第11話 強者を喰わぬは男の恥
「待てよ」
ニルを連れて逃げようとすると、男の怒声に止められた。
「それは俺の商品だ。返せ」
「ニルをものみたいに言わないでください」
「首輪を嵌めた時点で、そいつは奴隷だ。隷属の首輪がある限り、俺の所有物なんだよ」
落雷に燃える馬車の横で、奴隷商人が下卑た笑みを浮かべる。
「その女を飼いたいなら、金貨十万枚で譲ってやるよ。もっとも、その身なりで払えるとは思えないが」
「そんな大金、一生をかけても用意できません……」
「だったら、大人しく魔人をこっちに寄越せ。奴隷はガキの玩具じゃない」
「……嫌です」
鋭い敵意に耐えて、何とか言葉にする。
すると、男は腰に帯びた短剣を引き抜いた。
「まさかとは思うが、他人様の商品を盗んでおいて人道を説くつもりか? 金も払わずにヒーロー気取りとは反吐が出るな」
刃物を向けられて後退りをすると、夜が男の味方をするように凶器を隠した。
「この魔法剣には、即効性の致死毒が塗ってある。考えを改めるなら今のうちだ」
男が脅すように短剣を払うと、触れてもいないのに袖が不自然に切れた。
「もう一度だけ言う。魔人を置いて失せろ。そうすれば、命は取らないと約束しよう」
暗闇の中で爛々と輝く瞳に睨まれると、逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
それでも、膨らむ不安を踏み潰すように一歩前に出る。
「ニルは僕が連れて帰ります」
「……なぜだ? どうしてその女にこだわる」
男は理解できないと言うように頭を抱えた。
「魔人は欲望に忠実な馬鹿ばかりだ。女を抱きたいだけなら、いくらでも替えがきくだろう。魔人の一匹くらい諦めたらどうだ」
無神経な言動に、ニルが寄る辺なく縮こまる。
僕は怒りのあまり叫びそうになった。
けれど、それは相手を傷つけるための言葉だ。自分が楽になるための言葉でしかない。
僕は怒りの根っこを探すように目を瞑る。
すると、純粋な欲望が込み上げてきた。
「こんなにいい女、渡すわけないでしょう」
僕はニルを腰に手を回して、自分のものと主張するように抱き寄せた。
彼女は腕の中で驚いたように目を見開いていた。
しかし、その体は未だに恐怖に震えている。
それは、僕が相手よりも弱くて頼りない男だと思われているからなのだろう。
ならば、見返す方法は一つだ。
「勝負です。ニルを返せと言うなら、僕を倒して奪えばいい」
「なぜ俺がお前の我儘に付き合わなければならない」
「メスが一匹。オスが二匹。どっちもニルを欲しがってる。なら、より強い方が番になれる。それが自然界の掟でしょう」
飾らぬ言葉は、英雄のそれとは程遠い。
それでも、ニルは本能に生きる魔人だ。欲望のままに告白しなければ、きっと想いは伝わらない。
「魔人を横取りされてキレてるのか? お前、頭おかしいだろ」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
「丸腰で勝てるとでも? 言っておくが、俺は強いぞ」
「だからって、ニルを諦めなきゃいけない理由にはならない」
そんな強気な言葉を支えるのは、祝福の力ばかりだった。
けれど、一度スキルに頼れば、二度と願いが叶うことはない。
僕はニルを抱きしめてあげることしかできなかった。
「そんなに死にたいか。なら、お望み通り殺してやるよ」
男が合図をすると、背後から奴隷たちに掴まれる。
「ごめんなさい……。でも、命令だから」
僕はニルと離されて、地面に磔にされた。
「……いや。やめて……」
ニルは嗚咽を漏らしながら、暗い光を湛えた瞳で見下ろしてくる。
「……わたしのせいだ。ごめんなさい、ごめんなさいっ……!」
僕に何を見たのか、ニルの表情は絶望に染まっていた。
