第12話 しあわせのかたち
「どうして置いてくの!」
ニルに黙って森を出ようとすると、後ろから追いかけてきて飛びかかられる。
「嘘つき! 待ってるって言ったのに! わたし、まだお返事してないのに!」
胸ぐらを掴まれた僕は、罪悪感に目を逸らした。
「……どうしてここがわかったの?」
「ラムネに聞いた」
「黙っててって言ったのに……」
「そうじゃない」
「じゃあ、マシロさんから聞いてたの?」
「そんなこと、どうだっていいでしょ」
「なら、どうして……」
「お前の匂いは、覚えた。もう忘れない。……忘れられないの」
ニルは鼻先で鎖骨をなぞるように胸に顔を埋めてくる。
「……どうしよう。そばまで来たのに、全然足りない」
癒えない渇きに怯えたような浅い呼吸が素肌を撫でる。
「……痛いよ。苦しいよ」
ニルは空の心を満たそうと体を重ねてきた。
しかし、安心を求めるように晒した心は、些細な不安にすら傷ついてしまうほどに脆くなる。
けれど、そこは魔人の本能だろう。彼女は切なる願いを言葉にすることはなかった。
だから、まだ引き返すことができるはずだと両手で突き放す。
「お願い。昨日のことは忘れて」
「なんでそんなこと言うの!?」
「ニルを助けたのは、僕じゃないよ。本当の僕は弱いし、人と戦う勇気なんてない。それに、このスキルは悪者の力だ。ニルは弱い人も悪者も嫌い……そうでしょう?」
「お前は悪者じゃない!」
「それはどうかな」
「誰が悪者って言ったって、わたしにとっては月より、太陽より大事な人間だよ!」
「でも、いい人は命を天秤にかけたりしないよ。あんな卑怯な選択を迫ったりはしない。一歩間違えば、二人とも死んでたかもしれない。もう生きてなかったかもしれないんだよ」
ニルは夜が明けても悪夢に縋り付こうとする。それが僕には嬉しくも、同じくらい耐え難かった。
「目を覚まして。ニルの運命の相手は、必ず他にいる。夢があるんでしょ? ずっと頑張ってきたんだよね。なら、こんなところで妥協しちゃダメだよ」
叶うことなら、ニルと未来を共にしたかった。
けれど、僕は最後の最後で祝福の力に頼ってしまった。
だから、もう彼女の隣は望めない。他ならぬ僕自身が、それを認めてくれない。
「ニルが番にこだわる理由はわからない。でも、強くてかっこいい魔人と一緒になりたいって言ってたのは、はっきり覚えてるよ」
「それは夢。現実じゃない」
「あの時は馬鹿にしちゃってごめんね。でも、今は心から君の夢を応援したいって思うよ。だから、僕のことなんかは忘れて、もっといい人を探そうよ。ここで夢を諦めたら、一生後悔することになるよ」
ニルの幸せを願って、静かに別れを告げる。
しかし、僕の言葉を聞いた彼女は、苦しそうに胸を押さえて号泣してしまう。
「わたし、助けてもらったから好きになったんじゃない。もっと前から、お前が好きだった」
「そんな訳……」
「嘘じゃない。本当だよ」
大きく丸い瞳からぼろぼろと涙を溢しながら、ぐちゃぐちゃの顔で嗚咽混じりに訴えるのは、純粋な愛の告白だった。
「忘れてなんて言わないで。他にいるなんて、言わないでよ。これは夢じゃない。未来じゃない。わたしが自分で見つけた、はじめての大好きなの」
ニルは想いが伝わらない悲しみに、ただただ泣きしきる。
「どうして、わたしから近づくと逃げちゃうの? わたしのこと、欲しいって言ってくれたよね? それとも、今まで言ってくれたのは全部嘘だったの……?」
「だって、僕じゃニルを幸せにしてあげられないから……。他の人の方が、ニルを笑顔にできると思ったから……」
「わたし、誰かがくれる幸せなんていらない。わたしはお前と幸せになりたいの」
ニルの言葉に、胸が張り裂けそうだった。
けれど、想いを呑み込むのが怖くて、逃げたくなる。
「ニル……!」
馬乗りでいる魔人を退かそうと、その場限りの願いを叫ぼうとする。
しかし、彼女に口を塞がれた。
「……お前なんて嫌いだ。大嫌いだ」
ニルの瞳は未来を映す。
だから、僕がスキルで縁を切ろうとしたことも、そうしようと思った理由さえも筒抜けだった。
呪文を封じる手は、もはや呼吸すら許してくれない。
