第7話 『遥かな夢のつまみ食い』
※本文には過激な表現が含まれます。15歳未満の方は閲覧しないでください。また苦手な方も無理のない範囲でお楽しみください。
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マシロが洗い物に出かけると、わたしはオスと二人になった。
「ねぇ、起きてる?」
這い寄って顔を覗くと、小さく返事をくれた。
でも、声はとっても眠たそうで、体の力も抜けてる。
「弱いくせに、警戒心ないね」
縄張りの中で無防備に弛緩してるオスを見てると、なんだか歯が痒くなった。
「そうだ!」
昨日の仕返しをしてやろうと思い、集めておいたビリビリを取りに行く。
「よかった。まだ残ってた」
服の上にキノコを乗せて戻ると、オスは木に寄りかかってすやすや寝息を立ててた。
「……えい!」
「んぐ……!?」
締まりのない唇にキノコを押し込むと、オスが苦しそうな声を上げる。
「んんっ!!」
目を覚ましたオスは、驚いた顔でじたばた暴れた。
でも、逃がしてなんてあげない。
「食べ物を粗末にしちゃいけないんだよ?」
寝起きで頭がぐるぐるしてるオスを蹴り倒して、お腹の上に跨って口と鼻を塞いだ。
すると、すぐに唾液と空気の絡んだだらしのない音が鼓膜を舐めてくる。
「えへへ」
オスは目尻に涙を溜めてた。その瞳に映るものがわたしだけだと思うと、とっても気持ちが良かった。
どんな顔をしてるか気になって、そっと手を退けてみる。でも、鼻水と涎がびょーんってついてくるから、折角の気分が台無しだ。
「ニル! いきなり何するの!」
ベタベタの手をオスの体で拭いてると、肩を掴まれて怒られた。
「喉に詰まったらどうするの! 死んじゃうでしょ!」
「わたしがそばにいるのに、ぐーぐー寝てるお前が悪いんだ」
「信用してたんだよ!」
「何それ」
「ニルはこんなことしないと思ってたのに、見損なったよ!」
「う、うるさい! わたしのことをお前が決めないで!」
「んごっ!?」
「お前は弱いんだから、わたしに従ってればいいの!!」
文句ばっかり出てくる口を埋めると、むしゃくしゃした気持ちが少しだけ晴れた。
「まだまだ、たくさんあるからね」
胸の上に頬杖をついてお口を観察しながら、隙間ができたら丁寧に詰めてあげる。
けど、不意に胸に伝う音が小さくなって、慌てて中身をかき出す。
「まだ死んじゃダメっ!」
「……誰のせいで! ごほっ……こうなってると、思ってるの!」
「お前が弱いのが悪いんだ!」
「僕は人間なんだよ! 魔人と同じにするな!」
オスはわたしを押し退けて、顔を青くしながら水筒を掴む。
でも、手が震えて上手に蓋が開けられないみたいで、すっごく苛々してた。
「ねぇ、助けてほしい? 指を舐めたら、開けてあげてもいいよ」
「いらない!」
オスは負けず嫌いで、一人で頑張ってた。
けど、最後に水筒を使ったのはわたしだ。いっぱい締めたから、人間の力じゃ開けられっこない。
「指を舐めるだけでいいんだよ? 誰も見てないよ」
焦れたオスに言い訳をあげて、口の前に指を出してみる。
すると、彼は悔しそうな顔をして、チロリと舌先で舐めてきた。
「……っ!!」
温かくて柔らかい舌が触れた瞬間、体がぞくってした。胸がきゅってして、嬉しい気持ちがいっぱいに広がる。
わたしの言葉を信じて縋ってくるオスが可愛かった。泣くのを我慢するところは、少しだけ見直した。ほんのちょっぴりかっこいいなって思った。
でも、もっと情けない姿が見たくなって、つい涙袋に手が伸びてしまう。
「……ダメダメ! 約束を破るのは悪者のすることだ!」
わたしは水筒を開けて、オスに水を飲ませてあげた。
でも、中身は空っぽで、なんにも出てこない。
「……そうだ。魔法の袋だと思ってひっくり返したのに、すぐに水が枯れちゃったからポイしたんだった」
「ニル……!」
「わたし、悪くないよ! 飲んでいいって言ったのはお前だもん!」
「中身を捨てただけだろ!」
オスは喉が渇いて我慢できないみたいで、汲み置きの生水を沸かし始める。
「くっ、体が痺れて……ああ、くそっ! 面倒くさいなっ!」
「下手くそだね」
「は?」
「へへ。怒っても怖くないよ」
「寝てる人間に毒を盛る卑怯者に言われたくない」
「毒じゃないよ!ちゃんと危ない模様のは捨てた!」
