内藤由香の奇日常
浅黒い空が沈む中、内藤由香は階段を登っていた。
深く沈む雑居ビルの四階に目指す場所はあった。
時刻は昼過ぎ。
太陽は登っているが、ここは暗い。
世界から切り取られたごとく、分離されている。
(また来てしまった。)
内藤由香は後悔していた。
足取りは次第に重くなり、まるで鉛の鎖を引きずっているようだ。
重く鎮座した扉の前まできた。
『榊法律事務所』
扉にはそう書かれていたが、そんなの嘘っぱちだ。
一字一句合っていない。
いや、榊という人物がやっているという一点においてはクリアだった。
無言でノブを握る。
回し、歩を進めた。
「ようこそ。来ることは知っていたよ。」
目の前の男は言った。
金髪の軽薄な男。
いや、見た目が軽薄そうに見えるだけ。
中身もそうならどんなに良かっただろうか。
「持ってきたわ。お話を。」
内藤由香は言葉を発した。
男は椅子から立ち上がり、薄暗い間接照明に彩られた室内を歩む。
ぼんやりとした影と共に男が近づいてくる。
年齢は若く、美形で、おおよそ人間のようではない。
「聞こうか。さあ、そこに座って。お茶を出そう。」
男は片手を手近にあるソファーへ向ける。
内藤由香は促されるままに腰掛けた。
「友達が相談あるみたいで、いきなりここに連れてくるのもなんだし、まずは頭出ししようかと思って。」
内藤由香は切り出した。
男は目の前のソファーに腰掛け、続けて、と促す。
「学校の友達の、えっと浅川ひなのっていうんですけど、ちょっと悩んでるみたいで。クラスの男子について。」
「色恋かい?」
「まあ、最初はそんな感じ。気になっている男子がいて。そいつ結構クラスでも人気あって。学年でもね。私は違うクラスなんだけど、知ってるし。明るくてリーダーシップもある。」
「恋愛相談かい。それは興味深いな。」
男は薄く笑う。
「嘘つき。興味なんてないくせに。」
「いや、その子、ひなのちゃんがどう思い、行動し、相手がそれを受け、反応するのか興味があるのは本当だよ。方向性が良くない方なら、なおさら。」
「この性格破綻者。」
内藤由香は男を軽く睨む。
男が視線を緩く受け流すと、由香は自分の行動に意味がないことに改めて気づき、ため息をつく。
「色恋沙汰じゃないわ。それなら私としても嬉しかったんだけど。」
「それは残念。じゃあ、何をお悩みなのかな?」
内藤由香は思案する。
どうすれば正確にこのことを伝えられるだろうか、と。
「ひなのとその男子、結城真也のとこに行ったんだけど、なんというか、会話が通じていなくて。」
「通じていない?話が噛み合わないってことかい?」
「いえ、そもそも言葉として成立していないというか。意味とか言っていることは伝わるんだけど。」
「もう少し詳しく。」
男は優しく言う。だがその表情は先ほどに変わって、爛々としているように見えた。
「えっと、説明が難しいな。だとえば『おはよう』って言うと、『おはよう』って返すじゃない?でも彼は、『一つ目玉が見えるね』みたく、意味が通っていない言葉を返してくるというか、おはよう、って返されたんだなー、って伝わってくるんだけど。」
「それは色恋沙汰よりも興味深いね。」
男は嬉しそうに言った。
「ひなのは気づいていなくて、それがどうしても気持ち悪くて。」
「それは多分、君だから気づいたんだろうね。」
男は立ち上がり、壁際にあるコーヒーメーカーに向かう。
「2009年10月、交番にある男がやってきたそうだ。落とし物をしたらしい。勤務していた警官が調書を取り、男を返したそうだが、後から読み返すとまるで意味が通じないことが書かれていたそうだ。連絡先も判別できず、電話番号は数字ですらなかった。」
男はコーヒーをカップに注ぐと、由香に手渡した。
「2018年の事象はもっと興味深い。教員が卒業式の後、整理をしているとある生徒の物だけが出鱈目な文字列になっていたそうだ。いたずらかと思ったが、過去の提出物もそうだったらしい。その教員は何度か家庭訪問しているはずなんだけど、どうしてもその生徒の家には辿り着けなかったようだ。」
「似てるね、私が経験した事と。他の人は気づかなかったの?その妙なことに。」
「みんな言われて気づいたらしい。言われるまではなんら違和感を持っていなかったようだよ。」
男はソファーに座り、コーヒーを啜る。
「ひなのちゃんにそのことは?」
