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愚妃の進言

作者: ミダ ワタル

 国土は三つに割れ、その境で一つも戦火の煙が上がらない日など、民の胸にはもはや夢幻となった戦乱の世であった。

 地を荒らす馬のいななき、刀剣が切り結ぶ音、弓がしなり火薬がぜ、青く清浄な山林の空気は黒煙に染まり、褐色の土を流れる血が黒く塗り替えた。

 とむらいきれずに打ち捨てられた無残な人形を成す肉塊は明日の我が身かもしれない。

 それは誰も、身分も、区別は無かった。


 そんな世でもき日はある——。

 三つの国の内、昨今、益々隆盛さを増す国の王が七番目の妃を迎えた。

 南の辺境のある地域を平定するにあたり大変な助けをした娘だ、その功で王直々の申し入れで娶られたのだという噂が立っていたが、間もなくその噂は絶えた。

 代わりに辺境の地を治める領主が忠義の証に愛娘を差し出したが、その姫は父親の溺愛が過ぎた愚かな姫で慈悲深い王はそれでも領主の心を汲んで娶られたのだと噂が流れた。


 妃らしい優美な姿を見せたのは初日のみ。

 麗美な衣はすぐに脱ぎ捨てられ、まるで職工の娘のような格好で与えられた宮を駆け回り、その振る舞いたるやまるで野にひとりでに育った者と大差なく、常人には理解しがたい言動を取り、子供も聞かぬような問いかけを侍っている者達に投げかけるらしい。

 けれども娘の見目が良かったため、やがて市井の噂は、同じ講和の為に迎え入れられたといはいえ、気位が高く神経の凝る他の妃達と違って暗愚の姫は気安いから、騒乱の世の憂いに晒される王の良い慰めで、厚い寵を受けているといったものに移り変わっていった。


「私は字も書けるし読める、老師にたくさん勉強もさせられた」


 白く滑らかな夜着に洗ったような黒髪を一つに束ねて垂らした少女は、憤慨しながらぼすんと寝台に子供じみた仕草で飛び乗った。

 手にもった菓子がばらばらと粉を落とす。

 それを目にしながら少女より一回り程年嵩に見える男は、寝そべっていた脇腹のすぐ側に座り込んだ細い腰を支えるように腕を回し、そうだなと人心に染み入るような深く慈に満ちた低い声で応じて、精悍と理知が共存し並みならぬ人の威を示す顔に苦笑を浮かべた。