しかし、男の一声で目の色が変わる。
「“魔人。その男を殺せ”」
隷属の首輪を嵌められたニルは、弾けるように襲いかかってくる。
けれど、首を絞める両手は、明らかに全力ではなかった。
「……嫌だ! 殺したくない!」
ニルは首輪がもたらす痛みに耐えて、必死になって命令に逆らおうとする。
それでも、魔人の膂力は凄まじく、確実に意識は遠のいていく。
「ほら、お前も早くスキルを使わないと死ぬぞ」
男は手足を押さえていた奴隷たちを下がらせると、煽るように言った。
「勝つ自信があったんだろ? それとも、好きな女の手前、見栄を張っていただけか?」
酸欠で濁る思考に、男の笑い声が痛いくらいに響いた。
「死んでも恨んでくれるな。結局は生まれ持ったスキルが全てなんだ。お前は俺よりも弱いから死ぬ。その女は魔人に生まれたから、人間の飼い犬として一生を終える。すべては、はじめからこうなる運命だったんだよ」
「……首輪の力に頼っておいて、何が運命ですかっ!」
「理不尽だと思うか? だが、嘆いても無駄だ。神は地上に降りて死んだ。ここは天使も悪魔も寄りつかない穢土だ。祈ったところで誰もお前を助けには来ない」
男は勝ち誇ったようにゲラゲラと笑う。
「……レイ。逃げて」
ニルはか細い声で訴える。
しかし、心身ともに憔悴した彼女には、もう命令に逆らうだけの気力は残っていないのだろう。首を絞める手はきつくなる一方で、抜け出す余地は一切ない。
けれど、元より一人で帰るつもりはない。
それなのに、どうして彼女に気持ちは届かない。
「……なんで逃げてくれないの?」
そんなわかりきった質問をされるのが悲しかった。
「お願いだから、スキルを使って」
一縷の希望に縋るように懇願されると、ひどく胸が痛む。
「ニルは何もわかってない……!」
「わかるよ! 逃げないと死んじゃうんだよ!」
「それは、ニルも同じだよ! ここで二人で死ぬか、二人で生きるかしか道はないんだ」
「道なんてない! 未来は決まってるの! もうどうしようもないのっ……!!」
ニルは涙をぼろぼろと溢しながら叫んだ。
しかし、その瞳は遥か遠くの景色に怯えるようで何も映ってはいない。
「ニル。僕を見てよ」
最後の力を振り絞って、ニルの頬に触れる。その手で、首輪に彫られた刻印を出鱈目に傷つけた。
隷属の力を失った刻印は暴走を始める。
消えゆく灯火のように強く煌めくそれは、命を奪う破滅の光だった。
「選んで。ニルはどうしたい?」
「そんなこと言われても、わからない……!」
「君の悪夢は僕が壊す。だから、もっと自由に生きて、たくさん好きなことをしようよ」
首を掴んだまま固まっているニルの手を取り、跳ねる鼓動に押し当てる。
「ニルさん。僕と生きてくれますか?」
「……レイ、わたしは……!」
ニルは言葉の代わりに悪夢に手をかけて、直中を割段して横に投げ捨てた。
その瞬間、首輪の魔力は臨界に達して爆縮を引き起こす。
高温の超圧は大地を深々と抉り、森の木々を円弧に削り飛ばした。
首輪が完全に崩壊すると、辺りに強烈な爆風が吹き抜ける。
「お前、何をした!?」
立ちこめる土煙の中で無事でいる僕らを見た男は、目を血走らせながら激怒する。
「隷属の首輪はどうした!? 魔人は命令に逆らえないはずだ!」
「二人で力を合わせて壊しました。もうニルに命令はできません」
「首輪を壊す方法など存在しない! 仮にあったとしても、刻印の暴走から逃れて生存した前例はない!」
「偽物の首輪に求め過ぎです。それに、知らないかもしれませんが、ニルはとっても強いんですよ」
「くそっ!! 獣の分際で、人間をコケにしやがって!!」
魔人をもの扱いしていた男は、苛立ちに頭皮を掻き毟る。
「負けを認めてください。そうすれば、ニルも許してくれると思います」
