第10話 黒白
森を駆けずり回った先、川のほとりにマシロさんの背を見つけた。
「来ないで」
君は僕を見ずして拒絶する。
「逃しませんよ」
「レイも、私の体が目当てだったのね」
「ええ、そうです」
「……否定してよ」
ゆっくりとこちらを向く彼女は、悔しそうに泣いていた。
「その孤独は力づくでも奪います」
「夜のあなたは強引ね」
「その胸に手を突き刺すことになろうとも、不安の根を抉り取るまでは帰りません」
「そんなことをしたら死んでしまうわ」
「それは悪夢です。守るような夢じゃない」
「そんなこと言われても、私にはわからない……」
マシロさんは静かに夜空を見上げる。
「ずっと、ずっと。星が巡る下で、自由を探して彷徨った。たくさんの人に出会った。その全てを運命と決めた。でも、私は誰の特別にもなれなかった」
遥か彼方を見つめながら、マシロさんは淡々と語る。
僕は堪らなくなり足を進める。けれど、彼女は暗い水面へと逃げて行く。
「あなたを頼るつもりはなかった。でも、あなたは私だけを待つと言ってくれた。だから、ここを最後にしようって決めたの」
そう言ってマシロさんは、僕に向けて精一杯に微笑む。
「今日はね、レイ。月が綺麗なの」
それは、同意を求めるでもない。込み上げる感情をそのまま曝け出したかのような、ひどく無茶苦茶な笑顔だった。
たくさんの願いが溶けて、混ざり、濁ったそれは、夜の闇より暗い欲の塊に見える。それでいて、どうしようもなく熱に欠けていた。
(どんな生活をしてきたら、そんな目ができるんですか?)
マシロさんの昏い瞳を見ていると心配でならなかった。
けれど、見上げた空に雲はない。遮るものなき快晴だ。運命は僕の切なる願いを拒絶してきた。
きっとマシロさんの居場所はここではない。必ず他に未来がある。この場に引き留めても、彼女は幸せにはなれない。そんな確かな予感がした。
しかし、それでも僕は誰にともなく、君だけを想い月へと手を伸ばす。
「出逢った夜、叢雲に願いました。けれど、それは間違いでした」
マシロさんは僕に「来ないで」と言った。
ならば、昨夜の出逢いをやり直すことも叶うだろうと信じてみる。
「マシロさん。僕は君を蒼天の月にしたい。日の影を生きて、夜の闇に浸かり、なお未来を求める君となら、太陽を喰える」
「私が、太陽を……?」
「はい。だから、お願いです。物言わぬ天に祈る前に、悪魔の囁きに耳を傾ける前に、その一切を隠さず望んでください。僕が誰よりも先に、マシロさんの願いを叶えます。抱えている不安も全部吐き出してください。その全てを楽しい夢に変えて見せます」
「……そうね。そうあれたら、素敵だわ」
マシロさんは唇を引き結び、眩しそうに目を細める。
彼女はうっとりと微笑んでくれた。けれど、それはどこか遠い別の世界を望むようで、孤独の恐怖に染まっている。
しかし、僕が構わず川の中に入って行くと、彼女は驚き、ひどく慌て始める。
そんな臆病な君の手を取り、僕は心より望む。
「“マシロさん。僕は君と生きたい”」
強い想いに、思わず言葉に力が籠る。
「……ばかっ」
マシロさんは目を見開き、じわりと涙の粒を浮かばせた。
「ごめなさい!スキルを使うつもりなんてなかったんです……!」
僕は失望される恐怖に口元を塞いだ。しかし、一度声に出した願いは取り消すことは叶わない。
けれど、マシロさんに変わった様子はない。
「……そんなに一緒にいたいなら、枷をはめて縛ればいいのに」
マシロさんは俯いて顔を合わせてくれない。
僕は嫌われたくなくて、何度も繰り返し頭を下げた。すると、彼女は可笑しそうにふっと笑ってくれた。
「夜のような人」
「どう言う意味ですか……?」
「そのままの意味よ」
マシロさんは辿る夜空を望む。
「口を開けば何の根拠もない、その場凌ぎの空っぽな甘言ばかり。手の届かない夢ばかり引き合いに出して、気を引きたがるような仕方のない人。……でもね、レイ。あなたの前では、私は私でいられたよ」
マシロさんは川底から鋭利な石を拾い上げる。そして、絹のような髪の一本を手に取ると、半ばから一息に切り裂いた。
分たれた白髪が、じわじわと夜闇に溶けていく。
「平気よ」
マシロさんは努めて笑う。けれど、髪の断面からは異常に鮮血が滴っている。顔も痛みを耐えるかのようにきつく歪んでいた。
「手を出して」
マシロさんは僕の手首を取り、黝い髪を結びつけた。
彼女は安心したように胸に倒れ込んでくる。
そして、初めて全幅の期待の預けてくれた。
「――レイ。あなたに私の自由をあげる。両手をあげる。両足をあげる。体をあげる。心をあげる。だから、きっと。たくさん、たくさんよ。素敵な夢を見せて。いろんなところに連れて行って。お願い」
僕はマシロさんを抱きしめる。
「飽きられないように、たくさん頑張りますね」
「ニートのあなたが、どうやって幸せにしてくれるのか、とても楽しみ」
マシロさんはそう言って太陽にも負けないくらいに眩しい笑顔を浮かべた。