第5話 仄暗い心底の黄金
半刻ほど経つと、一人が先に水浴びから戻ってきた。
(もう、待ちくたびれたよ)
目隠しが解きやすいように、止まる足音に後頭部を差し出す。
けれど、彼女は隣で屈み込んだきり、身じろぎひとつしない。
「……あの、マシロさん? 終わったなら見てないで……」
そこまで言って、ぽたぽたと水滴が垂れてくることに気がつく。
「もしかして、ニル?」
返事はなかった。けれど、じぃーっと注がれる視線は、確かにニルのものだった。
しばらくして、静かに聞かれる。
「抵抗しないの?」
ニルは返事を聞くより先に、胸を突いて押し倒してくる。覆い被さるように跨って、動脈に牙を宛てがってきた。
拍動に浮かぶ血管が犬歯を誘うように押しては引く。
すると、彼女は焦れたように牙を突き立てた。
「殺すよ。死んじゃうよ。怖いでしょ。みんなみたいに逃げてもいいんだよ」
ニルは脅すように言う。
しかし、声音は穏やかなもので、鋭い牙も悪戯に表皮を掻くばかりだった。
首筋を撫でる呼気が擽ったかった。
息遣いはゆっくりと耳元まで上がっていく。その口は目を覆う布を咥えると、器用に首まで下ろしてくれた。
「どうだ。わたしは強いんだ。わかったか?」
ニルは濡れ髪を煌めかせて得意げに威嚇してくる。
開けた視界いっぱいに映る艶な姿に、思わず心を奪われた。
けれど、彼女は反応が気に食わなかったようで、ヘソを曲げてしまう。
「……また無視か? 怪我しないとわからないなら、手加減してあげないよ」
「ま、待って! ニルが強いのは知ってるよ!」
「そうだよ。わたしが本気を出したら、お前なんてすぐに、きゅ~、なんだから」
「困ったな。どうしたら助けてくれる?」
「ん〜とね、代わりのお肉くれたら許してあげる。美味しくて、大っきくて、綺麗なお肉じゃないとダメだよ」
「でも、狩りで怪我したら料理が作れないな」
「え〜。それは嫌」
ニルは渋い顔で牙を引っ込めた。
「お前は弱いのに、どうして獲物を分けてくれるんだ? あんなに美味しいんだから、独り占めしないとおかしいよ」
「ニルは美味しそうに食べてくれるから。作ってあげたくなるんだ」
「わたしのために狩りをしてくれるの?」
「違うよ。僕のためだよ」
「群れに入ってないのに、どうして?」
「それは……寂しいから、かな」
「お前には、マシロがいるだろ?」
「ニルは一人でいて寂しくないの……?」
「うん。強いから、平気なの」
「すごいね。偉いね」
「これくらい普通だよ」
「……そっか。普通か」
僕は欠けた心を隠すように目を伏せる。
「もっと、ちゃんと生まれたかった」
「修行すればいいんだよ。そうしたら、少しは強くなれるよ」
「でも、それは僕の願いで、ニルの願いじゃないでしょ?」
「よくわかんないけど、強くなったら何か欲しいんだよね? 何が欲しいの?」
「……それは、言えない」
スキルが暴発するのが怖くて、踵で地面を蹴って距離を取ろうとする。
けれど、ニルは馬乗りのままついてくる。
「大丈夫。わたし、誰にも言わないよ」
無邪気なニルは、そうとは知らずに誘ってくる。
「ニルは、きっとみんなに好かれるんだろうな」
「褒めてくれてる?」
「褒めてるよ。憧れてもいる。でも、僕は変われそうにないや」
「いじわるしないで、わかるように言ってよ」
「お腹が空いたら、僕を真っ先に食べてってこと」
「何それ? 変なの」
「でも、本心だよ」
他人の為に生きる。それは、きっと生物として間違っているのだろう。
けれど、今この瞬間も、天から授かった祝福は、ニルの未来を侵そうと嫌らしく脈打っている。
だから、一周回って、これで正しい。
「……ほら、折角捕まえた獲物でしょ? 逃げられる前に、ひと思いにやっちゃえ」
逃れ得ぬ運命と決めるように、来たる痛みに備えて目を瞑る。恐怖が声にならないように、口を固く閉じた。
けれど、彼女は心配するみたいに手首の紐を解いてしまう。
「わたしの威嚇、そんなに怖かった……? ごめんね。でも、大丈夫だよ! 美味しいもの作ってくれるなら、まだ殺さない! だから、元気出して」
ニルは戸惑いながらも、痛い胸を探り当てて、ぎこちない手つきで優しく摩ってくれる。
すると、いけない。心に押し込めていた願いが溢れて、止められなくなる。
「――ニル」
滲む夢に触れたくて、胸に抱こうと両手を伸ばす。
けれど、遠く貴く生きる君だ。
「大丈夫。何もしないよ」
ニルは目を丸くしていた。
しかし、やにわに表情を暗くして、親の仇を見るように目を細める。
「……嫌いだ」
腹の底に溜まる怨嗟を浚ったような酷い声でニルは唸る。
