第4話 餌付けした魔人は最後まで責任を持ちましょう
ニルと出会った日の翌朝。食料問題を解決するために、再び辺りに罠を仕掛けた。
しかし、日が高くなるまで待っても獲物の姿はない。
「たくさん仕掛けたのに、全部空振りなんて。ちょっと辛いね」
単身様子を見に来ていた僕は、堪らず苦笑した。
「設置場所は移したんだけど、効果はなかったみたい」
と言うのも、昨晩から野営地を中心に魔獣の気配が消えていた。
その原因は、魔人の来訪にあるのだろう。残された匂いに怯えたように、隠れて出てきてくれない。
「ニルって、本当に強かったんだね。あとで謝らないと」
人を見かけで判断するなとはよく言ったもので、一見してニルを強者と見抜いていたなら、きっと今の関係はなかった。
それでも、謝るべきは謝らねばならない。努力の末に生まれた自尊心は、僕のそれとは違う。研鑽を重ねて磨いた牙は、貴ばれるべき宝だ。
けれど、相手は魔人だ。手ぶらで許してくれるとは思えない。
「肉が要る……!」
必要に拳を構えると、ニルの歯形が目に付いた。
「うん。これは最終手段ね」
捕食される痛みを思い、後手に枝肉を隠す。
しかし、僕の血肉でニルの牙が研がれると言うなら、それもまた一興だ。
「魔獣、かかってた?」
暇つぶしに命乞いの練習をしていると、後ろから声をかけられた。
振り返ると、白髪の彼女がいる。
「……マシロさんですよね?」
「何度も聞かないで。不快よ」
「ごめんなさい。まだ慣れなくて」
「なら、早く慣れて」
彼女はよそよそしい態度を嫌がるように、髪を密に這わせてくる。
「綺麗な月色ですね」
血の通う髪を弄ると、微かに毛先が紅潮した。
「何色でも、私は私だから」
「どう言う意味ですか?」
「……言いたくない」
舌足らずな言葉に説明はなかった。それでいて、理解を求めるように視線を注がれる。
しかし、草木を分ける音に、揃って意識を取られる。
間も無く、物影から一匹の魔獣が飛び出してきた。
全速力で駆ける魔獣は、そのまま吸い込まれるように罠にかかる。
「見てください! マシロさんのおかげですね!」
「また誤魔化すのね」
「そんなこと言わないで、一緒に行きましょうよ」
舞い込んできた幸運に、ひと足先に罠へと近づく。
しかし、突然視界が回った。
「なんかデジャブ!?」
足を払われた体は、一瞬宙を舞ったかと思うと、背中から地面に落ちる。
「いてて……」
幸い背中を打った以外に痛みはなかった。
けれど、安堵した矢先、腹部にぐっと重みがかかる。
「う゛っ!?」
野太く呻きながら目線を下げると、腹の上でニルがくつろいでいた。
足を開き爪先で座り込む彼女は、ひと仕事済ませたように上機嫌でいた。獣血に濡れた手を口元に運び、舌でそりそりと丹念に舐めとっている。
「いきなり何するの!! びっくりしたんだからね!!」
軽く抗議するだけのつもりが、お腹に力を入れているせいで語気が強くなる。
ニルは怒鳴るような声に驚いて、耳を外に倒す。
「ごめん。言い過ぎた」
慌てて謝罪の言葉を口にするも、いきんだ声には不要に怒気がこもる。誤解を解こうと手を伸ばしても、怯えたように半身を引かれてしまった。
ニルは何も言ってくれない。ふっくらとした童顔とまんまるな瞳で、じっと見下ろしてくる。
しかし、腹の虫が鳴ると、思い出したように服の中に手を突っ込み、数枚の葉っぱ渡してきた。
「わたし、ずっとお腹がぐうぐうなの。お前は料理得意だろ? あのお肉使っていいから、また美味しいの食べさせてよ」
