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ボーボとショウタの物語

◇ はじめに ◇


 我輩は、犬である。名前はもうある。2つある。

 本名『マリン・オブ・シムラ・ハヤマソウ・ジェイ・ピー』血統書に記された本名だ。この上なくかっこよくて長すぎる名前だ。

 リボンなんか付けられてるけど、マルチーズのオスである。


 ぼくは、海の近くの町の高台の家で、4兄弟の長男として生まれた。

 生後3ヶ月の時、動物病院の掲示板の『マルチーズ・譲ります』という貼り紙を見たカオルさんがぼくたちを見に来て、ぼくがカオルさんのかばんをずっとかじっていたら「うちに来る?」と頭をなでられて、ぼくはカオルさんの家に引き取られることが決まった。ぼくの作戦、大成功だ。

 カオルさんは、真っ白で小さくて頼りない顔をしていたぼくを見て、強そうな名前にしなくちゃと、ぼくを『ボス』と名付けた。(名前を考えていた時に、横に缶コーヒーのBOSSがあったから、という説もある。)


 血統書の名前くらい長いなら「略して、マリンちゃん」と言われても納得できるけど、普段、ぼくはたった二文字の名前なのに、略されたり、変なあだ名を付けられたりしている。『ボス』を略したら、『ボ』か『ス』だ。

 でも、カオルさんは、いつの頃からか、ぼくのことを『ボーボ』と呼ぶようになった。略すどころか長くなってるじゃないか。でも、反論するすべもないし、すぐに慣れてしまった。『ボーボ』が定着してからまもなく、多分、ぼくは叱られる回数が多かったからだろう、ぼくの呼び名は、さらに縮められて『ボー!』になった。


 ぼくは、極めて従順で穏やかな性格だ。ただ、究極の寂しがりなので、誰かがいないとすぐに体調を崩してしまう。

 寂しいと、ずっとずっとあきらめ悪く吠え続けてしまう。留守番をさせられると、誰かが帰ってくるまで遠吠えし続けるので、ご近所には「カオルさんちは、今お出かけね」とバレバレなんだそうだ。


 好物は、リンゴとキャベツだった。シャクシャクと音を立てて、みずみずしいキャベツやリンゴを食べるのが大好きだった。

 哀しいかな、過去形なのは、歯槽膿漏になって歯が数本しかなくなってしまい、今はもう、硬いものは噛めなくなってしまったからだ。


 13歳になった。人間の歳に換算したら、とっくにおじいさんの域に達している。日なたでウトウトするのが、最高の幸せだ。カオルさんと出会ってからの、たくさんのことを思い返しながら。


◇ トンビに狙われる ◇


  ぼくの家は海まで5分くらいの所だったから、散歩は海に行くことが多かった。最初は波の音にびっくりしたけど、広い砂浜を思い切り走れるのは、本当に気持ちよかった。

 夏は人がたくさんいるけど、秋になると海にはほとんど人がいない。釣りをしている人や散歩をしている人や犬が少しいるくらいだ。

 ぼくはカオルさんの足元をくるくるとまとわりながらいるだけで、脱走しようとなんて思ったことがなかったから、時々、海でリードを外して走り回らせてもらった。


 ピー、ヒョロヒョロヒョロ・・・


 空の上の方には、本当にトンビがくるりと輪を描きながら何羽も飛んでいた。海でのんきにお弁当を広げていたりすると、おにぎりやコロッケを一瞬でさらっていくから気を付けないと、とカオルさんたちが話していたのを聞いたことがあった。


 ピー、ヒョロヒョロヒョロ・・・

 ピーヒョロヒョロ・・・


 なんだかさっきより、声が大きく聞こえた気がした。カオルさんもちょっと不安そうに空を見上げていた。さっきより低いところを飛んでいて、トンビの数も増えたみたいだった。

「ボー、おいで!」

 ぼくは名前を呼ばれて、カオルさんの方に走り出した。


 ザワッ。

 ぼくの上を黒い影が追い越していった。カオルさんが駆け寄って来て、ぼくを抱き上げてくれた。

「あっぶなーい。ボー、今トンビに確実に狙われてたよ」


 ぼくはカオルさんの腕にくるまったまま、家に帰った。


 広い砂浜で、イキがよさそうに動き回る真っ白い物体は、トンビの格好の獲物に見えたに違いない。残念ながら、それ以来海でリードを外してもらえることはなくなってしまったけれど、命を狙われるよりは全然いい。

 それにしても、高いところで小さく見えるトンビだけど、近くまで降りてくると思った以上に大きくて、びっくりだった。気を付けよう。


◇ お引越し ◇


 12年前の夏、カオルさんが結婚することになったので、ぼくも一緒に引っ越すことになった。潮風が吹き抜ける海辺の町から、車で2時間半ほど走って、四方を山に囲まれた盆地の町に着いた。


 暑い。照りつける太陽は同じはずなのに、空気の流れが止まっているような、ムッとこもった暑さだ。汐の香りも、まったくない。

 不安だ・・・。


 そんな町の新しい家に着くとすぐ、カオルさんはぼくを連れて散歩に出た。家を出て、最初の角を曲がった時だ。


 ワンッ。


 ぼくと同じくらいの大きさの、白い犬がかけ寄ってきた。ふわふわと頭が盛り上がったその犬は、やけに親しげにぼくの体の匂いを嗅いで、ものすごいチェックを入れてきた。

(やめてくれぇ)

 ぼくは助けを求めて、しり込みしながらカオルさんの足の陰に隠れたが、カオルさんはニコニコしながら見ているだけだった。しかも、その馴れ馴れしい白い犬のリードを持っている男の人と、なにやらヒソヒソ話している。


「大丈夫そうじゃない?」

「うん。結構、犬好きだから。」

 

 この馴れ馴れしい白い犬が、カオルさんの結婚相手のヒロさんの家に住んでいた、ぼくより一歳年上のトイプードル、ショウタだった。


 カオルさんたちは、ぼくとショウタをできるだけ警戒しないで会わせようと考えたらしい。

 家の中で会わせると、きっと先住のショウタが縄張りを主張するし、ましてやオス同士、ぼくと激しく争うと思い、あえて散歩中に偶然を装って2匹を会わせ警戒心を解いてから一緒に家に入る、という方法を取ったのだ。

 ショウタは、犬見知りをしない、わりと友好的な性格だったので、その作戦はまあまあ成功だった。

 こうして、ぼくとショウタとの共同生活が始まった。


 家を建て替え中だったので、古い家のコンクリートの広い土間が、ぼくとショウタの部屋になった。

 もともとお店をしていた家の造りだから、土間のすぐ前が道に面している。ガラス戸越しに、目の前を車がバンバン走っていく。今まで住んでいた自然に囲まれて鳥や虫の声が響いている家とは、かなり環境が違った。

 

 ここに住むの?ここで寝るの?