「わたしの幸せを、いつかの未来に捨てないで。来るかもわからない誰かに投げないで。お前が来てくれたんだから、お前が幸せにしてよ。運命なんていらない。わたしは誰かに押し付けられる幸せより、お前と明日の楽しいを探す方がいい。それに、もう強いオスには興味ないよ。貰うだけのメスは嫌。子供を産んだらさよならも嫌。わたしは、お前の不安を受け止められる居場所になりたい」
ニルは有無を言わさずに言い切ると、顔を赤くしながら解放してくれた。
そこで、ようやく彼女の容姿に気が付く。
「その服、もしかして……」
「……話そらすんだ」
図星で黙る僕に呆れながらも、ニルは両手を広げて衣装を見せてくれる。
「マシロがくれて、ラムネが着れるようにしてくれたの。お前に会うから、ちゃんと綺麗にしてきたんだよ。石鹸を使って水浴びもした。ほら、いい匂いするでしょ?」
「そんなこと言われても、わからないよ」
「これでわかる?」
「むぐっ!?」
「お前もいっぱい吸って、わたしの匂い覚えて」
「人間の鼻じゃ無理だよ!」
「だったら、わたしの匂いがお前の普通になるまで、ずっと抱きしめててあげる」
無理やり体臭を嗅がされて、脳の大事な部分がじわりと滲む。
「それで……? このお服、似合ってる?」
「くっつかれてたら見えないよ」
「あ、そっか」
離れるニルを惜しいと思う気持ちを悟られないように、努めて穏やかな呼吸を繰り返した。
「これで見える?」
ニルは立ち上がると、その場でくるりと回って見せてくれる。
マシロさんのお下がりのワンピースは、彼女の体型でも着られるようにリメイクされていた。長かったスカートには、足を引っ掛けて転んでしまわないように深いスリットが設けられている。
「みんなで何かしてるなとは思ってたけど、この服を作ってたんだね」
「わたしのために、こっそりお馬さんにも乗れるようにしてくれたって。どういう意味かな?」
惚けたように言いながら、いそいそと跨ってくるニルが憎かった。
「どうだった? このお服、お前の好みか?」
「まぁ、パーカーよりはいいんじゃない?」
「……こっちは正直なのに。お前は可愛くない」
「変なとこ見て離さないで!」
「そうだ。下着も可愛いのもらったの。見せてあげる」
「見せなくていいから!!」
ニルは静止の言葉を聞かずに、両手でスカートをたくし上げていく。
徐々に露わになっていく立派な御御足に、慌てて手のひらで目を覆った。
しかし、欲望に負けて、指の隙間から覗いてしまう。
すると、彼女と視線がぶつかった。
「お前の困った顔、わたし大好きだ」
ニルはいやらしく笑う。同時に、安心したように全身の力を抜いてしな垂れかかってきた。
「嘘が下手だね。そんなんだと、悪いメスに食べられちゃうよ」
悪戯に耳たぶを食む感触に、拙い理性が溶けていく。
しかし、寂し気に向けられる視線に気がついて、一気に目が覚めた。
「……私、置かれるの?」
マシロさんは小さく半身で尋ねてくる。
「そんな! 置いてくなんて、あり得ませんよ! それに、まだ約束だって果たせてないじゃないですか!」
僕はニルを膝から下ろして訴えた。
「……青空に浮かぶ月にしてくれるって話、本気だったの?」
「それは、例えの話で……! とにかく、僕はマシロさんと旅を続けたいです!」
「でも、ニルといる方が楽しそう」
「そんなことありません!」
「ニルにも、同じ告白してた」
「してないです!」
「自分の女だって、腰を抱き寄せてたわ」
「き、気のせいですよ!」
僕はマシロさんに嫌われまいと、必死に言い訳を重ねる。
しかし、言葉を重ねれば重ねるほどに、彼女は離れていってしまう。
「マシロ、待って!」
ニルがマシロさんを引き止めるように抱きつく。
「……どうして? ニルは私のこと嫌いじゃ……」
「……行かないで。お前も一緒にいて」
突然向けられる好意に、マシロさんは動揺していた。
それでも、ニルを想ってやまなかった彼女は、躊躇いながらも抱擁を返す。
「ずっと、一緒に旅ができたらって思ってた」
「わたしも」
二人は抱き合ったまま、仲良く手を繋いで微笑んだ。
かと思えば、揃って僕にジト目を向けてくる。
「ニル。レイの告白は嘘じゃない。でも、勢いなの」
「わかってる。まだ子供もらってないもん」
「僕はそんなつもりで言ったわけじゃ……」
「嘘。君は見返りもなく人を助けたりしない」
「うっ……」
「何もいらないって言うくせに、わたしの未来を奪って逃げるなんてサイテー」
「ご、ごめんなさい……」
異性に挟まれて不徳を責められると、男として痛むものがあった。