「黙れ! 魔人の威を借りてものを言うな!」
「……スキルだけで言ったら、たぶん僕の方が強いですよ」
「お前も致死スキル持ちだとでも言うつもりか……? ふざけるな!!」
激昂した男は短剣を振りかざす。
「致死スキルを授かった人間は、世界で数えるほどしかいない! それも、すべて国に管理されていて自由はないはずだ!」
「信じるか信じないかは、あなたの自由です。でも、あなたを許すか許さないかは、僕の気持ち次第だってことも忘れないでください」
「くそっ、くそっ、くそっ! 揃いも揃って俺を馬鹿にしやがって! もう我慢の限界だ!」
頭に血が上った男は、力任せに短剣を振り回す。
魔法剣は風の刃を生み出すと、闇に紛れて衣服を切り裂いた。
「スキルだけで勝ったつもりでいるようだが、毒を浴びても同じことが言えるかな!」
無数に飛来する斬撃が、袖口や背中、革のベルトを切断する。
そして、遂には体に達して、切り口から血が浮かんでくる。
「俺の勝ちだな」
男はいやらしく笑った。
「いや、何も言うな。気持ちはわかるよ。解毒薬を寄越せって言いたいんだろ? ……なら、地面に這いつくばって謝罪しろ! 人間を辞めて、奴隷として生かしてくれと泣きながら懇願するんだ! そして、お前の言葉で魔人を捨てろ!」
腕を伝って落ちる血液が死の恐怖を呼び起こす。
けれど、必死に傷口を舐めるニルの舌がもたらす痛みが前を向かせてくれた。
「なんだ、その反抗的な目は!」
「……その魔法剣、相手に毒を浴びせる力なんてないんじゃないですか?」
「また魔人のスキルか!」
「違います。あなたの魔法剣の使い方が間違ってるから、そう思ったんです」
僕は教授に教わったことを思い出す。
「刻印は人の願いに応えてくれる、生きた言葉です。代わりに、用途と違う使い方をすれば、効力は目に見えて弱まります。その魔法剣は大きさや装飾からして、女性や子供が自身の力で危険から身を守れるようにと書かれた刻印のはずです。そんな優しい言葉を毒で穢せば、壊れて当然ですよ」
「……何が言いたい」
「奴隷にした子の中に、その魔法剣を持っていた子がいたんですよね。抵抗されて大怪我を負ったんでしょう。同時に、その力を魅力的に思ったんでしょう。でも、あなたには一生使えませんよ。それは、そう言う刻印です」
男は腕の治癒痕を忌々しげに隠す。
「お金を払えないとわかっていながら僕と取り引きをしようとしていたのは、ニルの心を折るためですよね。自分から隷属を望むように仕向けて、スキルを最大限利用しようと考えていたのだとしたら、とても丁寧なやり方です」
隷属の首輪は、天命を捻じ曲げる。それは、祝福の否定と言っても過言ではない。
故にこそ、隷属の刻印は教会によって厳重に管理されている。
対して、違法に作られた首輪の多くは、肉体を縛ることができても、祝福までは及ばない。
だから、彼らは相手の心を壊して、自ら隷属を望ませようと画策する。
「もう何を言っても無駄か」
開き直った男は、奴隷を使って再び僕らを拘束してきた。
彼の視線の先には、複数の灯りが揺れていた。微かに鎧の擦れる音も聞こえてくる。
しかし、彼に緊張した様子はない。
「魔人も奴隷も、お前にくれてやる。だが、次会った時は後悔させてやる。覚えておけ」
男は逃走のために身を翻した。すると、忽然と“姿と気配が消失”する。
しかし、すぐに激しい電撃の音と共に所在が暴かれた。
「罠だと!?」
マシロさんが仕掛けた黒い電線が、男の足を樹状に焼き付ける。
それでも、彼は足を引き摺りながら逃走を続けた。
「他に仲間がいようが、俺のスキルには関係ない。罠があると分かれば、対策もできる」
男はスキルを使い、再び姿を消してしまう。
