ショート日本の歴史 第6回 武士の時代の始まり
天皇(上皇)と公家が日本の政治を行った平安時代も終わりを告げようとしていた時、
武士というものが力をつけ権力と政権を持つようになった時代についてお話します。
鎌倉幕府初代将軍となる源頼朝。
平治元年、鎌倉幕府成立の約30年前に平治の乱が勃発。
源氏の旗頭である父、源義朝が平清盛率いる平家に敗れます。
嫡男の頼朝は捕らえられ処刑されるところでありましたが皇室などの助命嘆願があり、
生き延びて伊豆国へ流人として流されます。
その後は伊豆にあります蛭が小島の寺にて、先祖供養などをしながら平家の監視の下、
一生を終わるはずでした。
時代は“平家にあらずんば人にあらず”といわれた平家絶頂の時代。
平清盛は皇室とつながり、更なる権威と権力を求めて公家へと変貌していきました。
しかし平家絶頂の時代も、少しづつ亀裂が入り始めていました。
本来、武士の棟梁であるはずの平家が公家化する中、皇室や公家衆に搾取され続けた
武士たちの不満は徐々に高まっていきます。
その武士たちの不満は、ここ関東の地でも高まっていきます。
そして源氏の血を引く頼朝を頭に担ぎ上げ、治承4年1180年
関東を武士の土地とするために平家に対して反旗を揚げます。
戦いは初戦こそ、計画通りに進みますが、途中三浦一族との合流が遅れ、
石橋山の合戦で敗れてしまいます。
どうにか九死に一生を得て、船で安房の国、今の千葉県に逃げます。
すると関東平野の武士団が続々と集まりだし、その年の10月鎌倉に入り
ここを関東武士団の本拠地と定めます。
その後は、ご存じの通り頼朝の弟、源義経の活躍で平家を滅ぼし、
今の東北、奥州の藤原氏、この藤原氏は公家摂関家の藤原氏とは全く別物で権威を見せるために藤原家を名乗っていた一族ですが、その藤原氏も滅ぼして、
建久3年1192年征夷大将軍に任ぜられます。
皆様は平家や源氏のイメージはどのように考えますでしょうか。
なにか、皇室、公家に並ぶ権威ある家柄みたいにお思いではないでしょうか。
この時代、武士は農業従事者であり、頂点に皇室を中心とした公家社会があり、
他は、平家、源氏といえども、大きな農業従事者としか思われていませんでした。
しかし、武士たちの開拓した土地が広がって行くことにより、
どうしても隣同士の境界線や水源などを確保するうえで、
いざこざや争いが起きていました。
お互いに問題が発生するごとに喧嘩をしていては、たまりません。
このよう時必要になるのが権力者の仲裁者です。
今までは、それを公家が担ってきました。
しかしその公家はひどいもので、武士たちが精魂込めて開拓した土地や
収穫を搾取してきました。
公家の中には仲の良くなった女性に武士たちが精魂込めて開拓した土地を
譲ってしまうことなども多々ありました。
それでも、武士たちもどうにか公家衆によく思われようと、
都にでて奉公をするなど努力してきました。
が、さすがに、堪忍袋も切れてしまい、その中、武士の棟梁として抜きんでたのが、
平清盛でした。しかし、その平家もだんだんと公家化してしまい、
結局過去の公家と同じような搾取を行うようになっていきます。
平家を信じられなくなった関東武士たちは、京都の政権から独立しようと考えます。
そこに良いことに源氏という、旗頭が近くにいたのです。
都にいる平家にとっては駒を関東武士団にわざわざ与えてしまったようなものです。
関東の武士たちは、源氏という旗頭を中心に集まり大きな力となります。
でもその源氏も頼朝死後の2代目源頼家は、武士たちが一番に求めている土地争いの
仲裁能力に乏しく、またその武士たちの権力争いも重なり権威以外はすべてはぎとられ
名目だけの征夷大将軍となります。やがて、それさえも取り上げられ失意の中、殺害されてしまいます。それを見ていた3代目の源実朝はまさに権威だけの将軍としての割り切った将軍として立ち振る舞ったようです。
関東武士北条家の傀儡と言えなくもない状態でした。
北条家の権力が強くなっていく中、逆転を着々と狙っていたのが、
三浦半島を地盤とする三浦一族です。2代目将軍頼家の次男善哉を利用し、
3代将軍実朝と時の実力者、第2代執権、北条義時の暗殺を企てます。
この一連の事件については賛否両論ありますが、あえて私は三浦の黒幕説をとります。
将軍の実朝は鎌倉八幡宮の大イチョウに隠れていた善哉に殺害されてしまいますが、
北条義時を打ち漏らしたことに気が付いた三浦一族は、手のひらを返し、善哉を殺害してしまいます。ここに、源頼朝から続く源氏直流の血脈は途絶えてしまいます。
その後は北条義時が執権として実質上の武家政権トップとして君臨することになり、
その後に発生する天皇方(後鳥羽上皇)の逆転をかけた承久の乱では、
鎌倉武士団が怒涛の如く京都に攻めかかり、武家を中心とした政治体制がひかれることになります。
この強力な武家政治が出来上がるまでにどのくらいの有力者が消えたというより
殺されたのでしょうか
鎌倉幕府2代将軍 源頼家 3代将軍 源実朝
頼朝の弟 範頼、全成、頼円、義経の4人
有力御家人 和田義盛 梶原景時 上総介広常 工藤祐経
比企能員 畠山重忠 他
北条家最大のライバルだった三浦はこのような有力御家人が消えていく中で
うまく立ち回り、生き延びますが、第5代執権北条時頼の時代、
1247年7月宝治合戦にて一族が滅亡しました。
これにて、鎌倉幕府は完全に北条執権が仕切るようになり、
第16代執権北条守時(鎌倉幕府終焉)の1133年まで、
第2代執権、北条義時からの時代を含めて128年間を
鎌倉北条氏が武士の世の中を牛耳ることになりました。