 カオルさんは?カオルさんの布団のすそで寝れないの?


 アオ~ン。アオ~ン。


 寂しがりやのぼくにとっては、初日から大ピンチだった。近所迷惑も顧みず、明け方までぼくの遠吠えが響き渡っていたのは言うまでもない。


◇ 教育的指導か勢力争いか ◇

 

 ぼくはまだ一歳。ショウタだって年上とは言え、まだまだ二歳のやんちゃ盛りだ。ショウタは先住犬だし、一応ぼくより一歳年上だから、ぼくより偉いと思っているらしい。白いところも体の大きさもほとんど一緒だから、ぼくからするとたいして変わらない。それなのに、先輩風を吹きたがる。たかが一歳違い、偉そうにされてたまるもんか。


 そんなわけで、ぼくは常にショウタの上の家族順位を狙い、ショウタはぼくより上だとアピールする。だから、当然のことながらぶつかり合うことになる。おまけにオス同士、結構なケンカに発展することも日常茶飯事だ。

 ショウタは「教育的指導」と思ってかかってくるが、ぼくにとっては「勢力争い」なのだ。負けるわけにはいかないのだ。


 ショウタは、ぬいぐるみやボール、とにかくおもちゃが大好きだ。ぬいぐるみなんかは、あっという間に綿と切れ端に分解してしまう。ビニールのボールだって、鋭い犬歯で穴を開けてすぐにペシャンコだ。穴の開かない硬いテニスボールは、のどがカラカラになるまでかじっている。よだれでびしょびしょに湿ったテニスボール。

(うう、きたない・・・。)


 ぼくが好きなものは、靴下、スリッパ、使いたてのタオルや枕。とにかく、人の匂いがするものなら何でもいい。ぬいぐるみなんて、味気ない。人の匂いのしないものは、食べ物以外は興味なしだ。


 だけど、ショウタが一生懸命何かをかじっているのを見ると、ついつい気になって覗き込みたくなる。そして、匂いを確かめつつ近寄っていくと、


 ガルルルルル・・・・。


 警戒心をあらわにしたショウタが唸る。そして、唸り声が途切れた瞬間に、


ガウッ!


 ショウタが歯を剥く。

 ショウタの教育的指導、ステージ・1だ。


(ちょっと、覗いただけなのに、なんだよ。そんなぬいぐるみ、欲しくないよ。)

 なのに、ショウタは立ち上がって、また唸る。

 ぼくだってやんちゃ盛りだ、売られたケンカは当然買う。ショウタと同じく、ガルル・・・と唸り返す。と同時に、ショウタは後ろ足二本で立ち上がり、高いところからぼくを威嚇し始める。

 ショウタの教育的指導、ステージ・2だ。


 でも、ぼくはそんなショウタにひるむことなく、喉元を狙って下から攻めていく。


 グワワワワワッ!

 ドスン!ガウ、ガウ!ドタタタ!


「コラッ!」

 騒ぎを聞きつけたカオルさんが、タオルを振り回してぼくたちを引き離そうとするけれど、一度失った理性は、ちょっとやそっとじゃ取り戻せない。


 ガウガウッ!ドタン!

 ガルルッ!


 ガブリ。


「・・・痛ッタァ~・・・」

(あ、マズい。間違えてカオルさんの手、噛んじゃったよ・・・)

「・・・噛んだなぁ!」


 ペンッ!ペンッ!

 逃げる間もなく、ぼくとショウタは、お尻をたたかれる。


 キャン!

(ごめんなさい!ショウタと間違えちゃったんだよ・・・)

 すぐに反省してしゅんとなってるぼくの背後から、スキあり!とばかりにショウタがすかさず、はがい絞めをかけてくる。


 ガウッ!ガウッ!


 ぼくの背中に乗りかかったまま、耳元でショウタが吠える。

 ショウタの教育的指導、ファイナル・ステージだ。

 

 低く唸ったり吠えたりしながら、なんとか背中のショウタを振り払うと、今度はぼくが壁際にショウタを追い詰め、ショウタの耳元で、分かったか!と言わんばかりにしつこくしつこく吠えちぎる。


 ギャン!ギャン!

 ガウッ!ガウッ!ガウッ!


「いい加減にしなさい!」

 カオルさんが二度目の雷を落とすと、力ずくでぼくたちを引き離し、やっとぼくとショウタの騒ぎがおさまる。

 これがいつものパターン。しかも、このバトルを一日に何度となく繰り返す。そしていつもカオルさんの雷(仲裁)で終わりになるから、結局、ぼくもショウタも自分が勝って終わったと思い、いつまでたっても決定的な主従関係ができないのだ。


 こうして、明日もまた、ショウタの教育的指導とぼくの攻防戦は続く・・・。


◇ 外犬になる ◇


 ショウタとの土間での生活が始まって半年後、家の建て替えも終わり、古い家は壊されることになった。新しい家を覗いてみると、木のいいにおいがする。この家の静かな部屋でゆっくり暮らせるんだ!

 ところが、一緒に住むおばあちゃんが言った。

「新しい家に、おしっこされたり爪の傷がついたらイヤだな」


 ・・・!


 そして、縁側の横に柵が作られた。ぼくとショウタは、早速、その柵の中に入れられた。

(えぇっ!外で暮らすの?)

(ヤダ、ヤダ、ヤダ、いやだぁ!)

 ショウタは、柵を壊さんばかりにピョンピョンと柵越えを試みた。ぼくは柵の下のレンガの床をひたすら掘って掘って掘りまくろうとした。でも、ショウタはあごを何度もぶつけ、ぼくは爪の音がチャカチャカいうだけで、穴なんかこれっぽっちも掘れなかった。


 ぼくはマルチーズで、ショウタはトイプードルだ。白くて小さい愛玩犬だ。それなのに外で暮らすのか?聞いたことないよ!虫はブンブン飛んでるし、夜は暗いし、車の音や何かも分からない音や匂いだらけだった。

 そんなところで、ぼくはとてもじゃないけど眠ることはできなかった。


 毎晩、ぼくとショウタは、哀しい声で吠え続けた。


 アオ~ン・・・ アオ~ン・・・


 数日後「うるせえ犬だ」と、隣のじいさんから苦情が来た。


(よし、これで夜も部屋に入れてもらえる!)


