いか?」
「そんなことないよ」
「なら、わたしのことが嫌いか……?」
「まさか」
「なら、もっと笑ってよ」
そう言ってニルは、寂しげに作り笑いを浮かべる。
けれど、今の僕には、彼女が期待するような表情をつくることはできそうになかった。
「……レイも、マシロも、ひどいよ。折角仲間になれたのに、これじゃあ前となんにも変わらない。ううん……前よりも、ずっと、ひとりぼっちだ……」
そうして尻すぼみに消えていく苦しそうな声に、絶望の色があればどれだけ良かっただろう。
「お前たちの世界に、わたしも混ぜて」
狼の魔人は、夢を捨て切れないと言うように、僕らをまとめて抱き寄せると、か細い声で願った。
それなのに、どうして湧き上がってくる想いは、喉に詰まって出てこない。
対して、腹の虫は空気を読むことなく、大きな声をあげる。
「ひさしぶりに鶏肉が食べたいな」
僕は羞恥を誤魔化すように、欲望を口走る。
すると、ニルが突然立ち上がり、瞬く間に森の奥へと消えていってしまう。
「宝物の場所でも思い出したのかな……? 」
疑問を声にすると、マシロさんに呆れたような視線を向けられる。
「自分の言葉に責任をもって」
「なんですか、いきなり」
「ニルが可哀想」
「そう言うマシロさんだって、何も返事しなかったじゃないですか」
「一緒にしないで」
「す、すみません……」
久しく浴びることのなかった冷たい罵倒に、思わず額を掻く。
マシロさんは、おもむろに昼食の準備を始めた。
「お昼は何にしましょうか。残り少ない猪肉を食べちゃいますか? 」
慌てて作業を手伝おうとするも、マシロさんの瞳が落胆の色に染まるから、それ以上は何も言えなくなってしまった。
(何を間違えちゃったんだろう……)
失望されたのではと想像すると、拭いようのない不安に襲われる。
挽回せねばと、気が急いた。
しかし、思えば僕には、初めから何もないのだ。
(僕とマシロさんって、なんなんだろう……)
森を彷徨う彼女を隣に望み、一宿一飯をだしに家に誘った。もう少しだけ一緒にいたい。そう願って、身の丈に合わない見栄を張り、綺麗事を重ねてきた。
(何もしない方が、みんなのためになるのかもしれない……)
手のひらに落ちる木陰を、ぼんやりと視線で追う。そうして何かをしていないと、この場に留まることさえ後ろめたかった。
それでも、なお変われない、変わろうと動けない自分がいやになる。
しばらくして、ニルがお出かけから帰ってきた。
「レイ! 鶏肉とってきたぞ! 」
無邪気な笑顔を浮かべながら見せてくるのは、森を駆け回り仕留めたのだろう、一羽の獲物だった。
「狩りは得意なんだ」
誇らしげに胸を張る姿が、嬉しそうな声が、褒めろと言わんばかりの期待の眼差しが、真っ先に僕に向けられる。そのことが、どれほど救いだったか、きっと君にはわからない。
「僕の言うことなんて、気にしなくていいのに……」
ニルの顔が、見れなかった。申し訳なさよりも、ただ嬉しくて、安心して、表情がニヤけてしまって、とても見せられなかった。
なぜだか、涙が溢れて止まらない。嗚咽が漏れないように口を塞ぐから、お礼の一言も返せない。
顔を背けた先で、マシロさんと目が合ってしまう。
けれど、彼女は先ほどとは打って変わって、穏やかな表情で僕を見つめていた。
「よかったね、レイ」
そう微笑む彼女に、僕は熱い顔で小さく頷いた。