ニルは切なそうに言って、葉っぱをぐいぐい押し付けてくる。それは、僕が手土産を包むのに使った木の葉と同じ種類のものだった。
寝転んだまま取り上げた葉は、顔を覆えるほど大きかった。きっとたくさん食べたくて、あちこち探し回ったのだろう。
「脅されると思ってたのに、なんだか気が抜けちゃった」
ニルの努力が可愛くて、緊張にこわばっていた顔がほころぶ。
彼女は不服そうにむっとしていた。額を押さえつけてきたかと思うと、牙を剥いて威嚇してくる。
「まだ認めた訳じゃないからね! ご飯をくれなかったり、逆らったりしたら痛くしちゃうんだから」
「それじゃあ、いっぱい作らないとね」
「本当? やったぁ!」
ニルは欲しい答えを引き出すと、ぴょんと上から退いてくれる。
けれど、体を伸ばす僕を見て、張り合うように二足で立ち上がった。
しかし、少しばかり身長が足りない。
「わたしの方が強いのに!」
頭が高いとぶう垂れるニルは、マシロさんよりは背が高かい。それでも、懸命に背伸びをして、ようやく目線が合う程度だ。
一方で、容姿の方は競うまでもない。
(可愛いなぁ)
そり立つまつ毛が丸い瞳を飾っていた。耳先を焦がす毛並みは、間延びした暖色の中に在って締まりをもたらしている。
けれど、僕には魔人を願うべくもない。
彼女はため息を吐きたくなるまでに、遥か彼方の高嶺の花だった。
それでいて、失意に視線を落とせば、今にもぶつかりそうな距離にある。望めば囲える場所に生っている。
獣性を煽る甘美な香りに、内から脳を叩かれる。それは、彼女が弱肉強食の自然にあって、恵みを享受する立場である証だった。
しかし、格好だけを見れば親に捨てられた子供のようだから、どうにも哀れみの目で見てしまう。
すると、いきなり胸ぐらを掴まれた。
「無視しないで!」
「うわっ!?」
力ずくで頭を下ろされた拍子に、鼻先がニルの胸部を掠める。
「に、ニル!?」
「そうだ。お前は弱いんだから、そうやってわたしを見上げてればいいんだ」
ニルは得意満面と笑みを浮かべた。
獲物を前に爛々と輝く瞳は捕食者のそれだった。口角は悦に歪み、欲に唾液が糸を引いている。
僕は身の危険を感じて、逃れようともがいた。
しかし、彼女は自身を視界から外すことを許してはくれない。それでいて、二度と触れることを許してくれないから、羞恥と苛立ちに体が熱を帯びていく。
ずんと重たい獣臭が思考を滲ませる。ただ息を吸う。それだけで、頭の中が彼女のことでいっぱいになった。
けれど、激しい地面の揺れに、飛びかけた理性が戻る。
「レイを返して」
横目に見たマシロさんは、一人置かれて怒っていた。文字通り怒髪天を衝く勢いでいて、周囲には稲妻がちらついている。
それを見たニルは、驚くほど素直に手を離した。
「いてっ」
僕は支えを失って尻餅をつく。
「ニルは、マシロさんの言うことには従うんだね」
「強い相手の言うことは聞かないと危ないんだよ」
「僕だって一応……いや、やっぱりいいや」
途中で言ってやめると、ニルは小首を傾げた。
「そうだ。早めに血抜きをしておかないと」
僕は話を切り上げて、魔獣の相手に戻る。
二人も後からついてきた。
「ねぇ、血抜きってなに?」
「血を抜いておくとね、お肉が美味しくなるんだって」
「へ~、物知りだね」
「ハヤトに教わったんだけど、あんまり覚えてないんだよね……。前回もサボっちゃったし、ちゃんとできるかな?」
「大丈夫よ。頑張って」
「美味しくなるように、いっぱい抜いてね!」
二人の声援を背に、ナイフを握り込む。
しかし、魔獣のつぶらな瞳と目が合ってしまい、作業の手が止まる。