 ホッとしたのも束の間、その日のうちに大工さんが来て、今度は駐車場の奥に大きな犬小屋を作ってしまった。

 今度は屋根もある。ガラスのサッシ付きで外も見える。でも、ここはやっぱり外だ。室内じゃない。

 ぼくは、ねばった。


 アオン、アオーン・・・ アオ~ン・・・


 ぼくの哀しげな遠吠えは続いた。半分あきらめていたショウタも、ぼくのねばりにつられて、時々、競り合うように吠えた。


 ワオ~ン!オン!ワンッワンッ!


 ショウタは、ちょっと音痴で、遠吠えするのが下手だったが。


 しばらくすると、カオルさんとヒロさんがついに助け舟を出してくれた。

「近所迷惑だし、やっぱりトイプードルとマルチーズって室内犬じゃない?」


 こうして、階段の上に柵を張り「一階には下りないこと」という約束のもと、ぼくとショウタはカオルさんたちの住む2階で暮らすことが許された。

 やっと、普通の室内犬に戻ることができた。


 久しぶりのカオルさんたちの寝息が聞こえる夜。

 ぼくとショウタは、カオルさんたちの寝室に置かれたクッションは無視して、ショウタはヒロさんの布団の中で、ぼくはカオルさんの布団のすその上で、何日かぶりにぐっすりと眠った。

 ぼくは、トンビの鳴き声が響く海岸で、砂浜を思い切り走り回る夢を見た。きっとショウタも、ふかふかのぬいぐるみに囲まれて好きなだけ甘えてる幸せな夢を見たに違いない。

 

 ボーボの遠吠えの勝利。


◇ オカマちゃん ◇


 ぼくとショウタの小競り合いは、いつまでたっても止む兆しがなかった。青年期のぼくたちは、ご他聞にもれず、オスなら当然の縄を張りたがった。

 ショウタの教育的指導は、もはやケンカを始めるゴングでしかなかった。ぼくが下から喉元を狙い、ショウタは猟犬の本領を発揮してジャンピング攻撃で上から応戦してくる。血を見る争いに発展することもしばしばで、耳やら足やらに生傷が絶えなかった。


 見かねたおばあちゃんが言った。

「去勢すると、おとなしくなるらしいよ」

・・・キョセイ・・・?


 日に日に激しくなるぼくたちのケンカに、カオルさんとヒロさんも悩んでいたみたいだった。ヒロさんは、

「俺も男だから、それはちょっとなぁ・・・」

と渋い顔で言った。

 それから長い話し合いの結果、ぼくとショウタは、去勢手術をすることが決定した。


 初めて行った動物病院は、色んな犬の匂いと嗅いだことのない変な匂いでいっぱいで、周りを見回せば、冷たそうな光る銀色の台にたくさんの器具、見たことのない大きなライト、ぼくとショウタは、一瞬でただならぬ状況にいることを察知した。


「ごめんなぁ・・・」

 ヒロさんは、なんとも情けないような苦虫をかみつぶしたような顔をしながら、T先生の説明を聞いていた。カオルさんは、病室を見回しながら、心配そうにぼくとショウタの頭を変わりばんこになでていた。

 T先生の話が終わると、

「よろしくお願いします・・・」

と、カオルさんとヒロさんは、ぼくたちを置いたまま病院を出て行ってしまった。


(何が起こるの?)

(置いていかないで!)


 アオン、アオーン・・・!


 ふいにT先生の顔がぼくの目の前に現れた。そして、ぼくをひょいと抱えてケージから出すと、冷たい台の上にぼくを下ろし、

「ちょっと、がまんしてね」

 次の瞬間、チクリ・・・。


 痛っ!何したんだよ~!


 反撃する間もなく、ものすごい眠気が襲ってきて体がダル~ンとなってきた。カチャカチャという金属の音と、ガウガウと怒っているショウタの声がどんどん遠のいていき、やがてぼくは深い深い眠りに落ちていった。


 どのくらい時間が経ったのだろうか・・・。明るかった窓の外は真っ暗になっていた。ぼくはぼんやりした意識のまま、下腹部の痛みで目が覚めた。隣のケージを見ると、ショウタが苦悩の表情のまま、まだ眠っていた。


 ウゥーン・・・

 お尻のへんが、痛い。怪我してる・・・?!


 血と薬の混ざった匂いの傷口をそーっとなめてみると、ものすごいマズイ味がした。


 イタタタタ・・・。

 何か、変だ。何か、足りない・・・。


 キュゥーン・・・

 クゥン、クゥン、オォーン・・・


 痛みに耐えながら、ぼくは弱々しく遠吠えを繰り返した。


 次の日の朝早く、カオルさんとヒロさんが迎えに来てくれた。

ヒロさんは、ぼくたちを見るなり、

「おぉ~、痛々しいなあ」

と言って、内股になった。

 カオルさんも口をすぼめて渋い顔をしながらぼくの頭をそっとなで、小さな声で言った。

「オカマちゃんになっちゃったねぇ。」


 さすがにそれから二日間ほどは、傷口が痛むのと家に戻れてホッとしたのとで、ぼくもショウタもおとなしくしていた。


 結局、カオルさんが言ってた「オカマちゃん」って、なんだったんだろ?


◇ プードル・カット ◇


 盆地の夏はキツイ。半端ない暑さだ。ふさふさの毛布をまとっているぼくとショウタは、冷たい床を探しては、おなか全体を床につけて涼を取る。出窓の下の戸棚の隅は、板の間でひんやりしていて気持ちがいい。でも、戸棚はいつもは閉まっているから、開いた瞬間にすかさず入って座り込む。一度入ると、カオルさんは、仕方ないなぁ、と言いながら開けておいてくれる。

 それでも、暑い。ショウタなんて、ぼくよりもっと暑そうだ。なにせ、ショウタは体にヒツジを巻きつけている。油断しすぎなほどのびきっていた。

 

 ぼくたちは、2ヶ月に一度床屋さんに行く。水浸しになるのはあまり好きじゃないけれど、シャンプーしてもらって、足の届かないところまで掻いてもらって、ドライヤーの風に吹かれて、実は、結構気持ちがいい。


 ある夏、毎日気温の新記録を更新するほどの猛暑が続き、バテバテになっていたぼくたちがかわいそうになったのか、床屋さんに行った時、カオルさんがお店の人に言った。

「ショウタは、ギリギリのサマーカットでお願いします」


 今でこそ、プードルのカットの主流は「くまちゃんカット」だが、当時「プードルカット」と言えば、口の周りの毛は短く剃り、手足と尻尾も肌が透けるほど剃りこんで、足先と尻尾の先だけ丸く毛を残し、精悍な顔つきに四本の足の先と尻尾の先にはポンポン、という図鑑で見るようなカットが定番だった。だから、床屋さんに行った直後のプードルは、愛らしいと言うよりは「仕事のできる猟犬です」という印象が強かった。