「ただ、お前の問いかけは賢人の問いかけが深遠過ぎるそれに似て、凡庸な者には解らぬのだよ」

「そうかな?」


 小鹿のような足を夜着の裾からぶらぶらとさせて、菓子を頬張りながら若枝のしなやかさで首を傾げる。

 少年の様な物言いと立ち居振る舞いなのに、瑞々しく香りたつような色香に男は目を細めたが腰を捉えた腕を引き寄せようとはしなかった。


「それで? 今日はなにが気に掛かった?」

「西で風が高く土埃を巻いたのを見ました。一瞬だったけれど。おかしいな、いまは冬でずっと曇っていたのに……それを聞いたら女官達に笑われました」

「どこで見た?」

「それは言えません」

「また屋根に登っていたのだな……」


 咎めるように男が溜息を吐くと、ぶらぶらさせていた足をピタリと止めて少女は男の腕から逃れるように身を捩ったが、却って男に捕らえられただけだった。

 横倒しに間近に並んだ男の顔にはっと小さく息を呑んで頬を微かに染め、けれど大きな黒い瞳はじっと逸らさない少女に男は深い笑みを浮かべた。


「もう寝るのですか?」


 少し緩んだ襟元から、透き通るような肌の鎖骨が僅かに覗いている。

 裾は元より奔放な動きを見せる足によって開きはしないが乱れ気味であった。


「お前、最近、悪い誤魔化し方を覚えたな……」

「悪い?」


 口の中にまだ菓子が残っているのだろう、もぐもぐと口元を動かす少女の尖った顎先についた練った粉の塊を指でとって、男は舐めて苦笑する。


「いわれ無き罪に山深く追われ隠遁していた老師の下で育ったお前だから、大丈夫だと言うだろうが万一、怪我でも負ったら皆が迷惑をこうむる。父親も哀しむだろうな」

「……哀しむでしょうか?」


 おずおずと尋ねた少女に哀しむよと男は答え、こくりと少女は頷いた。

 父親と赤子の時に生き別れた少女が、再び巡りあって過ごした時間は僅かであったが、父親は今年十七になる我が娘のことをひと時も忘れたことはなかったのである。


 それでも男の申し出に従って手放したのは政略でもなんでもない。

 山に老師の男手一つで育ち、深い見識と並みの将なら簡単に打ち負かすだろう知略の才を持ち、貴族の娘らしい行儀を身につけず育ってしまった娘の行く先を案じたためであった。

 辺境の、力のない貴族の娘が知略に長けるなど、いまの世では災いの種火になりかねない。

 それに後宮はある意味では戦場よりも恐ろしい。

 地方の忠の証を受ける名目で少女を妃として迎え入れたのも、聡明過ぎるといってもいいこの少女を暗愚な姫と嘲る噂を放置しているのもそのためだった。


 辺境を治める領主の生まれたばかりの娘は、争いに巻き込まれ、謀反の兵に連れ去られて死んだものだと思われていた。

 その時謀反の首謀者とされていたのが少女の育て親の老師であったが、それは隣接した敵国に通じた本当の謀反者の姦計であり、老師は無実であった。

 長年仕えた主に、無実の罪で妻子を殺され山狩りまでされ森の奥深くに追われたというのに主君への忠義を貫き娘を護り育てていた老師に、領主は地に伏し涙を流して深く詫び、老師は今また領主の城に仕えている。

 老師の無実が明るみになり、少女が姫として父親の元に戻るきっかけとなった辺境の戦を男は思い返す。進軍途中に出会ったこの少女がいなければもっと多くの将兵が犠牲になっていたはずだった。


「それで、風が高く舞い上がることのなにがおかしい?」  

「王様もですか?」

「他の妃がそんな物言いをしたら愚弄されたとしか思えんが、お前にはきちんと教えを乞うことにしよう」

「西は私が住んでいた山ではなく、平らな土地でしょう? 木も何もない」

「うん」


 街を囲む城壁も超えた先であったか、と男は胸中でひとりごちる。

 邸は高台に位置するとはいえどこまで目が良いのだろう、この娘は。

 男であれば将兵として陣に置きたいくらいだと半ば呆れる思いで男は相槌を打つ。


 西側は微妙な土地であった。

 隣接する敵国の流れを汲んだ土地の者が点在しており、時折、槍を向けてくる。

 小競合いが度々起こり、肥沃な土地なのにまともな開墾や整備になかなか取りかかれないが、かといってその一掃を計れば内乱の機に乗じて敵国が再び攻めてくるだろう。


「風はなにもない場所ならただ吹く方向に流れます。森なら行き場を失った風が上に向かうのもわかるけれど……」

「成程。それといまが冬なのはどういった関係がある?」

「寒いでしょう、土も凍りそうなくらい」

「そりゃ、冬だからな」

「夏みたいに暑い時期なら、時々、平らな場所でも風がうんと高く舞い上がる時もあるのだけど……お日様もずっと雲にかくれているし」


 うーん、と少女は呻って寝台に頬を擦り付ける。

 まるで媚びて強請ねだられているような仕草であったが、男は髭が伸びかけた頬に手をやって少女の言葉を思案した。

 温められた風が舞い上がるのは知っている。遮られ行き場を失った風がつむじを巻いて上に逃れるのも解る。それらが無い場所で少女が風が巻き上がるのを見たというのなら、そこに風を巻き上げる何かがあるのだ。