「言ってない。変に思われるのも嫌だし。その男子に害意がなければ、言う必要もないと思ってる。」
内藤由香は鏡のように映る、コーヒーの表面を見て言う。
「だから害意がないか、調べて欲しいの。あんた、前に言ってたでしょ?この手の話は聞いてやるって。」
「そうだね。」
男は頷く。
「害意があるなら、ひなのから離したい。」
「わかった。」
男は立ち上がると、内藤由香を見下ろす。
「興味深いし、面白そうだ。いいよ、調べよう。」
内藤由香は男を見上げる。
この男はいつもそうだ。
そんな目でこちらを見下ろす。
新しいおもちゃを見る子供のような目。
でもその目はどこか奇妙で、残虐な匂いがする。
この男の『解決』は信用ならない。
結果が歪な形に収束しようと、後味の悪いことになろうと、『解決」なのだ。
だが、この男に頼らざるを得ない。
恨めしいが、頼らざるを得ないのだった。
1週間後の教室。
朝の喧騒。
その音は、担任の先生が入ってきたところで一層盛り上がった。
「臨床心理士の東十郎先生です。今日は高校生10代の心のケアということで、グループセラピーのワークショップに来てくださりました。」
担任の女教師が嬉しそうに紹介をする。
周りの女子が黄色い声をあげる中、内藤由香は重いため息をついた。
「今度はそう来たか。」
担任の隣に並ぶ金髪長身の男。
キラキラとおかしな効果音が聞こえてきそうな笑顔を振り撒き、男は笑う。
「東十郎です。今日はよろしくお願いします。」
色めき立つ女子。
不思議と男子も騒ぎ出している。
「由香、めっちゃくちゃかっこよくない?なになに?グループセラピーって!どんなこと聞かれちゃうのーっ!」
隣の席の浅川ひなのが話しかけてくる。
目も声も弾んでいる。
「どうせどうでもいいこと聞かれんのよ。変な期待しないよーに。」
内藤由香は適当に釘を刺す。
ひなのに変な形であの男に関わってほしくない。
色恋とかではなく、あの男の頭がおかしいからだ。
人間の皮を被っちゃいるが、アレは人間ではない、そう思って喋らないと保たない。
その後、東十郎によるグループセラピーの概略と歴史、効果などが説明されたが、どうせ一晩で考えてきた限りなく本物に近い紛い物だとわかっている内藤由香にとっては聞く気になれない代物だった。
下手をするとその場で考えたことである可能性もある。
生徒は半分以上がその美貌と声にうっとりしながら聴き、少数の中途半端に頭の良い連中は熱心に聞き入っていた。(先生含む。)
まるで調理される前のニワトリがこれからの調理工程を説明され、熱心に「ふむふむ」と聞き入っているようで、滑稽だった。
時折、内藤由香は男と目があったが、特にアイコンタクトもなく、話す機会は昼休みまで訪れることはなかった。
「ねえ、あのシングラフィー療法ってどこまで本当の話なの?」
「全部偽物だよ。」
一階の職員室の前。時刻は昼休みの終盤。
教師と生徒が忙しなく行き来する中で内藤由香は男に話しかけた。
「この学校に来るまでの間に考えた。けど、効果は保証するよ。」
「催眠術と魔術はやめてよね。私の通ってる学校で。私、普通に平穏に過ごしたいの。」
由香はため息をつく。
「その辺りは使わないと保証するけども、君が平穏に生きるのは無理だよ。」
そう断言されて由香は視線を窓の外に送った。
「本題を話すわ。結城真也の件、どうやって調べるの?まさか例のグループセラピーで精神分析でもするつもり?」
「まさしくその通りだよ。学年からランダムで生徒を抽出して、グループを作る。その中で話を聞く。簡単だろう?」
「まあ、どうやって学校に乗り込むのか?とか、グループセラピーの資格持ってんの?とか、難易度の高い難関はすでに突破済みだし、直接話を聞くのが手っ取り早そうってことね。どうやって学校に潜り込んだのかは聞かないわ。」
由香が視線を床に向けると、
「別に大したことしてないさ。」
と男が事もなげに語った。
「良かった。またおかしなことをされたのかと、」
「教師の何人かを洗脳しただけだし、人類史に大きな影響はない。」
男の『大したこと』は全く当てにならなかった。その上、さっそく約束は破られていた。
「まあ、まずは害意が見抜ければそれでいいよ。良くないけど。」
ははは、と気の抜けた笑いが由佳の口から溢れる。
「害意だけどね、あるよ、彼には。」
男の言葉に由香の笑いが止まる。