その言葉を境に、彼女の僕を見る目が変わったように思う。
「強くなくても、お前にもいいところはあるよ。嘘じゃない。わたしが認めてあげる。だから、欲しいと思ったものを、そんなに簡単に諦めないで」
そう言うニルは、どこか必死に見えた。
「僕は弱いんだから、望む権利なんてないんだよ」
「うるさい! わたしの方が強いんだから、言うことを聞けばいいの!」
「そうだよ。それが自然の掟」
「それは……」
ニルは苦しげに口籠る。
「叶うならね、僕はニルをお腹いっぱいにしてあげたかったんだ。……でも、それは叶わない」
「お前も未来が見えるの?」
「弱くても未来のことくらい考えるよ」
「今は何が見えるの?」
「ニルがね、お腹を空かせてひとりで泣いてる未来」
「馬鹿にしないで! わたしはお前と違って、一人で狩りできるよ!」
「それでも、満腹になるまでは食べられないでしょ? 何も口に入れない日があるよね? 数日旅をした僕ですらそうなんだから。……だから、わかるんだ。僕の力じゃ君を満腹にすることはできないって」
ニルの口元に肉付きの悪い細腕を近づける。すると、自然と顎は開き、じわりと唾液が溢れてきたから救われた。
けれど、彼女は歯形の残る手を食らおうとはせず、毛繕うように舐めてくる。
「ニルこそ、変だよ。どうして僕を殺さないの? 罠にかけて、獲物を横取りしたのに。僕は悪者だよ」
「……もういいの。それに、わたしがお願いしたら、美味しいもの作ってくれるんだよね? なら、お前だけは仲間にしてあげてもいい」
「マシロさんは?」
「嫌。あのメスはダメ」
「何か嫌なこと言われたの?」
「だって、あれは仲間じゃない! こんなの、群れじゃないよ。わたしなら、お前にそんな顔……!」
「僕の顔……?」
「……ううん、何でもない」
ニルは項垂れついでに襟首を咥えて、体を起こしてくれた。
「べー、しょっぱぁい」
「汚いから吐き出しなさい!」
「もう飲んじゃった。ほら、はらっほ」
「見せなくていいから! もう、お腹壊したらどうするの」
「そう言うお前は、汗臭いね。病気?」
「毎日体は洗ってるよ! ……服は着回してるけど」
「不潔なオスは嫌われるよ? 群れから追い出されるかも」
「何で嬉しそうなの! 大体、魔人の鼻で無臭になるなら、人間辞めないとだよ」
「わたしが洗ってあげてもいいよ。……そうしたら、あのメスの臭いも落とせるし」
「え?」
「……だから、なんでもないのっ!」
ニルはむきになって怒る。それでいて、いそいそと膝の上に跨ってくるからわからない。
「ニルは、お日様の匂いがするね」
「そうなの? 臭い?」
「いい匂いだよ。なんだか心が落ち着く」
「……そうは見えないよ?」
「ジロジロ見ないで」
変な気を起こす前にニルを下ろす。
「ところで、マシロさんは?」
「胸がきついって言ったら追い出されたの」
「あ〜……」
デリカシーのない発言に、マシロさんの形相が容易に浮かぶ。
改めてニルの格好を見ると、大人が子供服を無理やり着ているような妙な破壊力があった。
加えて、生きるために全力をかけた姿は、生物の理想を体現している。
「これはナツキでも勝てないね」
「誰?」
「ニルが一番強いってことだよ」
「えへへ。ようやくわかってくれた」
ニルは機嫌良く、にかっと笑う。
「えっと、服だよね。座って待ってて」
鞄の留め具を開き、中から適当な衣服を見繕う。
しかし、横目に見えた光景に手が止まった。
「……何してるの?」
「ひふいはほうひほっへ」
「服咥えてたらわかんないよ」
「ヒスイにね、お座りはこうだって言われたの。お腹を見せないといけないんだよね?」
「なぜに犬のお座りを……」
「お手とおかわりも覚えたんだよ」
「だから、なぜ!?」
「……もしかして、間違ってた? ヒスイに怒られる?」
「ほんと、何されたの……」
怯えるニルを落ち着かせて、替えの服を持たせる。
「お前の服は大っきいね!」
「ニートは試着させてもらえないから、いつも大きめのサイズを買ってるんだ」
「にいと? なんか弱そう」
「こら」
「へへ」
「それで、ボタンは閉められそう?」
「わかんない。教えて」
ニルは人目を気にせずに、窮屈な服を捲り上げるように脱ぎ捨てる。
「……ニル。前隠して」
「何で?」
「何でって……。裸を見られて恥ずかしくないの?」
「……わたしに発情してくれてるの?」
「男なら照れない方がおかしいよ」
「へへ、そうだよね。わたし強いもんね」
ニルは胸を張って威張ると、可愛げなく迫ってくる。
「じっくり見ていいからね。わたしがすごいってとこ、目に焼き付けて」