けれど、痛みに聡い彼女らは、傷心を慰めるように腕に抱きついてくる。
「……私、狡い子だ」
「わたしは、いい子だよ」
二人の女の子は、ニートの僕に夢を見てくれる。
けれど、昼の夢は、夜のそれとは違う。腕を引こうと、身を捩ろうと、少しも逃げられる気がしなかった。
「えいっ」
ニルはおもむろに草原に倒れ込む。それにつられて、僕らも大空の下で横になった。
しばらくして、彼女は誰にともなく呟く。
「わたしは強いオスのものになるんだって思ってた。強い誰かに、勝手に未来を決められるんだって、そう思ってた」
「そこは人間も変わらないよ。世界はどこまで行っても弱肉強食だよね」
「でも、レイはわたしの未来を変えてくれた」
「ニルの夢を応援したかっただけだよ」
「だけど、レイはわたしを欲しくって、わたしもレイのものになりたい。……それって、両想いってことだよ」
そう言うニルは、言葉に反して不安そうに見える。
「……お前は、何も言ってくれないんだね」
ニルの言いたげな表情を見て、マシロさんは静かに離れていく。
すると、彼女は空いた手を掴んで、体の上に覆い被さってきた。
そして、いつかの日のように牙を剥いてくる。
「もう優しくしない。手加減しない。強い人が好きな人のそばにいられる。そう言ったのはレイだ」
「あれは、ニルにもわかるようにって……」
「オスなら自分が言ったことにくらい責任持て」
「でも……」
「マシロはいいって言ってくれた。なら、わたしから諦める理由なんてない」
獰猛に開かれた瞳が、一層の光を湛える。
「決めた。わたし、世界で一番強くなる。誰もわたしからお前を奪ったり、助けたりしようと思わないくらいのメスになる」
人喰いと恐れられた魔人の少女は、僕の逃げ道を未来に至るまで塞ごうと拳を握り込む。
「お前も選んで」
正義に憧れるニルは、命に歯牙をかけながらも、最初で最後の選択を迫ってくる。
「もう力は使わない。ここに生きてるお前だけを見る。だから、お前もちゃんと自分の言葉で答えて」
ニルは自身の常識を置いて、僕の気持ちを尊重してくれる。
それでも、これと未来を決めるには、あまりに彼女は世界を知らない。
「レイ。わたしと番になって」
不安に目を伏せて、静かに答えを待つ健気な狼を抱きしめない理由などなかった。
けれど、僕は溢れる想いに蓋をした。
「ねぇ、お返事は……?」
ニルは我慢の限界と答えを催促してくる。
「こんな大事なこと、すぐには決められないよ」
「好きか、嫌いかでいいの」
「一度口にした言葉は、無かったことにできない。だから、ちゃんと考えさせて」
僕は尤もらしい言い訳で、この場を切り抜けようとした。
しかし、ニルの表情はみるみるうちに冷めていく。
「また逃げるんだ」
「そうじゃなくて……返事をするにしても、ニルを一番にしてからでも遅くはないでしょ?」
「弱いくせに、偉そうに言うな。それに、わたしの欲しい一番は、お前が決めることだろ」
「ち、ちゃんと決めるから! だから、怒らないで……」
「嘘をつくお前が悪い」
「……どうしたら許してくれる?」
「お返事するって約束しろ」
「わかった。約束するよ」
「そうじゃない。もっと強くて、破れない約束」
ニルは僕を起こすと、逃げられないように膝の上であぐらをかく。
「小指出して」
「いいけど、何するの……?」
言われるままに指を差し出すと、ニルは口に咥えて犬歯を突き立ててきた。
「痛っ!?」
慌てて引き抜いた指の腹には、ぷくりと血の山ができていた。
ニルは自身の小指も噛むと、流れる血を混ぜるようにねっとりと絡ませてくる。
「”指切り、拳万”」
聞き慣れたはずの呪文が、やけに恐ろしいもののように感じられた。
「一瞬、寒気がしたような……」
「見える? 運命を誓う赤い糸だよ。これで約束破ったら死んじゃうね」
「何それ!? 聞いてないよ!」
「嘘をつかなければいいんだよ」
「笑顔で言わないで!」
「大丈夫。わたしも、もう他のオスに尻尾振らないよ。お腹を見せたりしない。股も開かない。たくさんギュッてするのは、レイだけだよ」
「そんな約束、しちゃダメだよ……」
「ダメっていう方がダメ」
「子供みたいなこと言わないで、考え直して」
「もう約束破るんだ……」
「ちょ、痛い! 苦しいって! 心臓、潰れちゃう……!」
「……逃げられないんだから、素直になればいいのに」