「サマーカット」は、そのプードルカットのさらに短いバージョンだ。もちろん、マルチーズにも「サマーカット」がある。さらさらの白い毛をいつもよりさっぱり短く切るだけだ。ただし、鼻周りは長めにふわっとなっている。

 これが暑苦しく見えたのか、その日、カオルさんはお店の人に、ぼくを差し出しながら、

「マルチーズなんですけど、顔が暑そうなので、顔だけプードルカットにできますか?体は超サマーカットで。」と注文をつけていた。

「できなくはないですけど・・・」

 お店の人が、いいんですか?と念を押しつつ答えると、カオルさんは、

「大丈夫です。お願いします」

と、ぼくとショウタを預けていった。


 夕方迎えに来たカオルさんは、ぼくを見るなり、明らかに笑いをかみ殺していた。家に帰って、ぼくを見たヒロさんも、

「ボーボは、ショウタより実は鼻が長かったんだな」

と言って、ガハハと笑った。


(なんでみんなぼくを見て笑うんだよ。何か変なの?)


 ぼくの鼻の周りの毛はサッパリと剃られ、口の周りの黒っぽい肌が露出していた。顔全体の毛もものすごく短く、体はピンク色に見えるほど短くされていた。


 それからしばらく、散歩の途中で会う人たちに必ず、

「あら、かわいい。兄弟?」と聞かれた。

「いえ、トイプードルとマルチーズなんです」

 カオルさんが言うと、

「そっくりねぇ。・・・マルチーズって、こういう犬でしたっけ?」

と、会った人たちは不思議そうにぼくを観察する。

「ははは・・・。ちょっとあまりに暑いんで、短くしてもらったらこんなんなっちゃって。」

 カオルさんは笑っていた。


(こんなんなっちゃった?って、このカット、失敗なの?)


 床屋さんに行ってから何日経っても、カオルさんとヒロさんは、ぼくを見てはクスクスと笑い、

「皮をはがれたヒツジだな」

「にせプードル」

と、ひどいことを言った。


(カオルさんが床屋さんに頼んだんじゃないかっ!)


 でもこのカット、実はすごく涼しくて、昼も夜も気持ちよく眠れるようになったのだ。風を肌で感じるって、きっとこういうことだ、なんてね。

 だから、笑われることはあるけど、この髪型、結構気に入ってるんだ。


◇ 負け知らずのボーボ ◇


 名前の通り、ぼくはボスだから強い。

 どんな犬にだって、どんな動物にだって、負けたことがない。四角い画面の中の動物たちは、ぼくが吠えれば、いつだってみんな逃げていなくなるんだ。


 ぼくがカオルさんに飼われてすぐ、テレビ画面の動物たちに立ち向かって行くように訓練したのは、カオルさんのお母さんだ。画面に動物が出てくるたびに、

「ボスちゃん、あ~っ!」

と大きな声で言って、動物を指差す。

 ぼくは、どこにいてもテレビに向かってダッシュして、そこにいる動物たちに吠えまくり、飛びついて前足で追いかける。

 犬にも猫にも馬にも、ライオンにだって立ち向かい、画面の外に追い払った。負けたことは、一度もない。勢いあまって激突して、テレビの上に飾ってあった物が頭に落ちてきて、びっくりして逃げることはあるけど、画面の中の動物たちから逃げたことは、一度もないのだ。


 幼少期に、そんな教育を受けたものだから、いまだに、テレビに動物の映像が流れると「あ~っ!」なんて指示されなくても、飛びかかって行く。ぼくの動体視力はすごいんだ。

 でも、たまに人(犬?)の良さそうな顔をしている犬が出た時は、いきなり飛びついたりはしない。テレビの前まで行って、様子をみる。ちょこん、と足をそろえておすわりをして見る。一応、わきまえているのだ。

 朝の某情報番組のコーナー「きょうのわんこ」に出てくる犬たちは、いい仕事をしている犬が多いから、時々首をかしげたりしながら、真剣に見る。

 そんな時、カオルさんは、

「ボーちゃん、いい子ねぇ。テレビ、面白い?」とか言って、頭をなでてくれる。


 だけど、どんなに落ち着いて見ていても、相手がちょっとでも素早い動きを見せたり、走り出したりしたら座ってなんかいられない。速攻、飛びかかって追いかける。

すると、みんな必ず画面の外に逃げていくんだ。

 ぼくは、勝ち誇った顔で自分のマットに戻って、フンッと一回鼻を鳴らしてポーズを取ってすわる。


 ぼくは、強いんだ。

 白くてちっちゃいけど、負けたこと、ないんだから。


 ボーボの勘違いは、永遠に続いていく・・・。


◇百犬の王・ボーボ◇


 ある日曜日、ぼくとショウタは車に乗って、いつもとは違う広い大きな公園に連れて行ってもらった。大きな川が流れていて、カオルさんが隠れてしまいそうなくらい背の高い草がもさもさ生えていて、グラウンドや広場もある所だった。

 車から下りるやいなや、ショウタは本来の猟犬の習性が蘇ったのか、その背の高い草の茂みの間をガンガン走って行った。

 流れる川の音と草の匂いがまざった風の匂いに、小さい頃通った海までの散歩道を思い出して、ショウタに負けじと、ぼくも思いっきり川原を走った。


 しばらく川原で遊んだ後、ぼくたちは広場の方に行ってみることにした。同じように遊びに来ている犬たちが、たくさんいた。

 馬みたいに大きな犬、ぼくたちくらいの小さい犬、若い犬、やや歳をとった犬、足が短い犬、ずんぐりした犬、色んな犬が勢ぞろいしていた。

 イヌなつこいショウタは、早速犬たちがたむろっている方へ近付いて行った。ぼくはイヌ見知りだし用心深いから、遠くから、ワンワンッと存在をアピールしながら、ショウタと犬たちの様子を見ていた。ショウタの方に気を取られていたけど、ふと気配を感じて振り返ってみると、ぼくのすぐ後ろに、茶色い顔のシーズーが、ニヤッとした顔で近付いて来ていた。

 

 ・・・!

 ガウッ!


 突然、目の前ににやけた顔が現れてびっくりしたぼくは、すぐに威嚇してみせたけど、そいつは、ショウタ以上にイヌなつこく、ぼくのお尻の匂いをフンフンと嗅ぎまわった。


 なんだよ、やめてくれよお。

 ぼくは、キョ、キョセイしてるんだぞー!