「どうだか」
「信じてないな!」
「言っとくけど、幻覚作用があるマヨイタケは、シビレタケと模様は同じだから。裏から肉の詰まり具合を見ないと、正確には判別できない」
「そうなんだ。知らなかった。次は気をつけるね」
「……次ってなんだよ。ふざけてるの?」
「……なんか、今日は怒りっぽいね。お前らしくないよ……?」
「……らしいってなんだよ。僕は元からこうだろ! 何も変わっちゃいない!」
「え、なに? ちょっ、わっ……!」
わたしはオスの手に押されて、一緒になって地面に倒れる。
(どうしよう……襲われちゃった)
人間の膂力は弱くて、魔獣と違って動きもとろかった。だけど、初めての経験にびっくりして、体が全然言うことを聞いてくれない。
わたしを見下ろす目は、獲物を見るみたいに鋭かった。
「僕は無機物に手間を取らされるのが一番嫌いなんだ。それなのに、こんなに手が震えてたら、何もできないじゃないか」
「だ、大丈夫だよ。寝て起きたら治るよ」
「そんなことはどうでもいいんだよ。この後もやらなきゃいけないことがたくさんあったのに、このままじゃ役立たずと思われるじゃないか。どう責任取ってくれるんだよ」
「……でも、ビリビリして美味しかったでしょ?」
怖い顔で見つめられるのが嫌で、笑顔を誘うように言ってみる。そうすれば、いつもの優しいオスに戻ってくれるんじゃないかって思った。
でも、彼のいじわるな目は、わたしを捕まえて逃がしてくれない。
「謝りもしないで、どこに行くつもり?」
抜け出そうとしてもがくと、頭の上で手首を掴まれた。蹴り飛ばそうと思っても、股に膝が刺さって力が入らない。
胸の上にシビレタケを積まれる。聞かなくてもわかる。全部、わたしに食べさせようとしているキノコだ。そう思うと、体の芯からぶるりと震えた。
「口を開けて」
「無理だよ! そんなに入らな……んむぅ!?」
「ほら、柄がはみ出てる。唇を窄めて」
「うぅ……おっ、んっ。……ほう、はんはんらのい!」
「喋る暇があったら食べないと。息ができなくなるよ」
「やら……からだ、じくじくして苦しいの!」
「……そうだよ。シビレタケを食べると、体が苦しいんだよ」
「いや、やめて……」
「ニルも同じ思いをしろ。何も手がつかなくなるまで痺れさせてやる」
本気のオスは遠慮を知らなかった。無理やりお口にキノコをねじ込んできて、指でお鼻も摘まれて、咀嚼しないと息ができないようにされる。
キノコの中には、たくさん危ないのが混じってた。でも、そのことを伝えようとして口を空けても、すぐにいっぱいになるまで埋められちゃうから何も言えない。
(あ……これ、頭がぐるぐるになるやつだ……)
噛み砕いた肉が胃に落ちると、お腹がふわふわしてきて、頭がじわってした。視界がぼやけた。呼吸をするたびに、心臓がバクバクいってうるさくなる。
でも、たくさん息をしても、全然苦しいのが治ってくれない。
(やだよ、怖い!)
体が自分のものじゃなくなるみたいで、不安でぎゅっと目を瞑った。
だけど、オスが大丈夫って、優しく頭を撫でてくれた。
「ニル」
「あっ……」
体は苦しいままだった。苦しくしてくるのはオスだった。なのに、心配するような目と手つきに、心からほっとする。
薄く覗いた視界の中で、彼は小刻みに震えてた。自由の利かない体に苛々して、ぎりぎり奥歯を噛んでた。
そんな人間のオスは、わたしだけに全力でいてくれていた。
口の中に物を突っ込まれるのは嫌だった。
けど、わたしが喉を鳴らして飲み込むたびに、彼は嬉しそうに笑ってくれる。言う通りにしたら、えらいって褒めてくれる。頑張ったねって、優しく頭を撫でてもらえた。
だから、苦しいのを我慢してあげてもいいかなって思った。
でも、それは負けを認めるみたいで嫌だった。
わたしは考えて、大きく息を吸うふりをして悪戯を誘ってみる。
けど、やり方を間違えたみたいで彼を怒らせてしまった。
「反省する気はないんだね」
「ち、違うよ! これは、お前が……!」
「他人のせいにするんだ。なら、こっちも手加減しないから」
「そうじゃないの! これは……」
「言い訳は聞きたくない」
「いやっ……くぅぅ、あぅ……」
謝ろうとして口を開けると、キノコで口を塞がれそうになる。それが嫌で唇を閉じると、反省してないっていっぱい怒られた。
(どうしたら許してくれるの……?)