 情勢と地理を考えると、看過できる事象に思えない。


「また、お前に助けられそうだ」


 ひっそりと苦笑して男は菓子の粉のついた少女の細い手を取ると、ついた粉を舐め取るように口元に押し当て舌を這わせる。

 ぴくりと肩を震わせたちまち紅く染まった白い顔が抗うように男と反対に傾くより先に手を頬に添え、男は覆いかぶさるように少女を組み敷いた。


「王様……」

「ん?」

「王様は私の話をよく聞いてくださるのは好きだけど、眠いのを邪魔するから嫌いです」

「邪魔した分より深く眠れるようにしているだろう?」

「……夢を見なくて詰まらない」


 拗ねたように尖らせた少女の口元に笑いながら、男は舐め取った甘い粉と同じ味のする可憐なそこへと彼の口元を寄せる。

 しばらくして男は、はあ……と甘やかな吐息が漏れる音を聞いた。

 男は后を決めていない。

 后だったとする女はいるが、男が玉座に着く前に情を交わした仙女で交わした夜にこの世から消えた。

 もちろん誰もその女のことなど直には知らない、それを無理やり大仰な名をつけて祀っている。

 本当に祀りたい気持ちもあったが、それならほこらを建てればいい話だ。

 姻戚関係で権力掌握をしようとする輩の動きを封じるためにそうする必要があった。

 政治上のこともあって妃を受け入れてはいるが、気は許せない。  


 本当は、こんなことは早々に止めにして后にしてしまいたい。

 けれどそれはまだ叶わない世だ。

 国土のすべてを平定し統べるまで、一体あとどれほどの血が流れるか……叶う世になった頃にはこの少女から嫌われているかもしれないなと、男は熱に浮いたような潤んだ瞳で彼を見つめている少女に切ないような心持ちを抱きながら、再びそっと触れるだけに唇を重ねた。


 *****


『生まれてすぐの鹿だって下れるのに、こんな立派な馬が下られないわけない』


 切り立った崖を記した地図を覗きこんで、ふふふと少女は笑った。

 崖のすぐ下は敵の拠点で、周囲は川と急勾配に護られ、攻め入るには一方からしかない。

 当然相手はそれを待ち構えてくる、崖の上から一直線に攻め入れるならどんなに楽かとぼやいた男への言葉だった。


 進軍の途中で、刺客の一行に襲われ散り散りに家臣と別れ、追ってくる敵から逃げていた最中に隠れた道を案内され、掠めた矢傷の手当てまでしてくれた少女に家臣との合流地点の位置を尋ねていた時だった。


『馬はけものと違う。お前が考えるよりずっと臆病な生き物だ』

『じゃあ、火や槍や刀や矢にも怯える?』

『それじゃあ戦で乗れないだろう、人が怖がらないよう訓練しきちんと抑える。だから山も越えられる』

『山も行けて、火や槍や刀や矢に怯えないのに、小鹿が通る道は行けないの?』

『……確かにそうだな。お前はその小鹿が通る道とやらを知っているのか?』


 こくりと頷いて少女は笑った。

 粗末な身なりだが山の娘ではなかった。

 華奢で滑らかな手をしていて、小さな玉を皮紐に通したものを首に下げていた――。

  

 *****


 ぐったり白い背を見せて、すうすうと寝息を立てている少女の散った黒髪の筋に口付けて男は苦笑し、寝所の戸口に警護の者と共に控えている侍従を呼んで、西の護りを任せている臣への伝令を預けた。


 三夜明けた朝、西より報告があった。

 町を整える人夫に幾人か怪しい動きをしている者が紛れ込んでいたそうで、よくよく調べればやはり計略を胸に潜ませた敵国の流れを汲んだ者達であった。

 同じ頃、王が与えた飾り気のない絹の衣を纏った少女が、炊事場を覗き込み女官達の手を焼かせていた。


 年月は過ぎ、三つに割れていた国は一つとなって世は平安を迎えた。

 大業を成し遂げた王は多くの子を授かり、成長した子等は父王が作り上げた国を永く護った。

 とりわけ、父王に勝るとも劣らない名君と後世まで人に称えられた者がいた。

 その母は深慮な賢母として多くの風変わりな逸話を民に残したが、辺境出の妃であったためか王母であるのに正式な記録への記述は少ない。

 父王が唯一自ら娶った妃であり、南方の領主の娘であったという——。

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