 困ったぼくは、お尻を隠すためにしっぽを丸めながら、吠えて吠えて逃げ回ったのに、そいつはニヤッとした顔のままついて来た。


 ひぃ~。


 そいつにかまわれていたせいで、ぼくはショウタを見失ってしまった。

 ショウタの姿を探してウロウロしていると、なにやら、イヌ垣ができているのを見つけた。大きな犬たちが輪になって、何かを囲んで見下ろしていた。

(何があるんだろう・・・)

 ぼくは、おそるおそる近寄ってみた。イヌ垣の隙間から見えたのは・・・


(ショウタッ!!!)


 大きな犬たちが囲んでいたのは、ショウタだった。ショウタは、小さな体をさらに小さく丸め、しっぽなんか、お腹をくぐって鼻先についちゃうんじゃないかと思うくらい完全にしまい込まれて、プルプルと小さく震えている。

 ショウタの3倍くらいの高さから見下ろしている犬たちは、吠えも唸りもせずに、時々、フンフンとショウタに顔を近付けていた。


(ショウタが食われる・・・!)


 ぼくは勇気をふりしぼって、イヌ垣から少し離れたところから、威勢よく威嚇の雄叫びをあげた。


 アオーン!

 ワン、ワン、ワン!!


 すると、何頭かの犬がぼくをチラッと振り返った。


 ギャ~~~~!

 でかいし、多いし、怖いし~~。

 でも、ショウタが・・・。

 いつもは威勢よく威張っているショウタが、あんな大きな犬たちの輪の真ん中で、完全に腰を抜かしてへたりこんでいるんだ・・・。やっぱり、助けなくちゃ・・・。でも、ぼくも怖いよぉ。

 ワン、ワン、ワン!!

 ワン、ワン、ワン、ワン!!


 とにかく、ぼくはその場で精一杯の威嚇をし続けた。単調に、でもしつこく吠え続けていたら、大きなイヌ垣が崩れ、数頭の大きな犬がぼくの方に向かって、ゆっくりと歩いてきた。


(ヤバイ・・・)


 とっさに逃げればよかったのだが、正直、足がすくんで動ける状態じゃなかったのだ。近付いてくる大きな犬の大きな顔に向かって、ぼくはさらに必死で吠え続けた。


 ワン、ワン、ワン、ワン!!

(こ、怖いよ~)

 ギャン、ギャン!!

(ま、負けるもんか~)

 ワン、ワン、ワン!!

(あっち行け~、あっち行けよぉ~~!!)

 ワン、ワンったらワン!!


 怖くて怖くてちびっちゃいそうだったけど、なりふりかまわず、ぼくはぼくにできる一番怖い顔で、歯茎全開にして下から吠えて吠えて吠えまくった。


「ちっ。うるせーなぁ」

一頭のコリーが、ぼくを一瞥すると、後ろを向いて歩いて行った。すると、他の大きい犬たちも、

「うるさすぎるよ。行こうぜ」と言わんばかりのうんざり顔で、イヌ垣を解いて行ってしまった。

「ちっちゃくてかわいいのに、うるさいのね」

 優しそうな、でも巨大なゴールデンレトリバーは、名残惜しそうに何度もぼくを振り返りながら、ご主人のところに戻って行った。


 怖かった・・・。あれ?でも、もしかして、ぼく、勝った?大きい犬たち、逃げてったよね?ぼく、勝ったんだ~っ!よっしゃ~!


 完全に腰を抜かしてへたり込んでいたショウタのところに駆け寄ると、一瞬で5歳くらい老けたようなやつれた顔をして、ショウタはのろのろと立ち上がった。

 イヌ気のない場所に移動をして、少し休んでから、ぼくたちはやっと快適な散歩を楽しんだ。


 吠えるが勝ち。ボーボ、百犬の王の座に君臨(?)。

 大きい犬たちの大人な態度は、ボーボの「ぼくは強い」という勘違いを助長させた上、ボーボの中に「ボーボ、負けなし」という伝説まで作ってしまったのである。


 それはそうと、ぼくたちがあんなピンチの時、横にいたはずのカオルさんたちは、どうして助けてくれなかったんだろう?


 帰りの車の中で、ぼくは、カオルさんとヒロさんが話しているのを聞き逃さなかった。

「さすがに俺たちでも、あんな大きい犬、触ったことないから、怖くて、手、出せないよね」

「飛びつかれたら、同じくらいの背はあったもん、助けられないよ。」


・・・!それでもご主人かぁ!!


◇ 盗み食いの主犯 ◇


 ぼくたちの家のダイニングには、カオルさんたちが食事をする楕円形のテーブルとイスが4つあった。テーブルの上からは、いつもいい匂いがしてくる。

 ぼくたちは、その「いい匂い」の元を求めて、イスに手をかけたり、後ろ足で立ち上がってみたり、飛びはねてみたりしていたが、つまみ食いみたいな行儀の悪いことはさせまいと、イスはいつもテーブルにぴったりとしまわれていた。それでもぼくたちは、しまわれたイスに飛び乗り、右から左から体と頭をくねくねと動かして、何とかテーブルの上に顔を出そうと苦戦していたが、テーブルの裏に頭をゴチゴチぶつけるだけで、どうやってもテーブルの上を見ることすらできなかった。

 たまらなくおいしそうな匂いがした時には、ぼくよりはるかに食い意地が張っているショウタは、イスから無理やり鼻先をすき間に押し込んで、吊りそうなほど体をひねってテーブルに顔を出そうとして、イスごと倒して落ちたりしていた。

「そこまでするか・・・?」

 ヒロさんの呆れた声が聞こえても、そこまでしてでも、ぼくたちはおいしそうな匂いの元が欲しいのだ。


 時々、イスがきちっとしまわれてなくて、ほんの少しすき間があると、ぼくたちは、鼻先でイスをずらしながらすき間を広げて、テーブルの上のおいしい物を頂いた。

 もちろん、その後すごく叱られるのだが、すき間を見つけたとたんに、叱られることなんか頭から消え、本能に従ってイスに飛び乗った。テーブルの上においしそうな物を見つけたとたんに、理性は完全に吹っ飛んだ。


 ある夜のことだった。

 ご飯が済んだ後、家族全員が、急にダイニングにもリビングにもいなくなった。寂しがりのぼくは、不安になって、廊下に出るドアのあたりをウロウロしていた。すると、静かな部屋の中に、ぼくの大好きな甘酸っぱいリンゴの匂いが漂っていることに気が付いた。

 ショウタはまだ気付いていないようで、クッションの上で丸まって寝ていた。ぼくは、いつものようにしまってあるはずのイスに、テーブルの裏にぶつけないよう頭を低くした体勢で、ひょいと飛び乗った。


(あれ?珍しく楽に乗れた)

と思ったら、イスがちゃんとしまわれていなかった。


(きっとヒロさんがしまい忘れたんだ!ラッキー♪)


 ぼくはすき間からテーブルの上に顔を出した。

(・・・!やっぱり、ぼくの大好きなリンゴだ!)