「あるの?害意。」
男は肯定した。
「今はその種類と方向性を探っているところ。」
由香は目を硬く瞑り、天を仰ぐ。
体が何倍も重くなった気がした。
「やだ、それ、本当?」
「篠崎さんの時みたいにはひどくないよ、安心して。人は死なない展開になると思う。」
それを聞いて安心したが、憂鬱な気分だった。
前に男に相談を持ちかけた、篠崎あやの件では、おおよそ十数名が死亡、もしくは失踪していた。
しばらく、由香は睡眠薬なしには眠れなくなってしまった。
「とりあえず、行動は今日の放課後のグループセラピーで起こすので、そのつもりで。」
「わかった。」
由香は観念した思いで頷いた。
頷くしかなかった。
「ありがとうございます、ありがとうございます。」
涙を流しながら頭を下げる女子生徒。
その頭を優しく撫でる友達に、もらい泣きをする男子生徒。
「ずっとどうすればいいか悩んでて、わかんなくて」
「大丈夫。君は悪くない。いや、悪い物なんてないんだ。全ては事実の積み重なり。その結果に過ぎない。思い悩む必要はないよ。君はその一言を彼女に伝えるだけでいいんだ。そこに良い意志が載るならば、結果は悪いようにはならないよ。」
勢いよく泣き出す女子生徒。
その一幕を廊下で待っていた内藤由香は引き攣った笑みで眺め、「なになに!?」と口元を押さえながらキラキラした羨望の笑みで見る浅川ひなのであった。
「さあ、次の人、どうぞ。」
入れ替わりで由香たちが教室に入る。
教室内はいつもと違い、席は端に寄せられ、椅子が内向きに、円形に並べられていた。
教室に入ってきたのは由香とひなの、他クラスの女生徒とくだんの結城真也であった。
女子生徒は垢抜けた感じの子で、着崩した制服に短いスカート、なんというか華やかな子であった。
一度見たら忘れなさそうだが、記憶に薄い。
どこかで見た気もするが、覚えがない。
まあ、1学年に10クラス以上あるこの学校では、そんな生徒はごまんといるから、そんなものか。
そして結城真也は、すらっとした手足に整った顔立ちの男子。
朝のセットに何分かけてんの?と聴きたいくらいキまった髪型だが、自然と不快感はない爽やかな青年であった。
「真也くんと同じなんて、超ラッキー!」
ひなのは喜んでいた。
ひなの自身は自覚がないようだが、彼女は彼女でそこそこ人気がある。
肩にはかからない程度の髪は、本人の試行錯誤で手入れがされ、目も胸も大きく、可愛らしい少女といった様子。
自信が持てないようで、謙遜することが多い。が、もっと自信を持ってもいいと由香は思っている。
「では始めようか。まずは簡単な自己紹介から。」
皆が椅子に腰掛けたのを確認して男は呼びかけた。
「二年一組、春菜ユウ。」
華やかな子が少し不機嫌そうに言う。
他にも何か言うのかと思ったが、それだけだった。
男が視線で次を促す。
「あ、浅川ひなのです。二年七組です。よろしくお願いします。」
ひなのが頭を軽く下げる。
「内藤由佳です。二年七組です。」
由香も続く。
「結城真也です。二年五組です。こういったのは初めてで少し緊張しています。よろしくお願いします。」
軽く会釈し、微笑む結城真也。
こうして全員普通に自己紹介が終わった。
現時点で結城真也には何の変哲もない。
ただの爽やかな少年だった。
自己紹介の後は軽い雑談が始まった。
基本的に男が尋ね、皆が一人一人答えていくスタイル。
適宜、皆の話に対する所感を求められ、答えていく。
男の誘導が絶妙で、由香はこれで食べていけるのではないかと思ったくらい、まるで本当のグループセラピーのようだった。
話題が将来のことに移った時だった。
違和感が現れ始める。
最初は、話題が噛み合わないな、と由香は感じただけだった。
「そうだね。将来について、お金は最も現実的で直接的な問題だ。その点については真也くんはどう思うかな?」
男が結城真也に話を振る。
「そうですね。最初はあべこべかと思いましたが、やはり頭部の下ではないでしょうか。」
「なるほど。そういった考え方もありだね。」
「でもそう言うのって就職が難しそうだよね。一部の人だけがなれるって感じで。」
真也の言葉に春菜ユウが続く。
「ええ、頭部と机の間に浴室の向こう側からやってきます。」
再び真也の言葉。
「私、結城くんの言うっていること、わかる気がする。」
ひなのが真也の言葉に同意する。(?)