唇でキノコを防ぎながら、オスの目を見て考える。
そこで、ふとお母さんに叱られた時のことを思い出した。
(……そっか。わたしが食べさせた中にも、きっと危ないのが混じってたんだ)
オスが怒ってるのは、お母さんと同じ理由だ。わたしが悪いことをしたから、苦しいのを我慢して一生懸命になってくれてるんだって思う。
なら、もっと真剣に謝らなきゃいけない。誠意を見せないとって思った。
「……んっ!!」
わたしは両手で服を捲ってお腹を晒した。
格下相手に弱点を見せるのは恥ずかしかった。だけど、今は悔しいのを我慢して、ヒスイに教わったごめんなさいを伝える。
なのに、いけないことをしてる背徳感と、お腹を圧してくる熱に浮かされて、体が勝手に盛り上がっていく。
尻尾がぴんと立って痛かった。
オスは気づいて、ゆっくり腰を上げてくれる。
けど、今度は知らない疼きに襲われて、不安になって、追いかけるみたいに腰が浮いてしまう。
「……ごめんなさい」
ぐるぐるな頭で、何とか言葉にする。
でも、オスは信じてくれない。
「顔を隠してるけど、本当に反省してる?」
「してる。してるよ」
「何を? どんな風に? お腹なんか見せなくていいから、言葉で聞かせて」
「危ないの食べさせて、体痺れるの怖くて……だから……」
「なんだ。謝罪かと思ったら、自分の心配か」
「……許して! もう、いっぱいなの!」
「そんなこと言って、喉は焼けるくらい熱いよ」
「それは……!」
喉をぐりぐりされると、身体が悦んでびくって跳ねた。
「わかるよ。本当は欲しいんだよね。さっき寂しいって言ってたもんね。食べ足りないんだよね」
オスの言葉を聞くと、勝手に涎が溢れてくる。いじわるを誘うみたいにもくもく湯気が立ってるのが見えて、恥ずかしくて顔が熱くなった。
「よかった。ニルのお腹をいっぱいにするのが僕の夢だったんだ」
わたしのにおいが、オスを狂わせていくのがわかる。
「お願い……優しくして」
「大丈夫。限界まで食べさせてあげるから」
オスは優しいフリをして、ぐるぐるのキノコばっかり選んで口に入れてくる。
「くぅっ……優しくって、言ってるのに……」
無理やり食べさせられて涙が溢れてくる。
きっとオスは、わたしを許す気なんてない。さっきのわたしみたいに、いじめて楽しんでるんだってわかった。
「せっかく取ってきてくれたんだから、残さず食べないと勿体ないよね」
「うぅ……。ひっく……」
「そう。ゆっくりでいいよ。味わって食べて」
前より口には余裕ができた。だけど、自分の意思で食べているんだって思い知らされてるみたいで、心臓がぞわぞわってする。
「美味しい?」
嬉しそうな声が耳にかかって、体がひゃってなる。
「耳は、や……。大事なとこなの」
「そう。なら、大切にするね」
「あっ……だめって、言ったのに……」
オスは付け上がるばっかりで、少しも正気に戻ってくれない。
なら、早く楽になりたい。もう苦しいだけなのは嫌だった。
「……お願い。ちゃんと食べるから、お残ししないから……一個ずつ、ゆっくり食べさせて」
自分でも聞いたことがない、恥ずかしくなるくらい甘く蕩けた声が出る。
でも、オスは笑わないでいてくれた。
「幸福は恐ろしいものじゃないよ。悪いことでもない。幸せは生きる者の義務だから、素直に享受していいんだよ」
「でも……」
「他に見てる人はいないよ。だから、大丈夫。欲しいものは欲しいって言っていいんだよ。僕がなんだって叶えてあげるから」
オスに頼めば、どんなお願いでも叶えてもらえる。そう思うと、わたしの中で何か重たい鎖が弾け飛んだ。
「わたしを見て」
「どんな風に?」
「それは……いや、ダメだよ。違うの。お前には言えない。それに、どうせ……」
かっこ悪いお願いが溢れそうになって、拒まれるのが怖くって口を閉じた。
なのに、オスは分かった目をして触ってくる。
右耳に親指を入れられて穿くられた。顎を爪先で掠めるように、かりかりって引っ掻かれる。
でも、どっちも下手くそで、気持ちいいところを避けるみたいで苛々する。
くるくる。こねこね。さわさわ。彼の手つきはねちっこくて、もどかしい。
だけど、触って欲しいところばっかりは絶対に弄ってくれない。
(そこじゃないっ!!)