けれど、たった一つだけ、彼の悪行を捉えて離さない瞳があった。
「――雷撃招来」
木の影から飛び出したラムネさんが、怒りを込めて大きく拳を溜める。
「馬鹿な!? なぜ俺の居場所が……!」
男は咄嗟に避けようとする。
しかし、義手は稲光を伴って、夜闇を晴らす勢いで打ち出される。
「チェスト!!」
ラムネさんの拳が男の腹を抉り、野太い悲鳴をかき消すほどの雷鳴が轟く。
背中を突き抜ける放電が、彼女の怒りの大きさを物語っていた。
「もう終わりかしら」
ラムネさんは気絶する男を見て、不満そうに赤熱する義手を下ろす。
「あたしはあなたを商人とは認めない。けれど、いち商人として、あなたがしてきた所業は見過ごせない」
騒ぎを聞きつけ駆け付けてきた衛兵が、素早く奴隷商人を確保した。
「ふぅ。これにて一件落着かしら」
「そうね」
ラムネさんとマシロさんが笑顔を向けてくる。
しかし、衛兵たちは魔人の姿を見つけると、スキルを使い問答無用で拘束してきた。
「隊長! 手配書にある魔人です!」
「身体的特徴も合致しているようだな。よし、こいつも街まで連行するぞ。弱体化の首輪と枷を嵌めておけ」
「はい! 直ちに!」
「抵抗して危険なようなら、睡眠薬を打ち込んでも構わない。相手は獣だが、狡猾だ。決して侮るな」
衛兵たちは、ニルの腕を乱暴に掴む。首と四肢に枷を嵌められると、彼女の力は人の子のように非力になった。
すると、やにわに若い男たちが集まってくる。
「なぁ、隊長。頼みがあるんだが……」
「ああ。魔人の管理はお前らに任せる。好きにしてもらって構わない」
「本当っすか!? 今更なしとか言っても無理っすよ」
「壊すなよ」
「わかってますって」
衛兵たちの不穏な会話が聞こえて、声が詰まる。
「教会の連中の面子を潰せる上に、お楽しみまで用意されてるとは、ラムネとか言う女には感謝しねぇとな」
短髪の衛兵はニルの肩に腕を回すと、抵抗できないことをいいことに好き勝手に体を弄ぶ。その表情と手つきときたら、もう奴隷商人と何ら変わりはしなかった。
「人で無し」
思わず怒りの言葉が漏れる。
すると、男は著しく機嫌を悪くした。
「は? 誰にもの言ってんだよ。つーか、お前誰だよ」
「ニルを返してください」
「生言ってんじゃねぇよ。って言うか、何様のつもりだよ。ウザいから早く消えろや」
僕は衛兵に両腕を掴まれ、地面に膝をつかされた。
「お前も犯罪者として牢屋にぶち込んでやる」
男の目はニルを捉えて獣のように爛々と輝いていた。彼の取り巻たちも、興奮した様子で震顫している。
それなのに、ニルは助けての一言もくれない。
「ニル!!」
僕は苛立ちに耐えきれずに叫んだ。
けれど、ニルの瞳にじわりと浮かぶ涙が二の句を継がせてくれない。
「……レイ。わたし、魔人なんだよ? 人間じゃないんだよ? 人もたくさん倒した。お前のことも殺そうとした。とっても悪い子なんだよ?」
ニルは魔人であることに後ろめたさを感じているのか、僕と目を合わせてくれない。
「助けにきてくれて、嬉しかった。でもね、わたし、何にもないよ。お前にひとつも返せない」
鎖の繋がる空の手のひらを見つめながら、ニルは堪らなそうに静かに泣いていた。
「別れの挨拶は済んだみたいだな」
衛兵たちは、ニルを連れて行こうとする。
しかし、彼女は抵抗する気配もない。
「ニルの馬鹿! 分からず屋!」
僕は鈍い魔人に文句をぶつける。
「お返しなんていらない! 僕は最初から、ずっと君と一緒にいたいって言ったはずたよ!魔人の君と仲良くなりたかったんだ! それなのに、強いとか弱いとか、魔人だからとか言って逃げないでよ!」
ニルは背中を向けたまま返事をしてくれない。
「こんなに言ってるんだから、いい加減わかってよ……!」
「おい、暴れるな! 」