「あれ、首を切ればいいんだっけ……? それとも胸を開けて、心臓の方かな? そういえば、内臓も取り出せって教わったような……」
「もうっ! 早くして!」
ニルは焦れたように指を立てると、魔獣の首を素手で掻き切る。おかげで、生温い鮮血を浴びる羽目になった。
「ニル! お行儀悪いよ!」
「お前が悪いんだ! 生き物にいじわるしちゃいけないんだよ。かわいそうだよ」
「それにしたって、やるならやるって言って。びっくりしたでしょ」
「でも……!」
「触らないで! 服が汚れる」
「あ、うぅ……」
ニルは血に濡れて獣毛が張り付き、爪に肉が詰まった手を悲しそうに隠した。
それでも、諦め切れないように汚れを拭い取ろうとする。
しかし、生きるために命を奪い続けてきた五指には、どうしようもなく赤黒さがこびりついていた。
「使って」
マシロさんが布切れを差し出すも、ニルは弱々しく首を横に振る。
「言い過ぎ」
「そんなことありません」
謝罪を促す言葉に顔を背ける。
僕は誤魔化すように、肉の下処理を始めた。
「お昼には間に合わないかも」
「……なら、お夕飯でもいいよ?」
ニルはしゅんとして、機嫌を窺うように言う。
それに、僕は努めて笑顔を返した。
「先に簡単なものでも作るね。それを食べて、夜まで待ってくれる?」
「うん……。わたしも食べられそうなものとってくる」
ニルはバツが悪そうにして、とぼとぼと離れて行く。
「どこ行くの? ニルは体を洗うんだよ」
「わたし、水浴びするの……?」
「マシロさん、お願いできますか?」
「任せて」
「いらないよ。一昨日したもん」
「「拒否権はない!」」
僕らは声を揃えて言うと、ニルは耳を押さえる。
「わたし、そんなに汚くないよ」
ニルは顔を赤くしてぼやく。
しかし、返り血を浴びた体は不衛生の極みだ。汗と泥に塗れた衣服の臭いもひどい。擦り傷を掠めるベタつく髪など、とてもではないが見ていられない。
ともかく、今の彼女は食事をとる格好ではない。
「着てる服は洗濯するにしても、替えの服は用意しないとですね」
「レイ。それは私のよ」
「そう言わずに、お願いします。この石鹸も使ってあげてください」
「あわあわなら、ナツキに教わった」
「それは頼もしいです」
僕はマシロさんに石鹸とネットを託す。
すると、ニルは警戒するように鼻を近づける。
「こんなので洗ったら、臭い消えちゃわない?」
「石鹸はそのためにあるものだから。美味しいお肉が食べたかったら、綺麗になってきてね」
「……うん」
ニルは空の手を思うようにそっと握る。
「さて。こっちも頑張らないと」
二人が水浴びの支度をしている横で、魔獣の解体に勤しむ。
しかし、突然背後から腕が伸びてきて視界を塞がれた。
「マシロさんですよね? 何ですかこれ。前が見えないんですけど」
「覗いたらダメよ」
「縛りながら言わないでください」
僕は拘束を解いてもらおうと訴える。
しかし、二人の声は遠ざかっていく。
「……え? もしかして、終わるまでこのまま?」
解体中の魔獣の横に、後ろ手に縛られたまま取り残される。
(どうしよう……)
視界を奪われると、途端に血の匂いを覚えた。身動きを封じられると、周囲の音が嫌に響いて聞こえて落ち着かない。
(これって、まずいんじゃ……)
人間の嗅覚でも辿れる手負の気配だ。魔獣が見逃す道理はない。
そう思うと、どことなく森が騒がしく思えてくる。
「どうか魔獣に襲われませんように!」
僕はニルの残り香を頼りに祈る。
そんな状況になって、ようやく彼女が臭いを落とすことを不安がっていた気持ちを心から理解することができた。