指を良いところに当てたくて、迎えるみたいに頭を動かす。
(ほら、ここ!)
差し出した体に迫る指を見て、期待に思わず笑顔が浮かんだ。
でも、あと少しのところで、急に手が止まる。
「……なんで?」
「指を舐めたらしてあげる」
「……そんなこと、しないもん」
「そうこなくっちゃ」
勝負を挑まれたわたしは、いつもの癖で受けて立ってしまった。
そこからは、たくさん苦しいが続いた。
「ん゛んっ。ふーーっ。んっ、んっ。はっ、はう。うっ。んむっ!もごっ、ぐっぽ。けほ、けほ……」
包むみたいに耳を握られて血潮の音を聞かされながら、抵抗する口をキノコで塞がれて、許しを求める舌さえ自由を奪われる。
だけど、もうどうでもいい。負けでも、それは毒のせい。わたしが弱いことにはならない。わたしはオスより強い。もし負けたとしても、次で勝てばいい。
とにかく、さっきからキノコがご馳走に変わって見えて、きゅうきゅうお腹が鳴って、切なくって我慢できない。
「んあぁ」
わたしは大きく口を開いて、ご飯をおねだりした。
でも、オスの手が来たのを見て、きゅって閉じてやる。
「へへ。ばぁか」
「いい度胸してるね」
乱暴に腕を掴まれて、逃げられなくされて強引に注がれるのは、とっても気持ちが良かった。
それでも、休む暇がないと、段々と辛くなってくる。
意識が遠のき始めて、飲み込むのが怖くなる。口に運ばれる食べ物の見た目が、味や触感と噛み合わなくって気持ちが悪い。
汗をかき過ぎて喉が乾いた。絶え間ない食事に、息つぐ暇ももらえない。
(もう、むり……!)
酸素が欲しくて、気道を通そうとえび反った。
けど、オスにはおねだりと勘違いされる。
「待って……! もう、あたま、真っ白で……! がんがんって、ダメなの!」
「でも、美味しそうに食べてたよね」
「あとで食べるから……今は休ませて!」
わたしは必死にお願いした。
だけど、オスは聞いてくれない。
感覚が遠い体で逃げようと暴れた。本当に息が足りなかった。頭が痛くて、何も考えられなかった。
「わたしの負けでいいから……許して」
じわりと涙が溢れてくる。
もう限界だった。
なのに、体は少ない酸素を抵抗に使わずに、咀嚼に使ってしまう。
こく。こく。
喉に親指をあてがわれているせいで、飲み込む感覚が鮮烈に響く。
オスは溢れる涙を指ですくって、わたしを透かして愛でてくれた。
胸がじぃぃんってした。許してもらえたように感じて、全身の力が抜けていく。
緊張で強張っていた体を投げ出すと、もう少しも力が入らなかった。
でも、不意に視界を埋め尽くすご馳走が見えて、堪らず目を見開く。
「全部入れちゃえ」
「ひっ、や……」
オスの言葉に痛いくらいの快感が奔った。
彼が両手に集めたキノコは、とても一回じゃ食べ切れない量だった。それなのに、上から無理やり捩じ込んできて、かみ砕く時間もくれずに飲み込まされる。
ごきゅっ。ごきゅっ。
いやらしくて重たい音が響く。
丸呑みでぷっくり膨らんだ喉を爪で潰されると、頭がチカチカして幸せだった。気絶しかけて、景色が白く飛ぶ。
でも、落ちた側から口に残ったものを無意識に飲み込んで、刺激に叩き起こされる。
そこからは、意識が飛んでは目覚めるを繰り返しだった。
頭は眠るたびに全てを忘れて、体から送られてくる刺激に弾ける。
でも、その味は憧れと似ていて、心地よかった。
(わたしのことも……)
食べ残しを押し上げるくらい重たい唾液がゆっくりと頬を這う。
わたしは弛緩したからだで、オスを誘った。
でも、彼は一人勝手に目を覚ましてしまう。
「ニル……ごめん。こんなことするつもりはなかったのに……苦しかったよね、ごめんね」