「“邪魔しないでください!!”」
溢れる想いのあまり、スキルで衛兵を振り解く。
すると、ようやくニルが僕を見てくれる。
「なんで……?」
「言ったはずだよね。男は狼だって。狼は狙った獲物は逃さない」
「ぁ……」
僕はニルの手首を掴む。
「もう優しくしないから」
「……いじわる」
ニルは苦しそうに胸を抑える。
けれど、その手は男に奪われた。
「寒い台詞聞かせるんじゃねぇよ。下っ端を負かした程度で粋がりやがって。相手との力量差も測れないガキが出しゃばるなっての!」
「うっ……!?」
「そうそう! 負け犬は負け犬らしく、地べたに這いつくばってりゃいいんだ!」
「お前! レイをいじめるな!!」
「弱い癖に歯向かってくるアイツが悪いんだ。世の中ってのはな、弱肉強食が全てなんだよ。お前も魔人なんだから、よくわかるだろ?」
「黙れ!! レイは弱くても、誰より強いんだ!!」
ニルは自ら枷を破ると、男を押し退けて僕に飛びついてくる。
「……なんだ。弱ったフリをしてやがったのか」
衛兵たちは揃って腰の剣を抜いてくる。
すると、ニルは背中におぶさったまま敵に向けて指を差した。
「レイ、やっちゃえ!」
「冗談言わないでよ! こっちは丸腰なんだよ!?」
「スキルを使えばいいんだよ」
「これ以上スキルを使ったら、本当に捕まっちゃうよ!」
「……じゃあ、わたしのために悪者になって。それで、一緒に逃げよう?」
ニルの唆すような言葉が心を震わせる。
それでも、人に嫌われるようなことはしたくなかった。
「お願いです。僕らのことは放っておいてください」
「嫌だね」
僕の願いは聞き入れてもらえなかった。
すると、沸々と湧き上がってくるものを感じる。
「なんだよ。文句があるなら言ってみろよ」
男の挑発に、祝福が怒りを刃に変えるのがわかる。
他人の未来を奪う。それがお前の生まれた意味だと、そう言われているような気がして吐き気がした。
しかし、背中に抱きつくニルが耳元で悪夢を囁いてくる。
その瞬間、別の何かが勢いよく弾けた。
「”二度と僕の女に手を出すな。次同じことをしたら、お前を許さない”」
気付くと僕は歯を食いしばり、きつく拳を握り込んでいた。
衛兵たちを睨め付けると、逃げるように野営地に引いて行く。
「レイ。その目、怖いわ」
「ぁ、ラムネさん……。すみません。怪我はありませんでしたか?」
「それはこっちの台詞よ。でも、心配してくれてありがとう」
ラムネさんから少し遅れて、マシロさんも合流する。
「ごめんなさい。助けに行けなくて……」
「彼女のことを責めないであげて。あたしが危ないからって止めたのよ」
「その気持ちだけで十分です」
「そう。……よかった」
「それにしても、随分と懐かれたものね」
ラムネさんは背中に引っ付くニルを見て肩を竦めた。
「……そっか。そうなんだ」
僕がスキルを使うように煽ったニルは、想像以上の結果に驚いているように見えた。
しかし、不意に目が合うと、彼女は上気した肌で艶っぽく微笑む。
「レイ」
ニルの視線は絡みつくようで、肩に顎を乗せると溶けるように体を預けてくる。
それでいて、両足はガッチリと腰に回されていて、隙間なく密着するように踵を押し付けてくる。そんな状態で尻尾をぶんぶんと振られるから、気を抜くと転びそうだった。
「好き。好き、好き、好き。大好き」
「ニル、落ち着いて! 興奮し過ぎて鼻血出てるから! あと、涎汚い!」
「うん。もっとたくさん呼んで。レイの声、もっと近くで聞きたい」
「ダメだこりゃ……」
ニルは何を言ってもうっとりと嬉しそうに鳴くだけで、全く話を聞いてくれない。
「ねぇ、レイ。わたしのこと、好き? えへへ。言わなくてもわかるよ。さっき他のオスに取られるかもって思って怒ってくれたもん」