 テーブルの真ん中に、お皿に乗ったリンゴが置かれているのが見えた。でも、ぼくの乗ったイスからリンゴまではちょっと距離があった。ぼくは、一旦イスから下り、隣のイスに飛び乗った。このイスもちゃんとしまわれていなかった。また、テーブルの上に顔を出した。片手も乗せてみた。


(くぅ~・・・あとちょっとなんだけど、届かないなあ)


 テーブルの上に顔を出すだけで睨まれるのだから、手を乗せたりしたら、もちろん叱られる。だから誰もいなくても、すぐにぼくは手を引っ込めた。


(でもあのリンゴ、食べたい・・・)


 ぼくは、なんとかリンゴに届かないかと、イスから下りたり乗ったり違うイスに乗ってのぞいてみたり、を繰り返していた。

 すると、ぼくの動きに気付いたショウタが起きてきた。そして、ぼくがさんざんどこからだったらリンゴに口が届くかと、イスから乗り降りを繰り返していたというのに、ショウタはゆっくりと歩いて来て、一番近くのイスにヒョイと飛び乗り、何の躊躇もなくテーブルにあがり、スタスタとお皿まで歩いていくと、

 ひょいパク、ひょいパク。

と、口に入りきれないほど、リンゴを簡単にほおばったのだ!


(ずっるーい!!見つけたのは、ぼくなんだぞ!)


 ぼくは急いでイスに飛び乗り、ガウッとショウタを威嚇した。

 ショウタは、ほとんどのリンゴをほうばったまま、あわててテーブルから飛び降りると、テーブルの下でシャクシャクとリンゴを味わっていた。

 ぼくは、ショウタがあわてた時にテーブルのはじに落としていったリンゴのかけらを一つくわえると、急いでイスから下りて、テーブルの下で味わった。


 その時だった。

 カオルさんとヒロさんが部屋に戻って来て

「あ~!リンゴがない!」

と叫んだ。

 運悪く、遅れておこぼれを頂いていたぼくが見つかった。

「やっぱりボーか」とヒロさんが言った。

「でも、一人であんなに食べるかな」

カオルさんが言った。

「よし、見てみよう」

「ボー、ショー、おいで」

 

(見てみよう?何を?)


 ぼくたちは呼ばれてテレビの前に行った。ヒロさんが何かをカチャカチャと動かしている。テレビがついて、画面には見たことのある景色が映った。

(あ、うちのテーブルと同じだ・・・さっき見たリンゴもある・・・)

 すると、ヒョイとテーブルの上に白い顔がのぞいた。

(誰だ、あいつ?)

 白い顔は、ヒョイと顔をのぞかせては消え、違う場所からのぞかせてはまた消え・・・


「やっぱりボーだったな」

「・・・まったく・・・」

カオルさんたちがため息をついている。


 あちこちから何度も顔を出しては引っ込めている白い顔は、ぼくだった。

(は、恥ずかしい・・・)

 ぼくが呆然として画面を見つめていると、


 ヒョイ・・・すたたたた・・・パクパクパクッ!


「しょうきちぃ!!!」

 ヒロさんとカオルさんが同時に叫んだ。


 時々、テーブルの上の食べ物がなくなるので、ヒロさんがわざと少しイスを引いておいて、リンゴをおとりに、ぼくたちのどちらが盗み食いをしているか、ビデオカメラをセットして撮っていたのだった。


 何の迷いもなくテーブルに上がって食べたショウタは、主犯格とされた。しかもあんなにほおばっちゃって「意地汚い」レッテルまで貼られていた。ぼくは躊躇していた姿も撮られていたのでお咎めは少なく済んだ。

 でも、それ以来イスは常にきっちりとしまわれ、誰もいない時にテーブルの上からいい匂いがしてくることはなかった。


◇ 走るものは追う、来るものは拒まず? ◇


 時々、テレビなどで線路脇を散歩していて、電車が通るたびに狂ったように回り出す犬や、猛ダッシュでとことん電車を追いかけて行ったりする犬が紹介されている。

 ぼくは電車を追いかけたりはしない。大きすぎて、走ってるふうには見えないからだ。ぼくが追いかけるのは、たいていはテレビの中の動物だ。ただ、テレビに出てくる動物以外で、ぼくがどうしても追いかけてしまうものがある。

 それは、自転車とバイクだ。


 締め切った部屋にいても、家の前を自転車やバイクが通ると、敏感に反応してしまう。人が歩いていても気にならないが、走っている人は追いかけたくなってしまう。走る足音も気になってしかたがない。

「こんな家の中から吠えたって、しょうがないでしょ~」

 ぼくが吠えるたびに、カオルさんはうんざりしたように言う。

 だけど、どうしても自転車やバイクの音を聞きつけると、瞬間的に反応してしまうのだ。そして、ひたすら吠え続ける。多分、これがいけないんだろうけど、一度吠え始めるとそう簡単には止められないのだ。それで毎回、

「ボー!うるさいっ!!」と叱られることになる。


 ショウタの場合は、玄関のピンポンとドアの開け閉めの音。ピンポンが鳴ると、狂ったみたいに、

 

 ワワワワン!

 ワワワワン!


と吠えまくる。

 カオルさんが、ピンポンが鳴ってインタホンで「はーい」と出ても、吠えまくるショウタの声にかき消されて相手の声がまったく聞こえず、結局、玄関のドアを開けて相手を見るまで、誰が来たのか分からない。

「聞こえないでしょっ。何のためのインタホンだと思ってんのよ~」

 カオルさんはピンポンが鳴るたびに、文句を言いながら玄関に行く。そして、カオルさんが玄関のドアを開けると、

 

 ワワワワン!ワワワワン!