オスは真っ黒な目をしてた。覗いていると落ちてしまいそうなくらい暗い瞳だった。
わたしが先に手を出したのに、自分のせいだってぼろぼろ泣いていた。さっきは涙を堪えてたのに、わたしに嫌われたくない。それだけを不安に思って、嗚咽を漏らしてくれている。
寄る辺のない冷たい闇が、心を惹きつけて離さなかった。吸い寄せられるように伸びる手は、答えを知っているみたいだった。
わたしは自分の心に任せてみる。
気づけば、わたしは彼をひっくり返して、上から唇を奪っていた。
(だいじょうぶ。だいじょうぶだから)
天地を返して、細かく砕いたキノコを唾液といっぺんに注ぐ。
要らない理性を溶かしたくて、余計なものをねぶり取るように、絶え間なく想いを流し続けた。
頭を掴んで口移しをされたオスは、たくさん泣いてた。でも、肌になじむ涙はあったかかったから、きっと間違ってない。
くちゃくちゃ、どろどろ。
頬に詰め込んだものを言葉の代わりに渡す。オスがくれた苦しいくらいの幸せを、わたしの嬉しいと混ぜて一緒にして返してあげた。
酸っぱい匂いがツンと鼻についた。苦味と痺れで口がおかしくなって、緩んで閉まらない。
食べきれないと思っていた幸福は、二人で分けるとあっという間になくなった。
繋がる理由がなくなった唇で、惜しむように赤身を啄む。
朦朧と熱に浮かされる中で、漏れる吐息が揃うのが堪らなかった。
「毒が消えかけてたのに、どうして……」
「わたし、まだいっぱいじゃないよ。ひとりで先にご馳走様なんて嫌だ。最後まで一緒がいい」
オスが息を吐く度に、わたしの匂いがする。彼の声を聞いて、耳が悦んでるのがわかった。
だけど、もうおあずけは嫌だ。
わたしは目の前の幸せを貪る。
「……ぁ、すれ……」
心地良い場所を探して、思うままにのたうち回る。
でも、込み上げる熱を慰めるにはもどかしいばっかりで、苦しくて涙が溢れてくる。
無知なわたしは、優しい彼の手を誘った。
「ねぇ。たくさん、きもちい、きもちいしよ?」
「ニル……」
「ぎゅーってしてあげるから、ね?」
わたしはオスの欲に、こっそり自分の欲を混ぜる。
でも、彼は何かに葛藤してて、全然構ってくれない。
だから、ごろんて位置を替えて、手を出しやすいようにしてあげる。
「……ほら。こーやって、りょーてでお口広げて待ってるから。たくさんちょうだい」
羞恥で真っ赤になりながらオスを唆す。
すると、彼は最後の一つを拾い上げて、当たり前みたいに丸ごとくれた。
だけど、彼もお腹が寂しいのか、妬むように見てくる。
(そんな目で見ないで)
わたしは口の中身をオスと半分こした。
普段なら、他人に食べ物なんて分けてあげない。でも、今は自然とそうしたい気持ちが込み上げてきた。
優しいオスは目を回してた。獣の色が表に出てきてた。
「君って子は……」
「わたし、魔人だよ。人間じゃないもん」
お互いに両手を伸ばして、喉に指を押し当てる。
示し合わせなくても嚥下が揃った。誰かと一緒に食べるご飯は、とびきり頭が痺れた。
(これが、おすそ分け)
口に親指を入れられて、他の指で頬を撫でられる。
「乱れて、ヘロヘロで。だらしない顔」
オスの悪口が褒め言葉に聞こえるわたしは、きっとどこかおかしいんだと思う。
しばらくして、毒が切れかけてくると、急に寒くなって体が震え始める。
「どこ? どこにあるの?」
嫌な汗をかきながら、ご馳走を探して体を弄ぐり合う。
あちこち服を捲った。袋の中も漁った。でも、何にもなかった。
ふと心くすぐる匂いがして体を回すと、鈍く光るものが見えた。
(きっとここだ!)