「坂の深さは有害の夕暮れ。街頭の下、ひさしのあかり。」
それに対して真也はまるで意味の通らない言葉を返した。
徐々に言葉が壊れていく。
それに誰も気づいていない。
気になって結城真也の方を見て、由香はギョッとする。
真也はこっちを見ていた。
焦点があっているんだか、いないんだかわからない目で。
口元だけ別の生物のように動いて、言葉を紡いでいく。
全く意味の通らない言葉を。それでいて、意思だけは流れてくる。
まるで二人だけ世界から切り出されたかのようだ。
大きな得体の知れない魚と、狭い水槽に閉じ込められた気分。
話題は進んでいく。
二人を置き去りにした形で。
全く異国の空間に置き去りにされたかのような心許なさを感じる。
結局、セラピーは滞りなく進み、終わったのだった。
由香にも話が振られるタイミングはあって、普通に会話していたが、ついに真也の言っている言葉は意味不明なもののまま、変わる事はなかった。
「いやー、グループセラピーって初めてだったけど、なんかスッキリしちゃった。」
ひなのは伸びをしながら席から立ち上がる。
「そうだね。」
由香も頷く。即興にしてはかなり出来のいいものだった。
夕日が差し込む教室で、皆机を片付け始める。
時折、ひなのは真也と会話しているようだったが、特段変わった様子はない。(意味のわかる言葉に戻っていた。)
片付けが終わり、教室を後にする。
「私、ちょっと職員室寄ってくから、ひなのは先に帰ってて。今回のグループセラピーのアンケートとか集めなきゃいけなくて。」
「学級委員長さんは大変だね。」
「くじ運がなかったわね。」
そう言って由香はひなのと別れ、夕日の刺す廊下を歩く。
遠くから聞こえる管楽器の音。吹奏楽部だろう。
廊下の窓から見えるグラウンドでは部活動に勤しむ生徒の姿が見える。
あれは一体何だったのだろう、と思考する。
意味の通じない言葉に、意思の通じる音。
その中に微かに感じたもう一つの意識。
まるで観察されているようだった。研究者が顕微鏡のプレパラートに対象物を挟み、観察する。
そんな感覚が一番似ていた。
流れる音と、伝わる意思、そして感じる感覚がこんなに乖離している状態は経験したことはなかったし、奇妙なものだった。
視線を廊下の先に戻してビクッと一時停止する。
先ほどまでいなかったはずの影がそこにあったからだ。
「どうも。」
結城真也だった。
その姿はさっきと全く変わらないように見えたが、明らかに周囲の風景から浮いていた。
薄く微笑むその表情を見て、由香はどこか不吉なものを感じた。
「結城くん、さっきはお疲れ様。」
とりあえず投げかけてみる。少し考えて妙なことに気づく。
由香とひなのはセラピーのあった教室から、真也よりも先に出た。
その間、追い越された記憶はない。
にもかかわらず、真也は床の進行方向にいる。そこまで考えて、思考を止める。
これは多分、そういうものなのだ。
原因を考えても仕方がない。
今は対処を考えなければならないフェーズだ。
向こうは言葉を発している。
対話する意思はある、と言う事だろうか。
それと共に、相手が意思のある存在だと言うことだ。
「君は気づいているね。」
真也の言葉。
凝縮された悪意を感じた。
言葉の意味にではなく、その音に。発音に。表情に。
「まあ、なんとなく。率直に聞くけど、あなた何?」
「我々は原住民さ。この世界のね。」
真也は薄く笑いながら答える。
「ほんの十数億年のうちに広がっちゃって、今、どうしようか考えてる。」
真也は器用に、不快そうに笑う。
「広がる?」
「そう。ちょっと放っておけばいいかと思っていたら、予想以上の速さで広がっちゃって。そろそろどうにかしなきゃって思ってたのさ。」
言葉以上の意味が頭に流れてくる。
それはイメージだった。