ニルは顔を寄せてきて、かぷっと耳を噛んでくる。
すると、痛みは嘘のように引いていった。
代わりに、冷めやらぬ興奮に汗が浮かぶ。
「お顔赤いね」
「ニルが変なことするからでしょ!」
「お日様の下で、いけないんだ」
「違う!」
「でも、痛くなくなったってことは、そういうことでしょ?」
「それは……!」
ニルの指摘に、顔がかっと熱くなる。
彼女は密着するだけでは飽き足らず、頻りに体を擦りつけてくる。それだけでも恥ずかしいのに、嬉しそうに振る尻尾が響くからもどかしかった。
「お前は可愛いな。それに、とっても美味しそうな匂いがする」
ニルは呪術まがいの心中立てをしておきながら、僕の全てを喰らおうとする。
「ねぇ、早く“よし”って言って。そうしたら、わたしが残さず全部食べてあげる」
ぼたぼたと熱い涎を垂らして待つニルは、僕に未来を選ばせようとする。
「待って! お願いだから食べないで!」
「いつまで?」
「ずっとだよ!」
「ご褒美ないのに、ずっとは待てない」
「じゃあ……せめて、僕が他人に誇れる僕になるまで待って」
「……そっか。なら、お前も一緒に修行だね」
ニルは答えに納得してくれたのか、驚くほど素直に拘束を解いてくれた。
「ニルの夢が叶いますように」
マシロさんがひとり、慈愛に満ちた表情で祈る。
そんな彼女の手を、僕は無意識に引いていた。
「マシロさん。ニルはマシロさんじゃないですよ」
「……馬鹿」
マシロさんは恥ずかしそうに小突いてくる。
僕は立ち上がり、彼女の両手を取った。
「その不安は、僕にください」
「レイを困らせたくない……」
「僕がマシロさんの笑顔を見たいんです。だから、そばに居させてください。僕の隣に居てください」
「レイ……」
マシロさんは胸を押さえて、泣きそうな顔で俯いてしまう。
けれど、ニルの嫉妬に気が付いて、慌てて背中に逃げてきた。
「マシロばっかり、ずるい」
背中を合わせるように隠れるマシロさんは、怯えたように縮こまる。
しかし、ニルは負けじと僕の体に飛びついてくるだけだから、平和な限りだった。
「何と言うか、賑やかな旅になりそうですね」
ニルを抱きながら誤魔化すように笑うと、マシロさんは繋いだ手の指を絡めてくる。
「ありがとう」
「何のことですか?」
マシロさんは何も言わず、紅潮した髪を巻きつけてきた。
「リリィの街まで、あと少しですね」
「そうね」
「人間の街に行くの? わたしも行きたい!」
「リリィは魔人の楽園って呼ばれてるみたいだから、きっとニルでも入れるよ」
「入れなくてもついていくよ」
「また衛兵の人に捕まるよ。そうでなくても、ニルの首には賞金がかかってるんだから」
「あんな格好だけの奴らに負けたりしないもん」
「一回捕まったくせに」
「平気だよ。わたしの未来の場所は、もう決まったから」
「……未来ね」
「……あ、違うよ! レイが強かったおかげなの! だからなの! ……もう、お願いだから拗ねないで!」
「ふん。ニルも約束破って、痛い思いをすればいいんだ」
「レイって、嫌な奴!」
「じゃあ、森に帰れば?」
「やっぱり、お前嫌い!」
ニルは僕から飛び降りると、今度はマシロさんに引っ付いた。
「マシロさん」
「うん」
空いた手に荷物を受け取った僕は、思いつくままに駆け出した。
けれど、二人とも追いかけてくる気配はない。
不安になって、後ろを振り返る。
すると、そこでは女の子たちが穏やかな笑顔で、僕が立ち止まるのを待っていた。
「な、なんですか……?」
「「なんでもない」」
二人は急ぐことなく、自分のペースで後をついてくる。
そんな彼女たちと、歩幅を合わせて生きて行けたなら、どれだけ幸せだろう。
「二人を笑顔にできる人間になれますように」
僕はスキルに頼らず、遥かな夢を見る。
それでも、これまで漠然としていた願いが輪郭を得たような、そんな気がした。
本話にて、2章は完結になります。文量が多い中、最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。
3章につきましては、もうしばらくお時間をいただきたく思います。次章では鷲の夫婦や、様々な種族の魔人たちが登場する短めの話を組み合わせた構成となる”予定”です。
どうぞこれからも彼らの旅をよろしくお願いします。
それでは!