閉じた歯みたいな金物を引っ掻くと、中で何かがごそりと動いた気がした。
逃げようとするオスの足を捕まえて、顔を下敷きにして、鼻で蓋を起こして先端を咥える。
でも、マシロの足音が近づいてきて、それどころじゃなくなった。
それなのに、今度は彼の方が抱きついて離してくれない。
「やめ……離れて。マシロに勘違いされちゃう……」
「そんな蕩けた顔して、何を勘違いされるって言うの?」
「ふぇ……?」
気の抜けた声と緩み切った頬に気が付いて、慌てて手のひらで顔を隠す。
口から滴る熱が、オスの服にシミをつくる。慌てて袖で拭いても、垂れて止まらなくて、お漏らししたみたいに広がって黒ずんでいく。
「……ごめんなさい。ごめんなさい」
泣きじゃくりながら謝るわたしを、オスは許してくれた。涙を拭いてくれた。離れずにそばにいてくれた。
おかげで、マシロに殺されずに済んだ。
「何してるの?」
「勝負、ですかね」
「そう。どっちが勝ったの? 尻尾振ってるから、ニル?」
「ち、違うよ!」
「じゃあ、なんで嬉しそうなの?」
「ひ、ひきわけにしたの! 今度決着つけようねって、約束もしたの」
マシロに嘘をつくと、汗がだらだら流れた。触れ合うオスの心臓も、わたしに負けないくらいばくばくしてた。
不安を埋めたくて、思いっきりぎゅってした。彼もわたしのことを頼ってくれた。
でも、途中でマシロが割ってきて、離れ離れにされる。
「痙攣するまでしなくてもいいのに。二人とも顔が真っ青」
「「ぎもぢわるい……」」
「これ食べてたの? この前、毒って言ってなかった?」
「マシロさん、助けて……」
「それ、ちょうだい。苦しいの……」
「そんな目をしてもあげない。我慢して」
マシロは優しく背中を摩ってくれた。
「なんで勝負することになったの?」
「昨日の仕返ししようと思って……」
「いたずらされたから、懲らしめようとして……」
「それは、ただの喧嘩。ほら、早く仲直り」
わたしはマシロに言われて、オスと握手をさせられる。
だけど、わたしは謝らなかった。
意地を張ってるんじゃない。悪いことしたかなって思ってる。反省も、ちょっぴりしてる。
でも、謝ったらもう終わりな気がして、この勝負をなかったことにはしたくなかった。
黙ったままの彼も、きっと同じ理由で仲直りを嫌がってるんだと思う。そう思わないと、今にも泣いてしまいそうだった。
そんなわたしたちを見て、マシロがぽんと拳骨を落としてくる。
「次は雷よ」
マシロの両手は、バチバチ光ってた。
力の差を見せつけられて、全身の毛が逆立った。このメスには勝てないって、本能でわかった。
「……いたずらして、ごめんなさい」
わたしはマシロに言われて無理やり仲直りさせられた。
でも、これじゃあ弱いって思われる。ダメなメスだって嫌われちゃう。
「んっ!」
わたしはポケットに隠しておいたとびきりをオスの口に入れて、全力で逃げた。
でも、彼の反応が気になって、途中で振り返る。
(喜んでくれるかな)
わたしは期待に微笑む。
彼は驚いてた。ちょっぴり怒ってた。でも、吐き出さないで全部食べてくれてた。
「あれ、美味しいかも」
「食べても平気なの?」
「はい。なんか身体が楽になった気がします」
オスの笑顔に安心して、わたしは自分の巣に帰った。
「けふっ」
小さな湖のほとりで、わたしは丸くなる。たくさん走ったのに、まだまだお腹が重たかった。
「楽しかった」
今日あったことを思い出して見たくなって、そっと目を瞑る。
すると、夢を冷ますみたいに夜風が吹いてきた。代わりに、白い幾望の光を浴びて、体が無理やりに火照っていく。
幸せを塗りつぶそうとしてくる世界にムカついた。高く綺麗に輝く月を砕きたくなった。
でも、オスの匂いが染みついた服が、今日の楽しいは本物だって教えてくれる。
「明日も会えるかな」
手が汚れてるのが気になって、浅い水場まで起きて行く。
湖面に浸かると、体の熱が浚われる。すると、本当の気持ちだけが残った。
「お母さん」
幸せが抑えられなくて、天樹のふもとにいる家族を想って手を伸ばす。
「わたしね、空っぽだけど、食べてもらえたよ」
――だから、きっと。わたしの運命の相手も、必ず世界のどこかにいる。そう信じることができる。
「いつか、逢えるよね」
人間のオスは、わたしを安心で満たしてくれた。
だから、また昏い未来を歩いて行ける。
もう寒いのは嫌だ。
「強くならなきゃ」
わたしは決意して、縄張りを棄てた。