自分たちで例えるなら、それは浴槽の汚れ。
まだいいか、と放置している間に広がり、時間をとって大掃除をする羽目に。
その汚れは我々を指していた。
廊下が暗く沈む。
そんな時間ではないはずなのに。
まだ夕暮れには遠いはずなのに。
「汚れは掃除しなくちゃ」
真也ははっきりと言った。
目線ははっきりと由香を捉えている。
しかし意思は由香という、人間という種に対して向かっていた。
悪寒がする。
はっきりとした昆虫のような害意が向けられていた。
「ありがとう、手間が省けたよ。」
真也の背後から、東十郎、もとい榊塔矢が現れたのだった。
「君たちのような存在はずいぶん前から理論上の存在は認められていた。」
榊は述べる。
「我々の歴史が瞬きほどに感じる大きな存在。それでしか説明のつかない存在。」
真也は笑顔のまま、口を開かない。
「それは巨大過ぎて人間が認識する事はできない。概念も異なるから知覚すらできない。」
榊はゆっくりと語りながら、歩を進める。
真也の隣まで来たところで、止める。
「しかし彼女には認識することが可能だ。なぜなら、彼女の知覚は破綻し、壊れている。」
由香は感じた。真也の体が不快感を発していることに。
それは羽虫が顔の近くを飛び回る時に感じるものに似ていた。
「普段は高度に擬態しているね。故に体験談から後天的に知るしかなかった。時に高度な詳細かされたデータ収集が必要だったんだろうね。その時にのみ、少しだけ膜間を開き、顔を覗かせた。」
榊は真也を見る。真也が榊を見る。
「彼女の認知能力は壊れている。完全に擬態したシグナルは、完全過ぎたね。距離が近くなるとノイズの振れ幅が大きくなる。」
そして、と榊は言葉を溜める。
「簡単にいうと、君は人類を滅亡させようって思っているんだね。」
真也は無言で肯定する。
言葉にも表情にも現れていないが、意思のみが空中を伝播する。
「それは困るのさ。僕にとっては。」
榊がはっきりと意思を放つ。
相手とのはっきりとした相違点を、述べる。
「故に君を退治しなければならない。」
真也との間に冷たい空気が流れている。
「笑わせる。できるものか。」
真也は初めて、目に見えて笑った。
とても、悪意の滲んだ顔で。
「しかし奇妙なものだ。我々の擬態は完璧だったはずだ。後学のために聞いておきたい。なぜだ。ノイズなどない。ノイズとは、何だ?」
真也はもはや、無表情であった。
真也は平坦に続ける。
「君たちのレベルに合わせた。全ての平均を割り出し、自動的に会話を構築するシステムだった。完璧なはずだった。なぜだ。」
「ノイズがあるのは君たちにではない。彼女にあるんだ。」
真也の表情が硬まる。
「それにしても、周りの会話と相手の思考、それを組み合わせて応答を考えていたということか。理論的には可能だが、尋常しゃないな。目的は偵察かい?」
榊は尋ねる。
ねっとりとした声で、真也が答える。
「観察だ。」
ぞっとするような声音だった。
「習性や営みを観察して蓄積する。壊してしまう前に。」
「どうやって壊すつもりだい?全人類を一人ずつ殺して回るか?」
榊の挑発的な一言。
「否、我々、いや我々には、我々という概念や、個人という概念はない。全人類と言ったが、数や位置は問題ではない。例えば、ほら、いまやったように。」
真也は無表情で人差し指を立てる。
「なんなの?何をやろうっていうの?」
由香は尋ねる。
「いま、やった。」
「は?」
「君たちには認知できまい。1と2の間にあった概念を。」
榊は目を見開く。
由香が驚く。
何を言ってるんだろう。1の次は◼️で、その次が2。そんな当たり前のこと…。
「1の次は2だ。どうだ?由香くん。」
榊は由香に問う。榊に問われて気づく。
「やはりあなたは特別なようだ。知覚しているのだね。我々が消した概念を。ノイズ、より正確に言うなら、君たちのプロセスを模しきれなかったために生まれた、余計な中間層か。」