「な、何のことかな……」
「とぼけた顔したって、わかるんだから」
ニルは無邪気な顔をしながら、ぐいぐいと踵を押し付けてくる。
「レイ。何か欲しいものある?」
「お礼ならいらないよ」
「タダは怖いの。わたし、今とっても気分がいいから、何だってあげるよ?」
「じゃあ、今度こそ友達になってほしいかな」
「そうだった。レイはわたしが欲しいんだった」
ニルは幸せそうにはにかむ。
「一緒に旅したら楽しいよ、きっと」
「うん、わたしも行きたい」
「でも、ニルには夢があるでしょ? やりたい事があるんだよね?」
「わたしはいいの。今度は自分の力で欲しい未来に追いつくの」
「……そっか。ニルは偉いね」
僕はニルを背中に抱えていながら、どこか遠くの存在のように感じられた。
(どうか、ニルの夢が叶いますように)
彼女が二度と悪夢に縛られることなく笑えるように、こっそり呪文を引こうとする。
しかし、ニルに口を塞がれた。
「怒るよ」
ニルの声は本気だった。
「……どうして? 夢が叶うんだよ? 何がいけないの?」
「わたし、“未来が見える”の。だから、レイが嘘つきだってわかる」
「嘘じゃないよ」
「……ほら、また自分に嘘ついた」
ニルはもどかしそうに髪に顔を埋める。責めるようにぶつけられる鼻息で髪が舞ってくすぐったかった。
「……じゃあ、ニルもスキル使わないって約束してよ」
「どうして?」
「それは……もしもの自分に、ニルを取られるみたいで嫌だから……」
「わがままだね。……でも、オスはそれくらいの方がいい」
僕らはスキルで勝ち得た信頼を捨てる約束をする。
まもなく、ニルは耳元で寝息を立て始めた。
「魔人ちゃん、やっと落ち着いたわね」
「ニル、頑張ってた」
「でも、まだ寝かせるわけにはいきません」
「うん。楽しいのはこれから」
僕らはラムネさんの案内で荷物の場所まで戻った。
「んん……」
料理を温めて直していると、ニルが目を擦りながら起きてくる。
「おはよう、ニル」
「……うん」
ニルはまだ寝足りないのか、マシロさんの膝の上で二度寝しようとする。
けれど、目の前に広がる料理を見て、慌てて飛び起きた。
「わぁ! ご馳走だ!!」
「ニル。少し遅くなっちゃったけど、お誕生日おめでとう」
「うんっ! ありがとう!」
ニルは地面に手をついて前のめりになりながら、キラキラと目を輝かせる。その口からは、ぼたぼたと音を立てて涎が滴り落ちていた。
「これ、わたしが食べてもいいの?」
「全部ニルのよ」
「本当!? やったぁ!」
「どうぞ。召し上がれ」
「うん!」
ニルは嬉々として料理を食べ漁る。
しかし、途中で手を止めると、何を思ったのか僕らにも食事を分けてくれた。
「お邪魔してもよかったのかしら……」
ラムネさんはニルに渡された肉を片手に尋ねる。
「マシロから聞いたよ。お前がいなかったら、わたしを見つけられなかったって」
「偶然居合わせただけよ」
「それでも、ラムネは助けにきてくれたよ。何もしてないくせに偉そうにしてた人間のオスたちとは大違いだよ」
「それについては同感だわ」
「あいつら、絶対にモテないよ」
「ええ、そうね」
ラムネさんとニルはくすくすと笑う。
「ねぇ、あのビリビリどうやったの? わたしにもできる?」
「あれは義手に彫られた刻印の力だから、あなたには無理よ」
「じゃあ、その義手ちょうだい!」
「ちょっと!? もう、返しなさい! プレゼントが欲しいなら、今度別のものを用意してあげるから!」
「……約束だからね?」
「その代わり、もう人間を襲わないこと! どう? 守れるかしら」
「わたしは悪者しか倒さないよ? ……でも、たまにいじわるされて、やり返しちゃうの」
「……あいつら、帰ったら減給ね」
「……怒った?」