「そう言うことを気軽に言わないの! 人間の男は狼なんだよ」
「お前なんかに負けたりしないもん」
「心配して言ってるの!」
僕は羞恥を誤魔化すように叫んだ。
しかし、ニルは寂しそうに俯いてしまう。
「……心配なんていらないから、ちゃんと見てよ」
ニルは悔しそうに前を隠す。その手は、どこか劣等感に恥じ入るようだった。
心配して近づくと、警戒するように睨まれる。
「ほら、ボタン留めないと!」
視線から逃げるように背中に回る。
腕を伸ばしてボタンを留めようとすると、尻尾で顔面を叩かれた。
けれど、一度留め方を教えると、ニルは嬉々としてボタンと格闘を始める。
「できた! どう? これでいい?」
「うん。初めてにしては上出来かな」
ニルの体型では、第二ボタンまでは閉まらなかった。掛け違えた服は裾も短く、太ももがちらついて心臓に悪い。
それでも、前の服よりは幾分見られるようになった。
「ちゃんと拭かないと、風邪ひくよ」
髪を伝う水滴が服を透かすのを見て、慌ててタオルを頭に被せる。
けれど、ニルは片手で取り払うと、こちらに返してきた。
「いいよ。触るの、許してあげる。特別だからね」
ニルはぺたんと座り、小さく漏らす。
僕はタオルを受け取り、水気を吸い取るように髪を拭いた。
すると、しっとりと儚げな少女が出来上がる。
「終わり?」
「あ、うん」
「あたまが軽いね。髪が石鹸の匂いする」
「ビターオレンジだね」
「食べられるかな?」
「やめた方がいいと思うな」
「そっか。お肉もあるもんね」
じっとしていられないニルは、体をゆったりと左右に揺らしている。それにつられて、張った胸がゆさゆさと振れていた。
「顔が赤いよ? やっぱり病気か?」
「き、気のせいだよ」
「そんなことないよ。どこが悪いの?」
ニルは心配するように、ちょこまかと動き回る。それに遅れてついてくる胸に視線が行ってしまって、顔の熱は上がるばかりだった。
けれど、ふと覚えのある鋭い視線を感じて、背筋が冷える。
「えっち」
「マシロさん!? ……いつからそこに?」
「聞きたい?」
「聞きたくないです!」
僕は全力で首を横に振る。
マシロさんはニルを背中に隠した。
しかし、横目にも映る大きな胸に、彼女は顔を顰める。
「天は二物を与えるのね」
「マシロさんは六つもあるでしょ!」
「マシロ、六つもお胸があるの? 人間なのに、すごいね」
「馬鹿にしてる?」
「わっ、マシロが怒った!」
ニルは慌ててこちらに逃げてくる。
「その子を庇うのね」
「いや、そう言うつもりは……」
「なら、誠意を見せて」
マシロさんの命令で、お気に入りパーカーをニルに譲ることになる。
「これ、わたしに?」
「うん」
「じゃあ、交換っこだね!」
「いや、脱がなくていいから!」
「これもくれるの……?」
「うん。シャツの上から着ればいいよ」
「わかった」
ニルはマシロさんの助けを借りてパーカーを着る。
男の僕でもぶかぶかだった服は、彼女が着ると体型がすっかり隠れて華奢に見えた。自然児故の無防備な仕草もあって、力が抜けてふわふわとした印象に変わる。
それに、胸やお尻が布に覆われたおかげで、素直に愛でられるようになったのは嬉しい誤算だった。
「へへ」
ニルは僕の視線に気づいて、腕を広げてくるりと回る。
はらりと舞う裾に、ドキリとさせられた。
それと同時に、どこか子供の晴れ着姿を見ているようで、嬉しい気分にもさせられる。
「どう? どう?」
「うん。とっても似合ってる」
「本当? やったぁ!」
ニルは感極まったように笑顔を咲かせる。
「なんか、あちこち擦れて変な感じ」
「本当は下に一枚着るんだけどね。すぐになれるよ」
「軽くて動きやすいね。物も入れられるし、これなら狩りにも着ていけるかも」
「いきなり汚さないでね」
「服は体を守るために着るんだよ?」
「それは、そうなんだけど……。まぁ、大切にしてくれるならなんでもいいや」
ニルはビーズのはまった紐を気に入ったようで、楽しそうにじゃれていた。
けれど、ふと神妙な面持ちで聞いてくる。
「……ねぇ。本当に、なんでくれるの?」
「さっきも言ったでしょ。ニルが喜んでくれるかなって」
「マシロに言われたからでしょ?」
「マシロさんだって、ニルを心配してるんだよ」
「ボロボロの服を着ると、惨めな気分になる。それに風邪をひいても、私は治してあげられないから」
「そう言うわけだから、気にしないで貰って。それに、前に着てた服より、今の格好の方がずっと可愛いよ」
「……弱いくせに。調子に乗るな」
ニルは悔しそうに、もどかしそうに呟いた。