由香には理解できていた。認知も。しかし、それが何だったかが、思い出せない。
「なるほど。我々の理解を超えた存在だ。」
榊は目を細めて笑う。
「話し合いの余地もなし。何しろ話し合うことすらできないのだから。」
彼らはいわゆる不具合を明らかにするために、レベルを下げて榊や由香と対話している。しかし判断や対処はもっと高度な所で行なっている。
向こうからの対話は可能だが、こちら側からの説得や交渉は無意味だ。
空気中のウイルスや細菌を殺さないために息を止めることなど、できようか。ましてや彼らの意識を理解することにどれほどの価値を感じるだろうか。
「直接的示してみようか。direction。」
そう男が言った瞬間、空気がひび割れた。
擬音を表すなら、コキンという氷同士をぶつけたかのような透き通った音。
その後遅れて壁やガラスに綺麗な線が入る。
ぼとり
榊の右腕が、肘から先にかけ、床に落ちた。
突然のショックに叫びかけた由香だったが、ぐらりとバランスを崩し、地面に倒れ伏した。
「あなた方、2本もあるので、スペアでしょう?」
榊は肘から先の右腕を、由香は左足の腿の半ばあたりから綺麗に切断されていたのだった。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!
由香は頭が真っ白になった。
イタイという二文字が頭を占め、涙がぼろぼろ溢れるのを感じる。
腿を力の限り掴み、なんとか痛みから逃れようと、空いた片手で地面を何度も何度も叩く。
息ができなかった。
熱烈な痛みが全身を支配し、歯を食いしばる。
「なるほど。何をされたのかもわからない。これは困難だ。」
榊は涼しい顔をしていた。
血が傷口から吐き出され、全て出尽くしてしまうんじゃないかと思える程に止めどない。
「由香くん、これは仕方がないね。許可するよ。君の出番だ。」
由香はチカチカする視界で榊を睨む。
ナンデアタシハコンナコトヲシテルンダ
由香は辛うじて残る思考で意識を立ち上げた。
思えば運が良かった。
学校の帰り道。
考え事をしていた。
その瞬間の記憶は曖昧だ。
後から伝え聞いた話によると、自分の何倍もあるトラックに跳ね飛ばされ、地面を三回ほどバウンドした後、電柱に叩きつけられたらしい。
身体の傷もひどかったが、もっとも重症だったのが頭部。
脳の損傷だった。
複雑な壊れ方をしたようで、一命は取り留めたものの、主要な機能は失われてしまった。
目を覚ましたが、曖昧な夢の中におり、ふわふわと明るい雲の中にいるかのようだった。
思考を走らせようとすると、まとまりなくすぐに霧散してしまう。
感情にすら結びつかない。
全ての認知の能力が損傷してしまったのだった。
回復は絶望的だったらしい。
そんな時に榊が現れた。
「君は稀有な症例だ。私が人間にしてあげよう。」
その時の彼は医者だったらしい。
彼の療法によって徐々に周りが色づいていく。
思考が組み立てられるようになっていく。
自身の状況が、周囲の状況が、少しづつ理解できるようになっていく。
「ありがとうございます、榊先生。」
由香の言葉に榊が笑う。
「いいんです。私の仕事ですから。」
「このお礼は何て言ったら良いか・・・。」
「そのことなんですけどね、あなたは知ったでしょう?この世界を。」
榊は告げる。
「この世界のありようを。この世界が情報の塊で、何を遮断し、何を補完することで我々の世界を構成しているか。」
それは長い時間をかけて構築した認知のプロセス。
我々が人間の世界にたどり着くためのフィルター。
人間が人間であるために、必要なこと。
そして同時に我々が認識すらできない世界が並存、否、そこに同化しながら存在するということ。