 

 またショウタが吠えまくるのだ。 

 カオルさんとお客さんの会話は、ショウタの気が済むまで、しばらく成り立たない。お客さんたちは決まって、

「いい番犬ですね」と言う。

「そうでもないんです・・・うるさいだけで。」

 カオルさんは、お客さんのお世辞を決して受け取らない。なぜなら、ショウタはさんざんアホみたいに吠えまくっておいて、そのお客さんが一歩家の中に入った瞬間、しっぽをプンプン振って、人なつっこくすり寄ってしまうからだ。

 ショウタは、玄関の外の人には縄張りをものすごく主張するくせに、家に入ってきた人は拒まない。拒まないどころか、大歓迎だ。ショウタが「いい番犬」と認めてもらえないゆえんはそこにあった。


 もう一つ、ぼくたちがうるさがられるのは、どちらかが吠えると、なんで吠えてるのか分からなくても、便乗して吠えてしまうからだ。

 玄関のピンポンでショウタが吠えれば、ぼくもついでに吠える。

 バイクが通ってぼくが吠え始めると、ショウタも吠え始める。

 時計のアラームの音楽が流れて、ぼくが歌い出すと、ショウタも音痴ながら合わせて歌い出す。しかも、一度吠え始めると、競うようにして吠えるので、ぼくが吠え始めて、ショウタが後から吠え始めて、ぼくが一瞬吠えるのを止めても、まだショウタが吠えてるから、またぼくも吠え始めることになる。

「ワンワンッ」がだんだん「ワオーン」に変わり「オウオォーン」の遠吠えに変わり、輪唱エンドレス。

 家の中だと、さらに長引く。


 例えば散歩中、横に郵便屋さんのバイクが走って来ようものなら、ぼくは瞬時に、ワワワンッとかかって行こうとする。ぼくが吠えるから、バイクに興味ないショウタもとりあえず吠えつく。一見白くて小さいぼくたちは、散歩中に近寄っても油断されがちだけど、急に羊の皮をかぶったオオカミのごとく歯茎をむき出して吠え付けば、いくら白くて小さいかわいいぼくたちでも、びっくりもされるし怖がられもする。

 突然二匹に吠えつかれて、郵便屋さんがバイクごと倒れそうになったことも、一度や二度じゃない。


 なんで吠えたくなるのか、追いかけたくなるのか、ぼくたちにもよく分からない。逃げるから追いかけたくなる、走って行くから吠えたくなる。ただそれだけのこと。だって、ぼくたち、犬だもの。


 しかし、そんな習性が、後に大変な事態になろうとは、ぼくはもちろん、他の誰も知るよしもなかった・・・。


◇ ボーボ、交通事故にあう ◇


 また、だれるような暑い夏が来た。

 カオルさんのお腹の中に、赤ちゃんがいるらしい。そのせいか、カオルさんは気持ちが悪そうに寝込んでいることが多かった。そこで、カオルさんはしばらく実家に帰ることになった。

 ぼくたちはもちろん一緒には行かれず、ヒロさんが仕事の間は、親戚の人が世話をしてくれることになった。


 ヒロさんがカオルさんを実家に送って行った日の夕方のことだった。親戚の人が散歩に連れて行こうと、ぼくとショウタを玄関の外に出した。リードはまだ着いていなかった。

 いつものぼくたちは、リードを着けられるのを待っているわけではないが、玄関の前をうろちょろするくらいで、何もなければ急に走り出したりはしない。そういうぼくたちの習性を、親戚の人は、お利口だもんねくらいに思って、ちゃんとは分かってはいなかった。


 ショウタが先にリードを着けられている時だった。


 ハッハッハッハッハッハ!


 家の前の通りの向こう側の歩道を、軽快に散歩している犬が見えた。ぼくは、いつもの「走るものは追う」という習性ゆえ、とっさにその犬めがけて走り出した。


 ワワワワン!


 通りの向こうの犬に向かって吠えながら、全速力で向かって行った。後ろから、

「ボスくん!」と叫ぶ親戚の人の声は聞こえたけど、ぼくは急には止まれない。そして、もちろん、車も急には止まれない…。

 次の瞬間、


 ドゴッ・・・。


 ギャンッ!


 ぼくは倒れた。車道に急に飛び出して、そこに走って来た車にぶつかったのだ。車は、赤信号でスピードを落としながら走って来たところだったのが不幸中の幸いだった。はじき飛ばされることはなく、ぶつかってはね返ったくらいの当たりだった。当たった車も、大した衝撃を感じなかったのか、青信号になると、何事もなかったようにそのまま行ってしまった。

 されど、小型犬と車だ。たかが3㎏くらいのぼくでも、鉄の塊に全力でぶつかったら、いくらスピードを落としていたとしても、ぼくにとってのその衝撃は、地球に隕石が落ちてきたのと同じくらいだと思う。

「ボス!ボス!」

 親戚の人が叫んでいるのが聞こえた。

「ボスくん!」

 ぼくはぐったりとして、そのまま起き上がることも動くこともできなかった。


 意識が朦朧としたぼくは、親戚の人の車に乗せられて、大急ぎで動物病院に向かった。親戚の人は、真っ白な毛に包まれたぼくなのに、みるみる体中が青ざめていくのが分かったという。ぼくは、思ったより危ない状況だったらしい。


 病院に着くと、いつもは穏やかなT先生も、緊迫した険しい顔をしていた。すぐにレントゲンを撮った。肋骨が3本折れていた。

「今夜が峠です」

 T先生が言った。

「肋骨は自然にくっつくのを待ちます。骨折が命に係わるということはありません。内出血もほとんどなさそうですが、内臓に受けた衝撃と打撲があるので、そのショック症状のほうが心配です。ショック症状がうまく治まってくれれば助かるんですが。体が小さい分、打撲のショックは大きいんです。とにかく安静にしておかないと」


 痛み止めや何かの薬を注射されたぼくは、T先生に抱かれてそっとゲージに寝かされた。

 意識がどんどん遠のいていった。

(この匂い・・・。ここ、来たことある・・・)

 薄らいでいく意識の中で、ぼくはキョセイ手術を受けた日の夜の寂しさを思い出していた。


 ヒロさんとカオルさんの所にもすぐに連絡が行った。びっくりしたカオルさんは、すぐにT先生に電話をしてくれたらしい。

 T先生から、今はただ絶対安静で回復を待つしかない、ただ、運ばれて来た時よりはショック症状は和らいできているように見えるから、なんとか今夜頑張ってくれれば、という説明を聞き、すぐにぼくの様子を見に戻って来ようとしてくれたみたいだけど、

「今、飼い主さんが来ると、かえって喜んで動いてしまって、折れた肋骨が内臓を傷つけてしまう可能性があるので、あと2日くらいは面会に来ないで下さい」

と言われて、不安で押しつぶされそうになっていたらしかった。


 翌朝、きゅっきゅっという小さな足音に、ぼくはぼんやりと薄目を開けた。窓から明るい光が射しこんでいて、目の前にT先生の顔があった。T先生はホッと小さく息をついて、にこっとしてぼくを見た。ぼくは顔をあげようとしたけれど、