「いいえ、こっちの話! それより、少し聞きたいことがあるんだけれど……」
ラムネさんはニルを揶揄った犯人を突き止めると、鬼の形相で算盤を弾き始める。
「マシロ。ラムネが怖い」
「お仕事モードよ。邪魔しないように、あっちで食べよう」
「うん」
僕らは他愛ない会話を交えながら食事を続けた。
食べ切れないほど作った料理は、あっという間に底をついた。
「お腹いっぱい。しあわせで、夢を見てるみたい」
そう言って肩を寄せてくるニルは、まだ少し不安そうだった。
「ずっと一緒にいてね。レイのことは、わたしが守る。悪い奴が来たって、誰にも触れさせたりしないから。強いやつでも、頑張って戦うから。だから、わたしのことも守ってね」
僕が返答に窮していると、ニルはおもむろに膝の上に跨り抱きついてくる。
「レイ。わたし、欲しいものできた」
「何?」
「……レイとの子供」
「ちょ!? いきなり何を言ってるの!?」
「いきなりじゃない。血を残すのは大切なことだよ」
「それはそうかもしれないけど……」
「特別な輪っかでもいいの」
「首輪のことなら聞けないな」
「だったら、わたしと子作りしよ?」
「そう言うことはできません!」
「なら、交尾だけでもいいから。ね?」
ニルは密着したまま、耳元で囁くようにねだってくる。
しかし、僕が無視を続けていると、焦れたように上着の裾を引っ張ってきた。
「わたしに勝てると思ってる?」
ニルは服の下から腕を入れると、背中に爪を突き立ててくる。
「……脅してるの?」
「もう、ひとりは嫌なの。寒いのは嫌い。だから、お願い。よしって言って?」
可愛い女の子から純粋に求められると、拒む理由が片端から溶けていく。
しかし、理性が飛ぶ寸前で、ラムネさんが気付いて止めに入ってくれた。
「こら。年頃の女の子が滅多に男に抱きついたりしないの」
「邪魔しないで! 今、レイと大事なお話してるの!」
「そういう話は、お付き合いをした後でするものよ。あなたたちには、まだ早いわ」
「そうなの……?」
「それは……」
「レイ。あなたが流されてどうするの。ニルが魔人だからって、軽く扱っていい理由にはならないわよ」
「すみません……」
「マシロさんも、見てたなら止めなさい」
「今日はニルの誕生日だから。したいこと、何でもさせてあげたい」
「だからって、限度があるでしょう。大体、あなたはそれでいいの?」
「ニルの幸せは、私の幸せよ」
「はぁ……。見てるこっちが疲れてくるわ」
ラムネさんは大きなため息を吐くと、野営地に帰る支度を始めた。
けれど、ニルは彼女の手を掴んで離さない。
「もう。今夜だけよ」
「うん」
ニルの希望もあって、僕らは川の字で寝ることになる。
「眠てるからって、変なことをしたら殴るから」
「そんなことしませんよ」
「……それって、あたしを女として見てないってことかしら?」
「揚げ足取らないでください!」
「レイ、ラムネ。静かにして」
「うるさくしてると、魔獣が寄ってくるよ?」
「それは困るわね……」
「ですね……」
会話をやめると、すぐに睡魔に襲われる。
けれど、今日の出来事を思い出すと気持ちが昂ってしまって、なかなか眠りにつくことができない。
心を落ち着けようと見上げた夜空は、あいにくと分厚い雲で覆われていた。
しかし、ニルの特別を引き伸ばしてくれた空模様は、勤めを果たしたように気持ちよく晴れて行く。
(もう朝か)
白む夜に溶けていく月に見惚れていると、控えめに服の襟を引かれた。
「……眠れない?」
ニルは重たい目蓋を上げて、ゆっくりと首を横に振る。
そんな彼女は、胸元から僕を見上げて小さく夢を預けてくれた。
「明日、お返事するね」
「うん。待ってる」
「よかった」
ニルは幸せそうに大きく笑うと、僕とマシロさんの間で穏やかに眠りについた。