「あなたは知っている。幽霊や妖怪といった古典事象から、異世界や宇宙人といったサイエンスフィクションの世界の真実を。」
榊の目が怪しく光るのを、由香は見る。
「あなたにしかできないことがあります。協力してください。」
由香はフィルターを外していく。
徐々に周りの景色が壊れていく。
廊下の色合いが夕日に照らされた橙から、濃い緑色に。
リノリウムの廊下が、得体のしれない肉塊に。
熱く激しい風が由香の顔を撫でる。
静けさが、遠くから聞こえる金属の音に。錆びた滑車を誰かが回している。そんな音響。
目の前にいる真也の姿が崩れていく。
まるで巨大なアンモナイトのようだった。
アンモナイトの周りを5つの何かが旋回している。
そんな中、榊の姿だけがそのままで、逆に違和感を放っていた。
「feo-39klpe,pe,cpe」
巨大なアンモナイトが何かを喋る。
疑問に思っているようだった。由香の視線に想定外の何かを感じたらしい。
「ああ、そうなのね。あなたたちは多くの意識の集合体で、個であり全。巨大な生命。遠く及ばない存在。」
由香は理解する。
「ああああたしたちは、いいいい意味のないことをををを。たたたたただ、排泄して取り込み、土管のように繰り返し、不完全な分裂を繰り返して、そそそそそれを進化と都合よく呼び、」
由香は思考を言葉に紡ぐ。しかしその音は意味を100分の一も伝えられていない。
「ナナナなんと高度に精錬された存在。ほほほ滅びなければならないのはわわっ我々か。」
すっと、そこで意識が覚める。
「でもごめんなさい。」
由香は理解する。彼らの存在を。その意図を。そしてその必然性を。
「私、死にたくないんだよね。正直。世界がどうあろうと、私にとっては、私が感じたことが、真実でなくとも、事実だから。」
理解によって、把握によって、彼女は彼らを破壊するのだ。
「私たちは消滅するわけにはいかないの。」
そう言って手を前に突き出し、空中を掴む。
彼女の手は彼らの存在を構成する中核を握っていた。
「あなたたちだってそうでしょう?」
アンモナイトは慌てているようだった。滑稽だった。これじゃあ出来の悪いSF漫画だ。
「私のすることが理解できるなんて、本当に高度な知性ね。」
由香は自身のすることを簡易に理解している。
何かの存在する理由の一部をもぎ取り、連鎖を破壊する、という行為。
途方もない規模で構成された存在理由が破壊された時、いかに強靭な存在であっても自身を保つことができない。
「さようなら。」
手を手前に引く。その行為自体に意味はない。儀式のようなものだ。
された相手は痛みや絶望を感じる事はない。
そもそも認識すらできないのだから。
広大な過去と膨大な未来を支える今が取り払われ、それらは意味を失くす。
アンモナイトはゆっくりと輪郭を空中に溶かしていき、そこには初めから何も無くなった。
切断された足は元に戻っていた。
夕日に照らされた廊下には、吹奏楽部の練習の音が漂う。
空気は冷えていた。しかしそれはいつもの日常の一幕に過ぎなかった。
「終わったんだね。」
榊は由香に尋ねる。
「ええ。跡形もなく、そこには最初からいなくなった。」
ひなのはいつも通り、いい男を探しているだろう。
学年の人気者の男子は、由香が名前すら覚えていない男で、今日のグループセラピーには榊を含め四人参加していた。
全ての隙間は埋まり、閉じた。
由香は立ち上がり、榊の前に立つ。
「これで、この話はおしまい。あなたが判定して、」
「君が執行する。世はこともなし。」
榊がにっこりと笑顔を見せる。
「世界から人類を脅かす存在が取り除かれ、君たちはさらに延長された。」
「悪い冗談みたい。こんな風に取り除いて行っていいのかしら。あたし達が害をなす行為って結構あると思うんだけど。」