 イタタタタ・・・

 手術した時の痛みとは全く違う、中から染み出るような鈍く重い痛みが体中にあった。


 T先生が水を少しくれた。体が起こせないので、スポイトで口に入れてくれた。ベロを動かすだけで全身が痛い。でも、のどが渇いて仕方がなかったので、ぼくは必死で水をなめた。


 カオルさんは、朝も夕方もT先生に電話をして、ぼくの容体を聞いていたらしい。水を飲めたことはショック症状をなんとか乗り越えた証拠だけど、まだもう一日二日は安心はできない、という話のようだった。


「みんな、心配してるよー。がんばれー」

 T先生は優しくぼくに言った。


 ぼくは、カオルさんたちに会えない寂しさと痛みで吠えたかったけど、今は遠吠えどころか、ヒン…と小さく鼻を鳴らすだけで精一杯だった。ただ、寝ているしかなかった。

(早く帰りたいよ・・・。みんなに会いたいよぉ)

 外が暗くなると、ますます心細くなった。ヒン…ヒン…というぼくの鼻音が、ひんやりした病院の部屋に寂しく響いた。


 次の日もケージの中でぼんやりと過ごした。体はまだ重い痛みに包まれていたけれど、少しずつ、動きたいなと思えるくらい体力は回復しつつあった。

 夕方、病院の外にわさわさとした人の気配を感じた。この匂い・・・この声・・・!

(カオルさんとヒロさんだ!)


 病室のドアが開くなり、

「ボーボ!」

 カオルさんが涙声でぼくを呼んだ。ヒロさんも、

「ボス~、生きてたかぁ」と力の抜けた声を出した。

 ぼくは嬉しくて嬉しくて、必死に立ち上がろうとした。カオルさんたちは

「動けるようになったの?」と、ケージに近付いてぼくをなでようとした。するとT先生が、

「喜んじゃって動いちゃうと危ないので、今日はまだあんまり…」

と、その手を制したので、カオルさんは慌てて手を引っ込めた。そして今度は、

「ダメダメダメ。ボー、動かないの」

なんて、言ってることがムチャクチャになっていた。

 T先生の説明を聞きながら、カオルさんはちらちらぼくの方ばっかり見て、先生の話をちゃんと聞いているようには見えなかった。そして、動いちゃダメだよ~とつぶやきつつ、T先生に隠れて、ケージの中のぼくの鼻先を数回、人差し指でこっそりなでてくれた。


 その翌日、命に係わる症状はなくなったということで、やっとぼくは、みんなが待つ家に帰れることになった。

 あったかい部屋。にぎやかな声。これが何よりのぼくの回復薬だ。うっとうしいばかりのショウタのフンフンしてくる鼻息も、夜中に隣から響いてくるショウタとヒロさんのいびきの二重奏も、安心できる音にしか聞こえなかった。


「走るものは追う」という習性の痛手が、こんな形で自分に返ってくるとは夢にも思っていなかったぼくは、心底反省した・・・つもりだ。でも、ぼくは犬。

 その後もやっぱり、走るものを追うことをやめることはなかった。その代わり、それからのカオルさんたちは、ぼくとショウタにきっちりリードを付けてから玄関を開けるようになったのは、言うまでもない。


◇ 最強のライバル、登場! ◇


 ぼくも回復して、カオルさんがいない日がしばらく続き、家の中に大きな荷物が増えたり、片付けが始ったりしてバタバタしているなと思っていたら、ある日、突然、家に赤ちゃんが来た。人間の赤ちゃんだ。

 ショウタだけでも十分なライバルだったのに、ぼくたちにとって、最強のライバルがやってきたのだ。


 赤ちゃんは、ぼくたちよりちょっと大きいくらいのサイズで、プクプクして甘ったるい匂いがした。

 そっと覗きこんだだけでも、こらこら、と追い払われる。

 もともとここに住んでたのはぼくたちの方なのに、なんか納得がいかない。でも、それ以上しつこく近寄るとベランダに出されちゃうから、ぼくたちは、ちょうどいい距離を保ちながら、共同生活を始めることになった。


 赤ちゃんが来る前、カオルさんは周りの人たちから、

「赤ちゃんが生まれたら、犬はどうするんだ?」と言われたらしい。もちろん、赤ちゃんを心配してのことだろう。

 カオルさんは、

「どうするんだってどういう意味かな。今まで家にいたボーたちを、そのまま飼い続ける以外にどうしようがあるんだろ?」

と怒ってくれたらしい。

「赤ちゃんはミルクくさいから、間違えてかじられでもしたら…」

なんて心配されてたみたいだけど、ぼくたちだってバカじゃない。いくらなんでも、自分と同じくらいの大きさの人間を、ミルクの匂いがするからって、食べ物と間違えて食べるなんて、するわけないじゃないか。


 カオルさんとヒロさんが、あまりに普通に「飼い続けますけど」という態度でいてくれたおかげで、ぼくたちはこのままこの家に住み続けていられることになった。ぼくたちからすれば、それは当たり前のことだけど。

 でも、一つだけ条件があった。衛生上の問題とかで、ぼくたちはカオルさんとヒロさんの寝室から出され、寝室だけは出入り禁止になってしまった。ふかふかのベッドで、カオルさんの足元に丸まって寝るのが好きだったから、ちょっと残念だったけど仕方ない。

 それから、夜寝る時だけはベランダに出されることになった。ベランダには屋根と窓が付いてサンルームにしてもらい、部屋との出入りは自由にできるように、窓はいつもぼくたちが通れるくらい開けておいてくれた。だから、ぼくもショウタも、新しい生活のルールに従った。


 最初の夜は、やっぱりふかふかの布団の感触が忘れられなくて、ぼくは久しぶりに遠吠えをした。ショウタも真似して吠えたけど、歌うのも吠えるのも、やっぱりちょっとヘタクソだった。


 アオ~ン・・・

 ワウ・ワウ・・ワオ~ン・・・


 ぼくたちは日当たりのいいこの場所が嫌いじゃなかったから、夜になるとベランダのベッドで寝ることにすぐに慣れた。意外と聞き分けのいい、適応能力のあるお利口な犬なんだ、ぼくたちは。


◇ ◇ ◇


 それから2年後、ぼくたちはもう一人人間の赤ちゃんを家に迎え、教育的指導をしつつ、ライバルだったり友達だったりしながら、仲良く育った。赤ちゃんの泣く声や、ぼくたちの遠吠えも少なくなっていった。

 

 それから10年。みんな、少しずつ大人になっていったんだ。


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