「たとえば?」
「温暖化とか、エネルギー問題とか。」
「狭いね。そんなものは、君たち主観の問題に過ぎない。君たちは体表に住む細菌が、自分たちの食べる皮脂の成分が数パーセント変化してしまった、と慌てているのを聞いてどう思う?」
「それは」
あまりにピンとこない例えだ。
「ピンと来ないわね。」
「そういうものさ。君たちの抱える世界規模の問題なんて。」
「些細な問題だっての?」
「ああ。世界はそういう生き物だ。」
そう言うと榊は踵を返す。
「ご苦労様。内藤由香さん。それでは、また。」
男は歩み、廊下の向こうへ姿を消した。
日が落ち、暗い街並みに明かりが灯っていく。
由香はそんな景色を誰もいなくなった教室の窓から眺めていた。
「やあ、内藤由香さん。」
背後から声がする。振り返ると榊が影絵のように立っていた。
「今回の査定だ。78.64ポイント。おめでとう、また一歩、自由に近づいたね。」
榊の拍手が教室に響く。
「私が相手をした事象は、なんだったの?」
雑な質問の仕方だが、他にしようがなかった。
「ふむ。手記によれば、彼らは太古、そういう言葉で表すには短すぎるくらい、長大な時間を生きてきた生命体だ。」
榊は歩みを進める。
「君のおかげで老人たちも大喜びさ。ライフワークにする気はないかい?」
榊の嘘っぽい笑顔に、「いやよ」と一言返す。
あの事故から立ち直った日から、全てが変わってしまった。
内藤由香は、脳に大きな損傷を負った。
回復不可能な損傷だったが、榊の手によって回復を遂げた。
その方法は全くの理解不能な手法だった。
ボズウィック手記。
人々は、そう呼んでいる。
二百章からなる長大な図鑑。
そこに書かれていることは、奇妙なものばかりだ。
記憶の解体の仕方、灯から暗闇を取り出してパッケージングする方法、事象生命体に関する考察。
内容は多岐に渡る。
それらは全て、この世界に関する仕様書で、しかし誰が書いたのか全くの不明であった。
そこにはなぜか、内藤由香の症状と同様なものも書かれており、その回復手段や、この世界への影響、転用の仕方までが事細かに書いてあった。
彼女はその手記の通りに回復が施され、手記の通りに転用が為された。
すなわち、その症状は世界を最小レベルへ分割し、普遍的な事実へと解体するもの。
必要な物事のパッケージ化すら奪ってしまうその症状は、しかし世界を研究する者にとっては、垂涎もの。
世界の解析機への転用。
それが治療の代償であった。
ボズウィック手記を研究する者たちによって、内藤由香は治療され、その代償を払い続けている。
しかし内藤由香にとっては、そんな世界の真実なんてどうでもいい。
かつて意識すらしなかった普通の世界への回帰。
かけがえのない、無邪気に生きていた頃へ。退屈で、小さなことに苦悩し、喜び、怒り、そして憧れた日々へ帰ること。
そのために、記憶や経験的事実を洗い流す方法、手記に書かれているその内容を知ることと、自身への適用が彼女の最終目標であった。
「もったいないね。君は世界の真理を理解できる存在の一つなのに。」
榊は薄く笑みを浮かべる。
「あたしは帰る。必ず。そのための一時的なお手伝い。治療をしてくれたことには感謝しているわ。」
「その代償と、全て失うための手法を買い取ろうとしている。理解できる行動だよ。」
彼女は歩みだす。自身の狭い視界と、それによってもたらされる安寧のために。
世界の真実なんてどうでもいい。
仮初の幸せであろうと感じている当人にとっては真実だ。
世界は見るものの持つ見識で、その姿を変える。
世界はそう言う生き物だ。
彼女はそう願い、歩みを勧めたのだった。
END
ただ勢いのまま、全く設計せずに書きました。
日本語が奇妙になっているのは仕様です。
読んで、奇妙な気分になってくれると嬉しいし、楽しい。